なぜ我々はインターネットに惹かれるのか?

By KAZUHIRO SHIMOURA

Mar. 12, 2000

i-civil MLより転載

下浦と申します。

 

30代の技術屋ですので歴史的知識は欠落しておりますが、公文レター3月号のラインゴールドの話は解りやすいように思われました。以下に私の理解した所を書かせて頂きます。

 

かつて、智場は日本や世界のどこにでも当たり前に存在していた。井戸端会議などもそれに含まれる。 形式的な民主主義よりも智場の存在の方が、歴史的、社会的、経済的に重要である。

 

かつて智場は政治、文化、法律等の基本母胎であった。智場から選ばれた村長とか区長とか酋長とかは、人格的にも尊敬すべき存在であった。現在でも多くの企業は民主主義を採用していないが、創造的であるためには、社内に智場を形成する事が重要である。

 

実際、かつての村は政治力を有していた。(昨日のNHKTVによると、大分県の漁村の主婦が埋立反対運動をやったり、村長が栗を植えてハワイに行く運動を指導したりしていた。)また、民謡、昔話、茶の湯等、文化的創造力にも優れていた。ルールを破ると村八分であったが、二分の許容力も残していた。

 

産業革命以降、生活、経済圏は急速に拡大し、智場の維持が困難となった。現在社会は、体と精神発達のバランスが崩れた思春期のような状況にある。国会、裁判所等、智場を維持しようという近代国家の努力にもかかわらず、それは不満足な結果にあり、集団としてのモラルやルールを維持できなくなった。それにともなって文化的創造力も衰退している。

 

インターネットにより、やっと智場が図体の大きさに追いつく可能性が出てきた。年齢に拘わらず、ネットが多くの人を引きつけるのは、それが将来、社会のバランスを回復する可能性を秘めているからである。今後ますます拡大する経済圏や、地球環境問題などに対処するには、ネットをプラットフォームとする社会システムについて検討する必要がある。

 

そうでもしないと、政治における智場の維持は(米国の大統領選挙のように)体力的にも大変だし、身分や資格や学歴がはびこる結果(智業からの逃避)を招くこととなる。


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