気分合理性=満足感・交感価値の最大化

中川がOCMに感じる・・・ろまん

 

自分個人の行動を振り返ってみると、自分の裁量で使える時間という希少資源を「自己満足の最大化」、「気分のよさの最大化」を目指して配分するという気分合理性にしたがって自分は生きているような気がします。

で、この気分合理性は必ずしも経済合理性と一致しない。音楽とか、創作とか。そんなところがありますよね。

あまり現実的ではないですけれども、自分の音がたくさん人に聴かれ、人に評価される・・・ということは、たとえ、それが一円のお金も自分にもたらさなかったとしても、中川としては、気分の良さは最大、全開、全快って感じがするのです。

これって、経済合理的ではなく、気分合理的ですよね。

ま、その前提には、生活するうえで困らないベースロードはしっかりとしていているということが大前提としてあるわけですけれどね。

今、どんな音楽に出会うことができ、そして、どのような気分になるかということが、随分と経済合理性によって支配されているというか、妨げられているというか、ゆがめられているというか。

初期マルクス的に(元なんちゃってマルキスト(^^・・・なんで典拠、根拠なし)言うならば、交換価値交感価値を疎外しているというか。

気分より、お金の方が大事でしょう、そんなの当たり前田のクラッカーじゃない?

みたいなことがなりたっていて、そこに疑問はさしはさまれない・・

気分がお金的利害関係を超える。

という瞬間、あるいは、ある時期の関係性が成り立つ。それでいいじゃないと。

もともとロックは、「あらあらしくはかないひとつの音楽」(岡林信康)なんであって。経済的、現実的にSustainableでなければならない・・ものではないような気がするのです。

生活がかかっている人がいると。だから、気分よりお金がきちんと回る仕組みの方が大切。だから、これは、護持しなければならないんだと。だけど、気分がいいほうがいいんじゃない?

みたいなところも、・・・・・も、ある。

ということで、今、参加させていただいているオープン・クリエイション運動=OCM運動(http://www.opencreation.org/)ということに立ち返って考えると。

OCPLという標準化されたライセンス文書によって、その音源をやっている中川は、OCPLによって気分合理性をその作品において重視するか、それとも、経済合理性も若干、気にかけているのか。

そういうことをはっきり、くっきり表明できるんだな・・と。それがイノベーションなんだなと思ったりするのでありました。

それで、これまでは、気分合理性の領域は小さかったけれど、これからは、気分合理性の領域がもう少し広がると。

気分合理性の領域。それこそ、さまざまな人々の知恵が経済的、技術的、社会的につながって実現された、人類の叡智の果実というべき、ディジタル化のもたらす「豊かさ?」っていうか、「気分のよさ」。

だから、全面的、100%そうなるわけじゃないんだろうけれど、でも、従前よりもそういう領域が広がる。それっていいじゃない。という感じです。

でもって、いきなりビジョンというか、夢というか。

それは、OCPLでもっとも軽い制約を設けた音楽作品が、どんどんコピーされて、その音楽作品をつくった人の気分がよくなり、それを聴く人の気分もよくなり、それをリミックス、サンプリングする人の気分もよくなると。

そこが基本で・・。さらに、その交感価値の最大化が、多少はその音楽作品をつくるために必要なお金の回収や次の作品創造のための投資も何らかの形で、

・たとえば、その作者が「実は生活に困窮している」と知る人が多少は寄付をしてみようと思ったりとか、
・あるいは、一度だけのシークレットライブで、結構なお金にもなってしまうとか。

どうにかなると。

それが常態・・・とは言わないけれど、そういうケースが出てくると。それが、中川がOCMに投影する夢かな・・・などと思っております。

中川一郎 2001.3.3 (続く予定)





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