ホームページへ


特別企画

大谷羊太郎先生インタビュー


 

 大谷羊太郎先生は、「死を運ぶギター」(「推理界」1968年8月号)で作家デビュー。1970年、『殺意の演奏』で第16回江戸川乱歩賞を受賞して以来、芸能界を舞台にした密室殺人ものを立て続けに発表する。昭和40年代前半にデビューした斎藤栄、森村誠一、海渡英祐らとともに謎解きを中心にした作品の復権をめざし、本格ミステリー・ファンを喜ばせた。また、「《謎の女流作家》鷹見緋紗子」(「東京女子大を中退した昭和18年生れの主婦」とされていた)の企画に加わったひとりとしても知られる。

 今回、大谷羊太郎先生へのインタビューがかないました。
 われわれファンのために、貴重なお時間をさいていただいた大谷羊太郎先生に感謝いたします。

 

 

デビューまで
乱歩賞を受賞して
トリックと作風の変化
鷹見緋紗子のこと
近作について


 

■■デビューまで

―― 大谷先生はデビューされてから、常に、ミステリー界一線でご活躍しています。最近、昔の推理文壇のことを知らない人も増えていますし、実作者の立場から色々、教えていただけたらと思います ――

大谷「もう、知ってることは全部お話しします」

―― 大谷先生の経歴を見ますと、浦和の出身で、浦和高校を出て慶応大学の国文科に行き、その後、バンドマンですよね。で、バンドマンから作家になった。当時、いえ、現代でも非常に珍しい経歴です ――

大谷「はい」

―― 小説は子供の頃から ――

大谷「もう本当に、好きだったです。母親が特別な教育をしたんですね」

―― そうなんですか ――

大谷「母親が、もの凄く、小説家に憧れていまして。僕が小学校上がる前に、新聞小説を毎日読んで聞かせます。読売新聞とかの連載小説をね」

―― 子供向けではなく、大人向け ――

大谷「大人向け。『丹下左膳』とか、今でも、覚えてます。ちょっと特別だったんですね」

―― そうだったんですか ――

大谷「小学校上がる前だから、二・二六事件とかその頃、クリスマス・プレゼントにノート一冊を持ってきて、(これが)日記帳なんです。で、毎日書かせる。今日は何もなかったと言うと、何もなかったってことはない。顔を洗って歯を磨いたシーンだけでも書けると。それをやっていたら、文章は何でも書けるようになった」

―― 英才教育のような ――

大谷「そうですね、英才教育ですね。小学校の同窓会があると、みんな言いますよ。綴り方って時間があって(自分の書いたものを)読ませられるんだけど、ひとりだけ違う。小説風にできてるって。だから本はずいぶん読みましたよ。でも作家になる気はなかったねえ(笑)」

―― 大学の頃は純文学の方を ――

大谷「そうそう。友達と一緒に同人雑誌を作ろうなんて言ってね。できなかったんだけど、仲間集めたり。図書館通って、芥川賞(受賞作品)を、第一回からずっと読んだり」

―― で、大学生からバンドマンになるわけですが、音楽の方は ――

大谷「僕たちの年代だと学校でろくに音楽を教えなかった。それに戦中は敵国のアメリカやイギリスの音楽、イギリスの音楽、聴いちゃいけないんですね。そんな時代でした。何にも知らないで終戦迎えて、同時にアメリカ軍がダーッと来て、ラジオで毎日流れてくるわけですよ、向こうの音楽が。で、感動したわけです。こんなすてきな音楽があったのかと」

―― ええ ――

大谷「で、アメリカ音楽好きになったけど、演奏となると、当時のことですから、中学生などには手が出せなかった。それがある切っ掛けから楽器を独学で習い始めた。僕はスチールギターを弾いたんだけど、その楽器は埼玉県では売ってなかった。銀座行かないと。家、お金があったからね。銀座の山野楽器店で買って、独学で」

―― 独学ですか ――

大谷「テレビも録音機もないわけですよ。大学に入るまでは教えてくれる人もいない。どうやって弾いているのか分からない。だからラジオに耳つけて、もの凄く熱心に聴いて、のめり込んでいった。で、バンドマンを始めた理由は、親父が破産して夜逃げして、収入が止まったわけですよ。アルバイトしなければならなくなっちゃって、その時にいろんな運が重なっているんだけど、プロになるんですよ。当時、大学二年生ですよね。プロになれるはずないんだけど、アメリカ軍の基地がもの凄くたくさんありまして。そこのクラブが生(バンド)の音楽を聴きたい。ジャズ・バンドはあったんだけど、カントリー音楽が聴きたいんですよ。アメリカ人は、カントリー音楽なしじゃ生きていけない。ところが、カントリーという音楽は日本にない。だから戦後にできた少数のバンドは、引っ張りだこですよ。で、ツテがあってカントリー・バンドに入った。ただし、ライセンスを取るのに国家試験があった」

―― あっ、そうですね ――

大谷「課題曲と自由曲と演奏しましてね、それでライセンスを取った。今でも持ってますよ。それがないと、ベースの中で仕事をするのは無理。駄目とは言わないけど……。オーデション・カードといってね、日本国政府の判子が押してある。非常に貴重品なんです。僕が取った二年後に、日本が占領下から独立しましたんで、いらなくなったわけです。内務省特別調達庁芸能課というところで、審査するときは一流の音楽人がずらっと並んでる。で、取ってからは、浦和から東京の溜まりへ毎日通っている。今夜の仕事があるかないかは、午後、電話で聞くと分かるんですよ。授業中に鞄持って教室抜け出して、今日ないよって聞いたら、また鞄持って教室に戻る」

―― (笑) ――

大谷「苦学生だね。それをやってるうちに、だんだん本物になっていった。僕としては、一日も早く辞めたくてしょうがなかった」

―― そうなんですか ――

大谷「音楽は好きだけど、こんなことやっててどうするんだと。何しろ浮草稼業ですからね」

―― では音楽活動をしながら、他の道を ――

大谷「模索はしてたけど、なかったですね。大阪のバンドにも、九年間いたし、演奏活動では全国歩いてます。就職試験受けて会社に勤めたくても、仕事が休めないんですよ。音楽の仕事って、年間、ほとんど休みがないんですよね。で、就職試験、受けに行けない。親が病気だと嘘つけばいいようなものだけど、事務所と自分が居たところが近くて、そんな嘘も言えない。それで、なんとか逃げたくて逃げたくて……。今、言えば笑われますけど、通訳の試験受けようかと思って、テープレコーダ買って、勉強したこともあるんですよ。ところが通訳の試験て、年に一度、日曜日にあるんです。そのとき、旅だったらもう受けられない。これも駄目だ。そこに江戸川乱歩賞が、ワーッと出てきたんですよ。これだって思ったね。だって、一日も(仕事を)休まないで出来る。で、獲った人はみんなプロになっているじゃないですか。世の中に、こんなにいいものが有るのかと思った。原稿を書いて密かに送れば、誰にも分からない。勤め先は一日も休まないでいい。で、当選通知が来れば、辞めても大丈夫」

―― ええ ――

大谷「ところが短篇賞は、入っちゃうと、名前が出るでしょ。そうすると事務所から、なんでお前こんなことやってるって、必ず止めさせられるに決まっている。それで短篇賞を獲ったからって、食えるわけではない。当時の江戸川乱歩賞は凄かったですよ。獲った人はみんなプロになってる。だから乱歩賞と決めたわけです」

―― はい ――

大谷「ところが周りに、本読む奴は誰もいない。原稿の書き方も分からない。改行だって一字空けるかどうかも分からないから、定規持ってきて段落の幅を虫眼鏡で何ミリって計って、これは確かに活字一字分(空いている)とか、そういう勉強だよね。よくあんなに夢中になれた」

―― (笑) ――

大谷「それから、書かなきゃならない。はじめの頃は休みがない上、朝起きたら出かけて、帰りは夜中の二時三時だよ。ところがその働く中身なんですけど、歌手と一緒に放送局行ったり、撮影所行ったりした場合、僕は付き添いで行ってるんだよね。立ち稽古のときなんか、座ってればいいんだよね。その間に書けるわけですよ」

―― えええ(一同、驚く) ――

大谷「放送でもステージで、歌手のバック(演奏)やるときは自分も出るけども、やっぱり楽屋の時間が長いんです。そのとき、書けるんですよ。だけど、大失敗しちゃった。ノートに線を引いて、(見開き)二百字二百字で四百字のつもりでやっていたら、四百字四百字だったんだよね。それを一所懸命書いていて。締め切りがあの当時、二月の末なんですが、いよいよ近づいてきたので清書に入るわけですよ。清書も一枚ずつ。原稿用紙をノートに挟んで、人が来たら隠して、一枚書いたら仕舞う。ところが、いくら書いても草稿の残量が減らないんですよ」

―― (笑) ――

大谷「よくノートを調べたら、倍の分量を書いていた」

―― おお ――

大谷「そのとき、これは失敗だと。規定三百枚以上五百枚のところ、八百枚書いちゃった。もう日がないから、今年は駄目だと、諦めかけたんだけど、ここまでやったんだからと全力で削りの作業に入った。だけど原稿の升目が足りなくて、ほとんど改行なし。漢字になるものは、全部、漢字にした。真っ黒な原稿を作った。そうしたらそれが、候補になったんだね。大感激だね。酷い文章だけれども、彼は勉強すればよくなる。選者の先生がそう言ってくれて。これで元気づきました」

―― なるほど ――

大谷「文章は酷かったと思うの。それまで明治文学が好きで、だから明治調なのね。逮捕される、というのを、我、囹圄(れいご)の人と成らんとか。だから、あのときは三十代だったけど、よっぽどの年寄りの投稿だと思われたらしい(笑)。その後、現代作家の文章で、生島次郎さんとか書き写してみて勉強した。で、二作目を出したら、またよくなったと。(受賞まで)五年かかっているんだけど、一年一年上がっているのが分かっているから、それはよかったと思ってます」

 

■■乱歩賞を受賞して

―― 乱歩賞募集を知って応募したということは、それまでミステリーを書こうという意識はなかったのでしょうか ――

大谷「それ以前に、ミステリーは読んでいたんです。僕がミステリーを読むのを止めたのは、中学二年のときです。シャーロック・ホームズとか江戸川乱歩なんて夢中で読んでいた。だけど探偵小説は、当時、低く見られていた。渡辺啓助先生の『地獄横丁』なんて、小学校のとき、引き出しの中に置いて開いて読んで、親が来ると閉める。そんな風にして読んでいたんですね。当時、友達のお父さんが新聞記者で、家に江戸川乱歩全集があるんです。で、一冊ずつ借りて――親父の本だから勝手にできず、箱から中身だけ抜いて一冊ずつ持ってくるんですよ。それを全部読んで、探偵小説はこれで終り。自分で宣言して、ずっと読んでなかった」

―― はい ――

大谷「その後、バンドマンになって、長期ツアーの旅先でみんなに話を読んで聞かせたんです。そのときに松本清張とか鮎川哲也とか江戸川乱歩とか、推理長篇を、毎晩寝る前に連続してやったんですよ。もの凄く、受けたね。バンドマンというのは、ビックリするほど遊び好きなんです。で、外出禁止を決めたんだよね。宿での博打も禁止になったから、何もすることがない。そこで僕は旅先の宿で、みなさんにお話をしてた。ただ読むんじゃなくて、前の日、全部読んで頭に入れてくわけですよ。それでいろいろ話をした。『二銭銅貨』なんて、暗号を解読するのに、歌手に来た点字のファンレターを借りて見せるわけですよ。そりゃあ、みんな喜んだねえ」

―― なるほど ――

大谷「僕も乗ってしまって、本に書いてあるまま喋らないわけですよ。自分でアレンジして、さらに面白く構成する。バンドの連中は、本当、一所懸命聞いてくれました。あれが長篇創る練習になっていたんですね」

―― 乱歩賞の応募を続けられましたが、活字になった一番最初は中篇『死を運ぶギター』ですよね ――

大谷中島(河太郎)先生から話があって、乱歩賞に出した作品を短くしてね。本当は五百枚だったんですね。それ(掲載誌)は興行で新潟に行ってるときに発売になったんで、旅先の本屋に行ったら積んであってとても感動しました」

―― このトリックは実体験を ――

大谷「そうなんです。大学の三年の頃、バンドで九州に行かないかって言われて、行ってね。この中では格好よく書いてあるけど、実際は酷いことが、いろいろあって。行ったら、給料も払わない流れバンド。で、僕は腹がたってバンドマンと喧嘩して、改革すると言って、改革しちゃった。東京からメンバーを呼んだりして。朝鮮戦争の真っ盛りの頃です。佐世保で落ちつき、そこでバンド作ったんですよ」

―― はい ――

大谷「それまで世の中のこと、いっさい知らないですよ。初めてそういうもの凄いところに行って、自分でやらなきゃ駄目だということになった。そうしたら店の方で、大谷さんがやるならこのバンド雇うけれども、やらないなら帰ってくれって言われて。じゃあ、やるって。で、僕が店からお金貰って、みんなに給料配って。バンドマスターですね。お金は儲かったですよ。米軍専用の酒場ですが、毎晩のように乱闘騒ぎがある。些細なことから喧嘩になるんです。一段高いバンドスタンドから見てると、セーラー服を着てるのが水兵、グリーンぽいのを着てるのがマリーン、海兵隊。GIはほとんどいなくて。この二種類が喧嘩するでしょ。ビックリするのは、水兵とマリーンが喧嘩すると、必ず他の席で飲んでた人がみんな立ち上がる。みんな近くの水兵とマリーンがやり合う。あれは日本にはないね」

―― 西部劇みたいな ――

大谷「西部劇。その通り。ホール内の大乱闘です。こっちは煽るよ、演奏してね。やがて憲兵隊、正式には海岸パトロール隊が来ておさめる。あるとき騒ぎをおさめるために、憲兵が天井向けてピストルを撃ち、その穴がありました」

―― 凄いですね ――

大谷「終わった後、ビール瓶とか転がってたりして。で、ビール瓶が割れてて、僕が拾った瞬間にヒュッと切れた。いまだにここ(と指を見せる)に傷があるんです。これは喧嘩の傷だよって、みんなエッと言うけど、実は後片付けの傷(笑)」

―― ミステリーの話に戻ります ――

大谷「推理小説から離れていたけど、本気でやてみたいと思って、書き出すまでの何年間か、もの凄く勉強しました。旧『宝石』とか、ずいぶん読みまして。さいわい僕は全国を廻るもんですから『宝石』の収集を始めてね。東京にはないけど、地方に行くとあるんです。文字通り、古本の山から宝石≠探す」

―― (笑) ――

大谷「それで猛烈に勉強しました。いろんな方の推理小説をとにかく見て。笹沢左保さんの最初の小説も読みました」

―― では、乱歩賞についてですけど、受賞したら状況は変わりましたか ――

大谷「180度変わりました。それまで芸能界に居て、ギター弾いたりしてたんだけど、最後には事務所のデスクになって、ひとりになっちゃった。普通の世界だと、会社入るとだんだん出世していきますよね。芸能界そういうのが、いっさいないわけです。僕はだから、どん底感が強かったです。そこに、七月の二日だと思いますけど電話があって、五時頃ですか、当選しましたよって。その後すぐ、新聞社のインタビューの申し込みがあって。本当に変わりました。凄いもんですよ」

―― 小説の注文も続々と来るという感じでしょうか ――

大谷「続々は来ないです。ちょぼちょぼです。七月に決まって九月に授賞式がありまして、翌年の二月ぐらいかな、事務所辞めて浦和に来たんです。その後ですよ、どっと来て、寝る間もなくでどうしようもない。だから乱歩賞獲ったからじゃないんですね。獲った後を、マスコミは見てるわけです。で、長篇・短篇を出したでしょ。ああ、これならと、注文を出す。もう、知らないところから来るんですね。商業雑誌以外の、トラックの専門誌とか、ショート・ショートの連載をやってくれなど。それから学習雑誌が来ますね。こんな雑誌あったのかというところからも来るしね」

 

■■トリックと作風の変化

―― 乱歩賞を受賞してから十年くらいは、トリック・メーカーですとか、本格の鬼のように言われてました。最近、松本清張の社会派以後、本格が非常に冷遇されていたという意見がありますけど、実作者の立場からすると、どうだったのでしょう ――

大谷「僕がデビューした頃は、まだ本格は低調だったんです。カーの亡霊という言葉がありまして、密室を書くとそう笑われたんです。そこを僕や、森村誠一さんも斎藤栄さんも、そういう方たちもみんな、本格のトリック物を書き始めたわけですよ。あのときはまだ、本格は下火だったですね。それに反発した形で若手グループが出て行ったので、新風に見えたんじゃないですか。多少無理なトリックでも何でも、とにかく本格だ、不可能興味だ。社会派みたいに死体が路地に転がっていて、その謎がだなんて、そんなのちっとも謎じゃないと、僕も生意気に言ったり書いたりしていた。そのあたりから流れが変わって、本格ムードは盛り上がりました。正しかったかどうかは分からないけど、意気は盛んだったですよ」

―― 他の作家と、交友関係はありましたか ――

大谷「ありました。僕がデビュー後、作家として最初テレビに出たのも、西村京太郎さんからの電話です。自分のところにトリックの話で出てくれって来たけど僕よりも君が出ろって。それでテレビ局に行って、密室トリックの説明をしろって言うから説明したら、本番でドア作るって言うんですよ(と言いながら、身振り手振りを交えて密室の説明をする)。小説でも書きましたけど」

―― ええ、読みました ――

大谷「小道具全部、部屋にある物を使うのがミソなんだよね。その話をしたら、本当に作ったんだよ。ところが(トリックを実演する)俳優ひとりが休んじゃって、僕にやってくれってわけだ。犯人役を」

―― (爆笑) ――

大谷「僕は原理が分かればいいと思ってたんだよね。そうじゃなかった。本当にトリックのメカシーンをアップで撮ってるわけだ。しかたなく(ドアを)ガタガタやって。そうしたら実に巧く支えのピンが外れてくれて、きちんと(錠が)閉まった」

―― おお ――

大谷「あの当時は、西村さん、森村さん、斎藤栄さん、和久(峻三)さんたちとは、よく会って話をしました。本音を、みんな言ってね。森村さん、西村さんなんかとは、最近でも、パーティーで会うと話は弾みます」

―― また話が変わりますけど、あの頃のトリックというのは、どのように考え出していたのでしょうか ――

大谷「トリックは自然に出てくるんです。一所懸命考えることもあるけど、こんなんでいいいのかなぁって感じでね。『大密室殺人事件』でも、机かなんか見てたら出てくるし。考えた覚えが、あまりないですね。もっともその後、トリックに苦しむスランプ期もありました」

―― デビューした昭和四十年代から五十年代前半にかけては、トリック中心の作品でしたけど、五十年代の半ばから頃から、作風を変えていきましたよね ――

大谷「それについて言いますと、僕がデビューした頃、トリック専門で推理作家やったら三年しかもたないよって言われた。僕、信じてたんだけど、四年目五年目になっても、トリックが出てくるわけ。だけど本格というのは、労多くして功少ない気がする。だって普通のサスペンスなんて、面倒なトリックなど、考えなくていいんだから。それに本格は、トリックだけでなく、頭からお仕舞いまで全部ピシッとなってなければいけないわけ。作るのに時間がかかるわけですよ。それで売れるかというと、さあ、どうかな。西村京太郎さんなんか、書いてもいらっしゃるし、僕にも言うけど、それで飯を一生、食っていこうと思ったら、本格だけはむずかしいので、と言ってね。部数が出せないんですね。マニアの数が限られている。ところがサスペンスというのは、読み手がたくさん居るから、いくらでも売れるわけ」

―― はい ――

大谷「それから編集者に言われたんですね。ハードボイルドを書け、サスペンスを書け。それでハードボイルドやサスペンスを書くようになった。本格を、嫌いになったんじゃないんです」

―― 大谷先生は『青春の仮免許』出版当時、オートバイの免許をお取りになりましたよね。それは何か切っ掛けがあったのでしょうか ――

大谷「切っ掛けは、青春物を書くのにオートバイの雑誌を読んで、それで凝っちゃった。大人たちはいろいろ言うけど、こればかりは乗ってみなくちゃ分からない。投書欄に、そう書いてある。それでのめり込んで。仕事を減らして、もの凄く凝った。凝り性なんですよ。乗ってるオートバイが、国産ですけどフルカウルで、前傾姿勢といって、こんなになるわけですよ(と、上半身を前に倒す)。とても大人が乗るようなものじゃない。ただ、フルフェイスを被りますので、外から絶対に齢が分からない。革ジャン着ちゃって、ブーツ履いて、フルフェイス着けて高速道路のゲートに入るとき、おじさんが券くれるわけ。そのときいつも、高校生か若者に間違えられて、『気をつけてゆくんだよ』って、とても優しく言ってくれる。僕は顔を見せないように下向いたまま、うなずくだけ」

―― (笑) ――

大谷「今はマシンを、娘にどっか持っていかれちゃって、流石に乗っていないですけど」

 

■鷹見緋紗子のこと

―― それではそろそろ、鷹見緋沙子さんのことについて伺いたいのですけど ――

大谷「まず、なぜこんなことをしたかですね。言い出したのが誰かは、よく分からないんですよ。中島(河太郎)先生か、草野(唯雄)さんか、それとも天藤(真)さんか。僕は知らないんです」

―― そうなんですか ――

大谷「僕のところに(話が)来たのは、同一ペンネームで別々の作品を書く案があるけど、乗らないかと言われたんです。今でこそ言うけど、僕は全然、乗り気じゃなかった。だけど当時の僕は、人から頼まれたことは絶対引き受けていましてね。そのときも、はい、やりますって。ホテルに密かに集まって、極秘でやっていこうということになった。それで分担決めて、僕が本格、草野さんがサスペンス、天藤さんは本格じゃないもうひとつの味と。それで女の名前が面白いとか、何とか女子大出たとか、三人で相談してるけど、僕にしてみれば、みんな大先輩なんだ。僕はデビューしたばかりで、こうやって(と、畏まった格好をする)聞いてるだけなんだね」

―― (笑) ――

大谷「それでひとり一冊書いて……読みまわしは、やりました。だけどそれで、ああした方がいい、こうした方がいいなんて、ほとんど言わないんです。僕が覚えているのでは、天藤さんの作品について、登場人物の名前をこう変えた方がいいと言ったぐらいです。その程度のアドバイスしただけです。だからこれは合作じゃないんです」

―― 中島河太郎さんの役割というのは ――

大谷「中島さんは読んで批評したりしましたが、普通の編集者のアドバイスレベルと思います。特にアイディアを出したりとか、そんなのはなかったですね」

―― そうすると企画者は謎ですか(笑) ――

大谷「僕は分からない。これに関して言えば、とても売れたんです。だけど全部(名前)が隠れてるからね。『死体は二度消えた』は全国図書館選定図書に入ったり、密室ベストテンに入ったりしたんですけど、僕の名前は出ない。デビューしたばかりだから、自分の作品を一作でもみんなに見せたいわけですよ。一所懸命、一作書いても名前が出ないんだから、こんな馬鹿馬鹿しいことはない。やがて日が経ちまして、今度は徳間書店が、これに目を付けて文庫化することになった。その後、中島先生が、いよいよ今までの経緯を天下に発表するから、相談のため来いと言われて。で、中島先生と、徳間の人が三人ぐらいかな。新橋の徳間書店で、相談になったわけ。中島先生は、これで真相を発表するつもりでいたら、徳間の方が、もうちょっと書いてくれませんか。大谷さん、書いてくださいよ、鷹見緋沙子の名前でって言うんですよ。本格じゃなくてサスペンスをって言って。で、「ルパン」という雑誌に一挙掲載して、本にするとき長さが足りないので、他の号に天藤さんが書いた短篇(『覆面レクイエム』)を入れて、徳間文庫で出しました」

―― はい ――

大谷「次の『姿なき謀殺者』だけど、徳間の社長さんが東京タイムスの社長さんを兼ねていた。一年間(「東京タイムス」に)連載したんですよ。先方の要求で、推理小説というよりも、かなり官能的なサスペンスなんですね。それをやってくれと。この当時、流行っていたんですよ。僕はそういうの好きじゃなくて、もっと巧い方はいっぱい居るんだよ。だけど、流行に乗らなきゃならない。これを一年間載せたら、社長さんは喜んだ。本は……」

―― ノベルスで出ましたね ――

大谷「この手のものはテレビ局が喜んで、みんなテレビ化。で、新聞に大きく広告が出るわけですよ。今夜九時から、原作は鷹見緋沙子。僕からすれば、全部、僕の名前が消えてるわけですよ(苦笑)。ところが大谷羊太郎より、鷹見緋沙子の方が、ずっと売れたそうです。本当、この辺は売れましてね。書き下ろしの『悪女志願』のときも、特別企画で売れてる人(の書き下ろし文庫)を並べて、初版部数も凄かったですよ、中堅どころの僕としては。印税も10パーセント以上。そういう美味しい仕事になりました」

―― (笑) ――

大谷「とにかく(鷹見緋沙子名義の著書は)七本ですかね。それから短篇をひとつ書いているんです。で、エッセイひとつ書いているんですよ、『小説クラブ』でね。徳間では誰が書いているか秘密だから、経理と担当者以外は知らないということになってる」

―― そうしますと、鷹見緋沙子というハウスネームが使われたのは、『悪霊に追われた女』が最後ですか ――

大谷「そうです」

―― 話が戻りますが、最初の立風書房のときは、三人が一作ずつ書いて終りということだっのでしょうか ――

大谷「それが、ぼやけてるんです。上手く行けば、やるつもりだったんでしょうが」

―― 鷹見緋沙子さん名義の仕事を始める前から、草野さんや天藤さんとのお付合いはあったのでしょうか

大谷「それはありました。山村正夫さんが、推理文学界という集まりを作って、何かというと酒飲みに集まって、あれがよかったんです。いろんな人と話ができて、お友達ができて、よかったですよ。そこで草野さんと会って、とっても親しくしてました。天藤さんは千葉の方で農業やってて、南京豆持ってくるし」

―― 先生は鷹見緋沙子さんの仕事の他にも、鮎川哲也さんと合作(『密室の妖光』)をしています。それはどういう切っ掛けで ――

大谷「あれは『小説宝石』で企画して。鮎川先生に当ててもらわないと困るので、易しく易しくしたつもりなんだけど(笑)」

―― 鮎川さんとはお付合いはあったのでしょうか ――

大谷「デビュー後、鮎川先生は、すぐにお手紙下さったんです。ビックリしまして、あんな大先生がね。それで鎌倉に一度、集まろうということになったんです。そのときは日を間違えて一回目はひとりで行って帰ってきて。二回目は、遅れちゃいけないんで、横浜に宿とってね。そしたら鮎川先生が、君みたいな律儀な男はいないって。鮎川先生は人格者でね、中元やお歳暮を送ると必ずお返しの品が来た。かえって迷惑をおかけするから、送れないんですね。奢り高ぶらない人です」

―― 晩年に人嫌いなイメージがありましたけど ――

大谷「それは前からです。パーティーは絶対出てこない。それから家族のことは分からない。それでいて、すぐに葉書とか下さってね。『殺人予告状は三度くる』を出したとき、鮎川先生のお言葉を貰おうとしたけど、そのときご病気で、できなかった」

 

■■近作について

―― 現在、大谷先生は旅情ミステリーを書かれていますが、これを始めたのはいつ頃からなのでしょうか ――

大谷「八木沢警部補というシリーズ・キャラクターを創って『大密室殺人事件』というのを書きました。その前に『悪人は三度死ぬ』というのを書いたんですけど、それを書くまでが低迷時代なんですよ。方向を見失っているわけですよ、どうやって何を書いたらいいか分からない。で、よく考えると自分にできるのはトリックしかない。だから『悪人は三度死ぬ』を書いた。トリックトリックで書いたんです。で、『週刊文春』のベストテンに入ったんです。自分でもビックリしたけどね。あれ、光文社に持って行ったら編集者が、よく考えたねって、トリックがいっぱい入っているから。それでやっぱり自分はトリックだと、また元気が出てきて『大密室殺人事件』を書いたら、これの書評が凄く多かったんです。新聞や何かの。また元気が出てきて、他の方の評論見たら、大谷は低迷していたけど復活したって。あれが復活期なんですね」

―― はい ――

大谷「それで『大密室』とか、ずっと書いていったんですが、やはり旅情になっていったのは、編集部からの注文が多いですね。で、越後七浦とか高速バス(『越後七浦殺人海岸』『東京青森夜行高速バス殺人事件』)とか書きました。平成三年なんか、書き下ろしだけで九冊書いてますね。だいぶ一所懸命、書いていたわけですよ。平成四年、五年とまあそのまま続けてきて、このあたりから不況のせいで、状況が変わります。出版点数がぐんと減ってしまった。長年作家をやってきて、はじめての体験でしたね」

―― そうだったんですか ――

大谷「そこで僕は、住んでいる地元の自治会長なんかやった。地域の委員もいくつかね。家にこもっていた作家が、はじめて千四百所帯の取り仕切りをしたり、地元のイベントには、楽器を演奏してみなさんに聞かせたり。それから埼玉県の文学会関係でも理事を務めたりした。そうしながら、小説について、根本から考え直し、勉強し直しました。本格推理と旅情ミステリーの違いについては、とりわけ熱心に研究しました。それで言えることは、この両者にはかなり違いがあります。旅情では編集者から、本格味を取って、情の部分を濃くしろと言われる。トリックは、ごく簡単なものだけ。最後のどんでん返しは、逆効果になるから注意しろと。なぜなら旅情ミステリーファンにとって、最後にどんでん返しがあると、これまで感情移入して読んできた話は、実は犯人の騙しだったというわけで、ガッカリしたり、腹を立てたりするから」

―― (笑) ――

大谷「僕は本格ものが好きで、読むのも書くのも楽しいです。しかしいろんな事情から、今は旅情ミステリーに没頭しています。現在は地元との関係、埼玉の文学会とのつながり、その他の交際を一切断って、ひたすらこもりで仕事をしています。そして、これまでの欠点を除去して、新しい形の旅情ミステリーの創作に懸命です。僕は本格推理の書き手には、心から敬意を払うし、本格好きな人たちには、とても強い親近感を持っています。しかし現時点での創作の目標は、僕に取って新しい形の旅情ミステリーです。僕に欠けているのは、現代をとらえる目が、年齢的にギャップを生じている点でしょう。そこで作品は僕の娘が全文に目を通し、注意深くチェックをして、手直しをしています。とはいえ、本格ものに抱く情熱には、かげりはありません。いずれまた全力で挑戦したい意欲の火は、決して消えてはいません」

―― これからの先生の作品が、ますます楽しみになりました。本日は貴重なお話を聞かせていただき、ありがとうございました ――

 

 

二〇〇五年五月十五日・埼玉県さいたま市内の喫茶店にて

インタビュー 細谷正充・山本広喜・名古屋良武

文責  細谷正充


TOPへ

ホームページへ