田中泯さんの舞踊を観た機会は本当にまだ数えるばかり。今回は、録音された効果音ではなく、生のそれもすごいバイオリン弾きが生身で演奏する。そのような1時間であった。さまざまなこと、ものが凝縮していた場だった。フェリックス・ライコはこれまで、自分一人で1時間も演奏することはなかったのだそうだ。
この場に立ち会いながら、ぼくは、音を聞いているのか舞踊を見ているのかそれらがわからない状態になって身体が動き、鳴っている音とは関係なく自分のなかでビートが刻まれ、そして、田中泯が壁にぶつかる時、壁がゴムのように、トランポリンのように弾んで見える・・・そんな体験をした。
そんな体験をしたものだから、その後、plan Bのコミュニケーションの部屋でぼくは座り、言葉を失い、ぼんやりと、浮遊しているような感覚を続けていた。
「しばらくでした」と公演終了後、こざっぱりした格好に着替えて田中泯さんがぼくのとなりに座り、そして、さまざま語ってくれた。ぼくは、ひたすらその言葉に耳を傾けた。とても得をした気分になって、plan Bを後にした時、日付はかわっていた。
以下、走り書き。田中泯さんがぼくに、語ってくれたこと。幸せな時だった。ぼくはplan Bにいくと、自分が素直になっていることを感じる。そして、田中泯さんはど偉い人だと感じ、ついつい、耳を傾け、至福を感じる。そんなぼくの走り書き。
plan Bという場。ここは「私たちは、場としての、作品としての、表現者としての権威などという固定したものを信じていません。夢を見て、計画し、実験し、フィードバックしあう。やる、見る、批評することが相互に融合しあう、planBのプロセスにぜひご注目下さい。そして、様々な形で参加してください。」という素晴しいポリシーを貫徹している「場」だ。そこで田中泯さんと会う。話を聞ける。そんな走り書きだ。
ライコとの共演は今日が2回目。1回目は音がずいぶんと聞こえていた。けれど今日は、その音をかいくぐるように、音の向こうにあるライコの存在に迫るように踊った。
音楽家は楽器のテクニックでごまかすことができる。そして、その方向に進む人はとても多い。舞踊の人間としてのぼくは、ごまかされやすい聞こえて来る音に踊るのではなく、その向こうにあるものを聞こうとしているのだ。日頃からそういう聞き方をしている。聞こえてくる音の向こうにあるもの。それは、音楽家の存在そのものというか、活きざまというか、あるいは、楽器の音のさらに向こうにあるその音楽家の根底的なビートというか、鼓動というか。そういうものなのだ。
公演が終わってから、ビデオを見て、そのビデオの音を聞くと、踊っている間に聞いていた音とは全然違う音に聞こえることがよくある。全然違う。
そのような聞き方をしていると、ごまかし、偽者、楽器のテクニックでだまそうとしていること等々。わかってしまう。聞いて、「こいつ、ごまかしやがって」と思うと、数年後にはやはりそうなる。
ヨーロッパ、アメリカの多くの即興音楽家がぼくとやりたがっているそうだ。どうしてだろうか・・・と考えると、ぼくのような聞き方をする人。楽器の音に惑わされない人といっしょにやることに真剣に臨むことの価値を感じているのではないだろうか。
世界各地の共同体の芸能における舞踊を取材し、記録をアーカイブし、それを共有するとともに、由来、起源、共同体との関係を研究する。それを白州で農家を10軒ほど借りてつくった。基金を2年くらいで集めてから、アーカイブ化、インターネットでの発信、コミュニケーション等を担う5人くらいの体制で展開したいとおもっている。
今、オリジナルが重宝されている。オリジナルがかっこいい、すばらしい、素敵だともてはやされている。しかし、ぼくは、それがいかに虚しいか。いかに無意味なことかということを事実をもって示したい。
さまざまな共同体の舞踊が、示している。おおよそ、オリジナルといっているけれども、ずいぶんと前に出尽くしてしまっているんだ。それがくっきりとわかるのだ。舞踊資源研究所に集まった多数のビデオを見ればわかってしまうのだ。
そうすると、オリジナルとか、創作とかということを声高に主張すること自体が、ちっぽけなことだということがわかってくる。大したことがないということがわかってくる。
自分の踊り。それも大それたことではないということがわかる。大それたことではない。それを基底に据える。それでも踊りつづける。そうすると気が楽になってくるのだ。楽に踊れるようになるのだ。
ぼくが踊ることの価値は何か。ぼくはなぜ踊るのか。この研究所の営みはそのようなぼくの問いに対する答を用意してくれる。大それたことではないと。ちっぽけなことなんだと。
ぼくが惚れ込む音楽家は本当によく練習している。
一日12時間ピアノを弾きつづけて、鍵盤が薄くなる。そんなことをしている人もいる。本当によく練習している。オペラ、クラシックの人で凄いと思った人は、がんがん練習してすぐに譜面が必要ないところに到達する。そして、それでも練習する。これでもか、これでもかと。そうやってその音楽をいったん自分の身体に確立するのだろう。これまで聞いてすごい、ぜひ、こいつとやりたいと思った人とは必ずやれてきた。そして、そういう人たちは本当によく練習していた。 970809 文責:中川一郎