表紙のことば

早稲田学報 1988/10


創立当時の校舎で育った

 "早大の工芸美術研究所卒、そんなのあったんですかあ?"
いろいろな方面で学歴など書いたり聞かれたりの場合、特に相手が早大出身者であるほど、そういわれることが多い。
 終戦の翌年、昭和21年に創設され、私はその翌年に入校した。それは未来の日本をいちはやく予知していたかのような最新の総合造形教育の場であった。
 つまり、芸術と工業の結合による新造形の研究を目ざした、バウハウス・システム(ナチスの弾圧で一九三二年に閉鎖〕の日本版第一号だったといえる。
 陸軍特別幹部候補生の身で終戦を迎えた私は、その新しい環境で息をふきかえした。
ゴム底の地下足袋をはいて教壇に立たれた所長の今和次郎先生(故人)は、考現学をつくりうちたてたユニークな芸術家でもあった。
 戦後の混乱期に、もっとも現代的な美術教育をわれわれほんの一握りの学生に当時としては新しすぎるシステムで行ってくれた。 アトリエは東伏見に移築された早大創立当時の校舎が使われ、賛沢にのびのびと学ぶことができた。
 グラフィック・デザインは小池岩太郎(現・芸大名誉教授〕建築史は田辺泰、東洋美術史は安藤更生、彫刻は清水多嘉示(ブルーデルの愛弟子)舞台美術は吉田謙吉……といった大物ばかりの教授、講師陣だった。
 先生と学生がマンツーマンになることもしばしばの贅沢さで、当時の早稲田大学にはかなりの負担だったようで、私たち二期生を最後に廃止されてしまった。
 "もし、存続していれば、日本では最高レベルのインダストリアル・アート教育と研究の場になっていた筈だが……"
 と、それを知るごく少数の年寄りは惜しむ。だが、その最後の証言者の東伏見に残る早大創立当時の校舎も、ついに姿を消すということだ。
 "明治村にでも残せればいいんだが…"
と、未練がましく「早稲田学報」の表紙絵にその校舎をとり入れたイラストを描いてみたのである。


                                      〔昭25工芸美術〕
                             長尾 みのる
                         〔イラストレーター〕