銀河鉄道の午後


11月18日、13時8分、花巻から新花巻へ、釜石線に乗る。

 2両編成のワンマン列車は、後部のドアから番号チケットを取って乗り、前方車両の運転手さんにお金を払って、目的の駅で下りる仕組みとなっている。私の場合は花巻駅で200円の切符を買って、改札を通り、乗客となったのだが、発車間際の車内アナウンスの「銀河・ドリームラインをご利用いただきましてありがとうございました」には驚いた。

 花巻は賢治が生んだイーハトーブの核となる町だ。賢治が、幼少時、父に連れられよく来たという大沢温泉に一泊し、豊沢川の川袖の露天風呂に浸かり、今朝から賢治の墓、生家、「下の畑におります」の羅須地人協会跡地、イギリス海岸、花巻農学校(現在農学校)、羅須地人協会建物と巡り、花巻温泉でお茶を飲み、岩手県交通のバスに乗って、花巻駅に出て、新花巻に行くために釜石線に乗ったのだ。そこで、釜石線は銀河鉄道であると言うアナウンスに宮澤賢治幻覚の拍車がかかった。

 銀河鉄道は岩手軽便鉄道のことである。北上川を渡る鉄橋を走る小型列車の写真なら、度々見てきたものだ。遠野付近まで走った岩手軽便鉄道は今は無いが、その後を継ぐように走るのが釜石線で、こぎれいでモダンに内装されたディーゼル列車である。駅を出ると田園が拡がり、北上川を跨ぐ鉄橋を渡った。イギリス海岸は下流にある。線路は真っ直ぐに伸びていく。地を舐めるように列車は走るのである。何時くるのだろうか四時限・宇宙への離陸は・・・。こんな期待を持たせながら列車は走って行くのだ。

 銀河ドリームラインで目立ったのは賢治の子らだ。ジョバンニやカンパネラたちが乗り込んでいる。高校生男女だがそれが実に初々しく見えたのである。茶髪、化粧、ミニスカート、ルーズソックスそれらいずれとも無縁の女の子たちは、英語のノートを黙々と見入っているのである。丸々とした横顔は健康そのものであると見えた。車内に立つ男の子たちはさらに静かに車外を眺めているのである。

 

賢治の子らは渋谷や新玉線の目を背けたくなる色狂いの餓鬼らと同じ民族と思えなかった。賢治は俺は一人の修羅と言ったが、この子たちは修羅道の何たるかも知らないほど純朴に見えたのである。

 無人の新花巻駅で降りて、雪がちらと舞う中、賢治記念館に来た。駐車場には三台の観光バスがとまっていた。駐車場の外れにレストランがあり「注文の多い料理店」と看板があった。入ると先客が居た、女性が3人、それぞれ食べられ頃の血色をしていた。私が食べるのではない、山猫が食べるのである。いらっしゃいませと私に言うおじさんボーイが山猫に見えた。奥の席に座って、その山猫にビーフカレーを頼んだ。

 マガジンラックに「イーハトーブ・センター」発行の機関誌・研究誌があったのでめくってみた。何号かに、書き手の名は忘れたが、大江健三郎と賢治の繋がりについて書いたものがあり読んで驚ろいた。「万延元年のフットボール」と「夜鷹の星」に通低するものについてである。   *書き手は大澤○○さんだったと思うが、調べてみたい

 「万延元年」の主要登場人物「鷹四」は夜鷹の文字のひっくり返しであり、親衛隊青年は「星男」だから「夜鷹の星」が底流にあると考えることができると言う。さらに「万延元年」における妹へのインセスト・タブーは、賢治のトシに対する思いと同じ。夜鷹は太陽に向かって飛んで、燃え尽きた。鷹四も同様で、大江健三郎の中に宮澤賢治と同一の通奏低音が流れているということなのである。その極めつけが「燃え上がる緑の木」で鷹四は「隆」となって、再生したということだ。

 ノーベル賞作家の考える世界的なテーマに賢治が影響を与えた。だから賢治は偉いのだというわけではない。ありがたさから言えばあくまで宮澤賢治が上位にある。

 

 記念館は充実していた。賢治にとって法華経が重要だったことを納得させられたことが収穫であり、雨にも負けず手帳の複製を見て欲しくなって、1800円で買い、陽が暮れるまで、館内で過ごした。

 横浜に帰って、たまたま手にした本の表紙にこんなことが書かれていた。

「もの書きは一作また一作と、神のみぞ知る者にむかって暗号のメッセージを送りつづける。未知の人間によって解読されるのをおそれ、かつ願いながら」。

「チェーホフの感じ」=ロジェ・グルニエである。