ねっとでいへの想い as of 970417


いきなりですけれども、私のねっとでいへの関わり方の根底的なところを今、はっきりと表明したいと想います。

ロー・テーション

人はそれぞれにバイオリズムを持ち、ある時は聖者としてある時は詩人として、ある時は公人として、ある時は私人として、ある時は落ち込み、ある時は、突き抜け、ある時は動きある時は止まる。

テンションにぶれがなく、そして、常に右肩上がり・・・中川は生まれてこの方、30才になるまでは「それが男だ。それが人生だ。」的な世界観であったし、幸か不幸か・・・さしたる疑いを抱くこともなく、悩みはあったけれどもまあ本質的なところで自分自身に疑いを抱くことなく・・・来たのだ。

30才を過ぎたあたりに、自分自身の問題でこの自信と確信が一気に崩壊することが起った。そして、その後、長いローテン、短いハイテン・・・というサイクルができてしまい、身近なさまざまな人に迷惑をかける結果となってしまった。ああ。とてもでは無いが、コンスタントな右肩上がり・・を自分はやれなくなってしまった。まあ、そんな事態になっているのだ。

そういう状態の自分。これをどこかで受け入れていない時が続く。そういう時は、何が何だかハイ、チョーハイ・・・という状態になっていないと自分がハイという感覚が得られない。チョーハイ以外の時には、「何で自分はハイではないのだ」から始まり、あとは、ひたすら悩むことばかりに脳が向かってしまう。そんな状態が最近まででした。最近、チョーハイかも・・・という感じがしておりますです。そして、これもいつまでも続く訳ではない。

本音を言えば、自分は生活を抱えている訳であり、その生活を支えるための優先順位があるわけであり、そして、それは経済面でも自己満足面でもやはりそうなわけであり・・・ねっとでいはその最上位に常に顔を出している訳では・・・中川の場合はないのです。

しかし、チョーハイの時は何か貢献できるのかもしれないし、そして、ねっとでいのコンセプトの本質的な何かが、自分を離れさせない。多少の貢献を通じて自分が救われる・・・感覚。

  1. がんばれる時にその時いちばん自分が快くがんばれることをがんばる。
  2. あとはひたすら皆のがんばりを享受する。
  3. がんばれない時にでものけものにされない。

      わがままいっぱいの中川は、上記の1〜3を本音レベルでねっとでいには感じるのです。

      中川としては、これまで2.と3.であったけれども、3.14の番組を契機として1をちょっぴりな成果だけれども、精一杯やってみた・・というところ。

      しかしながら、1.については番組の構成等々でヘゲモニーを奪取できなかったこともあり、残念ながら戦術的目標を達成すること能わず。これは自己批判しつつ・・・「いや、よく考えて見れば、本当はこういうことを言いたかった、やりたかったのですけれど・・・とか、私がつけていたバッチの数々は・・とかいう形でのコミュニケーションの仕方を御縁のあった方に行うこと。

      まだ、チョーハイみたい。

      ローになったら、それ、また表明します。

      970417 中川一郎





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