中川一郎
オープン・クリエーションのOCPLのα版がリリースされた。http://www.opencreation.org/ocm_ar1/index.html
これは、自分の音源とか楽曲とかの取り扱いについて、どのような位置付けにするかということを、共通化されたライセンス文書により通有する、さらにそれを簡単に理解しやすいコードとして表現し、楽曲・音源に付することを可能にするものだ。一層の楽曲・音源の流通、サンプリングやリミックスなどのディジタル技術が切り開いた新たな創作活動の可能性、あるいは、さまざまなコラボレーションを促進するものなのである。
このαリリースの各プロセスが問い掛けること答えるためには、音楽をやる人間としてのぼくの「そもそも」に立ち返らなければならない。「そもそもどうして音楽やってるんだっけ」「音源にしてmp3にしてダウンロードしたりストリーミング再生したりしてもらうことはどういうことなんだっけ」という問いかけなのだ。
責任と権限ということに思いをはせる。
自分の楽曲なり音源なりを発表した時点で、責任というのは逃れようがない。「それはぼくのじゃありません」と見透かされそうな嘘でもつくんだろうか。逃れようがない。それはそういうことなのだ。聴いてもらう。聴いてくれた人の時間。思い。それに対して、最低限、ぼくがやったんです、ぼくの音なのです。歌なのです。ということ。それを逃げることはできない。
それはそれとして、OCPLで問い掛けられることに対して、どのように考えるか。将来、お金になるかもしれないしとか、自分が本意と思わないような使い方で使われたらやだなとか。確かにいろいろな問題は想定できる。そうすると、「1」とか「2」とかも言うべきなのかとも思う。また、事後的にであれ、サンプリングなりリミックスなり、あるいは、再送信してくれたりした人には何かどうしましたよということを言っておきたい気もする。考え始めるといろいろな事態も想定される。悩みに悩む。ほどではないかもしれないが、悩んだ。
(以下、急遽、「ですます」体になるが、まあ、よしとしよう。)
最初、ためしにやってみたときには、「00002」だったわけですが、その後、結構、悩みました。悩んだ時には、そもそも自分が音楽やるということはどういうことだったのか・・・という原点に立ち返るわけです。
悩んだ末に、「00000」で潔く行こうと思った次第でした。
自分のロックとかのかかわりの源を辿ってみると、それは、日本の60年代後半のフォーク・ロックに行き着き、ロックやるということはこういうあり方だよなあとかいうべきフレーズがあって、うろ覚えかもしれないけれど、それは岡林信康、早川義夫の言葉だったりするのです。
岡林信康「私たちの望むものはあらあらしくはかないひとつの音楽」
早川義夫「形あるものは、形ないもののたかだか効果音に過ぎない」
ぼくとしては、ああ、そういことだよなあと感銘を受け、あるいは、その後も立ち返りつつ、つまりこういうことなんだよなあと思うのですが。ざくっと言えば、ぼくの理解では、刹那性、状況限定性、「今、ここ」性に行きつきます。
ということで、また、自分の過去のある瞬間の「今、ここ」に「これは俺のであって」という権利みたいなこと(property right)を主張するのは筋違いだなという気がしてまして、「ゼロの魅力」に圧倒されたこともあり、「00000」とした次第でした。
もしかしたら、大きな決断なのかもしれません。が、これからも、「ゼロストレート」で行きます。
これって、「空」に近づいているということなのかもしれません。ささやかな決意表明でした。
020314 中川一郎