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思ったこと2003    2003.4〜2003.12


032:また年末
今年も気がつくとあとわずか。という事をここ15年くらいしている。ちなみに生まれて始めの15年くらいは、そういう事にすら気づいていなかかった。
今年1年、いやもっとなのだが、特に今年はなんか熱中する事があまりなかった気がする。ということは非特異的な生き方をしていた。すなわち履歴書の趣味の欄に「読書、音楽鑑賞、映画鑑賞」と書いてしまうようなつまらない人間であったということだ。これがつまらない人間かどうかはさておき、僕が自分でつまらなかった事だけは確かだ。
つまらないということは、積極的に悲しいとか辛いという事もないが、そこはかとない薄いが広い寂しさや閉塞感、そぞろ息苦しさを伴う。おそらく鬱状態という程ではないし、本格鬱orヒッキーからすると全然アクティブなのだが、それでも、一応体力もアクティビティもそこそこにありながら、それを使用する対象がないという不完全燃焼感は、なかなかのものだ。
すべき事というのはある。厳密には、生物に使命などない、ただ生きるだけだ、という事になるのだが、した方が自分にもまわりにも良い(一般的な意味で)という事はあるが、そういう事はどうもやる気が起きない。どうでもいいが、いやできればやらない方が金銭面他で良いが、いやもっと言えばやる事で多少なりとも他の人が迷惑を被る、それでも自分が楽しい事というのが、本当のやりたい事である。そういう事があまりない。全然無いわけではないが、そのまわりの迷惑等を考えてしまうので動けない。これが、歳を取るという事なのか。
ほら、そら寒いような薄悲しさを伴うでしょ?


031:プチ読書評
「死体洗いのアルバイト」坂木俊公/イースト・プレス
「医学都市伝説」というHPの内容をまとめた本。著者は精神科医で、タイトル通り、医者のくせに下世話な医学・健康関係の噂、常識、都市伝説等を紹介してコメントする。自分のように怪談やこの手の噂が好きな奴からするとなかなか面白い所もあるが、こういう”特殊な職業の人が一般人にやや特殊な情報を流す”本というのは安易すぎる気がするが。そして、HP作ったりこういう本を書くというのは、やはりこの精神科医は暇なのか、それともそういう事に熱心なのか。



030:地域差別
ふと疑問に思うことがある。なぜ2ch等で埼玉がバカにされるのだろうか。たしかに、埼玉に住んでます、よりも東京に住んでます、の方が聞こえがいい。若い人の共通認識として、出身地や現住所や職場や大学その他の格付けとしては東京>>>神奈川>埼玉・千葉>その他北関東、だと思う。
でも老人に聞いてみてわかったのだが、この認識はどうも若い人の間だけで一般的であり、高齢者では別にそういう格付けをあまり意識してないらしい。被差別部落でさえ無ければよいといった程度である。
これらの原因として考えられるのは、今の若い世代における郷土意識の希薄化であると思う。自分の生まれ育ったふるさと、出身地を大切に思わず、多くは東京などの都会や、また外国(ほとんどアメリカだが)が良いという考えを持つ。現代では、生活において人間関係よりも情報やモノが重要視され、それらが豊富な都会が高級で、田舎が低級であるという考えからだ。そしてそれが自分だけの考えでなく、一般的にそうなのだと勘違いする。そうすると、相対的にその高級だと思う地域以外を卑下する。
しかし、こういう傾向は不自然である。郷里や祖国を懐かしく大切に思うのは自然な感情である。そこで生まれ育って、その環境に適応して生きてきたからだ。自分の郷里や祖国以外を卑下するのは確かに良いことではないが、”お国自慢”といった程度ならまだほほえましい、許容範囲内の事である。都会や外国を崇拝して移住するのは構わないが、それは勝手にその人が憧れているだけであり、客観的にみれば移住者・外来者・ヨソモノであり、そこの地元からすると実体の伴わないものである。そしてその新しい環境に適応するまでは良いが、中にはかつて自分がいた地域や、その移住地以外を卑下する者が現れる。これは根拠のない誤りである。
例を挙げると、地方出身者で東京に移住してきた者ほど埼玉・千葉やその他田舎を馬鹿にする。アメリカにちょいと留学したりして慣れてしまうとアメリカマンセーとなり、日本を批判する(が永住権は取れない)。こういうのは実にカッコ悪いからやめてほしい。
・先祖の土地ではいつも胸を張って歩け。(アラブの格言)


029:また空虚になった。
書評コーナーみたいになってきたが、ネタが無いということか。
「セックスとニューヨーク」キャンディス・ブシュネル/ハヤカワ文庫NF
今時の(といってもあちらでは既にTVドラマになっている。もう初出から10年経ってる)NYにおける中〜上流階級の30代以降の男女の男女関係を中心とした雑多な生活描写。貧乏人、安サラリーマンは登場しない。女はモデルやバリバリのキャリアウーマン、で結婚せず30代後半になってどうしようかしら、みたいなのが、一流企業勤めやいわゆる青年実業家やギョーカイ人(大嫌いな言葉だが、他に適切な表現が思いつかず)とくっついたのはなれたの。こういう本を読むという事は、僕もアメリカとそのいちばん先っぽのNYに憧れているのだろうか。
「会社人間が会社をつぶす」パク・ジョアン・スクッチャ/朝日新聞社
MBA取って日本語・英語・韓国語ペラペラで国際的ビジネスウーマンしてる在日の人が書いた本。仕事と私生活・遊び・趣味のバランスの取り方なんかが書いてあるかと思ったら、アンケートやデータを基に当たり前の解説らしき事を書いただけ、目新しさや面白さは全然なかった。仕事上得たデータを無駄にしないように、一応本にしとくか、みたいな、合理的アメリカ人の考えそうな事。ようは、働け働けのモーレツ社員の時代は終わったと。
「お金から自由になる法則」ボード・シェーファー/ダイヤモンド社
前に書いた「すべては「単純に!」でうまくいく」と同様、ドイツ人の書いた、アメリカ的合理的資産運用のための精神論。どうも5000万円貯めるのが目標らしいが、貯まる人はこんなの読まなくても貯まるし、貯まらない人は、安サラリーマンや小売店等、おそらく根本的にあまりもうからない職業の人で、そういう人が純粋に自力で大金貯めるのは、宝くじに当たるのと同じくらい難しいと思う。というあきらめ気分を打破するための本、だったのかもしれない。
「ひきこもれ」吉本隆明/大和書房
吉本の、さらりと読める思想本。ひきこもりやいじめ、さらには同時多発テロやナショナリズムにまで軽くふれている。言わんとしているのは、ひきこもりは悪い事ではなく、無理に社会に引きずり出す事はないということ。社会とのコミュニケーションをある程度絶って自分の内面と向き合い、自分を熟成する期間も必要であり、ひきこもりを過剰に悪い事であると喧伝するのはマスコミというものは、社会に出てコミュニケーションする仕事そのものであるから、と説明している。ひきこもりやいじめに対処する学校や教師の自己欺瞞は政治家にも通じるものがある。など。いろいろ納得させられてしまった。


028:当たり少なし
「ひとを<嫌う>ということ」中島義道/角川文庫
嫌いのエキスパート中島義道。人間嫌いというと「みんな」を嫌い孤独を好むようだが、この人は個人個人・一人一人をしっかり認識して嫌うという念の入りよう。性格的なもの、と言ってしまえばそれまでだが。人を嫌いになってもいいんだよ、という、逆和み系か。
「不幸論」中島義道/PHP新書
この人の本は何冊か読んだが、最もダウン系。幸福は存在せず、不幸のみで世の中は出来ていると説いている。いくら理屈を積んでも幸不幸において客観的判断というものは存在せず、その人の感じ方に依ると、僕は思うが。幸福という思考停止への警鐘という意味はあるかもしれない。
「空想非科学大全」「空想科学読本1」柳田理科雄/メディアファクトリー
ちょっと前(1998らしい)に一部のヲタクに流行った本の文庫版。ようは昔の特撮やらアニメやらが現実に可能かどうかを”科学的に”分析した散文。著者は東大に受かるも(大学に失望し)中退、塾講師になっても”科学する心”を忘れない地方出身者という、わかりやすいタイプ。もちろん知識は一般人を有意に越えており、素人には書けない内容ではあるが、その分析法は愚直というか実に夢がない。「絶対不可能、やるならこ〜んなに無理が出てくる」という話ばかり。元ネタのアニメや特撮がすご〜く好きな人(昔気質の濃ゆいヲタ)なら、もっと楽しめるかもしれない。
「最強のジェット戦闘機 世界の航空機1」青木謙知=監修、デアゴスティーニ=編/講談社+α文庫
タイトル通り最新(といっても70年代以降)の戦闘機・爆撃機・戦略爆撃機の解説。僕は全然マニアじゃないけど、”一般常識”として知っておくべきと思い買ってしまう。ファントムII、今更ながらカッコ良い。ハリアー、前から自家用に欲しい機体No.1、うる星2DVDもこの前買ったし。A-10、特化された機能美、グレッグの乗機。タイガーII、古典的カッコ良さ。X-35、最近のはよくわかんないけど垂直離着陸機なんだ、すごい、早く実用化したの見たい。スカイホークやタイガーシャークは載ってない。ともかく、戦闘機というのはカッコ良いね。
「すべては「単純に!」でうまくいく」飛鳥新社
ドイツの本の訳。こういう「生き方の方法論」はアメリカでは死ぬほど出てると思うが、言われてみればアメリカとは若干ノリが違う気も。こういうの、全部実行できるのって、その本の著者だけだと思う。まずはまわりを片づけろ、たまには孤独になれ、他、なんか目先が変わって役立ちそうなのもある。

夢中になれる、暇さえあれば読みたい本っていうのは、最近は10冊に1冊もなくてさびしい。
・ベストセラーとは凡庸な才能の金色の墓場である。(ローガン・スミス)


027:退屈の恐怖。
不覚にも、退屈してしまった。
最近やたらと本を読む。といっても軽いもの、内容はミリタリーから思想から精神世界から実用からSFまで各種。週1冊以上のペースでバラバラの内容のをたまに並行して読んだりするから、後になってみるとわりと何も残らない。これ何書いてあるんだっけ?と思う。貧乏症で、本に線引いたりできないから、ここは面白いなと思ったところも、後からすると、どの本だかもわかんなくなっちゃう。
はたと気づいた。僕は単に暇つぶしに本を読んでいるだけなのだろうか。としたら、わりと無駄だ。本を読むのは面白いのもあるけど、面白くないのにももちろん結構当たる。その瞬間の面白さと、内容によってそれを基に考え、人生がよりよくなるのではないかと思っていたのだが、忘れてしまっては仕方ない。あとはサブリミナル効果のように、深層心理が覚えていて、普段は全く忘れているが何かの時に浮き上がってくるようなものなのか、とこのへんは現実とも想像ともつかないものになってしまう。
やや焦り、困った。退屈するという事は、人生をよく生きていないということだ。やる事が無いんだから、人生の時間を無駄にしているのだから。しかし生涯という時間において、無駄はゼロにはできない。もし”悟り”という状態が最高であるとしたら、生まれた瞬間からその状態にいるのはおそらくおとぎ話のお釈迦様くらいで、ゴータマもキリストも修行の末にあの状態に達している。ということは、僕のような人間はおそらく一生かかってもその足下にも及ばないわけで、だから少々の時間の無駄を嘆いても仕方ない。下手すると一生が無駄で終わるんだから。
散歩をしながら考えた。おそらくこうして、どうしたらいいか、どうしよう、と考えるのは無駄ではなかろう。少なくともTVみてボ〜っと過ごすよりかは。暇つぶしの読書よりかは。いやわからない、そこで何かが見つかるかもしれないし、楽しければ、それは楽しくない時間よりは意味がありそうな気がする。
と思っているうちに、家に戻ってしまった。考えも、はじめに戻った気がする。
・下手の考え休むに似たり。


026:夏らしくない本。
ここ数日、ようやく夏らしくなってきて、一人この閉めきって薄暗くしかしエアコンの無い(取り付けられない。ひどいマンションだ)蒸し暑い部屋で朝からパソコンに向かうというまことに趣ある行為をしていると、やはりこれが自分なんだなと思う。
いくつか最近読んだ本について。
「ぐれる!」中島義道/新潮新書
「働くことがイヤな人のための本」中島義道/日本経済新聞社

中島義道は前から探して読んでいる。ひねくれ者の変人の哲学者。言いたいことは、世の中は理不尽であり、そこに無責任な希望を語るのは間違っている。いくらがんばっても良い結果が出ないのは当たり前、それを納得した上でやりたい事をしろ、というような内容。多くの人が語らない、人生の暗黒面をずけずけ言うのは小気味良い。
「石原慎太郎の人生 貧困なる精神N」本田勝一/朝日新聞社
本田勝一は元朝日新聞記者のジャーナリスト。今では数少なくなった、権力に屈しない本当のジャーナリスト。ゆえに新聞社にはいられず、現在は「週間金曜日」の編集をしている。そこが出した「買ってはいけない!」はベストセラーになったが、やや専門をかじった者からすると、それも所詮素人とエセ博士が書いた大企業攻撃・アジテーションと思われる部分がほとんど。で本で石原叩きはごく一部。他はいろいろの寄せ集め。石原慎太郎は三流作家で、何か「男らしい」イメージがあるけど、本当の冒険なんて事はしてないし(形だけ)、かと思えば他人の仕事にケチ付けたり、右的思想で放言を繰り返したりするだけの薄っぺらい男で、実行力がありそうには見えるけど、こいつには投票してはいけないなと思った。今度、石原が叩かれたらどうなるか見てみたい。だれかヤってくれないかなぁ?彼すごいビビると思うよ。
「楽しいナショナリズム」島田雅彦/毎日新聞社
いろいろ書いてあるけど、ナショナリズム関係も確かにやや書いてはあるけど統一感なし。全体を貫くのは、彼が文系インテリで、文系というのはそういうものなのかも知れないけど、裏付け・証拠全然はないが一見面白そうな見解を述べることに終始している。あと教養・インテリ至上主義。それを鼻にかけたところがプンプン。これはカッコ悪いね。
・学問のあるばかは、無知なばかよりもっとばかだ。(モリエール)


025:王シュレット
ネット見てる人なら「ワンナイ謝罪問題」と言えばわかるだろう。フジテレビのバラエティ「水10!ワンナイR&R」で、ジャパネット・タカタのパロディでダイエーの王監督の顔を模した便器”王シュレット”というネタをやったところダイエーやタカタや一部の視聴者から抗議殺到、という事。
こういうネタに一々抗議する人って理解不能。百歩譲ってタカタやダイエーが抗議するのはわかるとして、一般人で抗議するのって、余程タカタやダイエーが好きで冗談が通じない人なのだろう。僕は野球見ないしダイエーなんてチームがある事自体、薄々知っていたというレベル。ネタそのものもそれほど楽しめなかったが、もともとバカな事をやって笑い取る番組なのだから、そのネタが理解できなかったから文句を言うという自分勝手はカッコ悪い。
ちょっと前の日本は相手に迎合しすぎるきらいがあったということで、それへの抵抗なのか、それとも欧米の真似のつもりか知らないが、今度は日本全国で自己中心的な人が増えてきているのではないかと思う。欧米どころか全世界的・全人類共通のごく当たり前の事として、現在では誰でも他人に迷惑をかけない限り好きなことをしてよいという認識がある。無料放送を強制されてではなく見るという時点で、その人の意志で見ているのだから、一部に必要ではない情報も入ってた、もっと言えば、見ると不快になる情報が入っていたと文句を言う筋合いはない。ただ見なければいい。
抗議する人はこう言うのだろう『私の感覚は世間一般とほとんど同じであるが、その感覚からすると、この情報は不快である』。前半部分はおそらく普通の人は省略して言わないのだが、そういう意図の発言と考える。もし自分の感覚が普通と違うが抗議するというのは、一般向け放送ではありえない。オーダーメイド番組ではないからだ。つまり、抗議者は自分勝手な意見をぶつけている(言ってみれば”攻撃”)だけか、もしくは自分が世間一般と同じ感覚であると思いこむという過ちを犯している。
オマエモナーという声が聞こえてきそうだが、自分の場合はこうして自分のHPで好き放題書くのには人に迷惑かけないし、2ch等で発言するのも良いだろう。しかし、局に電話して抗議するというのは、断れない相手に無理に自分の話を聞かせているわけだから、明確な攻撃である。
それから、笑いを得ようとして番組を見てるのに、それを制限するような行動をするのはアフォ。そうやって、あたりさわりのないつまらない番組にしているのは、一部の心ない視聴者の責任。もちろん、スポンサーに媚びを売る局も見苦しいが。

【結論】
嫌な番組なら黙って”見るな”。
ギャグにタブーはないほど面白い。
笑いは諸刃の剣。人畜無害な白痴(←FEPでは変換されないのね)的笑いは不要。

#それにしても、日付入れないと、ほんといつのかわかんないね。後で見て混乱する。失敗か。


024:2chとHP
よく「2ch見てそう」と言われる。その通りなのでいいのだが、2chの面白さは、TVや他のメディアでは言えないようなホンネがあるからだろう。それは匿名性(完全ではないが)により可能となっている。そこでは年齢や地位や立場カンケーなし、そこに(手短に)面白い人目を惹くようなASCIIを書き込んだ者が注目される。それゆえネタ(完全なウソ)も沢山ある、というかそれがほとんどなのだが、そこがひろゆき氏の「うそはうそであると見抜ける人でないと(掲示板を使うのは)難しい」なのである。
TVにホンネは少ない。基本的に批判はするがされるのを恐れるし、最近は激しくスポンサーにおもねる。例えばコカコーラの提供の番組では決して(香料なしでうまいからといって)伊藤園のお〜ぃお茶を飲んではいけないのである。まずくても爽健美茶でないと困る。でないと、そこだけ謎のモザイクがかかって「あれ何?」という事になる。TVなんてそんなもんで、反論できないような弱者いぢめや、一放送局なんて全然相手にしないような相手に攻撃するフリをしているだけなのである。そういうのはカッコ悪いし見苦しい。本当に言いたい放題のメディアは、今や右翼と左翼と宗教団体(当然含む創価学会)の機関誌くらいである。当然、内容は期待できない。週間金曜日も怪しい。
では自分のHPではどうか、これは匿名性が2chより薄れる為、歯に衣着せぬ発言をするにはやや勇気が必要になる。自分に近いところにいる、批判した相手が見たりすると面倒な事になる。それは面と向かって相手を批判するのに近い。そうする覚悟は無いが言わずにおれない人は、HPをある程度クローズドにして一部の人しか見れないようにするか、誰がやってるかわからないような匿名HPにするしかないが、後者の場合は誰も見ないか見ても理解できない可能性があり、それはやや寂しい。やはりちょっとわかる人に見て欲しいのである。
つまり、危険な批判というのは、自分が特定されるような状況で、その書き込みを見る可能性のある近い人を批判する事である。
このHPはどうかというと、僕は気を遣ってまでHP作ろうという気は全然無いので、わりと言いたい放題できるような半クローズドのHPだと思う。プライベートは、言いたいこと言って嫌われたら仕方ない、表面とりつくろって形だけのつきあい続けたって意味無い。


023:不変
2つ前のところに、日付入れないと時間経過がわからないと書いたけど、本当にそういう感じで、これだと1週間ぶりなのか、1ヶ月ぶりなのかわからないが、おそらく後者だろう。全体的な状況に変化がないから、ちょうどいいのだが。
「アルケミスト」パウロ・コエーリョ/角川文庫ソフィア。かもめのジョナサンよりもわかりやすい物語、やや精神世界系入り寓話。おそらくそういう感じのをいくつか書いてる著者の代表作。一言で言えば「塞翁が馬」なんだけど、読む人それぞれに考えさせられるものがあると思う。
精神世界と言えば、基本は「なまけ者のさとり方」タデウス・ゴラス/地湧社あたりが読みやすい。「アルケミスト」も元の版はこれと同じ出版社だし、訳者は同じ。君が考えてる事もしている事も一種のゲームなんだよ、そういう小さな事にとらわれなくてもいいよ、でもやりたきゃどうぞ、というような、タイトル通りの本。自分にはとても理解できない思考回路の人が世間にはいっぱいいるけど、それはそれぞれのゲームをしているのだから邪魔する事はない、でもあなたがそれをやめさすというゲームをしたければそれもいいだろう。そうは言っても、すぐゲームに熱くなってまわりが見えなくなってしまうのが人間の性。


022:暇
やはりやる事がない。やりたい事がない。ほんの2時間程度、家で一人の時間ができそうだ、という時に、何をしたらいいか考え込んでしまう。で、やや本を読んだり、ややTVを見たり、そしてその後こうしてHPに書き込みをしている。これは余程やる事がない証拠である。というのは、こういうのを書く程暇なのか、それともこれが面白くてやっているのかという事になると、内容からして後者でない事は明らかだろう。


021:日記
ホームページで内容が無いと、あっても頻繁に更新する有益な情報が無いと、制作者は日記に走る。何でもかんでも思った事を書けば、とりあえずは内容になる。前も書いたが、内輪向けの自己満足的な場合が多い。で、僕も日記やってたけど、今は日付無しでただの項目番号になると、後で見て、ああそういう事も書いたなぁとは思うが、いつ頃だったのか全くわからない。1ヶ月前なのか半年前なのか。数項目分を1日で書いてある場合もある。時間経過がわからない。それはそれで、なんだか不安なものだ。


020:Jonathan Livingston Seagull
くどいようだが、やる事がない。正確に言うと、すごくやりたい事はなく、やややりたい事はあるが、出来ない場合が多い。やややりたい事というのは、凝っている革靴を買ったので、その慣らしに散歩をしているわけだが、急に1日30分1時間歩くようになったせいか、しゃがむと膝が痛い。荷物持ってしゃがめない。それに雨も降ってたりして、あんまり急に無理しちゃいけないなと、やや休んでる。なぜそんなに歩くかというと、革靴は買ってすぐだと足に馴染んでなくて歩きにくいし、見た目がいかにも新品よりも履き古し感がカッコ良いので、どんどん使っているというわけです。
「かもめのジョナサン」リチャード・バック、五木寛之・訳/新潮文庫:良いです。ニューエイジ、精神世界、また日常に飽きたらこれ読んで飛んでみよう。
尚、JAZZ/FUSIONで"かもめ"と言えばchick coreaのreturn to foreverだが、これも素晴らしい。


019:秋本ハズシ、撃墜王は当たり。
秋本康の本を読んだ。あの、おニャン子クラブ作っていちばんおいしそうなの喰って、いろんな仕事に手を出してる彼。彼、陶芸に凝ってるらしくて、趣味は大切だよという本。一冊、そんなのとか人生とはみたいな事書いてあるけど、当然ながら、秋本康で深く感動したり感心したりする事はない。言いたい事はわかるけど、まとめれば20ページくらいで十分言えるんじゃないの?という程度で新書1冊。こんなの本にするのもったいないなぁ。百歩譲っても文庫で十分。
彼みたいに、まぁ一応は多彩だけど各種仕事のうちの1つとして書いてみた本というのが、それほど意味あるわけない。ネタがあるから本を書くというよりも、むしろ連載を始めたからネタを考えた、という本末転倒TV的な安易な発想。もともと言いたい事があって、文章で表現するのを仕事にしてる人とは違う。本書けば作家、雑誌にちょっと文章が載ればコラムニストというが、作家もピンキリなわけで、自分にとってつまらなければ存在意義なし。
作家でない人が書いた本だと、第二次大戦中のスピットファイアのパイロット、P.クロステルマン「撃墜王」朝日ソノラマ(おそらく絶版)の方が、比較できない位面白い。戦闘機パイロットの書いた戦記。
・近ごろの詩人たちはインキに水をたくさんまぜる。(ゲーテ)


018:趣味と仕事
現在、自分は趣味がない。いろいろ凝ったが、すべて沈静化してしまった。仕事もそれほど情熱がない。こういう時は仕事してても、終わってからあれしようこれしようという事がないから仕事もやる気しないし、何してもつまらない。
趣味というのは、自分であれに凝ってみよう、と思ってなるものなのか?100%は不可能だと思う。全然そう思ってなかった事にハマる事もあるし、ちょっとやってみようかなでハマる事もある。きっかけはいろいろあるにせよ、ハマるかどうかは、自分の心の中から発生する衝動によると思う。心の声を聞くしかない。それは、熱中するような仕事も同じだろう。ただ仕事の場合は、やりたくなくてもやらされてるうちに少しできるようになって、まんざらでもない→そこそこ楽しい、自分にぴったりだ、と思うようになるのかもしれない。
ではその心の声、衝動というものはどうやって発生するのか?それは無意識の領域の事なので、定義上このような思考という意識下では想定できないので、考えない。わからない。


017:悪
○○はいつも同じ事を言っている。つまらん、とか、進歩が無いとかいうニュアンス。しかし、毎回言っている事が違うより、終始一貫した主張の方が、ずっと信頼できると思う。という程でもないが、書こうと思う事は、以前書いた事である事も多い。
僕は体育会系が嫌いである。理不尽で、年功序列の封建制で保守的で、バカを統率するシステムとしては良いかもしれないが、僕は参加したくない。おそらく一人で行動できない弱い者が群れるのであろう。健全なイメージがあるが、下級生いじめ等、案外陰険である。
そもそもスポーツというのは、暇つぶしの娯楽、程度に考えた方がよい。下手に○○道だとか根性とか言い始めて取り組む程の価値はない。いくら記録出したって、勝負に勝ったって自己満足の域を超えない。精神修養になると本気で思ってる人は、子供を戸塚ヨットスクールに入れて殺してみては?そういう犬猫程度の知能しかない子供だったら仕方ない。知能あるなら無駄に体動かしてエネルギー使う前に、頭使って考えてはどうか。確かに場合によっては他人を感動させる事はあるかも知れないが、本当に物理的に困っている人を救えない。「ゴーマニズム宣言」小林よしのり でも指摘されているが、健全な肉体と健全な精神は相関がない。スポーツが良いというのは、それに熱中して他のもっと重要な事から目をそらすための世論操作ではないか。オカルト本には、フリーメーソンの3S政策(Sports,Screen(映画等),Sex)とは、そういう事であると書いてある。
ヒップホップやラップや、中高生のガキがよくしているような、アメリカ黒人スタイルが嫌いである。ダボダボのゆるい、色は派手でなんかよくわからないロゴ(着ている本人は、わかってないから着れるのだろう)の服着てやや偉そうに主張したり、コンビニの前あたりでしゃがんでたりという。
体育会系は悪だが、後者は悪事をしない限りバカ、という程度で済ます。
個人的にわりとぴったりくる、好き嫌い・善悪に関する本。
「快楽は悪か」植島啓司/朝日文庫:読みやすいコラム集。朝日新聞連載だが、気にせず読める。
「私の嫌いな10の言葉」中島義道/新潮社:氏はおそらく会ったらものすごく偏屈でヤな感じだろうが、それ以前に会えない程人嫌い。世間からしたら屁理屈のひねくれ者だが、僕は共感も多い。
「平気でうそをつく人たち」M・スコット・ペック/草思社:隠れた悪人の見分け方、のような。精神科医の心理分析。



016:CM
マスターカード・ファミコン編。うざい。どの時間でもやってる。もううんざりだ、いい加減にしてくれ。最近やたら多いキャッシングって金貸し、いわゆるサラ金でしょ?それとクレジットカードのCMもそうだけど、物欲煽って消費させようとしてるのばっかり。金貸しもクレジットカード会社も同様に、そういう下品な虚業である事を認識すべき。必要悪である。
これだけCMやってるという事は実際に、旅行したかったり、生活にそれほど必要でない物を、金貯める前に欲しくて我慢できずに金借りてしまうサル並みのヤソキー等が世間にはいっぱいいるという事。ゲスがアフォ相手に金儲け。俺の見えない所でやっててくれ。


015:やる気なし。
4月も半ばを過ぎると十分暖かく、たまに暑かったりして、風も心地よい。天気もよいと気分も晴れる。はずである。雨ならまだわかるが、こんな天気が良くても気分が良くない事がある。いま現在の自分である。理由はおそらくない。わからない。以前から、一定しない周期で、何も面白い事がなくなってやる気のなくなる時がある。約1週間前からその状態で、仕事はつまらないし、仕事終わってからも何か楽しい事というのが想像できない。
仕事がつまらないのは、しかしよく考えれば不自然な事ではない。好きでやる仕事という方が稀である。文春で土屋賢一という人が哲学エッセイを書いており、たまに面白いので読んだりする。すべき事はあるのにやる気が出ないがどうすればよいか、との問いに対して、自然にやる気が出れば既にしている。やる気がなければ、無理してやっても長続きしないしストレスだし体に悪いから結局打つ手はない。とバッサリやっていてやや爽快であった。そうだ、仕方ないのだ、それが普通だ。みんな我慢しているからもっとがんばらなければならない、というのは誤り。がんばれるほどやる気のある人は既にそうしてるし、やる気がないならがんばれない。こうすべき、と思うのは誰にでもできる。その通りやるのは、現実的には非常に困難である。無理な時も多い。こんなもんだろう、と納得する、現実を受け入れる、諦めるのも一つの方法であるし、理想から現実に目をやる勇気も必要である。
ではやる気を出す方法というのはあるだろうか?よく塾や予備校の宣伝にはあるが、よほど単純なガキでないと、そうは心理操作されないだろう。別のことをして気分転換するとか、無理にしているうちに出てくるとか、何もしないとか、人それぞれ方法はあろうが、僕の場合は別に何もせず、いつも通りに暮らして、自然にそうなったようにまた自然に戻るのを待つ。
諦めを勧めると、カッタリーから何もシネェ、という怠惰な若者と一緒になりそうだ。そうなる人はそうなるし、そうでない人はもっと先の目的のために、今は気が向かない事をしたりもする。学校なんて基本的に楽しくないのだから、多くの人はそうしている。仕事も、食うためと割り切ってそうしている。ただ、中には、自分を磨くためと、もしくは人のためと、進んで学問や仕事を行う人もいる。そういう人は、すごいね。
結論。やる人は自然にやってるし、しない人はしない。意識してやっても、心の底から進んでやりたいと思わなければうまくいかない。心の底、つまり無意識を意識的に変える事は、定義上は不可能。よって、なるようにしかならない部分が、意識してやる事よりも大きい。
しかし、そもそも世の中にやらなきゃいけない事ってあるのか?
・なんじの欲する所をなせ。(ラブレー)
・人の持つ徳の尺度は、その異常な努力によってではなく、その日常的な行為によって測定さるべきものである。(パスカル)



014:喫煙は悪か?
ここのところ、ただ何も考えずに唱えたり紙に書いて貼ったり運動したりすると善と思われる事がある。禁煙である。しかし、僕はこれが善とは思わない。 なぜタバコは悪か。人に迷惑をかける、それはある。嫌だと思う人のそばで吸うのはいけない。誰にも迷惑かけずに吸っても悪とされている。禁煙派は、体に悪いからだという。体に悪い事がいけないなら、事故にあう確率を考えると車やバイクや自転車はもってのほかである。睡眠不足で働き続けたり、ストレスをかかえて生きてゆくのもよくない。が、断然喫煙の方が悪とされる。喫煙はやめようと思えばやめられるが、乗り物を運転したり仕事やストレスは(保守的な生活を継続していると)やめられないからであろうか。それよりも、大気汚染等から目をそらすための悪者にされたという面がある。世論操作か。
喫煙にもメリットはある。気持ちいい。気持ちの切り替え、外を見ながら一服して他の人と喋るひとときを提供してくれる。しかし、喫煙は体質的に限られた人しか楽しむ事ができない。これは酒も同様である。
人間、健康が一番というのは誤りである。健康で生きているだけなら、植物と一緒である。考え、何かしたい事をするために人生はある。健康は、それに必要ではあるが、それが目的ではない。健康を目的と勘違いするような人間は、ただ生きているだけの”うんこ製造器”である。
喫煙者は除名、という日本呼吸器学会というのはアフォであろう。個人の生活における自由と、職業・学問上の内容を一緒にすべきではない。これも医者の傲慢、自分=医者という人たちが考えたのだろうか。自分の人生を生きるのも、自分の個性を発揮するのも自分しかいない。代わりの医者などいくらでもいるし、医者など自分の人生の一部でしかないのに。
タバコと酒は大人のたしなみである。時と場所をわきまえてたしなむのがダンディである。アメリカ人みたく、タバコも酒もやらぬがオッサンになってもコーラとポテチとアイスとか喰ってるガキみてぇなヤツはカコ悪い。
人生は一様に時間が経過するわけではない。若い時にしておくべき事もある。老人になってからでは、彼のしわとしみだらけの荒れた皮膚から吸収できる感動はごくわずかであろう。60だ70だ過ぎて癌になることを恐れて地獄のように変わらぬ何もない毎日を送るよりも、若い時に楽しい時間を過ごし必要な経験を得る事が重要である。じじいになってから旅行しても、若い時ほどいろいろな事がわからないでしょ?
かといって、フリーターで怠惰に過ごす若者は、ジジイになってから俺様の納めた税金使わないで十分苦しんでください。
・僕にはタバコがのめないって人の気持ちがわからないね。タバコをのまないのは、人生のエッセンス、少なくとも人生のきわめてすぐれた喜びを、いわば放棄してしまうことだからね。(トーマス・マン)


013:悪い人
春の交通安全運動だろうか、何でもないところでネズミ捕りが張っている。しばらくその地域に住めば、だいたいどこらへんでやっているかわかるから捕まらない。うちの近所では、トンネル状の遮音壁のある通りや、工場裏の横道のない一本道である。おそらくそういう道は、交差点がなくて横から人や車が出てこないからスピードが出るのは当然である。そして事故も起きないであろう。そういう所で取り締まりをしているのは、警察が取り締まりしやすいからに違いない。
取り締まりは、おそらく事故防止のためというのが大義名分であろうが、公然の事であるが、資金稼ぎとなっている。罰金徴収ノルマがあるのは周知の事実であるから、完全に資金稼ぎのための交通安全運動である。決算セールである。
仕事のためとはいえ、こういう事に加担している警察官は悪い。悪人である。上司の命令であるといっても、客騙して商品を買わせたり、素人騙してぼったくるのと一緒である。生活のため、転職できない、いろいろ理由はあろう。ある程度同情の余地はあるが、やはりある程度は悪である事には違いない。
警察官に限らず、あらゆる職業に悪は存在する。資本主義では利益追求が許されているが、それはある範囲を超えず、ある規則を守ってやっている時のみである。アメリカのように、軍事力や経済力ゆえに俺様がルールであるという振る舞いは、その時の社会が許しても道徳的には許されない。そこにも悪がある。
相当に性格が良いか、それとも注意しない限り、利益追求のためについ相手を軽視してしまう。金は死んだらおしまいだが、魂は永遠である可能性があるため、現世利益のために他者を軽視するのは避けた方が良い、というような事を誰か昔の人が言ってたと思うが忘れたので、誰か知ってたら教えてください。
・不正なことが、不正な方法で除かれるよりは、不正が行われている方がまだいい。(ゲーテ)


012:三流芸能人こきおろし
僕はあまりTVを見ない方だと思う。芸能人の事もあまりよく知らない。
最近バラエティ番組を見ていると、前からかもしれないが、出演者はよくやるなぁと思う。どうでもいい、実に下らないトークやゲームに必要以上のリアクション。ふと我に返って「俺(もしくは私)、何してるんだろう?」「金のために自分というキャラクターと自分の時間を売っている。している事は人生に何のプラスにもならない虚業」と思わないのだろうか、と心配になる。笑えればまだよいが、ただバカ騒ぎしているだけで、本人たちが楽しいならいいが、楽しくないなら実につまらない仕事だ。工場のラインやスーパーのレジ打ちや交通整理並みである。
こういう仕事をしている人には申し訳ないが、僕はこういう仕事はつまらないし、意味ないし、バカにしているので出来ない。必要なのはわかるが、僕よりも能力の劣る人にまかせておこうと思ってしまう。実に傲慢だが、やりたくないから仕方ない。尚、つまらないバラエティに出ている芸能人は、必要性がない分、この例に挙げた労働者以下である。
・ばかな人間が恥ずかしく思う何事かをしているとき、彼はいつもそれが彼の義務であると宣言する。(バーナード・ショー)


011:欲求
眠くなって眠れる、腹が減って食べられるのは幸いである。眠くても眠れず、腹が減っても食べられないのは辛い。幸いと辛いは紙一重、漢字では棒一本程度の違いである。
では眠くならない、腹が減らないのはどうか。ちょっと便利な気もするが、実際は生活リズムは崩れるし、そんなに起きてても暇だし、それどころか喰わずに眠らなければ生命をおびやかす事となる。欲望を満たすという一連の行為で快感が得られないのも辛い。ただし性欲だけは、発生しなくなってもそれほど害がないような気がする。便利だろうな。他にやる事が十分あれば、敢えてなくてもよいだろう。その方が、却ってモテたりして。


010:HPについて・その2
このHPは多くの人に見て欲しいわけではないので、自己顕示欲はないというような雰囲気の事を書いたが、それならば公開しなければ良いので、やはり自己顕示欲はある。公開するのは、文章を自分のHDDにしまっておくのは勿体ない、公開すれば少しは誰かそれを楽しむ人がいるのではないかという淡い期待と、書くことで考えがまとまり、公開することによるカタルシス効果があるのではないか、と思っている。


009:消費
自分は、車はいくら汚くてボロくても走る限り買い換えようと思わないし、新しい車も欲しくない。単に、車にあまり興味がないだけかもしれない。パンツも、ゴムがノビノビになっても破けるまではく。やや倹約家に近い一面もある。だが消費はする方だと自覚している。金がなければ消費もしないから、そこそこあるのかもしれない。だが今の日本では、アルバイトでも不自由なく生活できるし、そこらへんのヤソキーでも携帯持って車乗ってるから、そういうのと大差ないレベルである。
生活に必要というよりも、ストレス解消や興味・趣味に応じて消費しており、それが無駄である事はわかっている。無駄というのは、後悔するような消費である。僕はまだそれほどでもないが、自分の親は浪費家に近い。それほど金持ちでもないのに、数十万の時計を買ったりする。その他にも、健康器具や置物始め、いろんな物を買っては捨てたり売ったりする。生活には全く必要ではない物である。もっと金があれば外車でも買うのだろうが、今はないのでその程度の消費で我慢しているのがわかる。おそらく、相当老いるまで消費はやめられないだろう。そういう事が生きる目標もしくは生活に必要なのである。新しい物を手に入れる満足感を得たいのか、さらにそれを自慢して満足したいのか、よく知らない。
そういうのを見ていると、自分はまだそこまでいってないが、そうはなりたくないなと思う。というのは、消費にとらわれると自由になれないからである。無駄な消費がなければ、必要以上に労働しなくてよい、つまりは労働という義務からある程度解放されるのである。
・足るを知る者は真の富者にして、貪欲なものは真の貧者なり。(ソロン)


008:応援
自分は、共感できたり、良い仕事だなと思えば応援したくなり、悪い人だなとか、悪い仕事だと思えば非難したくなる。ふつうか。そう思うだけでなく、また言うだけでなく、できる限り宣伝した方が良いと思う。誤った宣伝は後悔すべき失敗だが、そうでなければ、応援すべき相手は力強く感じるだろうし、悪い相手を困らせる事ができるし、第三者が失敗を避け、うまくいく手助けになる。そういう情報を、このHPでもそのうち列挙したい。大・誹謗中傷大会になりそうだけど。きっと非難が多ければ、自分の性格の悪さが出ているのだろう。


007:魚
自分は元来、魚は嫌いでない。寿司はそこそこ好きである。刺身はそれほど好きではない。最近3回くらい、寿司がはずれである。それほどうまいと思わない上に、食後に胃のあたりに生臭さが残っている。胃が悪いせいか、たまたまそういう時期なのか、それともやっぱりモノがよくないのか。
特にイカは全滅である。もともと、噛み切れないからあまり好きでないのだが、もう大人だし、と思って食べたらやっぱり噛み切れず、2回連続で出した。んべ、っと。見てしまった人には申し訳ないが、噛み切れない物を飲み込むのはよくないと思う。あと、スジの多いマグロも良くない。いずれも、とても良い物だったら問題ない。その機会までしばらく待つ。
・砂漠のインド人は魚を食わぬことを誓う。(ゲーテ)


006:僕は文章を書くのがうまいか?
作文力については、主観的には普通と思っている。客観的には、少なくともうまくない事がわかった。仕事でやや公式な文章を書くと、この歳になっても主語が無いとか、文章が変などと言われる。そう思ってみると、このHPの文章も、主語が無い場合が多い。変な、わかりにくい部分も多いだろう。でも、話し言葉の日本語はそれでも通じる。主語がなくても流れからわかればよいと思うが、公式な文書ではそうではないようだ。形式ばっても主語をおいてきっちり書いた方が、たぶん知らない人が読んで、そこだけ読んでも内容が通じやすいからであろう。
ではこのHPの文章もそのようにしっかり書くよう努力してもよいが、どうもそれは難しい。今のように、週末の夜となると、疲れていてそういう事が難しい。難しいとしか言えない。無理ではないが、やる気がない。書く速度が極端に落ちる。そうしているうちに、内容を忘れてしまう。おそらく、読んでもわかりにくい文章があったら、そういう心境が具現化しているのです。


005:個人HPの意義は?
このような個人HPの存在意義は何だろう。まず、制作者にとってか、閲覧者にとってか。制作者にとっては、うっぷん晴らしとか自己顕示欲を満たすためなどが考えられ、勝手にやってくださいという感じ。
閲覧者側からみると、まず自分の興味ある情報の公開。インターネットの意義そのものでもあるけど、なにか1つの情報について知りたいとき検索をかければ多くのHPがひっかかり、中には自分の必要とする情報があるかもしれない。その対象の1つを制作する意義。この場合、内容は限定され、ある種専門的なものになる。
一般的な話題の場合は、制作者そのものに興味があるか、一般的だが興味深い内容である場合がある。制作者が有名であれば、内容は一般的でも人が集まるだろうし、そうでなければ、おそらくHPの存在を知っている知人しか集まらない。内容は一般的だが多くの人にとって興味深い内容を制作できるような人は、本でも書いてはどうだろうか。
本HPの場合、まず制作者の公開したい気持ちと、始めてしまったから続けている(惰性)がある。当初、やや専門的な内容についても扱っていたが、自分の専門性が希薄になったのと、いろいろ調べて作るのが億劫になったため、現在のように内容は一般的なものになった。もし多くの人に見て貰おうと思うならこれでは不適だが、そうではない。むしろ見ず知らずの人は来なくていい。となると、やはりこのHPは、現在では”作る”という事による、自己満足的な部分が多いと思う。
誰でも少しは、何かを作りたいという欲求があるし、何かを作ることでその欲求が満たされる。何も作らず、ただ既存のものを取り扱っているだけというのはストレスである。この制作に対する欲求というのは、おそらく自己顕示欲ではない。というのは、例えばプラモは、作ったら満足であり、人に見せびらかさなくても満足である。つまり、そこより根本には何もない。ただ作りたいという欲求が、人間にはある。
ちなみに、プラモは10年以上作ってない。以前も、そんなには作ってない。


004:カメラ付き携帯
携帯に凝る必要ないと、2年前のをそのまま使っていたけど、故障してメールの 読み書きが全くできなくなり買い換えるハメに。
カメラ付きなど不要、そもそもデジカメ自体必要ない、銀塩カメラは解像度無限大と、なぜかそこだけデジタル化をかたくなに拒否していた自分だが、カメラ付きがそれほど値段が高くなかったので買ってしまった。
使ってみると意外に面白い。まだ3週間程度だからか、知らない所に行くと撮って即メールしてみたり。たまにしか会わない人と自分を撮ったり。
理屈だけで新しいものを拒否するとすぐに柔軟性のない保守的なオヤジになる。理屈じゃなくて感覚で、ノリで、新しいものに手を出すのも必要。コンタクトも、してみて初めて、こんなに隅々までよく見えて装着感の煩わしくないすばらしいものだと気づいた。
ただ、携帯についてもう1つ言えるのは、携帯ショップの店員や、携帯にやたら凝る輩はアフォが多いということ。


003:道にゴミを捨てる女子高生
一見普通の田舎女子高生が、菓子パンの袋をそこらへんの生け垣に投げ捨てるのを見た。僕があらゆる人に注意できる勇気と、他人への干渉をいとわない図々しさがあったら注意したかもしれないが、いわゆる強者へは関わらず、自分より弱そうな人にだけ文句を言うのはゴミ捨てと同じくらいカッコ悪いので放置。
こういう事は、大人になってからでは教育入らないよ。一言で言えば自己中なんだろうな。まともそうな大人でも、平気で車からタバコやガムや空き缶を投げ捨てたりする。初期教育をしっかり、遅れたら諦める。おそらく、そういう人は全般的にそういう性格だから、その人となりを知る一つの指標になるでしょう。
・卑怯者は、安全な時だけ、居たけ高になる。(ゲーテ)


002
最近ふといろいろ思う事、といっても批判的な事が多いが、それがあってもすぐに忘れてしまい、後で何か書こうと思っても思い出せない。
すぐに忘れるということは、書くほどの事もない些細な事なのだろうが。いくつか列挙してみる。


001:改装ついて(2003.3.13)
2002も日記形式でやってみたけどだめだ。続かない。仕事なんかのせいにするか、それとも自分がこうして文章にしたいほど強く思う事がなくなったのかもしれない。こだわりは意味があると思っていたけど(それがオタク)、でもこだわらないという事もまた必要だと思ったりもするようになってきた。
日記というと、理想的には毎日書かねばならないということになる。毎日どころか数ヶ月に1日も書かなくなってきたので、こういうのはやめることにした。気づいた時に何か、読みやすいように書いて、一応ネットに上げとくという形にしてみようと思う。基本姿勢として、楽しいホームページを一所懸命作ります、というような事が全然なくて、書いたやつを手間かからずアップしとくようなトコロというホームページなので、やはりこれまで同様にシンプルなやつにする予定。込み入った作りじゃなくて、読みやすくなるといいけど。

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