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2002年6月29日〜30日 長野県栄村
 第13回ブナ林と狩人の会・・・マタギサミットは、長野県栄村で開催された。上の写真は、その交流会での一コマ。右の二人が秋田仙北マタギの皆川さんと鈴木さん・・・いかに盛り上がったか、お分かりいただけるだろうか。それにしても秋田から長野県栄村までの道程は長かった。それだけに、江戸時代、阿仁の旅マタギたちが上信越国境地帯・秋山郷まで、どのルートを通り、どれだけの日数をかけてやってきたのだろうか・・・といった疑問が次々と湧いてきた。
 大正時代のマタギ衆。戦前まで、数百人のマタギがひしめいていた旧大阿仁村。阿仁には、根子、比立内、打当のマタギ集落があり、旅マタギは、2〜3名一組で行動した。地元に狩人がいない猟場を開拓、樺太、北海道、青森、岩手、山形、福島、新潟、長野、群馬、岐阜、石川、富山、京都、奈良の山々まで遠征していた。  地図は、江戸末期から明治初期にかけて活躍した鈴木松治氏の先祖が、旅マタギをして書いたという会津黒谷山を描いた図面。新潟県境に接する山岳地帯で、只見川支流黒谷川流域には、朝日岳(1624m)、高倉山(1576m)などがそそり立っている。実際に足で歩いて書いたもので、川や沢、林、岩場、険しい高山などが入念に描かれている。
 「マタギ道・・・狩人たちのダイナミズム」(山と渓谷、2000年11月号)と題した田口洋美先生の記事を参考に、秋田県阿仁から長野県秋山郷までどうやってきたのかを簡単に紹介する。

 阿仁の旅マタギは、秋の収穫が終えた10月下旬、親方から旅の資金と巻物を借り受け、他国の猟場に向かった。雪が降り始める奥羽山脈を南下。山の尾根を中心に歩き、ウサギやタヌキなどの中型獣を獲り、マタギ宿でしばし体を休めた後、再び尾根道を南下していった。マタギ宿は、一般の農家に加えて、湯治場温泉にも数多くあった。湯治場には、病弱な人々も多く、獣肉や川魚、熊の胆を卸し、現金や米・味噌などの食料を調達した。それが縁で定番の宿になった例は、挙げたらきりがないほど多かった。

 旅マタギは、秋山郷周辺の山々が根雪となる12月上旬には猟場に姿を見せたという。文政年間、新潟県大赤沢という集落に、秋田から来ていた旅マタギが婿養子として定着。やがて彼らの子孫が婚姻などによって広がり、地元の人を指導しながら、秋山郷に狩人を増やし、狩猟組へと発展させたという。旅マタギは、地元の豪農をスポンサーにして猟を展開している点は、実に巧みというほかない。豪農を後ろ盾に、狩り小屋へ米味噌などの食料や物資、勢子役として村人を提供してもらいながら、猟を行い、近くの湯治場などに獲物を卸していた。スポンサーには、見返りとして、熊の胆やカモシカの毛皮などを届けていた。
 交流会であいさつする狩猟文化研究所代表・田口洋美先生。

 近世後半の秋山郷は、耕地のほとんどが焼畑で、鳥獣害に悩まされていた。当時、クマが出没し、これを駆除するために、深さ2m以上の落とし穴が幾つもあった。ところが、実際にクマを捕獲したという穴はほとんどなく、素人罠であったという。旅マタギは、こうした駆除の専門技術を持ち得ない集落に、雇われるなど急速に結びついていった。
 仙北マタギ衆4人。右から皆川さん、戸堀さん、小山さん、鈴木さん。4人は、金曜日の午後9時に車で出発、開催当日の明朝に栄村に到着。秋山郷まで足を運び、こんな遠くまで秋田の阿仁マタギがやってきたことに、一様に驚いていた。マタギ小屋の保存運動に奔走してくれた福原きよ美さん(旧姓遠藤)が秋山郷に嫁いでいるが、その民宿を見つけることができなかったと残念がっていた。
 左は、歓迎のあいさつをする栄村長高橋彦芳氏。右は、岩魚の塩焼き。
 乾杯。マタギサミットへの参加は131名。北は、秋田県マタギ小屋を保存する会、山形県小国町猟友会、朝日村猟友会、和田熊狩隊、新潟県山北町、三面猟友会、山梨県小菅村猟友会、長野県栄村猟友会、その他一般参加者と多士済々のメンバー(秋田県阿仁町は、町のイベントと日程が重なり、残念ながら欠席)。
 山形県小国町猟友会の伊藤さんと斎藤さん。来年は山形県小国町で開催することが決まった。冷酒「しめはりつる」がしこたま効きました。  右側がマタギサミットの幹事を務める田口先生。
 左がアウトバックの藤村直樹さん。彼の紹介でマタギサミットを知り、マタギ小屋の保存について大きな賛同を得ることができた。熊撃退スプレー・カウンターアソールトや南部熊鈴、マタギ山刀などの販売を手がけている。熊に関する総合情報サイト、OUTBACK TRADING COMPANYは必見の価値あり。  大きな盛り上がりを見せた交流会。手前は小山マタギ、奥に初めてマタギサミットに参加した皆川マタギ。ブナの森の狩人たち・・・その生活の知恵、技術、経験は貴重なものだ。宴会は、場所を移して翌朝まで続いた。凄まじい酒豪も多く、完全に酩酊、マイリマシタ。
 翌朝、宿泊場所の「トマトの国」から栄村を望む。熊が多そうな山々が連なっている。この反対側の山は、1000m前後と低く、かつては熊が住まない場所だったが、なぜか最近熊が出没するようになったという。熊の分布に異変があるのでは・・・。
 栄村の田んぼと杭などを保管している小屋(右の写真)。なぜかマタギ小屋を連想させる合掌造りに目を奪われた。豪雪地帯の知恵、それとも阿仁マタギの狩り小屋を伝承したものだろうか。
 会場で売られていた書籍。

 「マタギ-森と狩人の記録-」(田口洋美著、慶友社、1994)、「マタギを追う旅-ブナ林と狩りと生活-」(田口洋美著、慶友社、1999)、「秋田マタギ聞書」(武藤鉄城著、慶友社)、「仙台マタギ 鹿狩りの話」(毛利総七郎/只野淳著、慶友社)、「ベア・アタック」全2巻(S.ヘレロ著、北海道大学図書刊行会)
 講演は狩猟文化研究所代表の田口洋美先生の「秋山郷とマタギ文化」、野生動物保護管理事務所の泉山茂之氏と信州ツキノワグマ研究会の林秀剛氏の「奥山放獣の方法と課題」。全体討論では、特に猿害が驚くほど増えている例が数多く報告された。

 山形県朝日村では、かつて村から11キロ離れた山奥にしか猿はいなかったが、最近は村の下流18キロに出没。栗は収穫ゼロ、白菜、トウモロコシ、枝豆など畑作物の深刻な被害を報告、「熊はかわいいが、猿は憎らしい」と語った。秋田でも白神山地の八森町で猿害が年々深刻化、都会のボランティアを募り猿の追い上げを行ったりしているが、猿害の決め手にはなっていない。逆に畑仕事をしている高齢者を脅したり、隣の峰浜村にも出没するなど、悪質化、広域化しているのが実態だ。

 「メスを減らさないと駄目」との意見が出たが、動きの素早い猿のメスとオスを瞬時に区別して撃てるか、はなはだ疑問との声が上がった。有害駆除だけでは無理、やはり食べられないような対策が必要だ。即効性の対策と長期的な対策が必要など、様々な意見が出された。決め手が見つからない議論が続いたが、「猿まわしの会」から紹介された熊本県の鹿島さんは、長年猿害対策に携わった経験から「猿害は止まる」と断言。猿は賢いとは言っても、猿より人間の方が賢い。どれだけの猿がいるか、その地域にどれだけの群れの数と頭数が必要かをまず調査すべきだ。猿と人間との棲み分けを考えて猿害対策を考えることが重要と語った。
 秋田県わらび座ミュージカル「山神様のおくりもの」・・・山に生き、山に生かされた人々が織り成すいのちのドラマ。平成14年7月7日、津南町総合センター体育館で開演される。

 四季の彩り鮮やかな秋田の山里に、かつて「名人マタギ」と呼ばれた繁蔵と孫娘のさよが暮らしていた。訳あってマタギをやめてしまった繁蔵は、仲間の忘れ形見の弥之助を一人前のマタギに育てようとしてきたが、外の世界に憧れる弥之助にはその気がない。弥之助を兄のように慕うさよの心は揺れる。
 そこへ「伝説のマタギの孫娘・さよを嫁に」と、近在一の鉄砲ぶち゛熊゛が現れる。弥之助は「一緒に村を出よう」とさよに愛を告白するが・・・。
 若い二人の雄渾なマタギの心が織り成す愛のミュージカル。
 左:戸堀マタギときよ美さんの夫・福原庄一さん。秋山郷で民宿「えーのかみ」(TEL・FAX:0257−67−2119)を営んでいる。右は、福原さんからいただいたヤマワサビの漬物(瓶詰め)と乾燥ゼンマイ。秋山郷の味をありがとうございました。

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