2005年2月26日「スローカフェー」にて、左 奈良、中央 丸井、右 オト

 


 自己紹介  
2003年(平成15年)8月28日制作
1。氏名 
 丸井 英弘(まるい ひでひろ)

2。生れ 
 1944年(昭和)9月13日 愛知県名古屋市北区で生まれ 、愛知県で一番古いといわれるえんの行者の開いた片山神社(御神体は吉野の大峰山)の側で育ちました 。

3。学校
 小学校は、名古屋市立大杉小学校、中学校は、名古屋市立八王子中学校です。
 高校は、 香川県にある詫間電波高校です。
 大学は、東京都三鷹市の国際キリスト教大学と都内の茗荷谷にあった東京教育大学 です。

4。趣味
 尺八・読書

5。私の大麻取締法と麻産業の現代的な復活に対する考え方
1.私は、1974年4月に弁護士登録をして弁護士としての活動を開始しました。弁護士になった動機は、人権の保障と環境問題に対して、法的側面から貢献したいというものでした。
 大麻取締法違反事件を始めて受任したのは、弁護士2年目の1975年の5月です。当時私は、大麻と麻が同じ植物であることもしらず、また大麻の作用がどのようなものであるのかよくわからなかったのですが、大麻の所持自体は、たとえば酒やニコチン煙草の所持と同様なプライベートなことであり、それ自体自由であり、刑事罰で規制することは憲法13 条の幸福追求権や14条の平等権に反すると考えていました。それ以降現在までの28年間に多くの大麻取締法違反事件を担当しましたが、私は一貫して、大麻を刑事罰で規制することの不合理性を訴えてきました。

2.私は、弁護活動を通じ、また1980年2月には、オランダのアムステルダムで開催された第一回大麻解禁国際会議に参加をして諸外国の研究者達の報告を聞いたり、現実に大麻の個人使用が認められているオランダの実情を見聞して、大麻取締法は個人の趣味嗜好、思想良心の自由の根底にある意識変容の自由を規制するものであると確信しました 。
 特に、大麻が縄文の古代から日本人に親しまれてきた麻のことであり、また昭和27年までインド大麻草が薬局方に喘息や不眠症の薬として収載されていたこと、さらには、麻から紙ができ正倉院には麻の紙に書かれた1000年以上まえの仏典が残っていること、そして第2次大戦前の様に日本全国で麻の栽培を復活すれば、 熱帯林を輸入する必要性もなくなり、人類にとって貴重な森を守ることができる事を知り、大麻取締法の廃止が私の弁護士としての基本的な任務だと確信するに至りました。
 そして、現在最も大切なことは、大麻についての正確な情報の提供だろうと思います。しかしながら、NHKを始めとしてマスコミは、大麻について誤解や偏見を与える報道をしています。
 1996年(平成8年)3月にNHKが「若者に広がる大麻汚染」と題する番組を報道しましたが、私はその番組内容の是正を求めて1996年(平成8年)10月に提訴しました。私がNHKに対して大麻報道の是正を求める裁判を起こしたのは、大麻について誤解や偏見をあたえる情報を是正し、大麻すなわち麻の有効利用を促進したかったからです。

3.私は、弓道の稽古を1990年(平成2年)から9年間程しました。そのなかで、弓の弦が麻で出来ており、弓を引いた時にでる音が弦音(つるね)といわれていることを知りました。 なお、この弦音を鳴らす儀式を神道では鳴弦の儀と呼び、悪魔ばらいや場を清めるために行われてきました。宮中でも皇太子が生まれたときに鳴弦の儀が行われたようです。麻が、日本の伝統的な社会において神聖なものとして位置づけられてきたことが、この儀式からも分かります。
 私は、自然生態系に沿った自給自足型の社会が本来の日本の社会であったと思います。伝統的な麻産業を現代的に復活させることにより、石油や木材を輸入する必要性も無くなり、自然環境も急速に回復すると思われます。
 環境問題・エネルギー問題などを解決する力が大麻すなわち麻にはあると思われます。麻の有効利用を産業として促進することが急務と思われます。この点、麻の茎と種を有効利用するということで、1997年(平成9年)3月31日に静岡県で麻製品の販売をしている中山さんが静岡県知事から大麻の栽培免許を取得しましたが、この免許の取得は、日本において麻産業を現代的に復活する極めて重要な契機であろうと思います。

6。私の弁護士になるまでの小伝記が、「なぜ弁護士を志したか」と題して「市民環境科学の実践 東京・野川の水系運動」(けやき出版2003年6月6日発行の148頁から156頁にのっていますので、紹介します。

六、なぜ弁護士を志したか
1.中学・高校時代
 小学校六年の時に、父の経営していた事業が取引先が不渡手形を出して連鎖倒産をしたために、担保となっていた自宅が処分され、私の家族(祖父・祖母.父.母.弟三人)の家がなくなってしまった。私は親類に世話になったり、借家生活をして中学時代を過ごした。母親も働きに出たし、私を始め弟たちも新聞配達などで家計を支えた。
 今の学歴杜会では、中学卒業の段階でどのような高校を選ぶかということが大きな関心となるが、私の中学時代(昭和三二年-昭和三五年、名古屋市立八王子中学校)は、高校の進学率が五〇%ぐらいで、そのうち普通高校へいって大学まで進学するのはクラス(一クラス五〇人)で一人二人という状態であった。
 私も格別大学に行きたいとは思っていなかったし、また私の家が父親の事業が倒産したために売却され、一緒に住んでいた祖父・祖母や父母・兄弟はバラバラに住まざるをえない状態であったので早く就職しようと思い、寮が付属していた国立詫間電波高校(香川県三豊郡詫間町所在・浦島太郎の伝説のある場所。船舶通信士を養成するための国立高校で全国に三ヶ所-仙台・熊本・詫問にあった。現在は国立の高等専門学校になっている)へ進学した。
 当時弁護士になろうとはまったく思ってもいなかった。私を大変かわいがってくれた祖父は保護司をやっており、祖父に連れられて刑務所へ行った記憶はあるが、弁護士の存在とはまったく無縁であった。
 詫間電波高校は通信士となるための通信技術の実技(トンツーというモールス信号の操作を覚える)と電気通信理論を中心とした授業を中心に学校のカリキュラムが組まれていたので、大学の入学試験に合格するために必要な英語・国語・社会など一般教養の授業は最小限であった。
 高校の寮に入ると卒業生が時々遊びにきたりして、高校卒業後の社会実態を聞かされた。そこで始めて今の社会では学歴によって差別があることを知った。また、私は細かい専門技術よりは、人間として必要な一般教養をもっと勉強したいと思った。そこで大学進学のために出来れば普通高校へ転校したいと思って調べたところ、転校は不可能とのことであった。
 私はその時、特別奨学生として毎月三〇〇〇円の奨学金の給付を受けており、この三〇〇〇円で毎月の生活費は確保できたが、もし一年留学して普通高校に転校するということは経済的にも不可能であったので、とりあえず電波高校を卒業して大学へも進学しようと思った。
 そこで、大学進学用の受験雑誌をいろいろ調べて、その頃教養学部という新しい学部が国際基督教大学(ICU一と東京大学にあることを知った。東大への進学は受験科目が多いため無理であろうと思ったが、ICUの場合には英語については読解力やヒアリングなど総合的な試験があるが、その他の受験科目は社会科学や自然科学に関する論文を読ませてその内容について答えさせるというものであったので、これなら新聞をよく読んだり、また電波高校における電気理論などの勉強の際、文章の解読力をつけることにも役立つと考えればICUへの受験勉強にもなると考えICUを目指すことにした。
 ICUは授業料が特別奨学生の場合には半額となり国立大学と同じであったし、特別奨学金が毎月八○○○円支給されることになっていたので経済的にも大学生活を送ることは可能であった。
 英語の勉強としては、高校の授業にあった英語はきちんと勉強し、また英語会話のクラブ活動に参加したり、更には当時アマチュヤ無線をやっていた弟にイヤホン付きのラジオを作製してもらって毎日のように旺文社の「百万人の英語」やNHKの英語会話をイヤホンで聞いて勉強した。寮が三-四人が同じ部屋で共同生活をしていたので同室の友人に迷惑がかかるといけないと思いイヤホンで学習した。

2.大学時代
 私は幸いにも一九六三(昭和三八)年三月にICUに合格することができた。ICUの第二男子寮に入寮し、高校時代と同様に寮生活をしながら大学生活を送ったが、ICUは私が入学した一九六三(昭和三八)年四月以降授業料の値上げ問題が起こり、大学始まって以来初めてのストライキが行なわれるという状況であった。
 なお、私が高校に進学した一九六〇(昭和三五)年は安保闘争で日本全国が大きく揺れたが、私は香川県の詫間という場所にいたこともあり、新聞でその様子を知るくらいであり、他人事であった。しかし、ICUでの授業料値上げ問題は、在学生には適用されないものではあったが、私のような経済的に厳しい環境にある者の大学進学への道をふさぐという事でこの社会の矛盾を深く考えさせられた。
 ICUでは、私が二年生の時(昭和三九年)に寮の管理権を学生が持つかどうかという問題が起こり、また三年生の時には食堂の値上げ問題に端を発して生活協同組合の設立運動が起こった。
 この生協の設立運動に対しては、私は学生会の執行委員となって参加した。大学側が生協という学生の自治組織は認めないという態度に出たため学生大会でストライキを決議し全学的なストライキが行なわれた。しかし、このストライキも長期化するにつれ支持する学生が減少し内部崩壊した。
 その後、今後の白分の将来をどうしようかと考え、当時寮の先輩が司法試験を勉強していた事もあり、また弁護士という職業にも魅力を感じていたので司法試験を目指す事にした。しかし司法試験に合格するには四年間位勉強が必要といわれていたので、とりあえず経済的に生活を支えるために公務員になり、仕事をしながら受験勉強をしようと考えた。
 大学四年になってから法律の勉強に精を出すようになったが幸いにも都庁の上級職に合格することができた。しかし、ICU卒業間近の一九六七(昭和四二一年二月になって、能力検定試験の採用問題をめぐって学内で大きな論争が起こり、三年生を中心に反対運動が起こった。
 私の寮の部屋にも新聞会所属の三年生がやってきて「大学本館を占拠するストライキを起こす事にした。四年生も是非参加してほしい」と要望した。その頃四年生の大半は放送局、新聞社、一般商事会社などへの就職が決まっていたが、私を含め就職の決まっていた四年生のうちの二〇%くらいがストライキに参加したのではないかと思う。
 私は、三年生からストライキ参加の呼び掛けがあった時、前年における生協設立運動の敗北の経験から今回のストライキも負けるであろう、そのときには自分の就職もダメになるであろうと考えていたが、能力検定試験が採用されれば、その試験内容からして私のような職業高校からICUに進学することは不可能になると考えたし、三年生以下の後輩を見殺しにして、白分だけ卒業していく事は出来ないと思いストライキに参加した。ストライキは一九六七(昭和四二)年の二月から二ヶ月問程続いたが警察力の導入によって解散させられ、またストライキ参加者は全員無期停学以上の処分を受けた。私も卒業保留そして無期停学処分となって、都庁への就職もダメになってしまった。
 それまでは、特別奨励金が毎月八○○○円貸与されていたので、後は家庭教師などのアバイトをして大学生活を支えていたのであるが、停学処分を受け就職もダメになってしったので、仕事先を探す事と警察力導入後の能力検定テスト反対運動への参加という事に直面した。反対運動は参加者それぞれの生活が厳しくなってきて運動を続けることがきなくなってきた。大学側と処分された学生側で和解が成立し、私は一年後にICUを卒業した(それまでに卒業に必要な単位はすべて取得していた)。
 私は、一九六八(昭和四三)年三月にICUを卒業すると同時に司法試験の勉強をするめに東京教育大学文学部法律政治学専攻へ学士入学した。生活費は、ICUの友人が国立市谷保にあるヤクルト研究所や小金井市立第三小学校夜警の仕事をいていたのでその仕事を手伝っていたが、本を読む時間もあり、学校にも通えるいう点で大変助かった。
 東京教育大学も私が入学した一九六八(昭和四三)年に筑波への移転問題が起こり、ストライキが始まった。私も自分だけ司法試験の勉強をしているわけにもいかず、他の学生とともに参加した。しかし、この筑波移転反対のストライキも一年半ほどで警察力の導入によりつぶされた。
 私は一九六九(昭和四四)年春からICUの友人のあとをついで小金井市立第三小学校の警備員の仕事をしていたが、東京教育大の学内状況も落ち着いてきた時点で本格的に司法試験の準備に集中する事にした。

3.小金井司法研究会との出会いと三多摩研
 一九七〇(昭和四五)年の四月ごろ、司法試験の勉強をグループでやりたいと思い職場である小金井第三小学校の近くにグループがないかと思っていたところ、『受験新報』という司法試験受験用の雑誌で小金井司法研究会が会員を募集している事を知り、早連申込んで入会させて頂いた。
 当時、丁度四日市の大気汚染や水俣における水質汚染が大きな社会問題になっている時であり、そこで弁護士が活躍している事を知り、私も弁護士になったら公害問題に取組みたいと考えている時であった。
 小金井司法研究会の入学願書には、「地域社会をよくするためにあなたは何が出来ますか」という質問があり、小金井司法研究会は、地域社会の事を考える法律家を目指す受験団体という雰囲気があり、大変新鮮な印象を受けた。
 私は、その小金井司法研究会で、後に協力して三多摩問題調査研究会を作る事になった矢間秀次郎さんや関島保雄さん・平賀睦夫さんと知り合う事になった。幸いにも昭和四六年度の司法試験に合格し、小金井司法研究会第一号の合格者となった。関島保雄さんも翌一九七二(昭和四七)年に合格した。私は、一九七二(昭和四七)年四月から司法修習生となり横浜(地裁・地検.弁護士会)へ配属されたが、この年に野川の浄化問題などに取組むための調査研究会として三多摩問題調査研究会が矢間さんを中心にして設立された。ICUの構内(今は野川公園になっている)に野川が流れていたために野川は私にとっても思い出深い川であった。野川が地下水を集めて流れる川であり、またその付近に縄文遺跡も出ると聞き、野川は人類の文化生活と密接な繋りを持っていると感じ、その浄化問題には現代的意味があると思った。また世の中を良くするためには、先ず身近な環境の浄化が大切だと思っていた。

[GO to TOP]