月刊アジア創刊準備のための旅行記サンプル
ちょっと長めに(冗長に)書いてあります。
文中のリンクは図面を除いて225*150の大きさのGIFファイル(サイズはおおむね25K程度)を指しています。

#もう少し簡潔に書いた方がよいかな?

インドネシア・フローレス島前編
フローレス島はインドネシアの東南部、東ヌサテンガラに属する島である。
我々がフローレス島を訪れたのは約一ヶ月にわたる調査旅行の最後の4日間。最大9人で構成されていた調査隊も、調査日程の最後は出来るだけ多くの地域をカバーするべく3グループに別れ、フローレス島に来たのはわずかに2名であった。
チモール島クパンからの飛行機は定員が10人そこそこ。初めて乗ったときにはおっかなびっくりだったこのメルパティヌサンタラ航空のツインオッター機も今では操縦席が見える楽しい飛行機である。しかし、降り立ったエンデ空港はこれまで降りた空港の中でも最も小さいクラスの空港だった。
早朝便であったためエンデ空港着は朝9時。しかし同じ便に乗ってきた中には観光客らしき人は見あたらない。全て現地の人たちのようである。エンデ空港に身軽ないでたちで降り立った人たちはみな小型乗合バスのベモに乗り込んでいなくなってしまった。

さて、重い荷物を抱えてどうしよう。

インフォメーションカウンターは? ない。
タクシー乗り場は? ない。
当然のごとく市街中心部ははるか彼方である。

こういう時はあわててもしょうがない。とりあえず小休止して考えよう。と荷物をおろした我々に空港のボーディングカウンター(とにかくちっぽけなカウンター)にいた男が「どうしました」とばかりに(とりあえずかたことの英語で)声をかけてきた。

市内に案内してやるという。
あとでこいつは結構とんでもないやつだと判明するのだが、その時はそんなことはわからない。おお、それはありがたいとばかりに男の後につづく。
空港からでてバス通りにでる。男が乗合バスのベモを止め、3人乗り込む。
ほどなく街の中心部について案内されたのは雑貨屋の店先である。どうも男はこの家の主人で、週に3便ほどやってくる飛行機にあわせて空港に出勤するらしい。まあ、とりあえず町中にきたな、ということで早速調査のための自動車チャーターの交渉にとりかかる。

ところが、英語が全く通じない。
そう。全然通じない。

この男が話せる英語は「どうしました」だけであることに気が付いたときには時すでに遅く、見知らぬ街の見知らぬ店のなかで、インドネシア語しか話せない人たちに囲まれていたのである。

その店の女の子(日本で言えば中学生くらいかな)が片言の英語で応対にあたってはくれるがどうもらちがあかない。チャーターを頼んだ車は期待していたランクルではなくベモであったり、運転手だけで済むと思っていたのに交代の運転者とパンクしたときの修理屋と称する男がくっついてきて合計3人を雇い入れることになったり。大騒ぎである。結局その店で小一時間もたついた結果、ようやく近所のレストランで働いている男(ピウス・クレデン君という名前でした)が呼ばれてきて、話が通るようになったのはすでに11時を過ぎた頃であった。

ピウス君の勤める食堂で早めの昼食をとったあと、銀行でTCを現金化し、昼過ぎにエンデを出発する。今日の目的地はエンデより西に80Kmほど行ったバジャワの街である。

フローレス島は東西約400Km、南北約70Kmの細長い島で、いくつかの民族が住んでいる。東からララントゥカ、エンデ・リオ、ンガダ、マンガライなどの民族で、今回の調査対象はエンデ・リオ族とンガダ族の2つである。

橋が無いため川を直接車で渡ったり、ヌサテンガラ地方の中で最も道が悪い、といわれるフローレス島の悪路を5時間走ってバジャワの街に着いたのは夕方5時。ロスメン(宿屋)にチェックインする。なんと運転手達は費用節約のために車の中で寝るようで、彼らの宿は心配しなくても大丈夫であった。

バジャワの街から徒歩で30分程度のところにボロジという村があって伝統的な集落が残っているとガイドブックに書いてあるのでとりあえず行ってみようということになった。夕暮れ迫る田舎道を歩いていくと帰宅途中の陽気な少女が笑いながら英語で話しかけてきた。
「きゃん ゆう すぴいく いんどねしあん?」
こちらもにこにこ、英語で答える
「のお。あい きゃん すぴいく おんりい「てりまかし」「すらまっと ぱぎ」「さや まう まかん なしごれん」」
(ありがとう、おはよう、やきめしが食べたい、くらいしか話せないよ)
少女たちは大いに笑う。そしてたずねる。
「ほえあ あー ゆー ごおいんぐ とぅ」
私たちも答える
「じゃらん、じゃらん」(散歩だよ)
少女たちはまた笑う。なかなか楽しい散歩になった。
彼女たちに年齢を聞くと13歳だということであった。

ボロジ村の途中のワルソバ村に着いたところで、日はとっぷりと暮れてしまった。しょうがない、引き返すか、と思ったが、村の真ん中の広場に何か立っているようなので、とりあえず懐中電灯で照らしてみる。
高さ3mくらいの傘のお化けみたいな物が腕を生やして剣を振りかざしている。ちょっとビックリ。
これがいわゆるンガダ族の名の由来となった「ンガドゥ」という男の先祖の象徴のオブジェである。これに対応した女の祖先の象徴としては、「バガ」というほこらのような家のミニチュアのようなオブジェがあるのだが、この時はそれには気が付かないで宿にもどった。

一夜あけて今日は調査である。さて、とりあえずは何処に伝統的集落があるのかな、と考えているところに、またもや怪しげなおっさんが現れた。
わりあいちゃんとした英語で、自分はエンデ大学の先生だという。たまたま今日はバジャワに来ているが、いろいろ集落を回るのなら案内してやるという。
まあ、断る理由もないし一緒に来ますか、くらいの気持ちで同行を許可するが、この時点で客が2名、運転手、助手2名、ガイド2名と明らかにアンバランスな構成となっている。なかなかあやしいぞ。

最初に行ってみたマス村には伝統的住居は残っていなかった。
ンガダ族の村はきれいな長方形の広場を囲むように住居が並び、広場の中にンガドゥ、バガ、ペオなどのオブジェが立つ構成になっているが、マス村は土台部分を残して壊れた住居が一棟あるだけでンガドゥもバガもない。とりあえず広場の大きさだけ実測して次の目的地、ベナ村に向かう。
途中この近辺では数少ない観光資源の一つである温泉の横を通過する。押し売りガイドの先生は寄りたそうな顔をするが無視して通過、ベナ村に着く。

ベナ村はかなりの傾斜地にある。しかし、こういう中でも長方形の広場を住居が囲む構成は変わらない。広場は高さの異なるいくつかのレベルに分かれていて、広場の上の方から見るとその様子がよくわかる。
ンガドゥに対応してバガも広場に配置され、両脇を住居が並んでいる。
ベナ村調査中には何度も強い雨が降り、押し売りガイドの先生が「帰りの道がぬかるんで動けなくなる可能性があるから早く戻ろう」と主張し、ベナ村はわずか1時間の滞在で調査を終えなければいけなかった。

バジャワの街に戻り食事をとったあと、もう一カ所良さそうなところとしてピックアップしてあったウォゴ村に向かう。

ウォゴ村は全体図を見てもわかるようにフラットな場所にきれいに長方形に住居が並ぶ集落で、ンガドゥバガもきちんと広場の中に並んでいる。
ンガドゥの脇には図面からもわかるとおりペオと呼ばれる水牛をつなぐための石の棒と、石を敷き詰めた会議場がある。
石の会議場の横にはもある。
住居は草葺きの暗い部屋の回りに竹を組み合わせて作った屋根を持つ付属室がくっついた形で、我々はその中の一軒内部を見せてもらい、付属室から草葺きの暗い部屋へ通じる部分の写真を撮らせてもらった。
住居の裏手はブタ囲いになっている。また、多少の耕作地もあった。

ウォゴで2時間程度調査をおこなったあと、我々は再びバジャワの街に戻ってきた。

バジャワの街には、ガイドのピウス君の親戚が住んでいて、ちょっと挨拶に行って来たあと、宿に戻ってきた。

さて、明日はまたあのラフロードをエンデに戻ることになる。ちょっと憂鬱だな。


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