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[2006-04-22 新聞 第16号より]

50年目、感激の対面



倉嶋記者と佐藤さん
「離れた恋人に会ったよう」


「お礼を言いたく探していた」


 迫真の戦後史である「毎日新聞社会部」(山本祐司著)は重版となったが、最大の謀略である「松川事件」で「死刑」から「無罪」へと生命を救う毎日新聞記者・倉嶋康さんと検察の幹部であるM検事正の極秘な活動があった。二人の行動は最高裁が死刑判決を出す寸前に行われるという奇跡であった。人命は何よりも重いのだ。


 「松川事件」は1949年8月17日深夜、福島県内の松川―金谷駅間で上り列車が脱線転覆、機関士ら3人が即死したが、レールがはずされ、8メートルも飛んでおり、明らかな列車妨害事件。当時国鉄では10万人を解雇、謀略が実行されそうな深刻な情勢があった。

 国鉄・東芝労組員20人が逮捕され、検事は求刑公判で10人に死刑を求めた。一審の福島地裁は5人に死刑、5人に無期懲役、他の10人の重刑の判決。二審の仙台高裁で3人を無罪にしたが、死刑4人、無期2人、他の被告は重刑で事件の骨格は変わらず、最高裁にかかっていた。この時、毎日新聞福島支局員・倉嶋康記者が登場する。まだ新聞記者になって2年。

 その頃「松川事件の重要証拠である『諏訪メモ』を検察側が隠している」―という噂があった。

 倉嶋記者は左翼関係に強い安田寛治弁護士に話を聞いた。

 「諏訪メモは東芝松川工場で行われた団体交渉で諏訪総務課長が取っていたメモ、交渉メンバー名が書いてあり、アリバイの成否にからんで、今の死刑をくつがえせるほどの威力を持っている」


 倉嶋 康 さん   
 
謀略は許さない

  倉嶋記者は 必死に諏訪メモを探した。「あれは検察庁の支部にあるが極秘だ」と検察事務官。

 倉嶋記者は検察トップのM検事正に会った。その頃、検察は極秘の捜査を行っていた。

 「ウン、あのメモはここにある」とM検事正。倉嶋記者は絶句した。「検事正は断るだろうな」と彼は思った。  だが、検事正のとった行動は全く違った。彼は諏訪メモの内容を極秘に倉嶋記者に教えたのだ。確かに諏訪メモの威力は凄まじかった。

 検察の冒頭陳述では、松川事件を起こすために佐藤一被告(一、二審で死刑)が8月15日午前、国労事務所に行き、謀議したことになっているが、諏訪メモによると同じ時刻に佐藤さんは東芝工場の団体交渉に出席しているのだ。佐藤さんのアリバイが成立し「松川事件」は根底から崩れた。

 倉嶋記者のスクープが衝撃を呼び、安田弁護士は「獄中の被告も家族も、倉嶋記者を神様のように思っている」と言った。諏訪メモは最高裁に提出され、やがて全員無罪の判決。倉嶋記者は「M検事正は豪放磊落な本当の正義派だ。彼がいたおかげで暗黒の裁判にならずにすんだ」

 そして2006年3月6日、山本祐司著「毎日新聞社会部」で松川事件の真実を知った佐藤一さんは倉嶋さんのいる長野市にかけつけた。

 佐藤さんは「私の生命の恩人」と言い、倉嶋さんは「離れていた恋人に会ったような気持」と応えた。2人は50年ぶりの対面だった。

 20人だった元被告は今では五人。国家権力は時として目的のためなら平気で国民を殺そうとする。  松川事件の被告全員無罪が確定したあと、松川事件弁護団(250人)はただちに「真犯人追及」の活動を始めた。この事件は調べれば調べるほど奇妙な事件だった。

 真犯人の影を追うと米軍情報部対敵諜報部隊(CIC)が浮かび上がった。弁護団がまとめた「時効完成を前に」によると真犯人は九人内外、体が大きく外国人風であることが共通している。

 さらに弁護団メンバーの松本善明(衆院議員)、いわさきちひろ(画家)夫妻が外出した際、書斎が荒らされ、お手伝い(20歳の女性)が誘拐された。

 間もなく女性は釈放されたが、体調が悪くなり大阪に帰り、二ヶ月後には急死した。

 また、松川事件の夜、線路沿いに歩いていた大男9人を目撃、その直後に列車が転覆した証言もあったが、1964年8月16日、時効が完成。真犯人もマボロシのように消えた。

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