百姓天国第7集

 

歴 史 の 転 換 点 か ら 見 え る も の

私の農業日記 世紀末篇

 

森本 優 36才 (山梨県)

 

▼十一月九日

 明け方、野村秋介さんの葬儀の夢を見る。

野村さんの遺体が、花束で埋もれた棺のなかに横たわっている。顔には白い化粧がほどこされ、笑ったような静かな様子がとても印象的。その傍らに屏風のような本が開かれていて、御自身の作と思われる歌が、花模様のすかしを背景にして綴られている。

 野村さんが朝日新聞本社内でピストル自殺したその前日の夜中から当日の早朝にかけて、なかなか寝つかれず、何故か不思議に神経がたかぶっていたことを思い出す。

 野村さんとは、竹中労さんが浅草で主催したある宴の席で初めて末席からお目にかかったぐらいで、それほど付き合いはなかったのだが、それ以前に自費で出版した私の本を贈呈していたためか、ここ数年、直筆の歌がしたためられた年賀状を毎年いただいていた。

 野村さんは、既存の「右翼」の価値観からも己を突き放して物事を洞察できる、感性の鋭い人だった。

 私にとって今回の出来事は、歴史の大きなターニング・ポイントを象徴しているように思われてならない。

 今までのような既成の価値観・世界観では括り切れない事態が全世界で起きているし、当然日本にも襲いかかろうとしている。そのような時、「右翼」なり「左翼」なりの教条的イデオロギー・価値観・世界観に拘束されず、自由に物事が見抜ける人物が、両陣営にはたして何人いるのだろう。世界の動きをその根底から把握している人が・・・。

 立て替え(破壊・テロ)に意を尽くす必要はない。それは外から既にやって来ている。問題は、如何にこの日本から立て直し(創造)をするかということである。

 ここに、日本の民草々の、魂の質が問われることになる。

▼十二月一日

 農作業やら事務やらで、ずっとほったらかしになっていたビデオを見る。それは、九月末ごろNHK総合で放送された『チベットの死者の書』。

 この教典では、死後においても「意識」というものが存在し続けるとされ、それは、死者の「魂」に、輪廻の罠にはまらぬよう教え導くことを目的に綴られているとされる。

 この輪廻転生の思想は世界各地に見られ、特に仏教を通して、アジアの人々には馴染みの深いもの。しかしながらこの問題は、すこぶる形而上的であり、科学的な証明はされていない。

 よく研究者は、生まれ変わったとされる人間が前世での記憶を的確に辿ることができた事例をあげて、その思想の正当性を主張するが、それだけではその両者の「魂」の同一性を証明することはできない。

 科学的な証明ができないのなら、唯一残された方法、すなわち形而上学から、この輪廻転生の実相に接近してゆくしかないだろう。形而上学は、あくまで人間の頭で築き上げられたもので、実相そのものでは決してあり得ない。しかしながら、実相の影ぐらいは何とか映し出せるかもしれないからである。

 さて、「魂」というものをどうとらえるかによって、立場は異なってくる。

 「肉体」と「魂」とを純粋に分離して、前者を滅びゆくもの、後者を永遠不滅のものとしている人達にとっては、死後「肉体」が滅びても「魂」は滅びず、永遠に此岸か彼岸かを問わず存在し続けることになる。従って、此岸にとどまる限り「魂」は、当然輪廻転生し続けざるを得ない。

 しかしながら「肉体」を、「魂」の表れ、すなわち表象内に描き出された「魂」の物質現象としてとらえ直すなら、「肉体」は「魂」を反映する影として、表裏一体のものであるとすることができるだろう。そうであれば、死後「肉体」が滅ぶのとほぼ同時に、「魂」も当然滅ぶことになる。

 それでは「魂」は、まったくの無に帰すことになるのだろうか。

 物質現象として表されてくる宇宙の中で、空間を満たす物質は、姿を変え、生成・消滅を繰り返しながらも、決してまったくの無に帰すことはなく、何らかのエネルギーとして存在し続ける。それは、母なる生命宇宙に抱かれた生きもののようでもある。

 そのような物質現象を頼りに形而上の領域を推測するなら、「魂」も死後まったくの無に帰すのではなく、全宇宙として示されてくるその影の背後に、無数の「魂」がそこから生じてきてやがてそこへと消滅してゆく、生命の大海の存在を思い描くことができるだろう。そして「魂」とは、その大海の表面に生じては消えてゆく、無数の波のようなものと、とらえることができ、さらに「意識」とは、その波の表面に漂う泡沫(うたかた)でしか過ぎないと言えるのだ。

 もしそのように推測できるとするなら、「死」として表され示されてくるものも、ただ波のある一定の状態を指すに過ぎなくなる。魂は個体性を解消して生命の大海に融合し一体となるだけで、やがて波の変化とともに、魂は個体性を取り戻して、己の発現を繰り返さねばならなくなる。そのようにして「生」「死」の間を無限に彷徨うことになる。したがって我々万有とは、「決して死ぬことのできない不幸な存在」とでも言い表せるのだろう。この意味では、輪廻思想そのものではある。しかしながら、ある新しく「生まれた」魂と、「死んだ」魂とが、まったく同一であると証明することは依然としてできないままなのだ。

 此岸に生まれ出た魂は、イデア的な神格を持たされ、他の誰にも辿ることのできない己れ自身の道を歩まされることになる。その意味では、たった一回限りの生、放たれた一本の矢だ。

 此の世に生まれてくる以上、同じ魂などあり得ない。もしその魂に根源的な次元で、何らかの同一性なり共通性なりが伺えるとするなら、それは各々の魂が持たされているイデア的な神格による。

 魂は、それぞれ己自身の親神様に導かれて、自身を発現させてゆこうとする。しかし、さまざまな誘惑や回りの念に引き摺られ、自身の親神様の声が聞こえなくなっているのが大多数ではないのか。

 念というものも、物質として表すことができないが、エネルギーを持ち、それが生命の大海を通して他のものに干渉してしまう。それも生存中だけではなく、死後も何らかのエネルギーとして残り、生存者に影響をあたえるようだ。しかし魂が個体性を失い「死んだ」後に残る念というものは、一種の残照、もしくは水面上の波紋のようなもので、そう長くは残ることができないように思われる。生命の大海の悠久な流れ(存在)に比べてみれば、せいぜい百年から千年単位の、ほんの一刹那の間しか続かないのではないか。

 生前発していたある人の念が、死後何らかのエネルギーとして残り、それが他の生きている人々や新たに生まれてくる人々に干渉して、それらの人々の表象内に割り込んでくることが当然考えられる。このような、念が発するエネルギーの世界を「霊界」と呼ぶ人もあり、「神界」とは明確に立て分けて置く必要があるだろう。

▼十二月八日

 コメの実質的な自由化がいよいよ本決まりになるようだ。向こう六年間は関税化の猶予期間として4〜8%の最低輸入量を義務づけるとしているが、七年目以降も、話し合いの如何を問わず、関税率は1995年を基準に毎年低くなっていき、また最低輸入量を課す場合でも、徐々にそのパーセンテージは上がっていくようだ。

 今までの「国家」という「保護」の枠を洗い流して、大小様々な企業体そして民衆を流民化せしめ、その後で「世界新秩序」という「保護」の下で再支配するための一番重要なプロセスとして、今日の様々な規制緩和・自由化そして円高の波があるように思われる。

 資本の自由化・貿易の自由化等々が進み、やがて「国家」という枠が形骸化された段階で、世界大恐慌の時に再編成が進んだのと同じ形で、今度も大恐慌が演出されるのではないかと危惧をするのは私唯一人か。

 そういったプロセスの中で国連・IMF・世界銀行・GATT等の世界機関は、世界再編成のための道具となって、全世界の「国家」の解体と自由化をすすめている。

 解体された「国家」は、至高的自立権は剥奪され、グローバルな支配機構の中のひとつの歯車、「手」「足」となる。大衆は「国家」から「解放」されるが、新たな支配機構の収奪の対象、すなわち「奴隷」に再び貶められる。

 世界各地に根差していた文化・宗教は、その再支配の過程で障害となるなら、実質的に骨抜きにされ、利用できるようであれば、膨大な金と権威・権力が与えられるだろう。

 前回、「この日の本に、主宰神様の大御心を一身に体現できるスメラミコトの発現を願って、天皇制という器を残しておくべきだ」と夢一族が言っていたが、そのことを受けて、美智子さま雅子さまを初め、皇室の方々にご迷惑をおかけしているのではと心配している。個人的には、天皇家が「世界新秩序」の中で一「王室」にとどまって、何事もなく幸福に暮らしていただければ、その方が気が楽かもしれない。しかしながら世界支配機構が完璧に築かれるまで、ひと波瀾もふた波瀾もあるだろう。何とも大変なお役目である。

 (それにしても、「左」か「右」かの論議が依然として根強い。思うに、日本を含めたアジアでは、思想的にも、また心情的にも、共に「左」という人は、思われているより多くはないのではないか。当の私にしても、百の正論より一つの誠意の方がよっぽど説得力があるように思われる。さしずめ思想的には空[から]であっても、心情的には「右」と云えば云えるのだ。)

 ところで、その世界支配機構が旨く機能している間は問題ないとされるだろうが、ひとたびそのシステムに破綻が生じるなら、「手」「足」はそのままでは決して生き延びれないということぐらいは、肝に銘じておくべきだろう。

 とはいっても、謀略が渦巻く国際政治の舞台でそのような正論を主張し続け、いたずらに孤立してしまっても良くないのは明らかなので、外からの圧力をうまく逆手にとって利用していきながら、今のうちに日本の土台を再構築してゆくための何らかの方策を練っておくことが必要となっている。以下、私案を述べる。

 まず大雑把に捕らえ、日本国という船の船体を二重構造にして頂きたい。すなわち、「中央政府」という外枠と、日本を幾つかに区切ってできた「地方自治圏」という内枠の、二重構造だ。

 次に、中央政府は、統一国家レベルの問題や重要な外交・防衛等の対外的な問題に携わり、国内の自治に関する権限は、極力各地方自治圏内の自治組織に委ねる。

 このように各地方自治圏の体力・知力を強化し育成することによって、万が一中央政府という外枠が国際情勢の悪化なり戦争なり天変地異なりで、破綻し破れてしまった場合でも、自治圏レベルで充分国家的自立機能が働いているなら、正常に機能している各自治圏同士が内側の壁となって、「日本丸」そのものの沈没をくい止めることができる。そうであれば、中央政府を立て直し、統一国家を再構築するのにさほど時間はかからないと思われる。(この場合、精神的支柱として天皇制が大きな役割を果たすはず。)

 従って現在の政府は、国際化という波に脳天気に追随するのではなく、うまくその波に対処し処理していかねばならない。国家の至高権・自立権を脅かすような要求に対しては、積極的にそれを呑むのではなく、また一途に拒否するのもよくないので、うまくはぐらかしてもらいたい。かえってその圧力におもねると見せかけながら、国内の自治組織を充実させてそれに充分な権限を与えていき、国家の土台を再構築してゆくことが肝要。ここに、現在国政に携わる政治家の熟慮と政治手腕が試される。

 以上が総論であるが、そのあたらしい国造りの土台として、全国の人々が各地域でそれぞれの草の根ネットワークを築き、食糧・エネルギー等の自給体制を整えながら、自治能力も高めていかれることをお願いしたい。今までの政治腐敗を浄化し、政治そのものを根本的に変えてゆくには、それ以外に方法はないのではないか。如何に制度をいじっても、自覚した見識の高い民草々とならなければ、ただやみくもに歴史の流れに翻弄されるだけだろう。

 その一環として、自治能力を高めるための政治活動も、全国各地で独自性をもってやるならおもしろいのではないか。

 

▼吉本隆明氏にもの申す

 ところで、「国家主義の払拭を」と、一部の「進歩的」評論家先生たちが云っているが、彼らには、新たなグローバルな支配システムが、はたして見えているのだろうか。それとも、その支配機構の御先棒担ぎにしか過ぎないのか。

 これ以降は、吉本隆明氏に対する批判として書く。これは、主に『サンサーラ』(徳間書店)十二月号に掲載されたものに対してなされるものです。

 吉本氏は誌上の「情況との対話」の中でコメ論議につきあっていたが、疑問に思う点があるので、その部分を抽出し、後に私なりの考えを述べたい。

 


 「わたしは農業人口がゆるやかに減少してゆくこと、それに伴って人類が少しずつ貧困から脱してゆくことは、自然史的な必然で、これには例外はないとおもっている。」〜「高度の文明国を農業国にしようなどというのは、河の水を逆さに流そうとするようなものだとおもっている。」〜「なぜなら現在までのところ貧困を離脱することと農業人口が減少していくことはパラレルの関係にあることを、歴史は実証しているようにみえるからだ。」〜「政府や企業資本が減反政策をとったり、コメ市場を自由化して国内農家に競争を強いるから日本の水田が潰れるのではない。文明の高度化が一国規模での農業の割合を人口的にも生産所得的にも減少させるのだ。」〜「この減少は文明史と自然史の必然によって遅い早いの違いはあれ、一国単位の規模では自然に減ってゆく部分だ。」〜「大胆なことをいえば、ニューヨークや東京やパリなどの市街地と同じように、農業が自然産業(第一次産業)としては、コンマ以下の割合になってしまうことが、長い射程ではありうることだと、徹底してかんがえた方がいいのだ。そのときは贈与経済を根幹にして、他地域や国家が国際的な農業担当地の役割をするという事態になるとおもう。」(『サンサーラ』1993.12月号)
 

 以上のように吉本氏は述べている。

 思うに、歴史的認識とはひとつの見方に過ぎない。過去のいきさつから現象上このようにおもわれるとしても、必ず将来的にもそのような延長線上を辿るとは限らない。

 現在、物理学の領域でさえ既に、ある現象が「必然的」に惹起されるといった表現はとり得なくなっているのだ。まして人類の歴史となると、更に表現を慎まねばならないだろう。現象上の「原因」「結果」ばかりを追い求めていると、大切なものを見落としてしまうものだ。

 人類の歴史は、人々の抱く念によって大きく作用される。黄金・名誉等に対する慾が支配的になっているから現在のようなグローバルな資本の動きが出てきているだけで、決して人間、更には人類に組み込まれた決定的、若しくは「必然的」な動きではない。

 物質的に豊かになろうとして精神的に貧しくなっている、そのことに至れば、大地や海などの自然から、我々自身が見失っていたものを探し出そうとして、自給的な農作業にいそしむ人々も徐々に多くなってくるだろう。そしてこのことは、高度な文明国になればなるほどその反作用としてより多く生じてくるはずだ。ターニング・ポイントを迎えたものほど早く落ちていくからだ。

 感性及び洞察力に培われていない抽象的な思考では、どうしてもノッペラボウで直線的になる。挙げ句の果てには、日本全体が東京・パリ・ニューヨークのような市街地と同じようになってしまうこともありうると言い出す始末だ。

 しかし問題は、歴史をどう認識するかにとどまっていてはならないのだ。

 自身の認識が確立したら、その上でどうしていったらよいのかを個々の人が問われているのに、吉本氏は「認識」の上にあぐらをかいて、氏自身を合理化し正当化してしまっている。今グローバルな規模で進んでいるこの「すべてのものが支配し支配され合う」システムの土俵の中で、「これは歴史の必然だ」とうそぶき、ご自身の身の回りには高価なブランド品を集めている。そして、そのような支配システムの土俵の中に入ることを拒んでいる人達や地球の裏側で餓死しつつある人達には、まったくといってよいほどお構いなしだ。

 そのような歴史上の展開は、先生ほどの頭があれば見抜けると思うのだが、もしそうであるなら、「己の魂を悪魔に売り渡した」と批判されても弁論の余地がない。それとも「すべての事象に『善』『悪』はない」と、悟りすますのだろうか。そうするにしては、あまりにも人間ごと(評論もそのひとつ)に首を突っ込み過ぎてはいないか。

 わたし自身、夢も志操も誠実さもない民草々であるなら、そのような国は滅んでも構わないと思うこともある。しかし先生の場合、「国家」は滅んでも、「世界新秩序」の支配機構の中で「評論家」として、上とまでは言えずとも、中クラスの生活と名誉は保証されるのは確かだろう。だが、夢も志操もない人間の業(評論)など、おもしろくも何ともないのも明らかなのだ。

 今後日本においても九分九厘まで、そのグローバルな支配機構に組み込まれてしまうだろう。だが一厘のまつらわぬ人達が、「それじゃあ満足できねえ」と言い出して、この日本をどでかく変えていってしまうことになるのではないか。

 幸せな家庭、兄弟・姉妹、先輩・後輩、友人等の人間関係も大切だが、また確かに保証された生活・金・名誉等々も必要かもしれないが、それだけじゃあ満足できねえと、心の中に念じている人達こそ、夢と志操を持ったイイ男でありイイ女なんだとおもうのだ。そして、そういったイイ男達、イイ女達が、この日本を根本的に造り変えてしまう主体に違いないんだ。

 単なる「夢想」だよ、と言われても、そのような思いを強く抱いている今日この頃である。

 

(百姓天国第7集 1994.3.10 掲載)

 

  

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