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ロシアの蜜菓子プリャニキ(пряники)

пряники(プリャニキ)はロシアの代表的なお菓子だ。表面がとても固そうに見
える。しかしそうでもない。すっかり乾ききっているが、手で割ることもできる。そし
て、不思議なことに中の方には湿り気さえある。はちみつの香りと味がする。その原料
は、粉、砂糖、はちみつという単純なものだ。味も大変素朴だが、ロシアで紅茶を飲み
ながら味わうと、とてもおいしい。砂糖やはちみつのほどよい甘さと小麦粉の味がしみ
とおってくる。すると心の故郷に帰って来たような安らぎとくつろぎが、身体の芯から
おずおずとわき上がってくる。そんなとき初めて、人間としてお茶をゆったりと味わう
こともできる。周囲を眺めると、すべて本物に見えてくる。本物だけが目に入ってくる
のかもしれない。そして自分のことも、仕事や雑用や時間に追われている物体ではな
く、一個の生きている存在として感じられてくるのだ。

トゥーラの贈り物用プリャニキ(縮小)

пряники(プリャニキ)は昔からあったのだろうか、おとぎ話やбылина
(ブィリーナ=吟唱で語られる古い叙事詩)にも登場する。また17世紀のドイツ人外交
官は旅行記に、モスクワ郊外での鷹狩りの後でводка(ウオッカ)、мёд(蜂蜜)、
пряники(プリャニキ)などのごちそうになったと書いている。また歴史家И.Е.
Завелин(ザベーリン)は《Домашний быт русских царей
в XVI и XVII》(16〜17世紀におけるロシア皇帝の家庭慣習)という本を書いている。
そのなかに、ピョートル1世の誕生日の記述があり、ごちそうがあふれるように盛られ
ているテーブルに、さまざまなпряники(プリャニキ)があったとある。別の
文献にも、皇帝の宴会にモスクワの紋章がかたどられたものとか、花模様のある42
キログラムの重さがあるものが出されたとある。このようにプリャニキは一般の人々か
ら皇室にいたるまで広く愛用されていた。ロシア人のお客好きのシンボルとして食卓を
飾り、お茶には欠かせないお菓子であり、贈物としても使われた。


      
袋入り

プリャニキの色は、こげ茶色のものと、明るい黄色っぽいものの2つがある。前者はパ
ン種を発酵させて少し酸味があり、この方が高価である。プリャニキの模様は多彩であ
る.地域によっても異なる。円型や四角の上に浮彫り模様のあるものと,動物などをかた
どったものがある。一般的な模様の他に、その地域の出来事と深くかかわった型や模様
のプリャニキがバザールで山のように売り出されたという。最初に蒸気機関車が走った
ときには、蒸気機関車の形をしたプリャニキが売り出された。大人も子供も喜んで買い
求めたことだろう。乾燥した気候のせいかプリャニキは日もちする。贈られたプリャニ
キを壁に飾ったりもする。蒸気機関車のこと、その印象を互いに語らいながら、プリャ
ニキを眺めたり食べたりしたのであろう。

ボルガ川の水面に蒸気船が現れたときは、その形のプリャニキが出回ったという。ま
た、村や町にサーカスがやって来ると、『サーカスがやって来た』というプリャニキが
作られる。その思い出にと、象、虎、道化師をかたどったプリャニキが焼かれ、子供も
大人も、サーカスでの喜びと興奮を再び手にしたという。このように、プリャニキはい
ろいろな出来事に結びつきながら人びとを楽しませてきた。

18世紀にはазбука(アルファベット)のプリャニキが登場して、子供への贈物と
して人気を博した。本当に、そうしたプリャニキで子供に文字を教えたそうだ。文字を
覚えるたびに、たべてもよいと申しわたされたのかもしれない。あるいは、食べてし
まったとたんに忘れてしまったかもしれない。いずれにしても、子供たちは大いに楽し
んだことだろう。

さまざまな名前人りのプリャニキは、そうした名前の友人、知人、家族の誕生祝いに贈
られた。その他にもお祝いや、ある感情の表現として、《Знак дружбы》(友
情のしるし)、《С днём ангела》(名の日の祝いに)などのことばを浮き上が
らせたプリャニキを贈った。ときには、愛の告白として贈ることもあった。《Кого
люблю,того дарю》(愛する人に贈る)という直情的なものや,《В ожи
дании ответа》(答えを期待しつつ)など謎めいたもめもあった。プリャニ
キのやりとりでますます甘くなったのかどうか知るよしもないが、ほほえましいこと
だ。

プリャニキのなかで特に子供に人気があるのは、силуетные(シルエット
の)、あるいはвырезные(型抜き) пряники(プリャニキ)である。
これは、動物、鳥、人間などをかたどったプリャニキだ。それらの原型を作って、ねり粉
をその型に切り取っていく。それを焼いて、その後に仕上げをする。さまざまな色の砂糖
をまぶしたり、砂糖液をかけたり、優れたセンスと手腕が要求されるという。

別の形のプリャニキに、печатные(ペチャートヌィエ)というのがある。型を
押した、という意味だ。白樺や菩提樹製の板に彫刻をほどこして、それをねり粉に押し
つけて模様をつけたりした。最近では金属板も珍しくない。これら木製の原型が、レニ
ングラードの民族学博物館にある。私の手許に、さまざまなプリャニキのカタログがあ
るが、46か所から集められており、おもに1920年代のものが多い。地域によって模様
や形も異なる。ロシアのオーナメント研究のひとつとしても、ぜひ眺めてほしい。

また、同じпряники(プリャニキ)でも、Архангельск(アルハンゲ
リスク)では、それをкозли(コズリ)と呼んでいる。プロップ著、大木伸一訳の
『ロシアの祭り』(岩崎美術杜)によれば、козли(コズリ)とはキリスト降誕祭な
どに、贈物として練り粉から作った鳥や動物の型をしたものとある。これを、いけにえ
献上の儀礼の痕跡とみなしている学者もいるという。пряники(プリャニキ)
は、なかなか手ごたえのあるお菓子の様相を帯びてきそうだ。

児島宏子


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