2000.1.1〜2000.11.20
2000.11.20 Mon 夜
- 某日深夜1時半。この時間の通りでも、常に2〜3人の人影を見かけるのはさすが東京だ。なにしろ自分の現住所は***(正確には通り1本**側なのだが)という郊外である。しかし、かといってこの千川通りがとても素晴らしいというわけではない。なぜか「プラタナス通り」とある。「美しい街で楽しいショッピング」などと、暗に消費を迫っているが、別に美しくもないし、ショッピングというものをするというほどの店は見かけない。この時間に営業しているのはコンビニと自販機くらいである。自販機といえば、薬局の前で煌々と輝き自己主張している。見ると普通の飲料のもの、及び、薬局の前といえばあれである。スキン。「楽しい家族計画」というコピーはもう見かけないかもしれない。一応3種のグレードがあり、500円から1000円で半ダース入っているようである。現在の表示では「Happy Family Life」と横文字にはなっているが、わりとそのままの気もする。僕がこの「楽しい家族計画」の意味をよく理解したのは、わりと最近になってからだった。家族計画というものが、家族でどこかに出かけるなどというものではなく、家族の構成員そのものが増えるか増えないかという重大な問題を意味しているということに、子供では気づかない。それ以前に、スキンって何だ?中学生くらいならわかるかもしれないが「皮膚」、う〜む食べ物にしては小さく妙に高い。高級チョコレート、と教育している家庭もあると聞くが、それはどんなものか。娘が口にしたくなってしまうかもしれない。などと悩む必要もなく、しかし辞書のマル2の項目にはしっかり「コンドーム」と書いてある。なるほど夜間突然に必要となったり、人知れず必要となる御仁もいよう。さっき高いと書いたが、これを使用せずして思わぬ方向に物事が進む事を考えれば、全然高くない。むしろ安物で不備があっては困る。というわけで、こればかりはきっと右側の高いのほど売れるであろう。
- 前回あんな事を書きながら、日曜夜というくつろぎタイムを狙ってNHKの集金人が来た。ここはひとつ玄関先でバトルをしてもいい、そういう事で信用がなくなるとか近所づきあい云々というほど僕は偉くない。しかし僕はそこで日和ってしまった。「テレビありませんから」。嘘をついて逃げてしまった。「また来ます」という彼は、頭っから信用していませんよの意。自分の弱さを実感した。新聞屋やNHKとも喧嘩できないような覇気のない若者では、きっとろくな仕事もできないだろう。そんなヤツは新聞の勧誘員かNHKの集金人にしかなれない。
2000.11.1 Wed NHK受信料を払わない方が良い理由
- 以前より疑問を持っていたが、なんとなく払わずにいた理由がはっきりしたため、以下に記す。
- 一方的に電波を発信しておいて、TVさえあれば見て無くとも受信料を払えというのはおかしい。
- NHKは膨大な受信料という収入を、盛大なパーティーや取材費の名目で浪費している。しかも、一部は政治家(自民党議員)に流れている可能性も大きい。
- 末端の集金人はバイトで、1件いくらの歩合性である。何か問題があれば切り捨てるだけの無責任な人間で、しかも「受信料を払わなければ裁判になる」等の脅し文句を覚えさせている。こちらの言うことには「ああいえばこういう」的な交わし方をして話にならない。しかも一部の集金人は過去半年分を徴収しておいて、今月分からをNHKに入金し残りを着服したりしている。
- うるさく文句を言う人などのところへは料金を取りにゆかず、むしろ主婦しかいない時間を狙って行き、戸口で大声でどなったりして脅迫的集金をする。
- 公共放送などと言いながら政府自民党に都合の悪い事は放送しないという偏りがある。毎日、君が代・日の丸といった「右寄り」な放送を行っている。土地の売買や他の放送局の下請的仕事をして儲けており、公共性は薄い。
- お金だけ巻き上げておいて、視聴者の意見は反映されないしくみになっている。
- 有名人が「NHKだから」と出演するのをいいことに安いギャラしか払わず、有名でないタレントはさらに安い。そのくせ政治家などには高いギャラを払い、しかも外国出張の際に付いていったりする。
- よって、受信料を払わない事が問題提起となり、NHKが改善されるきっかけになりうる。払ってから文句を言えという人もいるが、払った時点でNHKの現体制に協力することとなり、現に改善されていない。もしくは、皆が受信料を拒否すれば税金を使われるようになるというが、現在多くの人が払っているなら既に税金と同じであり、むしろ税金を使った方が浪費はできなくなるかもしれない。尚、石原慎太郎(右の者)などはNHK受信料義務化法案を検討しているそうである。
- 参考文献『NHK受信料拒否の論理』本多勝一/朝日文庫
2000.10.23 Mon なぜマクドナルドのハンバーガーは半額になったか
- オーストラリアで天候不順、牧草が生えない→仕方なく牛に綿花を喰わせた。が、綿花は農薬いっぱい→牛肉は農薬の濃度が高く、そのままでは日本には輸出できない→使い道に困った安い牛肉を、アメリカのマクドナルドが買い取った→別の牛肉と混ぜて農薬を薄める。そうしてできた加工肉なら日本にも輸出できる→安くなった肉なら半額でも採算がとれる。
- なんか安くなった時期と合うらしい。K生省の役人が語った推論。
2000.10.6 Fri アレルギー戦士
- スピリッツを読んでいると、『美味しんぼ』のお詫びがあった。作品の中で、離乳食として半熟卵と蜂蜜を使っているが、半熟卵はアレルギーを起こす可能性があり、蜂蜜の中にはボツリヌス菌(注)の芽胞(菌のタネ、みたいなもの)が入っている可能性があり、乳児(何歳までかは忘れた)にはやってはいけないもので、知りませんでしたスイマセンということである。僕は蜂蜜の件についてはラベルに書いてあるから知っていたが、半熟卵については知らなかった。あれだけ食べ物を扱った漫画を書いていて知らないというのはちょっと変な感じもするが、作者と編集部からお詫びというのはもっと変だ。
- 漫画には必ず、目次あたりに「この作品はフィクションです」云々、と書いてある。それは『美味しんぼ』のように一見実用漫画風の作品でも例外ではないはずだ。それなのになぜ、そのフィクションを本気にして子供に半熟卵や蜂蜜をやってしまう人の事まで考えて、詫びる必要があるのか。フィクションを本気にする事を想定している作家と編集者なのか。それはたかが漫画が真実として捉えられているであろうという、傲慢ですらある。
- もし無視したら、もしくはもう既に、おせっかいとも言えるような読者から、その内容の指摘、もっと言えば抗議があるのだろう。以前も書いたが、虚構に対する見当違いの抗議は多い。ものごとの欠点を見つけるのはその人の優越感に貢献する。でも現実的にはあまり意味のない事が多い。特に『美味しんぼ』は、軽率な読者ならこの内容は真実と思ってしまうような、実話っぽい漫画だ。しかし大人なら、漫画は漫画として楽しむという余裕を持って読んでほしい。わーほんとだーと入り込んで、嘘じゃないか違うじゃないかーと抗議するなんて、サンタクロースの存在する子供と同じだ。虚構と誤りが区別できてない。ただ実話っぽいから『美味しんぼ』には抗議が来るのであって、決して「そんなの食えるわけねーだろ!」と『鉄鍋のジャン』に抗議は来ないのである。子供でもウソとわかるから。それとも小学館だから世間体を気にするのか?
- さて内容について検討すると、僕はいずれについても詳しい情報は持ってないし、それが世間一般の常識なのか厚生省の指導なのかも知らないけど、作者も言っているように、食べた子供全員に問題が起こるわけではない。むしろ、起こる人もいる、という程度だ。現時点では一般的に正しいとされているのがそうであったとしても、しかし虚構を標榜している作品を信じて問題が起こったら、問題があるのは信じた人だ。情報源を検討せず情報の内容を信じる。新興宗教の信者なんかによくいるタイプ、無邪気を通り越して有害である。作者にも反省の余地はあろうが、それは作者自身が勝手に反省することで、他の人がどうこういうことではない。
- ちなみに僕は『美味しんぼ』は読んでない。読まない。
- (注)ボツリヌスだっけ???これも実はよく覚えてないんだけど、生卵にはサルモネラ菌が入っている可能性がある、だから外国では生卵は食べないんだ、という話も聞いたことがある。
- さて、ようやく「今世紀最後のスポーツの祭典」なるものが終わり、一部では戦争も始まった。以前よりスポーツ静観論者である僕の唯一の同志がテレビに出ていた。それは、ピーコだった。これまで僕が書いてきた内容に誤りがなかったか、今考え直している。
2000.09.18 Mon 清爽
- 普通、月曜日というのは憂鬱なもんだけど、僕はそうでもない。たまたま仕事の巡り合わせで、午後は3時間程度昼寝できることになっている(内緒だが)。それもあってか、今日はとてもすがすがしい気候と感じた。例えば初夏と較べて同じ気温でも、これから涼しくなってくるという流れにいるとその先の秋のような爽やかさを感じる風だ。大雨の後で、市街地でも空気がきれいだからかもしれない。
- なんていう理屈は無意味だ。ただ気持ちいいと思った、そういう気候だったということ、それだけが存在する。美しさに理屈はいらない。
- こんなに気候がいいと、僕は働く気が失せる。働くよりも、この気候を全身で味わう事の方が重要に思えてくる。仕事なんて大抵いつでもできるし、僕のかわりもいくらでもいる。
2000.09.12 Tue 批判するということ
- 朝、人々を観察していると、特に中年以降の人は圧倒的にNHKの連続ドラマを見ている。僕は見たことがないので内容は知らない。雑誌に書いてあったのだが、そのドラマに対する反響−主として苦情・文句がすごいらしい。新聞の投書欄もそうなのだが、そういう投稿主はだいたい65歳・男性・無職みたいなのが多い。要するに仕事もあまりなく、暇でTVを見てはそれについて新聞や放送局に投稿するくらいしかやることのない人だ。驚く事に、僕はよく知らないのだが、そのドラマに金髪の男が出てくる事が許せない、というような投稿が多いそうな。曰く、NHKともあろうものが軽率にも金髪の男をTVに出すとは、という。どうも批判の方向がずれている。彼らはあまり考えず、昔の教育+高齢化により善か悪か、というか自分の文化に合っているか合っていないかという単純な思考しかできず、それに合ってないと苦情を投稿してしまうのである。
- 批判するということは、その対象は考え、である。それしかない。考えることができるのは、今のところ人間しかいないことになっている(ことが多い)から、人の考え以外を批判できない。自然を批判できない。空が青いのはおかしい、間違っているなどという批判は生じ得ない。ただもう1つ、ゼロという数字は無い事を意味するが、その数字じたいはあると考えるならば考えがゼロ、すなわち人が考えないという状態も批判の対象になりうる。
- ドラマの話に戻すと、老人が批判したくなるような考えによってNHKが金髪をドラマに出していたか。例えば金髪を世間に広めようという考えで放送していたならば、金髪はよくないという考えの老人が批判したくなるのはわかるが、単に世間には金髪が多いから、世間を反映したドラマにもたまたま登場した、という場合は老人の批判は成り立たない。成り立つとすれば、考えなしに世相を反映してドラマを放送するな、という批判しかない。老人たちがいったい何を思って批判していたのか。おそらく何も考えてないのだが、僕はその何も考えないで批判するという姿勢を批判したい。なぜこれほどまでにNHKの連続ドラマは見られ、しかも保守的な内容が受けるのか。皆習慣になって、その時間はそのチャンネルでドラマを見るという生活が染みついているから見て、保守的な内容に安心したいのだ。多くの高齢者たちは既に社会的・文化的に現役ではなく、若い人中心の今の社会とはどうも馴染まない。だから惰性で見ているNHKのドラマくらいは自分らの文化と合致して、少しの間の虚構であっても安心感を得たいのだ。そこに金髪の若造など出てきてもらっては困るのである。高齢者たちの憩いであるなら、完全に彼らの望み通りのものを制作してやってもよい。いやむしろ何も制作しなくても他局から水戸黄門を買ってきて永久リピートするだけでいい。ひとまわりする期間に、視聴者のうち結構な割合の人は土に還っているだろうし。しかし自分の感覚からすると、既に現時点で十分保守的でつまらないので、NHKの存在意義は認めてないし受信料も払わない。伝説となっている某局のように、各局が生で広島の原爆慰霊式典をやってる裏でハクション大魔王を放映するような斬新さを望む。
- なんか数日前は相当ウダウダした気分が文字から読めるが、今はそれほどでもない、と思う。週末は新宿で望みの中古時計を納得価格(2個で1万円もしない安物)で買う事ができたせい、だとしたらこれほど単純な人間はいない。ちなみに今は古めのデジタル・デジアナに凝っている。
2000.09.8 Fri dep
- 状況は変わらず。鬱病は治りかけが危ない、極期は自殺すら面倒でできないから、という。僕もそれに近く、退屈をまぎらわす事すら億劫で何もせず、停滞から脱出できずにいる。せっかくの週末、このへんをうまく使って何とかしないと、ストレスは溜まる一方。気分が悪いというわけではない、ただ何をしても乗らないというだけで。
- このHPはどの程度の人が見ているのだろうか?パソ通・ネット関係者、それは当然対象。友達の一部。同期・職場の人も一部いるかもしれない。全員がアンケートをくれるわけではないから、実際のところは知らない。たいへん言いにくい事だが、でも前も書いたかもしれないけど、僕はだいたい5人以上の寄り合いというのがストレスになる。碇シンジみたい。もともと個人主義的な性質なのか、自閉症チックなのか。それでも友達・同僚・気の置けない人ならいい、しかし特に仕事関係・上司はダメだ。だから職場の飲み会等は、ほとんどの場合苦痛でしかなく、まず1次会で帰る。僕自身からして上下関係というものにどっぷり浸かっているから、上の人の意見には反対してはいけない、僕は常に彼の気分をよくするように動かなくてはならない。飲み会でも、いつでも、僕の意志とは関係なく。と思ってしまう。それは誰のせいかといえば自分で、僕が自分で勝手にそう思ってそれを苦痛がっているだけだ。その根本には、上の人に嫌われずむしろ好かれて利益を得たい、嫌われてもやっていくような自信がないしそれで不利益を被るのは御免だ、という小心な保身がある。だから言いにくい、卑しい癖なのです。
2000.09.7 Thu 退屈との戦い
- また気づいてしまった。僕はここ数年、約50%の時間は何かに熱中している状態、いわゆるマイブームというのがあり、それに興味を集中させている。約30%の時間は特に何も考えずに目の前の事を処理して日常生活を送っており、趣味とかそういう事についてはほぼ無意識といっていい。で残り20%の時間は、興味を持つような事がないという退屈に気づいている時間で、今がまさにそれだ。
- 興味がない。仕事も義務の範囲には興味がなく、自分で調べたりしている些細な部分についてはかろうじて興味が残されている。しかし仕事が終わると再びすることがない・したいことがない時間になってしまう。子供時代というのは多くが退屈な時間であり、金とか行動力とかも含めて力がないためその時間を浪費するか、後から思えば実につまらぬ遊びを思いついて飽きるまでやるしかない。しかし今の自分は大人なので、ビデオを借りるなど、手軽に楽しむ方法を実行できる。
- 死の王1989ドイツ。曰く、本国では上映禁止となり、オムニバスで1週間、1日一人ずつ自殺する風景が斬新な作品だとかいうので、この手の悪趣味ものは好きな自分は見てみた。が、これもだめだった。雰囲気的には80年代半ば以前、ヤコペッティ作品のような雰囲気。死体が自然に腐り蚕食されてゆくさまが描かれているが、これはちょっと知っている者からすればすぐにニセモノであるとわかる。そして冗長で倍速で見て丁度よい。いや、それでも退屈してしまう。
- ビデオという方法も、ここのところ失敗が多い。作品選びが失敗なのか?「極道の妻たち」は、最近の失敗作品よりは頭ひとつ出ている。そんなレベルである。ただでさえつまらながっているところへきてこれだと、ますます気分は沈静化してしまう。厭世的というわけではないが、人はある程度面白い・楽しいと思うような事がないと生きてゆけぬものである。そこで先ほどの、退屈から逃れる大人の手段をいくつか試みることになる。試みるというよりももっと切羽詰まって、もがきに近い。ビデオ・映画、本・漫画、買い物、旅行・ドライブ、釣り、インターネット、とか。できれば手軽でお金がかからず、それでいて実用的(なんじゃそりゃ)な事がいいのだが、今のところ現状を打破できる作戦は思いつかない。
2000.09.3 Sun 何もしない日2
- 今日も昨日とあまり変わらず。またもや少々外出すると、今日も熱いけど本当に気持ちよく晴れてて風も爽やか、南国のようだ。でもやっぱり家でごろごろとビデオを見ているだけだ。
- 新・死霊のしたたり死霊のしたたりはサム・ライミ監督のスプラッタ・ホラー。カンダ・アマントス・カンダ、っていう呪文の、チェーンソーを腕に付けるアレ。1〜3と最終巻?と本作品がある。1と2はすごくいい。美しく幻想的な、でもやっぱり血とか肉片とか飛び散る化け物相手の戦闘なんだけど。3(キャプテンスーパーマーケット)は、やっぱり同様のだけどあんまり印象なし。ストーリーは毎回、若者数人が山小屋に遊びに行って、そこの封印を解いて化け物が出てきてしまう、てなやつだけど今回の新〜はゾンビ軍団に立ち向かうとかいう、全然それらしくないもの。最終巻とかいうのはサム・ライミ作品じゃないけどこれはサム・ライミ監督+自分が主人公のだから、と期待して見たけど大ハズレ。ホラー映画はハズレが多いけど、これはトップクラスのハズレ、大学のやる気無い映研が作ったやつみたい。
- シュリ他に見るのがなくて、一応押さえておこうと。やっぱりハズレが続くと時間の浪費感もすごいし、精神的ダメージ大きくて。これは僕にはまぁまぁといったところか、悪く言えばちょっと仕掛けに凝った刑事ドラマ程度。韓国映画だから?ハリウッド映画みたく、つまんなくても洗練された香りがするわけでなく、アクションがすごいわけでもなく。話的には面白いし感動的、みたいだった。映画見てると、僕はよく途中であーまだ終わらないのかな・冗長だなーと感じる事が多いけど、これはあんまり感じなかった。
- 僕はもともと南国好きなんだけど、じゃどこが良いかっていうと例えば沖縄はやっぱり日本だからあまり違いがないような。老後はハワイあたりでのんびり暮らしたい、なんていう人がいるけど、最近すごくそれいいなーと思う。アメリカ好きなわけじゃないけど、アジアのごちゃごちゃした感じは疲れそうだから。だらだらしてたら精神的にもジジくさくなったのだろうか。
2000.09.2 Sat 何もしない日
- 今日は何もしない日だった。最近体調悪く、外出すると1時間くらいでなんかクタクタになってしまうので、この週末は安静にして少しでも改善しようと思っている。でほぼ1日ゴロゴロと、つまらないホラー映画を見、読書をしたら眠くなり、起きたら夕方だった。
- 昼間、少々買い物に外出すると天気は良く明るく世間は土曜日で、何となく自分以外は楽しそうだった。楽しくなくとも、それぞれやることはありそうだった。しかし自分は確かに休みではあるが、外で遊ぶわけでもなく一人家に居てこれといってしたいこともなく、楽しくもなく何となく1日過ぎてしまった。これを無駄と考えるか、予定通り1日ゆっくりできたからいいと考えるか。ただ、何もせず1日過ぎてしまうと敗北感が残る。1日仕事だけどそこそこ充実した1日と、休みだけど何もしなかった1日はどちらがいいだろうか。
- 気分が良くない・敗北感の原因は、病気してるなど体調が悪いからである。これは有意義な時間の使い方をできなくする。何をするにもしにくいし、結果も悪い。僕は弱気なので、体調が悪い時は治す事を一番の目的とし、安静にしてあまり動かない。これをすると時間は浪費してしまうけど、その分早く良くなって100%の動きができた方が、全体としてみれば有意義時間は長いと思う。でももっと良い方法は、少々の体調不良など気にせずにいつも通りに動ける人である。タフというか鈍感というか、そういう人の方がいつでも一定出力を維持できる。僕は性格上そういう事はできないけども。
2000.08.22 Tue 体育会系バカを殲滅せよ
- テレビなどあまり見ない自分だったが、最近ずいぶん見る。一方、最近の低俗なテレビ番組の内容を批判する意見も多い。その通りだと思う。しかしいくら批判しても内容が変わらないのは、視聴者がそれを求めているからだ。ニュース番組風ではあるが俗っぽい朝のワイドショーなどは、確かに見ていると、こちらが見たい知りたい内容を放送する。それは、自分らのように他人の醜聞や不幸を遠巻きに見て楽しむ人にぴったりの低俗な内容が多い。大多数の求める内容がそうであるから番組もそうなる。決してそこらへんのブタ主婦だけに放映しているわけではなく、やはり多くの人が見たい内容なのである。バカだからテレビを見るし、テレビを見るとバカになる。以前はテレビばっかり見ていると頭が悪くなるという迷信を、世の親たちは子供をテレビから引き剥がす理由にしていたが、今では全員がテレビでバカになってしまったようだ。
- バカって何?愚かなこと、取るにたらないこと、つまらないこと、人。愚かな事とは、知能・理解力に乏しいこと、だそうだ。僕はバカが嫌いだ。ここでは純粋な意味でのみバカを用いる(釣り〜等は含まない、ということ)。バカは不幸をもたらすからで、誰でも幸福になりたいから、誰でもバカは嫌いな筈である。自分がバカになるのも嫌だし、バカと関わるのも嫌だ。しかし世の中にはバカが多い。テレビをつければいっぱいいる、というかテレビの中はバカの方が多い。もしくは巧妙にバカを演じている悪人か。それでは、バカとそうでないものの違いとは何か。それは僕がバカだったらそれを知らないわけで、これから書く事は大したことではないけれども、もしかしたら僕がバカであることの証明になるかもしれない、ちょっとスリリングである。
- バカとは、本質を知らない事である。本質とは、というと難しくて僕もよくわからない。言い換えれば、何が重要で何がどうでもいい事か、という事を区別できないことである。
- では具体的にバカに通じる道・バカのやり方を言えば、その代表がいわゆる体育会系である。僕は体育会系が嫌いだ。体育会系人間・組織・制度、という事のほとんどがバカという概念に含まれる。頭よりも肉体の活動を重視する、そのくせ精神主義的妄想を信じている、徒党を組みたがる、礼儀を最重視する、上下関係は絶対である、形式ばっている、など体育会系を批判する部分は多い。日本的体育会系は封建制度、戦前の軍国主義に非常に近い。これらはいずれも正義よりも力関係および精神主義的妄想に基づいている。力関係とは上下関係つまり支配と非支配の関係であり、精神主義的妄想とは努力すれば何でもできると思いこむことで、それは非現実的である。だから戦争も負けた。その妄想が実現しないとすぐ破滅に走ろうとする。若い子のいわゆる「キレル」というのと同じで、ふてくされて全部ナシにしちゃおうとする。他者に影響できないなら自殺することもある。体育会系制度を行うにはある程度の人数が必要で、それは支配する人間と支配される人間で、特に後者をある程度必要とする。だから徒党を組みたがる。一人体育会系というのはあり得ない。礼儀や形式なんていうものは、人間関係やものごとが円滑に進むために必要な無駄、であった筈である。本質を知らないバカは表面上の無駄からしかものごとを理解できないから、その礼儀や形式が一番重要であると信じ、本質を見誤る。体育会系のやり方はこのように、支配欲を満たすために存在し傲慢で精神的成長を妨げる(cf.スコーリア戦記)。それは人間の本来あるべき姿に逆行しており、それに気づかないことをバカという。以前こきおろしたスポーツ関係の人間はもちろん体育会系であり、ほとんどがバカである。バカでない人は体育会系ではない。
- テレビではお笑いを中心としたタレントのほとんどが体育会系だろう。テレビ番組制作者はどうだろうか、このような番組を作っているということはやはりそうだろうか、だとしたらテレビ番組はバカが集まって作っているのだから、バカである。テレビでバカタレントが専門家でもないくせに言った内容など気にしてはいけない。テレビだから影響力こそ大きいが内容は、バカから出てきたものだから、ない。だいいちタレントなどと言っても内容のない番組の場つなぎに使われる人だから、外見こそ無難だが場つなぎ以外の事は人並み以下しかできない無能が多い。本来ならば才能があるからテレビに出るのだが、現在では逆に才能が無くてもテレビに出たから影響力が出現し、才能があると勘違いされている。だからそんなタレントをちやほやしてはいけない。奴らは自分でも勘違いして才能があると思っているから、実社会でも自分が偉いと信じ、でかい態度になったりする。テレビはタレントのそういうイメージを作るのが商売だから、例えばタレントの外見が良く見えたら、他には良いところが全然ないのではないかと疑う必要がある。音楽でもそうで、アイドルとかいわゆるビジュアル系などというものは音楽以外の要素が中心であり、肝腎の音楽はつまらぬものが多い。言ってしまえば、最低限の情報を知るため以外にはテレビは見ない方がよい。新聞・雑誌などにもそういう内容のものが多い。
2000.08.21 Mon 斬り捨て御免
- 仕事場で約3時間の時間を潰すのに、マンガと文庫本を読むのにも飽きてソファにごろっと横になると、東京にしては嘘臭いほど青い空が見えた。そういえば真夏だった。真夏なのに、僕はこうして時間を切り売りしている。と思うのは、子供ながらの夏=休み、というのが抜けきっていないからだろう。金のため、生活のため、と思うが、こうしてちまちま小遣い稼ぎをしてこの先何の役に立つのか。最低限の生活費は必要だが、そこから先は、金なんかあればあるだけ遊びとか時計とかに使ってしまいそうな気がするし、それも思ったほどは楽しくない。
- 外を見ると、どうも平日の日中から遊んでいるとしか思えない若者が目に付く、夏休みに限らず。僕が中高生の頃のやたら態度のでかいサーファー(系の人)、今ではチーマーだか知らないが茶髪でくどい顔で、やっぱり態度のでかい若者。彼らはほとんど働いていないか、フリーターなのだろうが、10年後はどうするのだろうか。30過ぎてもそんなことをしているのか。その歳で働く人はまだいいが、彼らのうち多くは性格的に労働に適していないと思う。10代の始めのあたりから、労働に適さない生活をしていそうな気がする。それで10年も過ごしてしまったら、きっと働く気などしないだろう、普通の生活をしている人だって働く気なんてあんましないんだから。それが30歳40歳50歳にもなって、生活できなくなって失業保険だ生活保護だって、その時になって国ひいては僕らに頼ってきても困る。はっきりいって見捨てたい。アリとキリギリスと言われるが、キリギリスみたいに音楽に熱中しているならまだいい。さんざんでかい態度やら犯罪やらして遊んでいて、歳取れば人並みの生活したいと言われても、同情の気持ちは生まれない。と、僕が思うのはやっぱしそういう人たちがうらやましいと思ったり、強さに対して劣等感を持っているのだと思う。でも僕は自分の自由の範囲内で、できる限りそういう人たちに対する援助をなくす方向に動きたい。
- なんて危惧はやっぱり杞憂なのかもしれない。いつの時代にもごろつきはいるが、その割合は一定以下で、社会の大多数の生産層の生活を圧迫するほどではないと思う。もし圧迫するとすれば、それは老人という非生産層の増加だろう。
2000.08.15 Tue 感じ
- 週刊誌である人のエッセイを読んだ。彼は日本語の正しい使い方を愛しており、最近の人が「感じ」を多用するのが気に障るという。あと、返答時に「あ、**です」みたいに「あ」と必ず言うのも嫌いだそうだ。言われてみれば確かにおかしいが、言われないと気づかない。「感じ」については、そういうあいまいにする表現が便利だからで、どんな語尾にも馴染みやすく使いやすい。「あ」は意識せずに言っており、その瞬間に返答する立場にある事に気づいて無意識に言ってしまう、のかも。いずれも気づかなければ問題ないし、そういう言葉の違いは世代の違いによるもので、いつの時代にもあったのではないか。そんな事に気づく・気にするから気に障るわけで、それで文章1つ書けて稿料貰えた彼は幸せなのかもしれないが、そういう気づいてしまったために不幸になるという事もある。
- 今日の僕は朝のテレビの占いで運勢が良いと出たためか、そういう気づいてしまったために嫌な気分になる事が多かった。いつも占いで良いと、実際には悪いのだ、これも1つ。今日は休みの人の穴埋めの仕事をしたが、その時に、自分ならばもっとうまくできるのに、という事に多く気づき、それでも自分は臨時だからとその違いはそのままにしてしまった。これは思い上がりかもしれないが、自分の考えどおりにしていたら何人かの人の寿命を延ばせたのに、それをしなかったのではないか、と気づいてしまった。いつもならどうせ臨時だその時さえ何とかなればいい、もしくは自分の方がうまくやれると自己満足に浸るところが、今日はどうも、同じ事をやっていても罪の意識すら生まれる。そしてその後、そんな生意気な考えをしていても結局まわりの人の中では自分がいちばん下っ端であり、基本的に上の人と対立すれば内容に関係なく自分は負ける。半人前だが実際にする仕事も半人前だから文句も言えない、という事に気づいた。しかしそれでどうこうするわけではなく、どうしようもなく、それも事実で受け入れるべきだと思った。こういうのはきっと、考えれば考えるほど気分が悪くなるという、気づかなければ良かった無駄だったのだろう。そういうのは自信の喪失や活動性の低下にもつながるから、どうせ考えるならばもっと生産的な考えをするべきだ。って感じ。
2000.08.12 Sat AT field
- 最近家にいると悪質な勧誘が多くて困る。***だから、さらに玄関の前まで誰でも来れる安マンションだから仕方ないのかもしれない。例えば新聞の勧誘では、この地区では読売新聞が特に強引な勧誘で有名だ。朝日なんかも似たような事をしている。ガラの悪いのが来て、取るまで帰らない、脅しに近い雰囲気だそうだ。僕も、以前のマンションではやっぱり来て、断り続けたが「3ヶ月間タダで配達する」とのことでOKした。なかなかしつこいやつで、浅黒く肉体労働系・チンピラ風の悪い意味で知性のなさそうな中年男性だった。彼が言うには、新しい契約者を増やして実績を上げなくてはならないらしく、そのためにはタダでもいいそうだ。しばらくしてから別の人が料金の請求に来たりだとか、タダとはいえ嫌な思いをした。おそらく、その3ヶ月終了直前に猛攻をかけるつもりだったのだろうが、ちょうど年末年始だったためずっと家を留守にしていたら来なくなった。もしかしたらその後も来ていたのかもしれないが、その頃は夜しか家にいなかったので会わなかったのかもしれない。あの手この手でとにかく扉を開けさせて話に持ち込み、しつこさで契約させようとする。他にも、「上の階の者ですが」というので開けたら「朝日新聞からビール券を預かった。後日契約の話に来る」という。その人が本当に上の階に住んでいる人かどうかは知らぬが、怪しいので受け取らなかったら帰った。「お届け物です」と言うので開けたら「この地区を担当する者ですが、**新聞からこれを」みたいな事を言いだしたのでやはり断った。居留守を使っているのに呼び鈴を何回も押してくるので不審に思い、扉の小穴から覗くと玄関の外に付いている電力消費計の回るやつ?を見ており、これだけ電気を使っているのだから中にいるだろうと推測しているようであった。
- その他にも職場の名前を出して「同僚の方の紹介で」みたいな事を言うマンション売りが自宅の電話・住所、さらにはごく一部の人にしか教えていないPHSの電話番号まで知っていてしつこく電話をかけてきたりする事があった。そういうのは意地でも断るし話も聞かない事にしているが、断るのも面倒だし気分も悪いし、個人情報がそういう悪質な会社に漏れるのは危険だ。そのためにはいくつか対策を取らねばならない。
- これは常識かもしれないが、知らない人が訪れても扉を開けない、居留守を使う。まともな相手や配達なら事前に何らかの連絡があるはずだし、今時の宅急便等は不在なら紙を置いてゆく。電話だったら、勧誘だとわかった途端に切る。これは今回前述のマンション売りの件で気づいたのだが、話をしてしまうと相手はとりつく島があると思って延々と喋ってくる。けんかになれば、相手も意地になるし、嫌がらせをしたりするかもしれない。貧乏根性で懸賞に応募して、そこから個人情報が売られている可能性もある。ビデオレンタル店、さらには量販店で「ポイントカード」と称して住所氏名等を書かせるものがあるが、そういうのから漏れていることも多いだろう。
- と、最近文句や批判ばっかりのこのHP、だがこういうスパイシーな思想になってしまうのは、そういう世界だからか、そういう性格からか。
2000.08.9 Wed 「スポーツ」は嫌いだ。
- 日本相撲協会、高野連、最近では日本水連の傲慢さが批判されている。この手のスポーツ団体はおそらくスポーツ選手のOB、しかもその世界ではある程度活躍したとされる人で構成されているであろう。スポーツ団体の構成員になるような人は、その世界に何十年もいてそこからの収入で生活しており、その構成員である限りこれからもその状態は続く。今までの自分のしたことを正当化するため、今後の自分の収入を確保するため、何を勘違いしたのかそのスポーツに貢献する事が名誉な事であり、自分は名誉ある人だと思ってしまう。
- スポーツというのは、実質的な意味を持たない遊びである。あるスポーツが上手だから何かの仕事において役に立つということは、それこそスポーツ関連の仕事でなければありえない。日本語では試合などというたいそうな言い回しをしているが英語ではゲーム、遊びである。遊びは単純で、その結果に意味はない。本来、勝っても得られるのは自己満足だけだ。
- スポーツで感動するということもある。スポーツは単純で、ほんの少し速く走ったり遠くに飛んだり、棒で玉をたたくのがうまかったりという事を競っているのである。そこに至るまでの過程がいかに複雑でも結果は単純であり、観客もその単純な結果しか観察しない。する方、みる方の双方が感動してしまう事があるのは、そういう無意味で単純な事が非常に重要であるかのように、自分の思考も単純化しているからである。勝っても自己満足だけのはずが、あたかもそれが重要な事であるかのように仕立て上げるために賞金をかけたりもする。しかし実質的には、幼児がそういう遊びに本気になるのと同次元である。
- そういう事を仕事にしていると、体を動かすのが本来だからあまり深くものを考えなくなり、思考が単純になり、本来の遊びである事を忘れ、傲慢になる。単純で傲慢な人間になる。人に教える場合も、教える人が単純な思考しかできないから合理的な教育ができず、精神主義的になり、師弟制度のように絶対服従の上下関係になりやすい。当然目下の人間を軽視する。OBであるスポーツ団体の構成員からすれば、現役の選手などは当然、自分に絶対服従すべきである。文句を言うなら圧力をかける。そういう都合のいい仕組みを作ってそこに安住している。現役スポーツ選手はその仕組みに組み込まれている。そうでないとゲームに参加できないようになっているからだ。そこから脱出するのは容易ではない。逆に、それをなんとか耐えれば、自分もまたOBとして君臨できる、悪循環である。スポーツ界にいる人全員がそうであるとは言えないが、その仕組みの中にいながら単純で傲慢にならないようにし、流れに逆らうのは非常に困難な事である。たとえできても、単純で意味のない事と理解していながら、そこに情熱を注ぐのもまた虚しい。
- そうならないようにする、そういう単純で傲慢な人と関わって不愉快な思いをしないためには、スポーツには遊びの範囲を超えて参加しない事である。観客としてならば、それが「ゲーム」である事を忘れない範囲で楽しむ。しかし皮肉な事に、観客はスポーツに感情移入しそれが重要であると感じ、のめり込めば込むほどに楽しいと感じてしまうものである。それでは楽しめない、それが全てであるほどに入り込みたいという人は、残念ながらもう単純で傲慢な人の仲間入りをしているのである。
- ニセモノはやめろ!2−ELGINもダメだ−
2000.08.1 Tue 夏
- 夏のようである。空は、日本もこんなだったのかと思うほど蒼く、空気は信じられないほど熱く、全身を包み込む。風景は濃淡がはっきりしすぎており、しかし明るい。こんな時、蒸し暑くて嫌になる前に、一瞬幸せを感じないか?何もなくても、これから仕事でも、ただそれだけの状況がいいと思わないか?でももし、このままそういう義務を捨ててこの状況を満喫できるなら、もっと幸せに違いない。このまま全身で夏を楽しめたら、子供の時のように、たとえ退屈でも、少なくとも夏という状況だけは十分に感じ取れたら、いいんじゃないかと今は思う。
- 当然かもしれないが、意外に平凡に日々は過ぎ、結局大した事はしていない。それにしても、「超常」などといいながら、全然普通の日記だ。
2000.07.31 Mon Mr.BIG
- 昨日、町田へ出かけた。抽象的表現は面倒なのでしないが、ジョルナでCD等を物色していたところ、もよおした。そのためその階のトイレに行くと、大の便器は1個で、しかも和式だった。私は常々、和式便所で用を足す事は屈辱と考えている。どれくらい屈辱かというと、帽子が飛ばされて落ちたところをヒップホップ系黒人に踏まれ、何やら楽しげに英語で喋って去っていった後、連れに聞くと彼は、さっき犬のうんこ踏んじゃったんだけどさぁ、と言ってたというくらいの屈辱だ。よって私はそのトイレを無視して別のを探しに行ったが、下の階も当然同様のトイレしかなく、しかも使用中だった。時間は14時、やや旬の頃だったのかもしれない。仕方なく屈辱を受け入れる姿勢でさっきのトイレに戻ると、使用中であった。しばらく待っても出てこない。こちらもそう余裕があるわけではないため1階ずつ下がってはトイレをチェックしたが、なんと全階使用中であった。くそぅジョルナ、貴様はここで用を足すなと言っているのだな、と隣の東急へ向かった。ここならしっかりしたデパート、糞もしない若者用の中規模店舗とは違うに違いないとトイレに向かったが、ここも大の便器は1つしかなく、やはり使用中であった。むぅ町田排便禁止地帯〜と思いながら上の階、しかし使用中。そろそろ血圧も上がり、結膜の血管も切れ始めようかという状態ながらさらに上の階へ。ここでようやく安楽の地を発見、しかも洋式だ。さすがデパートは違う。と、個室に入って孤独を味わうと、今度は何だか落ち着いてしまう。後から、こっちが入っているのはわかりきっているくせにせわしなく扉を叩く輩なども来たが、即刻こちらからも叩き返し撃退、こういう場合意地でも出るもんか、と待ち人の気配が消えてから悠々と個室を後にした。
- つまり、デパートですら1つの階に大便器は1つしか用意していないのである。1つの階に何百人何千人の客が来ようが、同時に便意を催していいのは1人だけなのだ、非情なり、そして何か貧しさすら感じる。そういう、削ってよいところはとことん削る、効率追求主義。デパートのような、ある程度余裕を感じさせる場所ですらそうだ。これが日本なのか。
2000.07.08 Sat 倉木麻衣は宇多田ヒカルのパクリである。
- 気がつくと、僕が腕時計に凝り始めてから1年近く経つ。そこで、これまでずーっと思っていたのは、ニセモノはやめろ!ということである。
- 僕は当初、初心者が陥りがちなパターンとして、ロレックスにしか興味がなかった。ごく当然の、スポーツロレックスである。エクスプローラー、サブマリーナー・シードゥエラー、仕方なくGMTマスター、憧れはデイトナである。しかし次の2点について考えた末、買わない事にした。というか、かなり無理しないと買えない事を防衛機制で正当化した。
- まず1つは、機能に対して値段が高すぎるという事である。こういう商品の場合、値段を高いと思うか安いと思うかはその個人の感情によるところが大きいけど、ロレックスはやっぱり高い。デザイン、防水性、堅牢、アフターサービスを考慮してもやっぱり高い。同じ機能の国産のと比べたら一桁くらい違うのではないか(自動巻きで比べると差は縮まるが)。もちろん、今後何十年経っても劣化しないネームバリュー、売っても値段がつくという事を考え、買値−売値で比較すれば、使っている期間の値段(その間威張れるという事も含めて)は国産の使い捨てとそれほど違いないかもしれないが、始めから飽きて売ることを考えて買うのもなんだか寂しい。一生使う気でいても、やっぱり売る時の値段が気になるという事は、国産との差額数十万円はブランドに対して払っているのである。モノそのものではなく、モノの背後霊であるブランドである。それがどうしても、結構ブランド好きではあるが、機能美みたいなものを追求する姿勢を一応保持したい自分としては、どうもしっくりこないのである。
- そういうわけで、値段が高くても売れるからニセモノがはびこる。100%機能で売ってる場合、機能が同じならニセモノもホンモノもない。ニセモノがあるという事は、商品価値としては機能でない部分が大きいということにもなる。いろいろ噂を聞くと、ロレックス専門店で買ってもニセモノをつかまされる可能性がある。日本ロレックスから卸される商品は少ないため、専門店でも並行輸入品がほとんどであり、そうなるとニセモノの可能性も出てくる。まず絶対本物という商品に出会うには、日本ロレックスから直に卸されているデパートで、つまり定価で買うしかない。しかし、スポーツロレックスなんかは品薄だからデパートでもあんまり売ってない。デパートで定価で買えればまだいいほうで、人気モデルは量販店や専門店でしか売っておらず、しかもデパートで売るはずの定価よりも高い、もしかしたらニセモノの可能性もある並行輸入品なのである。このへんを考えると、どうも気持ちよくモノが買えなくなってしまって、これが第2の理由である。もし後でニセモノと気づいたら、したり顔でそれを装着している俺の数年間の左腕はどうなってしまうのだろうか。
- で、最近数ヶ月思っているのは、ニセモノはやめろということである。ニセモノはそっくりに作ってあって、素人目には気づかない。よく雑誌では見分ける点が載っているけど、それは外見ですぐわかるニセモノについてであり、よくできたニセモノでは気づかない。もしかしたら、中身だけ違うという可能性もあり、やはりニセモノを完全に見分けるのは容易ではなく、そういう仕事でもしてないとわからないと思う。そしてもう一つ、マガイモノというのがある。それは主にスポーツロレックスに一見ずいぶん似ている時計であり、メーカー名とかモデル名の表示は全然違うから、すぐわかるのだけれども、ロレックス人気に乗っかった薄汚い商売である。その一例を挙げて、こきおろしてみる。
- PRO-LEXマガイモノの筆頭。ディーノとかいう、デイトナ似のやつを10万くらいで売っている。一応自動巻き。広告の説明がまた何ともいやらしく、いかにもデイトナと関係ありそうに、エキゾチックダイヤルがどうとか、ムーブメントがどうとか、全然下らない事をいかにもすごそうに書いてあって、読むだけで吐き気がしてくる。発売元はケントレーディングブレインという、ロレックスの新品・アンティークを扱っている店で、青山に店があるが、こういう品を作っている時点でこの店の商品も全部怪しい。自分なら、どんなに安くてもこの店でモノを買おうとは思わないし、安ければ安いだけ怪しい。実際は高いので、やっぱり買おうという気が起こらない。即刻やめて、潰れてくれ。
- ROYAL ACEこれはクォーツ・自動巻きがあり、値段は2万程度と安い。おそらく、その分作りは安っぽいのであろう。デイトナを中心に、エクスプローラーIマガイまである。あとデイトナ似でデイト付きのやつは、チュードルのクロノタイムのマガイモノであろうか、ご苦労な事である。広告には、前述のような下らない説明がウダウダ書いてないのはいいかもしれないが、マークまで王冠というのはやりすぎではないだろうか。裏では、本当のニセモノ(^_^;を作ってそうな雰囲気もある。文字盤の文字とマークをちょこっと変えればニセモノのできあがりだ。
- その他、雑誌に広告を出してないようなマガイモノも、いろんなモデルのがいっぱいある。大きなメーカーでも平気でこういう事をしていて、例えばオリエントスターは国産でありながら細々と堅実に自動巻き時計を作ってて好感を持っているが、ジャガーフォーカスというモデルは明らかにラドーのダイヤスターの真似である。ダイヤスターはいろいろな会社が真似てるようである。またセイコーではALBAのAKAの横長楕円のモデルは、70年代のオメガ・ダイナミックの真似である。こういうのは枚挙にいとまがないし、厳密に言えばキリがない。一般的なダイバーズウォッチは全部ロレックス・サブマリーナーの真似になってしまうかというと、そうでもない気もする。ただ、70年代に、当時の日本全体がしていたように海外の真似商品を作り、そういうノリで大手メーカーまでが今でもまだ作ってしまっているのである。こういうモノ作りをしちゃうのは日本人として恥ずかしくないのだろうか、こんなのは韓国・香港のノリである。時計のニセモノは、タレントに似た名前のAV女優なんかよりずっと質(たち)が悪い。ビデオ屋で本物のタレントが脱いでるのかと間違える奴はいないし、そんなにソックリではないが(この場合、時計と違って似ているほど消費者にとっては利益なのだが)、時計はもしかしたらド素人なら間違えて買うかもしれない(ないか)。もしくは、例えば人がしているのをチラッと見ただけでは間違えるかもしれない。元の商品を知らない人なら、ああいいデザインだなとその真似商品しか知らずに一生過ごしてしまうかもしれない。そういう間違えを期待して、こういう下らない商品を作る・知ってて買うというさもしい心が、僕はとても嫌いだ。
- そんなわけで、ひとたびロレックスを離れると、値段も安くていろいろ面白い時計があることに気づく。僕なんかは浮気性だから、そんなに高くなくて欲しい時計をどんどん買っちゃて、次々に付け替えるんだけど、そうなると逆に1本のロレックスをずっと大事に使う事はすごくうらやましい。人それぞれに、自分にあった時計とのつきあい方があって然るべきと思うので、前述のニセモノ・マガイモノをつかまなければ、何をしててもいいと思う。
- 尚、自分は明日「人生の墓場」に行って来ます。無事帰って来れたら、またよろしくです。
2000.06.17 Sat スポット参戦
- ピンチヒッター的任務で横浜へ赴いた。昨日は二俣川、今日は天王町である。横浜の外れらしい、薄汚く面白みに欠ける町並みには、午前中のどんよりとした曇りがたいへん似合っており、かつ夏を予感させる適度な気温と高めの湿度で、快晴と違って外出しなくてはならないという強迫観念に迫られることなく、自由でいられた。なんて思っていると帰りには雨になり、濡れて帰った。
- 最近読んだ本。
- バトルロワイヤル/太田出版。中学生の1クラスが、武器を与えられて1人が生き残るまで殺し合うというゲーム。残酷とシニカルの中に人間が見える。感動はないがのめりこめる。
- 飛翔せよ、閃光の虚空(そら)へ!<スコーリア戦記>/キャサリン・アサロ、ハヤカワ文庫。僕はSFはまず書評を見て買うという保守派だが、たまに衝動買いで当たりもある。前回はバーチャル・ガール/エイミー・トムスン(だっけ?)。今回は古本屋で(100円だった)ジャケ買いならぬ表紙イラスト(山下しゅんや)買いという恥ずかしいパターン。タイトルはロマンチストに過ぎるが、PRIMARY INVERSIONをどう訳すとこうなるのか。主人公は48歳だが見た目は10代(イラストより想像)の女の子、王位継承者で特殊部隊勤務、精神感応戦闘機パイロットでテレパス。それがスペースオペラ、人の苦しみを快楽と感じるサディスト人種と戦ってという、ややできすぎた感のあるお話、だが星界の紋章よりかはハードSF味がする。個人的には、中でもテレパスのあたりが興味深く、このシリーズ自体今後有名になってきそう。作者女性、かつ主人公も中年女性で実に正直で素直で人間味あふれる心理描写がよい。良い意味で女性的。で主人公、見た目も中年という設定だったら読まないのだが、都合良すぎる事に老化しない処置なるものがあり、ジャックインしちゃったり戦闘しちゃったりするところがまたくすぐられる。精神年齢が高くても、見た目が若ければ許しちゃう。むしろその違和感が面白そう。現実的にはややそういう人もいるけど、やっぱり病的な外見になっちゃうから残念。
- そういえば、この日記は超常現象について語るつもりだったが、ネタがないため普通の日記となっている。つまりそういうことなのです。
2000.05.31 Wed dead by dawn
- あなたは癌ですよ、というとたいていの人はショックを受け、落ち込む。放っておくとその後の反応はまちまちで、落ち込んだままみるみる衰弱していってそのまま死ぬ人もいれば、なんとかそれを治そうと、残酷なようだが客観的にみて無駄と思われるような事をしまくってやや状況を混乱させる人、なんとかそのことを忘れようと何も知らないような態度をとる人。どうするのも自由だしこっちは関係ない、といいたいところだが、嫌でもそれにつき合わされる方としては、できれば精神的にも安定していてほしいし、悩み苦しむ人の相手はしたくない。というわけで、実はそれって、それほど困った事ではないんじゃないかと思ってくれると都合いい。
- ええ?!自分が癌になるなんて考えてもいなかった、という言い訳が許されるのはせめて60歳以前の人だけだと思う。60歳過ぎたらもう自分でもわかっていると思うけど明らかに老化していて、癌なんてどこにできてもおかしくないと思っていて欲しいのだが、なかなか自分だけは大丈夫だろうという脆い楽観主義者が多い。どうせ楽観主義ならば死ぬ直前まで大したことないな、と大きく構えててもいいもんだろう。いや、死ぬことすら大したことではないのだ。
- 癌になってなんで困るのかというと、あなたは癌です=もうすぐ死にます、ということだからだと思う。もちろん、それまでに苦しむのは誰だって嫌だ。それは文章や理屈でどう説明されても、誰もが納得し否定できない一般的な考え方である。洗脳的宗教か何かだったら、もしかしたら苦しむのも嫌じゃないというふうに思えるようにできるかもしれないが、たいていの場合そうなると他のことでも全部おかしな考え方をするようになっちゃって、やっぱり周囲と良好な関係を維持できなくなるから困る。しかし、実はそれほどは苦しむ事はないし、あんまり苦しいなら薬で眠ってしまえばいい。だから苦しむのが嫌だから死ぬのが嫌だ、という事は、あまり考えなくていい。困るとすれば、やはり自分だけがもうすぐ死ぬということだろう。
- なぜ、もうすぐ死ぬのが嫌かといえば、多くはまだやり残した事があるから・今の楽しい生活が終わるのが嫌だ、ということになろうか。例えば60歳を過ぎてもやり残した事があるというのは、今まで相当その「やり残したこと」を取っておいてしまったか、その事をやるのに能率が悪かったか、もしくはやりたい事が多すぎる欲張りさんだったということになる。それはいずれもその人の自由だから全然かまわないのだが、客観的に考えれば、60歳を過ぎてもやり残したことがあるから死ぬのは嫌だ、というのはやや当人の自分勝手な言い訳に聞こえる。今の楽しい生活が終わるのが嫌だ、というのは、おそらく相当運がよくない限り、生活の中で楽しい事しか見てない・考えていない・認識していなかったのではないか。もし世の中の楽しい事も嫌なことも全部認識するようにしたとしたら、おそらくは楽しい事と嫌な事を総合すると普通の事、程度のゼロに近いところになると思う。否、楽しい苦しいと考えるのは自分の気持ち次第なわけで、客観的になればなるほど事実は事実であって、楽しいも楽しくないも後から当人が考えただけのこと、ということがわかる。死は当人にとっては全てが無くなる事、ゼロになる事なので、トータルで考えれば死んでもそれほどは変わらないということになる。もしくは、自分が死ぬ事で無くなる程度のハッピーならば、それは大したハッピーではないから死んでゼロになっても大して変わらないのではないか。あと、前述の「自分が死ぬなんて考えてもみなかった」というのもそうだけど、それも楽しい事しか考えないという主観的な見方しかしてなかったのではないか、というツッコミの余地がある。それで今になって不幸がる事には、あまり正当性を感じない。
- また、癌告知=死の宣告、というのが1つの真実であるとするならば、癌告知=死に方を教えてもらった、とも考えられる。これはそこらの占いよりもよっぽど正確で、例えばこの状態だとあなたはおそらく1年もちませんよとか、およそだが具体的に教えてもらえる。今一見健康に見える人はまるで私は(まだまだ)死にはしないよという顔をしているが、例外なく全ての人はいつか死ぬ。しかも、そのうち癌告知されれない人は、皆自分がいつ死ぬか、自分でも意識しないまま急に死んでしまうかもしれないのに、そんな事は知らずに暮らしているのである。もちろん癌告知されてから別の原因で死ぬ事もあるが、そんなのは確率的に言って無視できる。一般的に言って癌は徐々に進行するものだから、そうとわかってから死ぬまである程度の期間がある。もし身辺整理などしておきたい、まだちょっとやりたい事があるという人はその間にできるのである。都合の悪い物を隠すのもいいし、世直しと称して、もしくは自己満足のためにどうせ死ぬんだと無茶をしてもいいかもしれない。場合によっては合法的に麻薬を使ってたりするから、なおさら怖いものなしだ。今まで何十年も生きてきたのだから、あと1年があと1日になったって大して変わらない。将来を考えなくてもいい身分というのは、世の中にそうはいない。そういうある種、純粋に今だけを生きられる人になったと考えてもいい。それなのに、もうすぐ死ぬ死ぬと最終到達点が近いという事しか考えないのは、ちょっと考えが狭すぎやしないか。そうしている間に、効くとも効かぬともつかぬ(ならいいが、時に全然効かない)治療のために入院して残り少ない時間を浪費してしまうのは勿体ない。寝たきりの期間は、これは人にもよるけど生きていてもあまり意味無いから、そういう期間を延ばしても仕方ない、今よい生活を送る事を考えて、本当に治療を受けるべきか考えよう。助からない癌とわかったら即退院、以後苦しくなければ、死ぬまで病院なんて行かないというのもお薦めだ。どうせちょっと治したって、しばらくすればみんな灰になっちゃうんだから。
- ということで、最期くらい諦めよく潔よく死んで欲しい。どうせ死ねばすぐみんな忘れちゃうし、忘れられた事さえ認識できないんだから。尚、死後の世界を信じるならばこの限りではないが、死後の世界があればそもそも死を恐れる必要はない。
2000.05.22 Mon duty(**)
- ***胃が痛くなり、ガスターをのんで、たばこを吸って寝た。遠くで、救急車のサイレンが聞こえた。
2000.05.21 Sun Don't be anxious.
- 人はなぜ心配するのか。心配とは心にかけて思いわずらうこと、不安に思うこととある。誰かを心配する場合、相手、状況、自分の三者が関係する。まずは相手と自分の関係があり、相手を心配するには、相手に対し感情移入している必要がある。他人や共感できない人はどうなろうと心配ではないし、相手をよく思ってなければ、むしろ心配すべき状況を望んだりする。
- それから、相手と状況の関係がある。相手の能力とそのおかれた状況から総合的にみて、相手が不利な状況にあると判断する場合に心配は起こる。この判断は必ずしも客観的ではなく、例えば親は自分の子供が幼く非常に能力の低いときから連続的に観察しているため、子供の能力を過小評価しがちである。また人一倍感情移入しているから、親は子を心配しやすい。相手の能力の査定には、相手への信頼も関与し、相手を信頼していなければ相手の能力を過小評価する。
- 自分と状況も関係し、相手が不利な状況にあり、それで状況から自分に害が及ぶとなるとやはり心配する。自分の事を心配する場合、この相手というのが自分になり、より単純に自分と状況の関係になる。楽天的な人は自分の能力を過大評価するか、状況から自分が受ける害を過小評価している。悲観的な人というのはこの逆である。
- 心配される事は、時として煩わしいと感じる。その最大の要因は相手と自分との関係であり、普段から煩わしければ心配されればもっと煩わしい。また心配されるという事は状況と照らし合わせて自分の能力が低く査定されているという事であり、あまり信頼もされてないという事になるため、これも煩わしいと思う要因である。また、低い能力と思われている自分が失敗して相手に害が及ぶ事を相手が恐れていると感じれば、そこに相手の保身の感情が見えてきて、それが前面に出ていたらそれも煩わしいであろう。
- 世間全般では、おそらく不要な心配が多いと思う。杞憂という。心配というのはあまり気持ちのよい感情ではないから、不要ならしないに越したことはない。それを減らすには、感情移入しすぎず客観的な判断、そして相手を信頼することが必要である。何も信頼できなければ、全てが心配になる。それから、自分が受けるかもしれない害というのを、恐れすぎない事である。
2000.05.20 Sat I want to be voluntary.
- 人の行動は、自発的・自動的な行動と他動的・強制的な行動の2つに分ける事ができる。自らやりたい事をするのが自発的な行動、他人や状況により仕方なくするのが他動的な行動である。多くの成人は仕事があり、多くの仕事は好きでやっているというよりも自分の生活レベルを維持するために仕方なくやっている他動的な行動である場合がほとんどである。むしろ、自発的な行動も仕事になると他動的な行動になってしまうくらいである。普通はこの他動的な行動のために、一日の時間の半分近く、下手するともっと多くの時間を費やしている。睡眠時間は自発的とも他動的ともいえる。個人差もあるが6〜7時間は肉体が要求するため他動的に休息させられる。この時間を削って自発的な行動に使用したり、もしくは仕事など別の他動的な行動に使用させられたりもして、人は肉体・精神両面の疲労を蓄積したりする。
- 人が集まって社会を形成し、仕事の専門化により効率を上げたのは、おそらく当初は食べ物を探す事を始めとした他動的な行動の時間を節約するためであったと考えられるが、現在では逆に仕事、ひいては社会の要求により他動的な時間が増えてしまい、あたかもその他動的な時間を過ごすために生きているような人もいる。そのようにして他動的な時間を増やしている人の中には、それは社会に貢献している良い事だという言い訳も聞かれるが、それは「自分を除いた」社会のためであって、もともとの他動的な時間の意義とは異なっている。もしくは、自発的な時間の使用法がわからないから無意識に他動的な時間を増やしているのかもしれない。
- 人生を楽しむ事を一番の目標とするならば、それには2つの方法があり、1つは他動的な時間を減らして自発的な時間を増やす、もう1つは他動的な時間を楽しむ、ことである。まず前者は、他動的な時間を減らすには社会において都合の良い位置に存在する必要がある。もし社会を捨てて一人で生活していくことになると、自給自足となり、それではどうしてもある一定の他動的な時間が必要となる。また社会ができたのが効率化のためであることを考えれば、これはあまりいい方法ではない。となると社会において都合のよい位置に存在するというのは、あまり仕事をしなくても生活できるという事で、財産か権力のいずれかが必要となる。現代日本においてはフリーターなどの仕事を選べば他動的な時間をかなり減らしてもある一定の生活レベルを維持できるが、その状態が何十年も続く保証はなく、何十年後に生活レベルが維持できなくなった場合には他人か社会に頼って生きる事になり、社会の効率化のためにはいない方がいい人となる。フリーターというのは人生の賭である。より確実な方法となるとやはり財産か権力が必要で、いずれも先天的に与えられている場合と、後天的に得る場合がある。後天的に得るには、効率的に行ったとしてもある程度の他動的な時間を費やす必要があり、それにより得られる自発的な時間とそれのために費やした他動的な時間を天秤にかけると、もしかしたらそれは大した違いはないかもしれない。ただ財産か権力を得る事は自己満足は満たすかもしれない。後天的に財産か権力を得るにはある程度の能力が必要で、その能力というのは先天的な財産・権力と等価である。つまり裕福な家庭に生まれるという事も、能力の一つである。能力一つでもいろいろな種類があり、つまり人間は生まれた段階において既に平等ではない。全ての人に、その能力を発揮する機会を与える事が社会の目指す平等であり、能力のない人がそれなりの生活レベルしか維持できない事は当然の結果であって、むしろ全ての人が同じ生活レベルである方が平等ではないといえる。
- 自発的な時間の増やし方に戻れば、つまり自発的な時間を増やすには能力が必要である。もう一つ、他動的な時間を楽しむには、仕方なくやる事を楽しむという一種の矛盾を包含することになり、普通とちょっと違った考え方が必要となる。悟ると全ての事が素晴らしく感じるらしいが、そんな事でもない限り他動的な時間はその定義からしても、楽しむ事はできない。
- さて、幸いにも能力があって財産か権力を得て自発的な時間にそれらを使う段階になったとする。財産なら使おうが増やそうがそれほど他人に迷惑をかけないが、権力は他者に影響する力であるから、他人に有害な場合もある。最もストイックに考えれば、自分の力の及んでよい範囲は自分のみである。言い換えれば、他者の行動には干渉しないという事である。しかし権力を行使して他者を動かすとなると、それによる影響は自分の範囲を超えるので、例えば責任が取れるかというと疑問である。厳密に考えれば、権力を行使する事は取り返しの付かない悪影響を与える可能性のある賭である。逆に他者に良い影響を与え、感謝される事もある。権力にブレーキをかけるのは自分・自制か、もしくはより強い権力だけである。それゆえ、もし悪人になりたくなければ、権力を使って他者に影響するときには、それが他者およびその他にとって本当に良い影響を与えるものなのか、非常に注意しなくてはならない。もし悪人になってもよければ、使いたい放題権力を使えばいい。
- 関係ないが、とうとう逮捕された>法源。最高ですかーっ
2000.04.30 Sun ゲーリーヤマモト
- 夕食後3時間くらいから下痢と腹痛におそわれた。そういう場合よく「何か悪いものでも食べたのではないか」と言われる事が多いが、それは実は文字通り当たっている事が多い。というのは、素人ながら少々調べたところによると、発症後2週間以内の下痢は急性下痢とされるが、その原因としては感染性下痢が最も多いらしい。吐いてしまうとか、熱があるとかだとさらにその可能性が高い。下痢の原因をいろいろ調べてもわかるのは60%程度で、残りは原因不明というから原因がはっきりしない事が多いが、でもやっぱりウイルスとか細菌とかによる下痢が多いらしい。それはいわゆる食あたりであって細菌が増殖している食物を食べたか、細菌が増殖して作られた毒素の入った食物を食べた(この場合加熱は無効のこともある)、ウイルスに感染して風邪症状を起こすのと同様にand/or下痢になる場合がある。
- こうなってしまったら、基本的には自然におさまるのを待つしかない。例えばブドウ球菌による下痢の場合、早ければ食べてから30分で症状が出てくるけれども半日も経てば自然に治ってしまう。感染性下痢の場合、特に細菌によるものだと細菌やその毒素を早く体外に出そうとして腸管の蠕動が亢進して下痢となっている為、その下痢は止めない方がいい。だから止瀉薬は飲まない方がよいと思われる。ただ、ビオフェルミンみたいな、腸管内の良い細菌を増やす薬は飲んだ方がいい。抗生物質は基本的には必要ないけれど、場合によっては飲んだ方が早く治るかもしれない。症状がひどければ食事は控えた方がいいけれども、下痢が続くと水分が失われるため白湯とかお茶みたいなもの、またスポーツドリンクみたいにイオンが入ってて吸収のよい飲み物は飲んだ方がいい。
- しかし例えば海外旅行帰りだとか、何日も治らないとか、血便がひどいとか、飲み食いできなくて脱水になっているとか、その他おかしな症状があるとかだったら病院へ行った方がいい。でも病院で普通そういう場合にしてもらえるのは、脱水補給の点滴だとか、念のための抗生物質だとか、やっぱりビオフェルミンみたいな薬とか、あんまり腹痛や嘔吐がひどければ一時しのぎの注射とか、もしかしたら便を取って細菌を調べるかもしれない。そんな程度で、最も良い治療は時間がしてくれると思う。
- いわゆる食あたりは上記の通りだけれど、症状はそれほどではないけれどもしょっちゅう下痢するとか、便秘と下痢を繰り返すとか、緊張した時など精神的な変化で下痢するとかいう場合は別の病気と考える。精神的な影響と体質によるもので、これは根本的な治療法はないけれど、リラックスして生活するのが(もしできればだが)いちばんいい治療だと思う。
- 以上、素人なりに調べた事を書いてみました。よくわかってないくせにこういう情報を流すというのはあまりいい事じゃないかもしれないけれど、たまには実用的な情報もよいのではないかと思って。因みに、今日の夕食は回転寿司でした。みなさんも気をつけましょう。
2000.01.26 Wed ホビーに首ったけ
- 僕は一度に(というかある期間には)一つの事にしか集中できないという事は以前も書いたけど、それではその終わってしまったマイブームはどういう風に扱われているかを考えてみた。
- 魚(8〜19歳)小学生くらいの時から釣りも飼うのも、川魚も熱帯魚も、まず淡水魚に限っては好きだった。エビも貝も好きだから、いろいろ飼ってたけど、やっぱりマイブームが去ってからは世話が億劫になり、杜撰(ずさん)な管理がたたってほぼ全滅。魚飼うのは、本当に何年間も手間をかける覚悟ができてないとだめだと悟った。あたりまえの事だけど、途中で管理できなくなって、川に放したり全滅したりする人は、生き物を飼う資格がない。趣味としては、世話してる以外はその魚を見たり調べたりするしかないから、例えば他の、1日に何時間もうちこむといった趣味とは違った気の長さが必要。それができなければ、釣りで一時的に魚を相手にするのが便利。それを含めるならばまだ続いているといえる。僕が魚や水場が好きなのは、きっと僕が水の精霊と関係あるからではないかという気がしてならない。
- パソコン(15歳〜25歳)中学2年の時に、憧れのPC-88(PC-8801mk2FR)を買って(もらって)からで、しばらくは88〜98とゲームばかりしていたが、ゲーセン系のアクションは全然駄目で、RPGかシミュレーションをこつこつやってた。そのうち+オタク+ロリなため、当然エロゲーにはしるも、5年程度で(長いか)やはり熱が冷める。サターンもプレステもやったけど、元をとるほどにはやりこんでない消化不良感が強い。今はパソコンはほとんど実用性のある用途にしか使っておらず、以前ように(大した事はできないが)いじくっていた時が懐かしい、けど面倒だから今はそれほどやりこまない。
- 漫画(15〜26歳)当然漫画は沢山持ってたし、一通り買い集めて持っておくのも趣味だからお金もかけたし場所もとった。当然前述の如くエロマンガにはしり500冊くらい?は所有してたりいろいろ分析したりして、一時は趣味の中心にもなってたけど、不思議と自然に冷めてきてほとんど売ってしまった。「オタク」ともほとんど同義だけど、今になってみるとこの趣味で今でも良かったと思えるのは、普通に暮らしていたらできないような友達ができたという事くらいで、エロマンガにはいくら情熱を注ぎ込んでも今となっては何も残っていない。
- アニメ(15〜24歳)アニメについては、初期にはわりと純粋にテーマのある作品を好んでいたと思う。「ダーティペア」に始まり(これはあまり意味ないが)、「ガルフォース」、宮崎駿系等々。「ナディア」、「セーラームーン」、「天地無用」、このへんからオタク的な見方になってきて、いろいろ小さなちょっと面白いのはあったけど「エヴァ」で強制終了かけられてしまった気がする。ある意味、オタク的にも作品的にもこれを越える衝撃はもう受けないだろう、というのもあってか、上記の趣味のように趣味そのものの寿命か、もうアニメを見ようという気がほとんど起こらない。アニメについては後半は美少女系が中心となって、理想的な女の子を見つけて自分の中のイメージとして接するという見方になってきてたけど、最後にはその非現実な理想的美少女を追うのが意味ないという事に無意識のうちに気がついて、冷めてしまったんだと思う。こういのは歳をとってからハマる方が抜けにくくなる。それはきっと加齢に伴い考えが保守的で変わらなくなってくるからだと思う。そこから抜け出す勇気も、次のものを見つける気力もなくなるし。だからそういう風にならないためには、若いうちにいろいろやって卒業しておくか、歳をとっても考えが固まらないように柔軟に生きる必要がある。もちろん、中年になってもジジイになってもアニメロリコン美少女マンガ同人誌フィギュアグッズコスプレ〜でいいという人は、それを否定できないが、歳をとってからそういう「非現実なものに情熱を注いで何か得るものがあるのだろうか」という空虚な現実に直面したくはない。
- 長くなってしまったのでとりあえずこれだけ挙げる。これだと現在は全くうちこむものが無いみたいだけど、少しはある。が、以前のようにうちこむものは無い。たぶん就職してから、そっちに時間と情熱が取られているからだと思う。それは悪いことではないけれど、自分の好きでやってる趣味と比べたら仕事はやらされている面が多いので、自由にうちこむ事が少ないのは残念だ。
- 今までの趣味は全部モノ相手だけど、仕事も趣味も人相手だと、もちろん得られるものも多いけど相手の都合に左右されるぶん、うまくいかない事も多い。例えるならば不確実なギャンブルみたいなもので、楽しい時もあれば、楽しめない時もある。それに比べたら、上記のモノ相手の趣味は断然確実だ。自分の全部の時間を充実させたいと思うなら、人相手の趣味・仕事の合間にできるモノ相手の趣味も、少しは持っておいた方がいい。
- と、今日はモノ相手をやってみた。でもその先には、人がいる。(と思う。誰かこのページを見てれば)。
2000.04.23 Sun マイカー
- 洗車した。この歳、安月給といえど就職してしまうと暇もないし、洗車したといってもスタンドに頼んだだけだけど。確かにキレイになったが、もともと十円パンチされてちゃんと直してない車なので、あまり意味がない気もする。しかも、なんだか今日は16号関係の渋滞に巻き込まれて、せっかくの休日を6時間くらいノロノロ運転とガソリンの無駄使いをさせられてしまった。これから、混んでそうな時は電車という選択枝も考えるべきである。カーナビがあれば、よりその無駄を避ける事ができそうである。
- 自分のは初期型プリメーラ、機能的には全く不満がないが、格好はあまり特徴なく、決して良いとは言えない。ヨーロッパ車風だけど、風ということは真似であって、アウディだかオペルだかそこいらへんの真似っこといえばそれまでである。真似だから価値がないかというと、むしろこっちの方が便利なんだけど、どっちかといえばその外車の方がいいに決まっている。それはオリジナルの方がいいからか、欧米崇拝的な意識からくるものかわからない。僕は意味のない見栄というか意地をはりたがる性質なので、オリジナル至上主義はあるかもしれない。例えば、なぜか以前900SSに乗っちゃってたため、どう考えても「意識した」と言うにはあまりにコピーに近いTRX(だっけ?ヤマハの850ccくらいのツイン)には全然乗りたくない。ポケモンはなるほどそうかいと思うけど、デジモンアドベンチャーは何それ?と疑念を抱いてしまう。そういう事に正当性はあるかというと、現実的には性能のいいコピーだったとしたらそれを嫌う理由はないが、あえて言うならば真似して作ろうと考えた制作者の心意気がさもしいから好きになれないという主観的理由だけである。
- それでは欧米至上主義はというと、これは戦前の鬼畜米英から敗戦した途端に欧米崇拝に鞍替えしてしまう変わり身の早い日本人特有のもので、同じような車でも国産車より外車の方がステータスがあり、同じ性能でも外車は高くて当然というのは、いかにも貧しい日本人的発想である。例えばマンションの名前で外来語なしなんて普通はないように、横文字の方がカッコいい等の認識もすっかり定着してしまっているし、やはり外車=高級というイメージはあたりまえの事で、ほとんどの人に欧米崇拝意識は根付いてしまっているといえる。かといって反米反ソを掲げて暴力団まがいの事をしている国粋主義・右翼の人たちに正当性はあるかというと、あれも日本が最高じゃないと不安で仕方ないから天皇家とかいう「象徴」だけで実体ない起源不明の人たちを奉ったり軍国主義のまねごとをしたりしている不安神経症患者であって、むしろ人に迷惑をかけるぶん質が悪い。また、戸塚ヨットスクールなる、保護者に放棄された未成年をヨットに乗せたりたたき落としたり殺したりする監禁施設を作って捕まった戸塚宏という人間が、トヨタみたいな会社が外貨を稼いでくれるから日本はやっていけるのだ的な事を言っていて、つまり日本のためを思えば日本の製品を買わねばならないというような事につながる意図の発言と思うが、それもなんだか選択の自由がなくて盲目的で、やっぱり視野が日本国内および自分の生活にしか及んでいなくて貧しい時代の発想であると思う。(そもそも戸塚宏などという教育者気取りの殺人者の発言を真に受ける必要がなかったかもしれない)
- 以上より、僕がアウディを欲しくなったとしたらそれには2つも理由があるわけだか、最終的にはお金がないという最大の理由において、車を買うなどという計画は阻止されたのであった。
2000.04.16 Sun The Scene Changes.
- 気がつけば3ヶ月もあいてしまった。この間に大きな事があったかといえば、あるようで、ないような。
- 自分、多趣味かと思っていたが、実はほとんど一度に1つの事にしか集中できないという事に今頃気づいた。余裕がなくていろいろな事を同時に集中して進めていくような容量がないのかもしれないし、それほど器用でも能率的でもないのかもしれない。と思って、ページもシンプルにした。パソコンもノート1台になったけど、以前のように3台もあってもほとんど使わないし、手伝って組んでもらったデスクトップもなんか調子悪くなって引退。再生させるというほどでもないし、これでいいんだと思う。そういういろいろの変化を思うと、ここ数年で変わったんだと思う。自分は変わらない人間だと思ってたので、それが変わってしまったということは今後も変わるということで、気がつけばおやじ、気がつけばじじいになって昔のことを夢のように感じつつ死んでいくと思うとぞっとする。こういう流れに逆らう方法としては、無意識に時間を浪費するのではなく、意識的に現時点でできることをしてゆく必要がある。でも意識しすぎるとストレスになり胃が痛くなるので、そこそこにしておこう。
2000.01.22 Sat ムーディー・ブルース
- 人は誰でも幸福になりたい。これについては、ほとんど例外はないと思う。ある意味、生きる目的ともいえる。幸福になるという事は、幸福な気分になる、という事である。幸福な気分になるには、現実の状況はあまり関係がない。普通は自分の生まれ育った環境や現在を標準ととらえ、相対的にそこからどうなったかで幸福かどうかを判断し、そう感じている。しかしその判断は流動的で、例えばいい気分の時は世の中は素晴らしいものと感じ、悪い気分の時は世の中はなんて汚く生きにくいのだろう、と感じる。同じ事が起こっても、いい気分の時は何とも感じないが、悪い気分の時はより悪い気分になる。幸福になるには必ずしも現在の生活水準を上げたり、幸福な事が起こる必要はなく、自分が幸福な気分でいられるように心を操れればいい。
- と、言うのは簡単だが、気分の悪い時は考えても悪い方にしか進まないし、現在の気分を冷静に判断する余裕もない。そのために宗教や精神世界、人生訓のような一定の思考パターンや、趣味や仕事に没頭するといった方法が存在し、そういう時はただそのパターン通りにしていれば最悪の状態からは脱出できる。ただし、その方法があまり良くないと、ある程度以上気分がよくならなかったり、その方法を実行するために現実の状態を悪化させたりする。
- つまり、幸福になるには良い思考パターンを持ったり、さらに自由に自分の気分を操れるようになったり、何が起こってもそれを不幸と感じないくらいある種鈍感な心を持つ必要がある。
2000.01.19 Wed カー
- 2日連続で777ナンバーの車を見た。だからどうという事はないが、どうも自分の場合、ゾロ目とかそういうナンバーは連続的に見る事が多い。確率的には均等に分布しているハズだが、連続する事も確率としては低いが、ある。確率的に高い事しか起こらない確率というのは、却って低いかもしれない。
- いきなり更新が遅れているが、この構成だとこれくらいの更新ペースでないと、読み込みが遅くなる。それに、いちばん古い日記がいちばん上というのも、どんなものか。
2000.01.02 Sun 正月
- 正月とはいえ、最近はどこの店も開いている。盆暮れ正月の特異性というものは希薄化しており、時間の平坦化・定常化が進んでいるといえる。ちなみに、自分のような人間はそういう場合に使われてしまう。
- さらに言えば、より時間の経過に対し緻密になれば、あるできごとに対しより認識を深め、より対応できるようになる。例えば、
何かにぶつかった→花瓶が落ちた
という経過に対し、緻密になれば
何かにぶつかった→花瓶がずれた→花瓶が落ちそうだ→落ちないように支えた
というような対応が可能になる。あらゆる作業の能率も上がる。そのためには、おそらく無意識の行動をやめ、あらゆる行動を意識的に行うようにする。そうすると、鍛えれば睡眠中も意識を保てるというが、自分はそれ以前の常に意識を持つ、という段階がすでに困難だ。
- 2000.01.01 Sat 活動開始宣言
- 旧・***は本日より***として新規活動開始する事となった。
- しっかり、ついてこいよ (C)法源
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