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モスクワのモダニズム建築とフョードル・シェフチェリ


いにしえのモスクワの通りを歩くと、形と装飾の上で、風変わりな建物が見られる。建築家F.シェフチェリの最高傑作であるマーラヤ・ニキーツカヤ通り6のリャブシンスキー邸に無関心でいられる人はいない。

正面入り口上の金色に輝くランに彩られた華麗壮大なフリーズを称讃せずに通りすぎることはできまい。現在それはM.ゴーリキー博物館となっている。だがこの建物はプロレタリア作家の為に建てられたのではなかった。1902年に、建築家のフョードル・オシポヴィッチ・シェフチェリは、収集家で、科学者であり、芸術のパトロンであるステパン・パブロヴィッチ・リャブシンスキーから、私邸建築の注文を受けた。この家はモダニズム様式で建てられた。建物のファサード四面全てが、全く異なる姿を見せている。窓は高さも形も様々であり、建物装飾の一つとして反復されているものはない。
内部も、外観に劣らず驚異的だ。内部装飾の基調音は、螺旋状に曲がった階段だ。この建築上の手法は、独特な形で内部空間を構成することを可能にするものであり、シェフチェリはそれを頻繁に用いた。シャンデリアから壁のコンセントに至るまで、造作のあらゆる細部をこの名匠は自ら考え出したのだ。デザインと室内装飾の要素は、相互に有機的に結びついている。風変わりな内部装飾は、施主である若きリャブシンスキーの歓喜から、ゴーリキーの苛立ちに至るまで、異なる時期にそこで暮らした人々に相反する感覚を引き起こした。より質素な環境に慣れていた作家は、この邸宅を「奇妙な家」と呼んだ。

モダニズム様式について

モダニズム様式(モダニズムは、ラテン語のmodernus、"新しい、当世風の"から来ている)は19世紀の80年代ヨーロッパに出現し、破壊によって、建築に簡素さ、経済性と構成主義が求められるようになる第一次世界大戦前に、一世を風靡した。モダニズム様式は、一般大衆から抜きんでることを望み、自らの自尊心を満たすような家を建てたいという金持ちの趣味に答えたのだ。19世紀末、ロシア資本主義は未曾有の発展を遂げた。ロシアの商人階級は、窮乏化する貴族に成り代わって、専門的な名匠による邸宅の主要な施主となった。成金は自らを、社会の支配者であるのみならず、時代と共に歩みつつある高度な教育を受けた人々でもあることを示したがっていたのだ。それゆえ19世紀と20世紀の境目は、ロシアにおける建築発展の上で最も素晴らしい時期の一つだった。
モダニズム様式で創作した建築家も画家も、馴染みの表現や規範を大胆不敵にうち破り、最大の審美的効果を生みだした。おぼろげなパステル調が流行になった。モダニズム様式建築の非常に大きな意味は装飾にあった。ある一つの要素、例えばくねった巻き蔓が何度となく連続したものが、基本的な装飾となることが多い。彼はそれを垣根の鉄格子、造作、ドアの取っ手、更には浅浮き彫りやフリーズにも用いた。モダニズム様式は、柔らかく流れるような形、植物のモチーフ(様式化されたラン、ユリ、アヤメ)、海のモチーフ(貝殻、くらげ、人魚)が特徴的である。

モスクワのモダニズム

モダニズム様式の建築物で、モスクワで最も燦然とし、端麗なものはミンドフスキー邸(ポーヴァルスカヤ通り44)と、イサコフ邸(プレチースチェンカ通り28)と見なされており、20世紀初頭L.N.ケクシェフによって建てられたものだ。著名なホテル「メトロポリ」は、全体がV.ヴァルコートとL.ケクシェフのプロジェクトとして建てられたもので、ファサードは画家のM.ヴルーベリとA.ゴローヴィンの陶磁器のパネルとフリーズで装飾されている。古いモスクワ芸術座=МХАТの建物(カメルゲルスキー通り4)、リャブシンスキー邸とヤロスラヴリ駅は、偉大な建築家フョードル・シェフチェリによって生み出されたものだ。

フョードル・シェフチェリとその建築

フョードル・シェフチェリは、モスクワにおけるモダニズム様式の最も聡明で多作な名匠だった。新たなデザインと室内装飾の方法を活用する上で、彼は卓抜な想像力を発揮した。シェフチェリが、今日モスクワのアール・ヌーボー様式の父と見なされているのも当然だ。彼によって建てられた建築は、多くの点で古いモスクワの外観を形作っていた。シェフチェリの労働能力は、実に途方もないものだった。彼は疲れを知らずに一日に20時間も働くことができた。現在はオーストラリア大使館となっているプレチスチェンスカヤ通り(ペレウーロク)のジェロジンスキー邸を見過ごすことはできない。ジェロジンスカヤ夫人は、有名なオペラ歌手で、気まぐれでエキセントリックな人物だったが、風変わりで真似のできないような家を欲しがった。そこで、床まで届くような巨大な窓、鋭い角をとった重々しい塔を頂いたファサード、そしてこの邸宅の自慢は、モスクワにそれと比肩するものはない唯一の巨大な暖炉だった。この建物のアンサンブルの一部である金属製の奇妙に湾曲して様式化された葉で飾られた塀は邸宅への目を引く。
シェフチェリはほとんど無償でカメルゲールスキー通りにある芸術座の建物の仕事をした。この建物のファサードは、モダニズム様式の多数のランタンで装飾されている。並はずれたサイズの良質の木材で作られたドア、そして並みならぬ形のドアのとってさえもが印象的だ。シェフチェリはモダニズム様式を作り続け、ネオ・ロシアと呼ばれる装飾様式のプロジェクトに加わり、装飾を更に複雑化した。その一例がヤロスラヴリ駅だ。トヴェリ大通り18にある実業家P.スミルノフのショールーム付き邸宅(1903)、トリョフプルードヌイ通り3のレヴェンソン印刷所(1900)、そしてボリシャヤ・サドバヤ4、更にエルモラーエフスキー通り28の邸宅は、今日も首都を彩っている。スターラヤ・プロシチャジの有名な「ボヤールスキー・ドボル(貴族屋敷)」もフョードル・シェフチェリの作品だ。モスクワ市内のシェフチェリの全作品を挙げることは困難だ。さらに様々なプロジェクトがロシアの他都市で行われた。

ソ連時代

フョードル・シェフチェリは、新しい生活になんとかして馴染み、ソ連にとって必要な人物になろうと努力した。最後の仕事の中には、ドニェプロゲスの橋と発電所、ボルシェヴの工場等々、多くの壮大なプロジェクトがある。不幸にしてこれらのプロジェクトは実現されないままに終わった。唯一建設されたのは、1923年の国民経済博覧会(ВДНХ)におけるトルケスタンのパビリオンだ。海外から魅力的な誘いがあったもののシェフチェリは亡命しなかった。
1918年、建築家は家族と共にボリシヤヤ・サドバヤの自邸から転居した。1926年に亡くなるまで、彼は共同住宅を渡り歩いた。シェフチェリは重病を患い、飢え、貧困の中に暮らしたが、毅然として働き続けた。「私はモロゾフ、リャブシンスキー、フォン-デルビズの家を建てた。そして貧しいままだ。愚かだが、安らかだ。」彼は虚心坦懐にそう述べている。
「命は短く、芸術は永遠だ」最期まで彼はこの言葉通りに生きた。そして現在、オシプ・シェフチェリは最も有名なロシア建築家の一人となっている。彼のプロジェクトから、建築の歴史と第一級の古典作品を学ぶことができる。空の星図には、この建築家を讃えて名付けられた小惑星がある。

Московский модерн и Федор Шехтель を翻訳したものです。


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