インターネット都市構想

by  KAZUHIRO SHIMOURA

Mar. 16, 2000

 

かつて私達の祖先が、数十人で集落をつくって生活をしていた頃、教会や学校、役所や警察、国会や裁判所などは存在しなかった。それらは、集落を構成する人数が増えるにつれ、その機能を分化させていったのである。

 

例えば学校について考えてみると、優秀な教師を専任して次の世代の教育に当たらせる事は合理的であった。教師は新しい時代を生きるための知恵を授けた。子供たちは学校で束の間、労働から解放され、新しい時代の息吹と未来の可能性を感じることができた。

 

やがてサラリーマンの増加とともに家庭は労働と教育の場ではなくなった。基本的な躾も為されなくなり、小中学校で学級崩壊が生じている。これは次の世代の教育という本来、社会全体が負うべき役割を学校に全面的に委ねてしまった結果である。

 

例えば裁判所について考えてみると、ルールを法律に明文化した結果、法に触れなければ何をやってもよい、という考え方が広がった。膨大な時間と労力をかけて裁判資料が作成されても導き出される判決は、我々の常識、感覚とずれている場合もある。

 

善悪の基準は本来、個人の倫理観や社会常識として形成されてきた。善悪の判断、罰則の行使、社会復帰、についても本来、社会全体で責任を負っているのであり、特定の機関や人間のみが負っているのではない。かつては自らの罪をつぐなうため出家した日本人も多かった。

 

行政システムについても同様であり、生活環境の整備という本来社会全体で負うべき役割を役所や議員に集中させた結果、組織の硬直化や腐敗、機能不全があちこちに出てきている。これらは社会の巨大化につれ、我々が当然の義務を放棄した結果である。

 

不特定多数の個人を双方向に結びつけるインターネットはモラルと常識の回復に貢献する可能性がある。一つはチェック機構として、もう一つは直接参加手段として。かつて集落に宿っていた理想と正義、理性と寛容がネットに復活する可能性もあるのだ。

 

21世紀の社会システムはこれら2つの可能性を追求するものとなるだろう。新しい社会システムは、その構成員に本来持っていた役割と責任とを自覚させるものとなるはずである。インターネットをプラットフォームとした都市の誕生である。


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