宮台先輩! ありがとうございました! 


【書肆情報】

その頃、ぼくは宮台真司さんが「大失恋」をしたとされる場の周辺をうろうろしていたはずだ。そして、ぼくも社会学を勉強するはずであったのだが、やはりろくに勉強しなかった。あるいは、バンド活動が自分の意味の中心であったし、また、「イギリスのパンク・ニューウェーブの人たちは政治的にもアクティブ、ラディカル」というような風評を聞きつけ、身近なところにあったキャンパス内の政治に関わったりとかもして、うろうろしていたのであった。

が、宮台さんについては、大変立派な卒論を書かれ、大学院に進まれ、早々に学においても職を得られた、それも「社会統計学」というおよそ社会学周辺のなかでも、きっちりとした、大言壮語とはほど遠い、分野で研究職を得られたということで、それはもう、自分のようなはぐれ者、そして、埼玉の公立高校出身の者には眩しい、偉大な「先輩」であったのだ。

一度だけ、恩師の自宅で開かれたパーティのようなものにて、立派な先輩と言葉を交した。それは、82年か83年の春の頃だったか。記憶が定かでないけれども。そこでは、持ってきたレコードを好きなようにかけさせてくれるみたいなことがあって、ぼくは、ピンクフロイドの「夜明けの口笛吹き」を持って行ってかけさせてもらっていたら、「いやあ、シド・バレットのいた頃のピンクフロイドはいいですよね。」というような話題であった。後にも先にも、宮台さんと言葉を交したのはその時きり。

たしかその時恩師曰く。「ぼくのゼミにいると、人数も多いし、アカデミズムから外れる人もいてわさわさしているから、最初、ぼくのところに来たいといったんだけれども、彼(宮台さん)みたいにきちんと学問を収めようとする人には来ない方がいいといったんだ。それで、Y先生に頼んだ。」確かに、そのゼミ。ぼくがロックの歴史について思い入れたっぷりにたくさん書いた論文で、それなりに、卒業させてもらったくらいだったので、やはり、学究の人には向かなかったのだろう。(が、同級でその後、フェミニズムの先端を行く学友も輩出したりもしているのではあったが・・)

さて、90年代。「サブカル」「ブルセラ」「終リナキ」。卒業後も親交が続く、竹村洋介氏から、「宮台はこんな本を書いている」という知らせをもらって、その度に、読んではいて、「バックグラウンドにあれだけの社会学としての本筋を極めているから、だから、こういう話題でもってきちんと提起ができ、切り込みができる。」とても自分にはできない技。まかりまちがっても、社会学のアカデミズムを志さなくてよかった。という感想をいだいたのであった。

この間、銀座の旭屋にぶらっと立ちよった。そう。なんか、さくさくっと読める日本語の単行本を買おうと思ったのである。一冊はPeter Drucker。そして、ぼんやりと「社会」系の棚にうつった時、宮台さんの最新作が平積みにしてあって、手にとったのであった。

今、一読した。一読後の感想を一言でまとめると「宮台先輩!ありがとうございました。」ということにつきる。この本はわかりやすい。そして、これまでぼくが触れることのなかった作品、エッセイなどの解説が中心となっているから、また、開くべき面白そうな扉が示されている。それだけでもありがたい一冊で、1500円ならお買い得。

そして、二点がぼくのアクションというか心の奥深いところで、迷っていたことにはっきりと答をくれたということ。それだ。

まず、第一が「表出」、「表現」が異なる概念なのだということ。ぼくは、これまで、自分が音楽活動でやっていることを「表現」という言い方をしていたのであるけれども、それでいながら、違和感を感じていたのだ。その違和感が、今回本書で示されていたところによれば、ぼくがしていることは「表現」ではないと。あらかじめ、何を伝えるかを自分で自覚し、それがどれだけ受け止めた人に伝わったかということが自覚的に把握できる。それが表現であると。

であるとすれば、ぼくの場合、自分でもよくわからないところがたくさんあって、だから、とてもではないけれども、あらかじめ言語で明瞭に「これを伝えます」ということはもやもやとしていて、だけれども、受け止めた人に何かしらインスパイアされるところがあるかもしれないというところでやっている。これは、むしろ「表出」というべきなんだと。これがわかったのは大きく、音楽をする上で、「表現」がどうのこうのということで、迷うことがなくなりそうだ。「表出」なんだと。だけれども、その「表出」が何かしら、響くものがあれば、それでいいじゃないの。というところなのだと。また、響いたものが言語で説明しつくされなくても、それでいいのだと。

もう一点。それは、学問なり研究なり。内発がなければ成就しないのだと。内発。それは、「もうこの人!本物!」という師匠とでもいうべき人に徹底的にはまり、憑依され、それを極めるということなのだと。ややもすれば、宮台さんのようなセンダンハフタバヨリカンバシを地で行っているようなアカデミシャン(その道の険しさ、厳しさはサラリーマンを気楽な稼業と思わせるほど厳しいことを、ぼくは身近なところで、たとえその頃はうろうろしていただけであったけれども、卒業後の20年足らずで社会学の道を志したかつての、自分よりはずっと社会学について真摯であった学友たちのその後の展開には本当に厳しいものがある。)は、なんか、その憑依みたいなものはなくて、すべて自分で荒野を切り開きみたいなところで展開しているのかなとずっとぼくは、思っていたのだけれども。

小室、廣松という両巨匠の憑依があるのだということ。もちろん、宮台さんがその憑依にあたって発揮されたであろう知の力量は大変なものだということは、承知したうえであるけれども、何か、ほっと、自分なりにも内発を開発する・・みたいなことはできそう。ということで、宇宙を憑っていたような宮台さんが、それなりに頂上が見える山の上に立っているような気はしてきたのである。

となると、ぼくなりにも内発と憑依。それなんだね、と。ビジネスの場、音楽活動の場。それぞれで「この人、ほんもの!」みたいな人たちとの出会いはあったわけであって、あとは、そこを竣順なく極めて、そして卒業するってことかと。その方法がありうる。ということがわかることは大きな救いのように思えてくる。あとは、自分でどこまでやるかどうか。ってことだけれど。

とまれ、自分でわかる形で、「ああ、これは読んでいいことがあったな」と思える一冊をこの世紀の間に残してくれたということでもって、

宮台先輩! ありがとうございました!

と衷心より表明しておきたいと思ったのでした。

00.09.17 中川一郎 mailto:nakagawa@aa.uno.ne.jp



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