大正区の史跡・名所(区制60周年記念誌 わがまち大正 から)



名称 説明 所在地

 

昭和山(千島公園) 

 

昭和山は標高35mの港の見える丘である。
大阪城の台地(33m)より高く、市内では鶴見新山(46.3m)に次ぐ高さである。
昭和山は、港湾地帯整備事業・区画整理事業で人工の山を造る「千島計画」により、万国博関連工事で建設が急がれていた地下鉄工事の残土など約170万m3の土砂で造られた。天保年間に安治川の川ざらえの土砂で造られた天保山にならい、昭和山と命名された。

 

千島 

 

八阪神社

 

通称下八坂神社。嘉永2年(1625)三軒家地方の開拓者らが建立。素戔嗚尊を奉祭したのが起源と伝えられている。 三軒家東6-14-2

 

八坂神社 

 

上八坂神社といわれている。正保4年(1647)9月、三軒家の開発者中村勘助が京都祇園の八坂神社の分霊を勧請し、素戔嗚尊を祭ったのが起源といわれている。 三軒家東3-7-16
中村勘助源義久彰徳碑 

 

八坂神社の社殿のかたわらに、大正6年12月氏子らが中村勘助彰徳会を結成して建立した。
中村勘助は慶長15年(1610)木津に移住、豊臣家の姫島北岸軍船係船所建設工事に従事、姫島を開発したといわれ、木津川浚渫によって船運はよくなった。
勘助は寛永18年(1641)のききんの際、中之島の福岡藩蔵屋敷を襲い、奪ったご用米を難民に分け与えたといわれている。

 
 
 
 
 

 

近代紡績工業発祥の地 大阪紡績三軒家工場があった三軒家公園の西北隅にこの碑があり、昭和35年、大阪市によって建立された。 三軒家東2

 

専称寺  専称寺は、寛永5年(1628)3月、僧敬順が東本願寺宣如上人から山号を賜り、自宅を改造して一宇として始まった。 三軒家東2-5-9  
呑海寺
 

 

寛文10年(1670)8月23日に来襲した台風で、漁村の家は倒れ、飯場は跡形もなく吹き飛んで、浜には船とともに多数の水死者が打ち上げられた。その中に菩薩像1体が見つかり、住民たちは寛文12年(1672)僧体清を発起人として仮堂に安置した。検地奉行はこの地を免租とし、代官も「呑海庵」と名付けたと伝えられる。その後の災害では1人の水死者もなく、島民は「浪除観音」として敬った。昭和21年呑海寺と改称された。 三軒家東6-15-3
 
 
 
 

 

了照寺
 

 

泉尾新田の開発者、北村六右衛門(1644-1708)が元禄15年(1702)一庵寺を建て、開拓の時の犠牲者の霊を祭った。六右衛門の死後、宝暦13年(1763)、その法号の了貞と妻女伊和の法号照貞の頭字を合わせて了照寺と名付けられた。浄土真宗本願寺派に属する。 三軒家東4-15-7
 
 

 

東林寺
 

 

延宝2年(1674)頓竜和尚が難波島に建立、阿弥陀仏を本尊とし東林庵と称したのが始まりといわれている。大正8年1月、白雲山東林寺と改称、戦災で焼失したが、昭和24年現在地に移転した 三軒家東4-11-16
 

 

碇庵

 

碇庵は浄土宗一心寺の末寺で阿弥陀仏を本尊とする。享保20年(1735)真蓮社巣誉善真が信徒の協力を得て創立した。 三軒家東4-11-24

 

久昌寺

 

九晶寺は臨済宗妙心寺派に属する。もと北区曽根崎にあったが、明治38年2月、現在地に移転した。 三軒家西1-22-7
地蔵院  もと南区大和町の高野山真言宗法案寺南坊のの末寺であったが、現在は巣立寺院で、本尊の地蔵菩薩は戦災で焼失した。元禄元年(1688)快園の開創で、寺はもと東成郡住吉村にあったが、明治34年4月現在地に移った。 三軒家東4-5-9  

 

金光教泉尾教会  

 

昭和2年1月北泉尾町1-173に布教の道場が開設されたのが起こりである。昭和24年末から北泉尾町2-106の敷地に泉光園の建設に着手し25年12月完成、神殿も園内に遷座した。ついで42年10月、鉄筋構造の大会堂と付属建物の改築工事が完成した。現在3月の大相撲大阪場所の際、佐渡が嶽部屋の宿舎となっている。 三軒家西3-8-21 
今木町の刑場  

 

明和7年から安永7年にかけて難波島の今木新田が開拓されたが、その北端に幕府の木津川口刑場が設けられた。いまの三軒家東2丁目付近である。
刑場では蘭法医らによる刑死人の解剖が行われた。刑場は維新後まもなく廃止された。
三軒家東2 

 

泉尾神社 元禄12年(1699)泉尾新田の開拓者北村六右衛門ら有志が守護神として、天照大神、住吉大神、八幡大神を祀る産土神社を創建したのが始まりである。明治になって村社に列せられたが、同41年6月、西区九条の茨住吉神社に合祀された。その後泉尾の発展につれて氏子の間に氏神社創建の運動が起こり昭和10年12月に許可された。社殿は同15年完成したが、戦災で焼失。戦後信者の寄進によって再建された。神社名は昭和22年泉尾神社と改名された。  泉尾2-17-8
万福寺 山号を西陽山といい、浄土真宗本願寺派に属する。万治2年(1659)了安によって、三軒家村の専称寺(真宗大谷派、1628年開基)北隣に、大正区の東西本願寺対立の形で創建された。
寛文10年(1670)8月、津波のため流出、翌年再建、その後も移転、改築を続け、明治44年2月に三軒家西2丁目に、昭和4年現在地に移転した。数少ない非戦災寺院のひとつで、享保4年(1719)からの過去帳を秘蔵している。 
泉尾1-39-18
西福寺 前身は、嘉永6年(1853)天王寺区下寺町から南泉尾3丁目に移ってきた大泉坊随求寺で、戦災で焼失し廃寺となった。同寺に身を寄せていた上山雄教師が、境内にあった不動明王をいたんで、昭和22年11月泉尾上通3丁目に再建した、西福寺と称した。43号線建設で昭和42年3月現在地に移転し、山号を大泉坊から南天山に改めた。不動明王は寺の門をくぐった左側に安置され、両側に”こんがち童子”と”せいたか童子”を従えている。  泉尾3-15-10
産土神社 天保3年(1832)の勧請で天照大神、応神天皇、住吉大神を祭っている。明治5年村社となる。昭和20年戦災で焼失したがその後再建され、同51年7月都市計画で現在地に移った。 小林西2-7-13 

 

帰命寺 浄土真宗本願寺派に属し、江戸末期から明治のはじめにかけて千歳新田の開拓に力を入れた本願寺派の、この地方における拠点寺であった。もとは、尻無川の新田に布教道場の大我山帰命堂を開いたのが起源で天保11年移転、帰命寺と改称した。慶応年間にには明如上人がこの地方を巡教し、帰命寺にも立ち寄って布教した。大正5年ごろ尻無川の改修工事のため北恩賀島町61へ移転、さらに昭和34年5月、内港化工事のため現在地(平尾5 −4−4)に移転した。  平尾5-4-4
天満宮 天保7年(1836)、南思加島の開拓者三代岡島嘉平次が、道明寺天神の分霊を平尾町に近い木津川沿岸に奉齋したのが起源といわれている。明治43年11月、下八坂神社に合祀されたが氏子の反対で社殿はそのまま存続した。戦災で焼失したが、再建され戦後独立の神社となり、昭和33年4月現在地に移転した。  南恩加島1-3-41
白長大明神 南恩加島は幕末のころキツネがおおく、木津川堤防にあけられた住みかの穴から浸水して、水害を大きくしたことがたびたびあった。そこで大運橋の近くに茂る大木のほら穴に住みついたキツネを、呪いよけの神としてほこらを作り、祭っていたのが、南恩加島7丁目の白長大明神である。このあたりではキツネだけでなくタヌキやイタチも、明治中期まではよく見かけられたという。  南恩加島7
神明神社   天照大神を祭る神明社は、かつて大阪には北区天満の大神宮(夕日の神明)、東区神崎町の大神宮(朝日の神明)、東区内平野町2丁目の神明宮(日中の神明)の三社があり、鶴町の神明榊社は、このうち東区内平野町の神明宮を、大正13年8月現在地に奉還したものである。祭神は天照大神、八幡大神、春日大神で、もと後陽成天皇の勅願で京都西院に創祭されたが、元和2年(1616)大阪城主松平忠明の懇請で東区内平野町に移され、さらに市の都市計画によって鶴町へ移った。  鶴町2-7-29