リア王 97/05/01


意味が解らないままに芝居見たって仕方ないと思う。確かに意味は解ったほうがいい。能を観るときなんかでも、謡いと舞いの同調作用で能独特の美が生じるのであるから、きちんと謡曲の意味を解った上で観る方が、漠然と観るより得る感激は増す。

外国語で演じられる劇は出来るだけ予習をして、内容を把握した上で椅子に着ければ、それに越したことはない。せりふが重要なのは当たり前のことである。

しかし、ロンドンで観た劇は何を言っているのか解らなくても、演劇の持つ感動を私に与えてくれた。

リア王はロンドンの新聞を丹念に読んでいた陽子さんが、見つけた。それを、イレーネさんが電話予約をしてくれてナショナルシアターで観ることになった。がどうやらそれはプレビューの日であった。

実は今回の旅ではリア王を観れれば良いなと思いながら、私は日本を発った。それは漠然とした気持ちであったが、福田恒存訳の新潮社文庫を前日買い込んで、旅のつれづれに読もうとザックに入れて持ち運んだのがその意志の証明だ。けれども中味を覚え込むまでに至っていなかった。結局読めなかったので、いざ本番では、何を言っているのか99パーセントは解らなかった。それでも面白いと感じたのは、舞台に立つ人間が皆、鍛えられて、魅力的に見えたからだ。体の動きと言葉を発する時の鋭さ、そこが日本人が赤毛物を演じる劇とは根本的に異なっていた。

だらしない体が翻訳調の言葉を羅列する日本の新劇(今やこの言葉は死語であるが)を思うとその差の激しさに愕然とした。

ミエ切ったり、気張ったり、泣いたり、わめいたりしないでただ、日常的なフリをやっているに過ぎないにも関わらず。舞台上の演技が様式化して見えるのである。セリフにも身ぶりにもそれの成立する根拠が国民性として元々あるものだから。よそよそしさが全く感じられないのである。日本で近代劇と言ってもあちらでは伝統劇になるから、すでにどっしりとした表現の形ができあがっているということだろう、しかしこの程度のことを今頃言っているようでは恥ずかしい。

ところで、何故リア王が気になったか。
日本の能・景清。武士景清は盲目となり日向に落ち平家語りを生業にして暮らす。歌舞伎の景清は違うストーリーの上でやはり盲目となる。
世界の劇作王のリア王では脇役グロスターが目をえぐり取られ盲目となって城外をさすらう。
明るい世界を失った二人は武人はどう生きるか。

この旅では、グロスターが目を失うシーンを観たかったのである。
それはどんな劇団が演じるものでも良かったのであるが、ナショナルシアターのコッテスローで演じられたそれは、椅子の肘かけに両手を結わえられて、抵抗の出来ないグロスターの目が荒々しくも、手でえぐり出されたのである。三方から観るノーセットの舞台で二階からそのシーンを一生懸命観た。観たという何でもない話しだが、影清とリア王を何とか結びつけようと私は努力しているのだ。成果は今のところは全く無い。

目が見えなくなった後、面倒をみるのはイギリスでは息子であり、能。景清では娘が父を慕って訪ねて来る。

1・景清がシェイクスピアの国を放浪してドーバー海峡に到達するそこで身を投げる2・娘が去っていき、落胆した景清は日向の断崖に身を投げるけれども。落ちた筈なのに死ねない生きている。生きて最後の仕事を行う。それを支えるのが息子である。

等など考えています。