記者を生業とする人々が自らの意志で書いた記事を読みたいものだ

その昔、キャンパスで連帯していた学友がA新聞に内定をもらった時にきいた話。

A新聞でのオリエンテーションで以下のような話があったというのだ。

「今後、君たちは、A新聞社員となるのか、A新聞記者となるのか道が分かれる。ぜひ、自分で問題意識を持ち続け、勉強を続け、自分が問題意識を持ち続けられる問題について書ける。それが、A新聞記者である。」

「日々、受け身の状況となり、社の文脈の中でのみ唯々諾々と書く。それはA新聞社員にはなれても、それは、A新聞記者とは言わない。」

というような話であった。

そのA新聞の話を聞いて、中川はくらくらした。何と、大変な生業なのだろうと思った。ああ、なんて重い職業なのだろうと思った。

のだけれども・・・

学生時代はA新聞を読んでいたのだけれども・・・

今は、NK新聞しか、新聞は読まないのである。

マスメディアに勤務されているジャーナリストの方々が紙面、媒体には掲載されないことであっても自らの問題意識を深め、自らの時間を使って取材した記事とかそういうものを読んでみたいという気持ちが、

そういう殊勝な気持ちが、時々高まる。

気紛れな潜在的な読者が発する時々の需要では生業にはならないのであろうけれども。

環境は整い、機は熟しているのかもしれない。

ちなみに、生活の糧を稼ぐための今の自分の生業は、「社員」で片づけられるものでしかない。が、そういう状況は長続きせず、労働市場における自分自身の交換価値の減耗も避けることができないという、ひたひたと訪れる厳しい現実のことを思うと、生業についても、職業についても「ぼくはプロの○○です。」といえるようになりたいものだ。

そんな悠長な話ではなく、切迫した課題なのであろう。

98.03.25 中川一郎





雑文目次へ
サイバー梁山泊のwhatsnewへ
メールを出す→