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[2001-09-10 新聞 第10号より]
明治の世は遠く、郷愁の浦安
高津建蔵 老

   漁業権を放棄して30年、いま・・・
昔、ヂッチャンだった
今度逢ったら、またヂッチャンだった
波紋のおでこと漁師の腕だった
布益正隆浦安文学賞奨励賞受賞

《高津建蔵老の聞き書き》 

孫市のヂーチャンが言うには屋号を「金の助」というチャンコと三人は葛西の沖でシケに会い、横波をくらいフンゴンダ(沈んだ)。

こういう時は船をチョトでも軽くする。取ったばかりのアサリを海の中へウッチャラなければ(捨てる)いけネーけど間に合わなかった。

後で見つけられた時、三人は船にしばってあった。船から離れると流されるだんベネ金ナーコは次の日に見つかった。オッカーが抱いて暖めたが死んでいるものはダメだ。 女房を見ると悲しかった。自分も何度も恐ろしい目に合った。波が立つのは片側が深く反対側が浅いためだ。アサリは寒い時の方が商売になるから漁に出たが、ジーチャンも恐ろしい目に合った。

アサリを大急ぎで海へ返したが、そんな時は三打櫓で目一杯押したが船はなかなか動かない。北風はおっかなかったネ。やっぱりポンポンポンと走る焼玉エンジンは革命的だったわな。昭和になり機械船になったが、初めは大まき船には付いてなかった。

大まき船の稼ぎの配分は船主が少しよけいだった。一人メー、半人メーと、それに応じてカネを分配した。自分は今、九二歳、生まれは浦安村から浦安町になった年、小網漁師の家だった。祖父母が奉公していた時、主人から「ノリ漁師も面白い」と聞いてノリにもした。ノリ棚は初めナラの木を使ったが次は竹枝を棚に刺して使った。

キヨリは七分、漁は三分

それからノリ網となったが、使い易さにビックリ。

カレイ、エビなどの漁の中心は小網、十二歳から漁に出た。魚が思わしくない時は、アサリ、ハマグリ、エンボウを取った。三番瀬が一番の漁場だった。

朝三時に家を出て午前五時には漁場に着き、午前中に帰る。漁によっては、夕方出て朝帰ることもある。風が出て漁に行けない時は、網をキヨル(なおす)仕事。魚は破れ目から逃げるから、漁師にとって網をキヨルことは大切な仕事だ。

キヨリ七分、漁三分が小網漁師の毎日だ。面白いのはキヨリに使う道具はどうも世界共通みたい。

運命の本州製紙事件

ヂッチャンの小網漁の歴史は、エビ、サヨリ、シャコ(コハダ)、ガアーニ(カニ)、カレイになったが、昭和三十年代の本州製紙事件(廃液を海に流した)を境に魚もアサリも全滅に近い大打撃を受けた。これをきっかけに漁業権全面放棄に向かった。自分は船を降りた。昭和四二年から翌年のことだった。悲しかったな。

浦安の魚は何を食っても旨かったネー。漁は五井から上総あたりまで行ったネー。行きは二十櫓で約二時間、帰りは帆を張って帰るから1時間位。魚は五井では二足三文だが浦安ではいい値段でよく売れた。

風が強くなれば無理をせず木更津などの川に入って風を避ける。そのまま頭から帆をかぶって寝た。近くにうまいソバ屋があってネー。

ある日、帰りのニーム(屋号)のチャンコが帆をやっている時、カジをおっかいて(こわす)しまった。

しかたないから魯カジだけで帰って来たが、一人だからそんな物騒なこともできた。  それからは怖くていけネー。四人位で乗っていたもんだ。

一人では恐ろしいが、四人で行ってくることになっている。

浦安の町は昔も今も境川が中心になっているが、かっては問屋が並びそこで魚を降ろしたものだよ。


[ 注 ] 本州製紙事件
一九五六年、東京の江戸川べりにある本州製紙が黒い廃液を流出し、川や下流の浦安の海を汚し魚、貝が大量に死んだ事件。漁民は会社に乱入して警官隊と激突八人が逮捕。町長も議員も住人も一致団結して戦い浦安の人々が勝った。だが、一三年後に漁民は埋立などのため漁業権を全面放棄した。

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