■ 私の原体験 ■

 私が生まれた'60年代後半というと、まさに日本のモータリーゼーションの真っ只中で、一般家庭の自家用車保有は当たり前のものとなり、街はクルマで溢れ返るようになっていました。日本の自動車業界も、大衆車市場の拡大や輸出台数の増大などで急成長を遂げつつありました。

 その一方で、かつて隆盛を極めたオート3輪に目を転じると、マツダ、ダイハツという2大ブランドの最終型の生産が細々と続けられていたのみで、その他のブランドは全て消滅しており、いよいよその終焉を迎えつつあった時期といえます。事実、オート3輪の年間総生産台数は1万台そこそこのレベルにまで落ち込んでおり、全盛期の1957年と比べて僅か10分の1と見るべきものもありません。
 しかし、依然として全国で約20万台弱の保有台数を維持しており、まだまだ街中でオート3輪の姿を数多く見かけることができる時代でした。(といっても私の記憶にはないのですが・・・)

 当時、建設業界に身を置いていた私の父はちょうどこの頃、勤めていた会社の3輪ダンプを通勤に使用していた時期がありました。当時1〜2歳だった私は、夕刻になると、家のすぐ傍の国鉄の立体交差下を「ドカドカ、ガガガーン」とけたたましい音を立てて通過するT2000ダンプの走行音をキャッチし、父親の帰宅を母に知らせていたそうです。
 実際にそのダンプに乗ったり触ったりした記憶はないのですが、今から考えると、これが私にとってのオート3輪原体験といったところでしょうか。


当時のアルバムより(1) 当時のアルバムより(2)
 これは事務所前で撮影されたT2000ダンプ。おそらく父が乗って帰っていた車両そのものでしょう。  こちらは建設現場で資材運搬に活躍中の「T」です。奧側の車両は2トン積みのT1500です。





■ きっかけは突然に ■

 時は10年ほど流れて、私が小学校の高学年を迎えた頃の話になります。

 おりしも数年前に巻き起こったスーパーカーブームがきっかけとなり、以前よりも一層、自動車という乗り物への関心を強めていた私は、かの一大ブームが去ると同時に、いつまでも遠い存在であり続けた欧州産のスポーツカーよりも、うんと生活に密着した存在である日本車の方へ、次第に興味の対象を移していきました。道を歩けば駐車しているクルマを1台1台舐め回すように観察し、ひとたび画用紙を手にすれば必ず国産乗用車の絵を描いていたものです。

 そして運命の日がやってきます。

 その日も、いつもの仲良し3人組で小学校を後にし、行き交うクルマに熱い視線を送りながら通学路を下校していました。同じように自動車好きだった私達3人の話題の中心は、乗用車よりはむしろトラックなどの「はたらくクルマ」の方で、国道2号線を通過する大型トラックを指差しては、「ふそう!」、「UD!」、「日野!」などと大声を上げていたものです・・・(ちょっと変?)
 ちょうど歩道橋に差し掛かり、橋の上から真下を通過するクルマを見ていた私達は、突然、東の方角から見慣れないカタチの幌付きトラックが走ってくるのに気付き、思わず歩を止めました。私達3人が一様に目を奪われたのは、トラックの前方に突き出している一輪のタイヤでした。
 「・・・さ、さんりんしゃ!?」
 思わず顔を見合わせ、奇声を発した仲良し3人組。これまで意識したことのない異様な面構えの乗り物に突然出くわすことになり、多感な小学生が受けたインパクトの大きさは想像に難くありません(笑)。

 私は突然の3輪車の出現に興奮を覚えながらも、荷台の幌に書いてあった「徳山トラックKK」の文字を見逃しませんでした。




■ 大自然の中での再会 ■

  歩道橋の上から見た3輪トラックの姿が強烈に脳裏に焼きついてしまった私は、その日以来どこへ出掛けるにも、街の風景の隅々まで目を凝らして、あの異様な風貌の乗り物との再会を求めるようになりました。

 そして迎えた小学5年生の時の野外宿泊訓練。目的地は山口県の県西部、カルスト台地で有名な秋吉台の近くにある「秋吉台少年自然の家」でした。
 行きのバスの中には、バスガイドさんの話や歌に耳だけ傾けつつ、窓際にキッチリと陣取って、流れ行く風景の中に3輪トラックの姿を探している私の姿がありました。対向車、信号待ちのクルマ、そして駐車車両・・・私は視界に入るあらゆる自動車を車窓から追い続けていたのです。
  約2時間のバス移動も残り僅かとなり、私達を乗せたバスが国道から狭い町道に入ろうとした時のことです。突如、私の目に飛び込んできたのは、交差点そばの民家の軒先に停めてあった自家用のオート3輪だったのです。そう、あの日に歩道橋から見たクルマと同じ、一度見たら忘れない独特の風貌を持つマツダT2000でした。思わず「おったー!」と叫んでしまった私に、いつもの仲間達がすぐに同調、あっという間に私達のバスの中は騒然となりました(笑)。

 2泊3日の宿泊訓練中もずっとその3輪車のことが頭から離れなかった私は、帰りのバスの中から、その民家の場所を周囲の情景と併せてしっかりと記憶しました。


 そして、宿泊訓練から帰宅したその週末、私は父親にドライブ話を持ちかけ、カメラを携えて2人で現地に直行したのです。
 無論アポなしの突然の訪問ですから、遠路遥々掛け付けても、お目当てのオート3輪が不在の可能性もあったわけですが、私は一刻も早く写真を撮りたいあまりに、そんな心配は全くしようとしませんでした。
 地図を片手になんとかその民家の場所をつきとめると、はたしてそのT2000は、私達の到着をじっと待っていてくれたかのように、同じ場所にしっかりと佇んでいるではありませんか!
 私はホッと安堵しながら、急いでクルマから降り、カメラ片手にその傍らへと駆け寄ったのです。

 こうしてついに、その不思議なカタチの乗り物をカメラに収めたその瞬間、私は思わず手が震えるくらいドキドキしたことを覚えています。まるで絶滅寸前の珍獣でも捕獲したかのように、私の興奮は頂点に達していました。もちろん、あとで写真を見て驚く友達の顔が目に浮かんでいたのは言うまでもありません。
 オート3輪を間近でじっくり見るのは初めてのことでしたが、13尺荷台の長さがやけに印象に残った日曜の午後でした。

 興奮覚めやらない面持ちで再び助手席に納まったそのドライブの帰り道、私は国道2号線沿いでさらに数台の現役オート3輪と遭遇。相次いでそれらをカメラに収めることに成功したのでした。






●山口県美東町(1980.11)

(同上)

■ 撮影の旅、始まる ■

 予期せぬ収穫にすっかり味を占めた私は、それ以降、父親の仕事が休みの日ごとに、県内の主要幹線道路をルートに選んで、オート3輪を求めた目的地のないドライブを敢行するようになりました。
 このドライブは約2年間も続き、実家のある徳山市を拠点に、主要国道はもちろん、主要県道もほぼ全て経由して、山口県下の全ての市町村を制覇しました。時には県境を越え、広島県や島根県まで足を延ばすこともありました。当然ながら、クルマで行った九州への家族旅行も、私にとっては貴重なオート3輪捜索活動の場となりました。

 この間、我が家のファミリアバンはまさに東奔西走で、オート3輪の発見に多大な貢献をしてくれたわけですが、実際に当時の撮影写真を見てみると、随所にその姿がフレームインしており、その活躍の様子を窺い知ることができます。(下の写真参照)

●山口県柳井市(1981.2)

●佐賀県有田町(1983.8)

●山口県豊北町(1982.1)




 
今から振り返ると、可愛い(?)一人息子の要求とはいえ、休みの日ごとに終日ドライブに駆り出された父親は、本当に気の毒で仕方ありません。しかもドライブの性格上、家を出発する時点では何ら撮影のアテは無いわけで、運転中に突然「あそこに(オート3輪が)いたー!」などという助手席からの叫び声に反応して即座に停車場所を探す・・・運転が上手で状況判断に優れた父でなかったら、1件や2件の追突事故を起こされていても何ら不思議ではありません。
 そんなわけで、ホントに父にはいくら感謝しても感謝し足りないくらいです。あれから20年もの歳月が経ち、自分が我が子をクルマに乗せて運転するようになった今、その思いはますます強まるのでした。


 こうして、毎週のように撮影の旅を重ねながら、父からオート3輪に乗っていた頃の昔話を聞いたり、得体の知れない古いクルマの名前を教えてもらったりということが続きました。そのうちに私は、当時でも既に珍しい存在だった「山6」というシングルナンバーに興味を持ち、そのつながりから「山4」「山5」等、次第にオート3輪以外の国産旧車も撮影対象に加えるようになりました。
 そうです、これこそが、現在撮影台数1700台を超える、私の長年の旧車撮影活動の源となっているわけです。




■ 愛すべきフクロウ顔 

 父からの多大なサポートを受けた弛まぬ探索活動の結果、'80年末から'82年迄の間に、私は山口県内で約60台の現役ナンバー付き車、廃車状態のものまで含めると約140台ものオート3輪の姿をカメラに収めることができました。
 時には、荷役作業中にお邪魔して撮影させてもらったり、対向車線で一瞬のうちにすれ違ってしまって悔しい思いをしたこともありました。また、他所の敷地に堂々と入り込んだり、危険なスクラップ車置き場に侵入したりと、今から思えば、怖いもの知らずの少年だからこそ可能だったと思われるケースも多々ありました。

 そんな中で、ナンバープレートの有無を問わず、遭遇する確率が圧倒的に高く、私のオート3輪撮影台数の過半数を占めていたのが、東洋工業の主力車種であった「T2000」でした。T1500/T1100まで含めたシリーズ全体では、実に90台を超える程でした。この極端なまでの偏重ぶりは、'60年代に不動のTOPシェアを誇っていたT2000/T1500の実勢を反映したものともいえますが、私が撮影活動を行なった山口県が、東洋工業のお膝元・広島県の隣県である地理的な条件も少なからず影響していると思われます。
 しかし、ただ単に発見数が多かったことのみが、私をTシリーズへ傾倒させた理由ではありません。それは、あの日の出来事と密接に関連していたのです。


 私はオート3輪の撮影を始めてすぐの頃、下校中に歩道橋の上から確認した「徳山トラックKK」の文字を頼りに、自転車に乗って、思い切って市内にある事業所を訪ねてみました。大きな衝撃を受けたあの姿がずっと気になっていたからです。
 するとラッキーなことに、事務所裏の駐車場で、いとも簡単にお目当てのT2000トラックの姿を発見することができました。私はすぐさまカメラを構えたのですが、何となくクルマの雰囲気が変なことに気付きました。ガムテープだらけで満身創痍のキャビンを観察しながら後ろに回ってみると、すでにナンバープレートは返納され、路上を走れない姿になっていたのです。まさに「死んだ」状態でした。
 あの日、唖然とする私達の目の前を颯爽と走り去った思い出のオート3輪。やっと再会を果たしたものの、すでに現役を引退し、もう二度と走る姿を見ることはできない状態だったのです。その時、私の胸を支配したのは、何とも表現し難い虚脱感でした。もう少し早く来ていれば、生きている姿に会えたのに・・・。

あの日と同じ前姿

 

車内

 

ナンバー無しの後姿

 

 そして、今後は間違いなく廃棄の道を辿るであろうこのT2000トラックの、その特徴的なフロントマスクが、とても寂しげに私に何かを訴えかけているように見えたのでした。もう少し早く会いたかったと・・・。

 私はこの時、目の前のT2000トラックがまさにそうであったように、今もどこかで、忍び寄る車齢と戦いながら残り少ない余生を送っている現役オート3輪の存在について、初めて意識させられました。そして、このT2000と同じ運命を辿らせてしまう前に、1台でも多くの生きた仲間に会いたい、と強く思ったのです。私は事務所のオジさんに許可を得て、魂の抜けてしまったT2000を慈しむように、キャビンの隅々までカメラに収めて帰途につきました。
 子供心に抱いたこの時の感情が、その後現在に至るまでずっと、私がT2000に対して特別の感情を抱くきっかけとなったのでした。

 もちろん、その後の撮影活動の過程で、マツダと並んで近代オート3輪のもう一方の雄であったダイハツCO/CM号や、かつて軽3輪ブームを巻き起こしたミゼットやK360とも数多く出会うことになるのですが、やはりT2000は私にとって特別な存在であり、現役車を見付けた時の喜びもまた格別でした。





■ 今思うこと 

 全国各地での旧車イベントや、自動車博物館でのオート3輪撮影がメインとなった現在の私は、小学生時代には全く縁のなかった、くろがねやホープスター等の歴史的価値の高いオート3輪と接する機会が急増していますが、それでもT2000への特別な思いは何ら変わることはありません。旧車イベント会場でふと現役車に出会うと、思わず心が和み、「これからも元気で頑張ってくれよ!」と、心の中で強く語りかけてしまいます。

 この文章を書いている2004年現在で、最後のT2000受注生産車がラインオフしてからもう30年が経過しています。小学生の私が探索活動に明け暮れた'80年台初頭とは違い、もはや仕事の第一線で活躍する現役T2000は、常識的に考えて皆無に近いと思われます。しかしその分、理解あるオーナーさんに恵まれた幸せなT2000達が、全国各地で今なおナンバーを保持し続けていると聞きます。
 私自身は、残念ながら旧車を所有するほどの甲斐性を持ち合わせていませんが、オーナーさんの深い愛情に包まれ、21世紀を元気に生き続けるT2000との新たな出会い、そして心のふれあいを、これからも楽しみにしたいと思っています。