両性具有論

 

 

 

  虚空への跳躍−−試して見よう

  そうすれば子供の生活に戻れるのだ

  以前のままの生活に

                    (ロール)

 

  前述の所では、物欲が支配する最底辺の法則の中で地獄図が何の様に歴史上描き出されて来たかを見て来たのであるが、ここでは、その水平的な動きに対して、それとは全く別な垂直的な動きがあることを示そうと思う。

 これこそが惟神の道であり、宇宙の理法(或は道=タオ)である。

 ところで生命には陰陽の性質が備わっていることから、この性質が何の様に働きかけて生命を発展させ開花させてゆくか、「両性具有」の状態を中心として考察してみようと思う。

 

 そこで、「両性具有」の概念は、古代から様々な形で論じられ、そして様々な内容を与えられて来たのであるが、ここではまず、その様々に異なった内容を一つの相の下に総観して、私なりに体系付け、その発展的な構造を段階的に説明してみよう。

 そして後半では、至高の彼方へ至らんとする者達が辿る聖性の道を、その「両性具有」の体現という観点から見てみることにする。

 

  一、始原の風景

 

 最初に無機物界において。

 ここでは性別なるものは発現されて来ないが、この世界を支配する力の性質として「陰陽」が区別され、その両者がそれぞれ、女性原理・男性原理として働くことになる。

 その運動は、まず陰と腸が分裂し対立している状態から、次に両者が合一して全的な融合状態(両性具有の体現として)を持つに至る。そしてやがて、その状態は再び分裂・対立の状態に戻り、それらのことが繰り返し無限に続いてゆくのである。

 この「陰陽」の概念内容は、虚空から吹き出される風そのものが持つ渦を基盤として、その渦が形作る波の状態が、陰なるもの、陽なるもの、と区別されることから来るのである。

 その場合、一つの波の状態を相反する二つの異なった側面からそれぞれ分析し把握する為、陰に対して陽が、又は陽に対して陰が設定されることになる。

 然し、それらが一つの波の状態である以上、その一方の消滅は、即片方の消滅とならざるを得なくなる。

 そして、その両者は一つの大きな生命の渦に支えられている以上、常にその渦の中での全的な融合へと向かうことになるのである。

 このように、渦の中に波が立ち現れ、やがて消えてゆくのに対応して、陰陽も分裂しながら互いに働きかけ、その働きの中でやがて分裂は極点を向かえ、一つの全的な融合状態の中で解消することになる。

 ところで、我々のこの世界を支配する力を単純に、強弱を基準とした一元的な性質のものとして扱うことは出来ないであろう。それ自体その陰陽という対極的な両性質を持つ為、たとえ強弱を基準とした弱い取るに足りない力でも、その性質上相手との関係の中で、強大な力を誘うことにもなる。

 そして、この分裂した陰陽の両極から引き出される強大な力が、上位に立つ生命を産み出すことになるのである。

 

 次に植物界において。

 生存的欲求の下でも陰陽に分裂し、その分裂の中で養分なり水なりを求めることになる。そして、その対象の吸収によって陰陽の分裂は解消され、飽和・融合状態となるのである。

 性的欲求に関しては、まず細胞は、無性(未分化のままの両性具有)として単純に分裂し繁殖する。然しその場合でも陰陽の分裂は繁殖時の細胞内に生じていて、その分裂が、生命の分化・発展の後に性別となつて発現されることになるのである。

 次に高等植物の場合では。種子は無性として発芽し成長する。そして、やがて繁殖の時期に至ると性別が形成され出して来て有性となり、その両性の合一によって新たな種子が残されることになる。

 このように、植物も分化・発展して来ると、形式的にも性別が形成され出して来るが、その繁殖の方法がすべてではなく、又・繁殖率も高い為、その性的欲求(男性原理と女性原理との結合)は、動物界のそれと比較してかなり弱いと言わねばならない。

 ところで、生殖において、何故両性に分裂してからその後で結合するようになるのかに関しては、生命が高度に分化し発展すればするほど、生殖の為により強大な力が必要となつて来るからであろう。その為に、単純な分裂・繁殖から、まず両性(正反対の両極)を生じさせておいて、その間に強大な力を引き起こさせるようになるのである。

 さて、その力は、正に古代ギリシアでは、エロスと呼ばれたのであり、動物界以上の、生命がより分化・発展しているものにおいては、それが非常に強大な力を持って発現され出して来ることになる。

 

 そして動物界において。

 特に性的欲求に関して述べると、植物と同様に、細胞が無性のまま分裂し繁殖するものから、生殖の時期にだけ有性となつて性別が現れて来るものもある。

 然しここでは、生命がより分化して来て、一生涯の間性別を持つものが発現して来る。そして、その発生上の性別に応じて形態上に差異が生じて来ることになるのである。

 このように、以前は繁殖期の固体の内に両性が分裂して発現されて来ても、やがて再び無性に戻り、その分裂は解消されていたのであるが、この段階においては、一生涯分裂したままで相手の性を追い求め続けることになるのである。(一生涯と言っても、性的欲求が発現され始めてから、その欲求が止むまでではあるが。)

 この状態は、正にプラトンによって喩えられているように、此の世に投げ込まれる時、以前の何らの分裂もない全的な融合状態から二つの性に切り離されてしまう為、此の世では、その切り離された者同士は、互いに己れの片割れを探し求めてそれと融合しようとするのである。

 そして、そのような場合此の世では、その片割れは常に己れの分裂状態を持ち続けなければならなくなることから、より一層相手との融合状態を渇望することになる。 その為、その融合の際に費やされる力は莫大なものとなり、融合が果たされた後では、己れの生命さえも保ち続けることが出来なくなる場合も生じて来るのである。 又・たとえ生き残るとしても、その両性の融合は瞬間的なもので、次の瞬間には既に両性に分裂してしまっていることになる。

 このように高等動物においては、生殖の際により強大な力が必要となり、それだけ両性の分裂は決定的なものとなる、

 

 最後に人間界において。

 まず、反省的能力が備わり、その上生産力が向上して来ると、生存的欲求の他に物質的欲求が強く発現し出し、陰陽の激しい分裂の中で対象を飽くことなく求め出すことになる。

 即ち、動物的な段階では、当面の対象が獲得され満たされるとその陰陽は解消し、やがてまた陰陽が分裂し出して、新たな対象を追い求め出すことを繰り返しているのであるが、人間の段階では、その反省的能力が備わることにより、無限の時・空に限りなき欲望の対象を描き出し、それにいつまでも執着するといったことがなされるようになるのである。

 次に、性的欲求は、決定的な分裂状態にある両性にとって、非常に強く発現して来る。

 ところで、赤子が生存的欲求そのものであるのに対して、少年・少女の時期においては知力が充実し、その上未だ性が分裂しないままである為、その無垢な姿には「両性具有者」の持つ永遠性の影が刻み込まれていることであろう。

 然し、やがて成長して性的欲求が強く発現し出し、性が分裂して来ると、男と女とになって強烈に相手の性を求め出すようになる。

 女の性では、まず恋愛や男心を征服すること、及びそれに関係することに注意が向けられる。

 次に、男は単に種を蒔き飛び去って行くにしか過ぎない性であるのに対して、女は子を孕み、それを育てることが重大な関心事となつて来る。その為、女の性は受け身ではあるが、自然の大地(深淵)にどっしりと根差しており、生活そのものとなる。

 又、知力はその生活にすべて仕えねばならず、従って現在の些細なことに執着し、現在の利得に汲々となる。

 そして、己れの意欲に基づき直観力は鋭く働き、眼前のものを鋭く見抜くが、その視野は狭く、遠い先にあるものはその視野に入ってこない。

 以上のことから、女の性は思想・哲学には向かず、単に音楽や絵画などの感覚的なもののみに、その芸術上の表現を見出すことが出来るだけであろう。

 然しそれとても、その意欲の為、純粋に無となって飛翔することは困難であると言わねばならない。

 ところで、物質的欲求が強烈に発現され出して来ると、夫や子供を手段として様々なもの(即ち物・金・権力・権威・名誉・安逸等)を追い求めることにもなる。

 その場合その性では、一般的には直接的支配に向かわないことから、夫や子供の名誉・権威などに対する虚栄が特に強くなって来るであろう。

 最後に、女の性は孤独を解せず、常に他の者との関係を持とうとする。友人関係においても、恋人間係においても、夫婦関係においても、又・親子関係においても、常に従属・支配の関係が生じる。

 これは男の性に関しても同じで、如何に個人の自由を保証し合ったとしても、それらの関係に執着する限りは常に、その従属・支配の関係が生じて来ざるを得ないのである。

 さて次に、男の性に関しては、単に精子を供給するのみで、子供を養育する役割までは与えられてはいないと言わねばならない。然し、子孫の存続が困難な場合には、共同生活につながれ、その養育を助けるようになる。

 その為、男の性は女の性と比較して、自然(深淵)に根差す程度は浅く、従って理性的な生きものとなる。だが、その為に直覚の中で表されたものを無理に歪めて解釈してしまうことにもなるのである。

 これに対して、女の性の直観力が鋭いのは、理性が施す解釈などに引き摺られないからであろう。

 このように、女の性が生活レベルの諸欲求のみに仕えているのに対して、男の性は、その理性の力によって様々な思想や哲学を編み出すことが出来るのである。そして又、下位的な諸欲求から切り離されて、そのまま天空を天翔けることもなされ得、そこで写し出された様々な働きかけを芸術作品として残すことも出来るであろう。

 ところで、男の性では、物質的欲求の下で能動的に直接対象を支配・所有しようとする為、その支配・所有関係には、常に男の性が前面に出て来ることになる。

 さて、以上のように、生存的欲求の場合と同様、物質的欲求の下でも、陰陽が分裂して激しく対象を求め出すことを、又・性的欲求の場合でも、本質的にはその陰陽が分裂するのであり、生命の分化・発展によって性別が発現され出して来ると、その片割れ同士が激しく相手を求めることを見て来た。

 然し、更にこの人間界では、以上の下位的な諸欲求が発現されず、陰陽に分裂していない状態において、表象能力が純粋に高まり知的な欲求が満たされることにもなる。

 即ち、その陰陽の分裂が一時的にも癒され、情意の海に懸かる天空の中を統一主体(知性)は天翔けることになる。

 そのような場合、凪いだ情意の海には全的な統一・融合状態が認められ、「両性具有者」の影が射すことになる。

 インスピレーションを得た哲学者や芸術家には、分裂状態が掻き消え、「両性具有者」の趣がもたらされることであろう。

 然し、その全的な統一・融合状態も一時的なもので、その時が過ぎ去れば分裂が再び生じて来て、陰陽の強い支配を受けざるを得なくなるのである。

 その場合彼は、その知的な欲求の下で、日常の連鎖から解き放たれその全的な統一・融合状態へ、即ち無となつて天翔けた天空へと入り込もうと意欲するのである。

 さてところで、以上のことから、生存的・物質的欲求に基づく陰陽の解消は一時的なもので、再び両極が分裂して来て空腹感が覚えられることになってしまう。又・性的欲求に基づく両性の融合は瞬間的なもので、次の瞬間には既に分裂し出して来て不満足な状態になってしまう。そして知的欲求に基づく全的な統一・融合状態も一時的なもので、その時が過ぎ去れば再び分裂し、満たされない状態に戻ってしまうことになるのである。

 その為、個体は、常に満たされない渇きを覚えることになり、その渇きを永遠に満たそうとし出すことになる。

 その場合、分裂状態が激しければ激しいほど、その間に引き起こされる力は非常に強大なものとなり、融合しようとする欲求も強まる。そして、その強大な力によって、統一主体は至高の高みにまで押し上げられることになり、ある極点において、その分裂状態は怒涛となつて全的な融合状態へと向かい、解消することになる。

 然し、そのような場合、その至高の高みに押し上げられたまま、その力が一瞬の間、全く消え失せると、そのまま彼は真空の中に超出することになるであろう。

 陰陽の分裂状態から引き起こされる莫大な力の渦に押し流されながら、至高の高みに打ち上げられた統一主体は、何らかの切っ掛けからすべての意欲が打ち砕かれると、そのまま虚空に超出し、その中に漂うことになるのである。

 その時、その分裂状態だけでなく、融合状態をも発現させる統一力(生命の海)から全く逃れ出て、完全なる「両性具有者」となる。その超出した虚空の中で永遠なる女性(男性)を見出し、それと一体となる。

 そしてそれ以降は、如何なる分裂状態を体現しようとも、常にその「両性具有者」の刻印が認められるようになるのである。

 その虚空の中で見出された永遠なる女性(男性)は、常に己れ自身の内に止まることになるのである。

 

  二、至高の彼方へ

 

  裂傷は豊饒さの現れである。  (G・バタイユ)

 

 決定的に切り離され、此の世に投げ込まれている個体は、その激しい分裂状態の中で全く孤独である。

 そして、その分裂状態の故にこそ、あの全的な融合状態を渇望する。

 全く孤独であるからこそ、交感がどうしても必要となつて来るのである。

 その分裂の程度が高ければ高いほど、その交感の程度もより一層深くなって来る。そして、その交感の中において得られる自由性も、それに応じて高まって来る為、孤独になればなるほど中途半端な自由性ではどうしても満たされることが出来なくなる。常にその先を目指し、至高の彼方へと歩みを進めることになる。

 その歩みは孤独に徹することになり、そこにおいてもたらされる苦悩は強大なものとなるが、同時に歓喜は無上のものとなる。

 単なる些細な感情にもはや惑わされることはない。

 甘ったるくなまぬるい関係は徹底的に否定される。

 凍てついた無機物質の天空と、ほとばしり出る鮮血が、その孤独と交感のイメージとなる。

 己れの世界を相手が理解しないといって嘆くのは、まだ相手との関係に頼ろうとするからに他ならない。

 如何に関係の中に助けを求めた所で、常に裏切られるだけである。

 問題は、己れ自身と直面すること。

 傷口に向かいあい、それを直視すること。

 孤独の中で死ぬこと。

 以降、誰にも何ものをも一切期待しなくなる。交感のみを、あの己れを焼き尽くす全的な融合状態のみを目指すことになる。

 ところで、至高の彼方へ至らんとする時、彼にとって関係はあまりにも重荷である。

 一切の関係は徹底的に否定されてしまう。

 家庭内の平和・生に対する保証・甘ったるい時間、すべては否定されてしまう。

 そして、そこで引き起こされるとほうもない力は、一切の客体を否定すると同時に、当の否定の主体、己れ自身までをも否定してしまう。

 その苦悩の極点において一切を打ち滅ばし、虚空へと超出した者は、初めてその中で永遠なる女性(男性)を見出し、それと一体となる。「両性具有者」となる。

 恰も、泥沼から育ち水面上に花開く白蓮の如く、恰も混沌とした世界を眼下にして聳えるヒマラヤ山の如く、彼は至高の彼方(彼岸)に至り、ブラフマンとなる。

 それ以降には、新たな関係が生じて来ることであろう。超人のみが持ち得る関係、両性具有者達の自由なる連合。支配・従属関係ではなく、闘う友となる。

 煩雑な関係の中にあってもそれに執着せず、煩わしい風に吹かれても、その眼は常に一点のみを見据えている。

 以前には、個人が関係によって歪められ、そして関係が金銭・権力・権威・名誉などで歪められていたのであるが、ここでは、一切の関係に執着することなく、個々の者が己れに定められた星に従い、叡智的な世界を此の世に現出させようとするのである。

 

 

両性具有論ーーおわり

 

 

つづく

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