【切り絵】コラム --------------------------------------

「書について」   2020年3月 記

 ある時、ふとしたことで「字が下手なのは日本人、人間として恥ずかしい」と言ったら、いつも穏やかな息子にひどく叱られた。「偏見だ。そんなこと言ったら、話が苦手な人や、歌が下手な人は人間失格ってことになるよ」。なるほど、確かに人間として・・・は言い過ぎた。でも、字が上手くて損なことは何もないし、もしかしたら人格や教養さえもそれで評価されることもある。

 昔、僕が現役だった頃、ある一冊の専門書が評価されて日本全国を講演して回ったことがある。その日はたまたま京都での講演で前日入りしたのだが、主催者との懇親会には少し時間があったので、駅近の「京都国立博物館」をひやかしてみた。確か「和様の何々」とかいう企画だったと思う。1階の入ってすぐの所に仮名の古筆が展示されていた。何気なくみていた私の足に電気が走るような感覚を覚えて、立ち止まったことをよく記憶している。「書」のタイトルは、「高野切」とかいう古いかな文字だった。
 大げさに聞こえるかもしれないが、私はそれに美の絶頂を感じたのだ。妻は飛行機が苦手なので、何度も単身で外国旅行をした。行く先々でたくさんの美術品にも触れたし、国内の主だった展覧会もマメに出かけていたのに、こんな衝撃は初めての経験だった。
案内を見ると、なんと11世紀頃の作品だという。流麗な連綿、同じ文字の流れにも濃い部分とかすれた部分があって、それが緩急のリズムを持って一気に書き上げられている。料紙と呼ばれる紙は、金銀のキラが絶妙に施されていて、それが古い墨の色と見事に調和している。「世の中にこんな美しいものがあったのか・・・」。
 小林秀雄の随筆のなかに、ゴッホの一枚の絵の前で「膝が崩れ落ちるほどの衝撃を受けた」という一節があることは知っていたが、アムステルダムで、実際に「カラスが群れ飛ぶ麦畑」というその絵を見たときでもさほどの感激はなかった。京都で思いがけず「高野切」を見初めてしまった私は、その時以来リタイアしたら絶対に「かな書道」をやろうと固く心に誓った。いまから十数年前の話である。

 そんなわけでリタイア後、「切り絵」にハマるよりも7年も前に、家内とともに書道の教室に通うことになった。最初の課題は「いろは」。平仮名47文字全てを書いていくのだが、これさえも相当難しい。「日本人なのに、古い日本の文字が読めないなんて悲しいよね」なんて当初の戯言はすぐに何処かへ吹っ飛び、「書」の世界はそんな生易しくないことを入塾してすぐに思い知った。読むと書くとは大違いなのだ。
 現在ようやく私は初段、妻は3段になったが、まだまだ先輩諸氏の足元にも及ばない。何しろ、教室の方々は始めて30年なんてツワモノがたくさんおられる。社中の先生方の書は、そこはかとなく平安の香りを醸し出しているし、ご高齢の師匠でも素晴らしい字を書いて魅せてくれる。何の世界でも「・・・道」とつく習い事は奥深いものだ。
 1年半ほど前、運命のいたずらか、あの「高野切」を書いて全書芸展に応募したら、なんと「都知事賞」をいただいた。昨年は「金沢本万葉集」で文部科学大臣賞をいただいた。駆け出しの身にとっては、驚天動地の快挙である。指導してくださっている先生には、一生足を向けて眠れない。思いがけず嬉しかったのは音楽仲間や母校同窓会の先生方から、祝福の言葉を多くいただいたことだ。自慢話で恐縮だが、何歳になっても「誉れ」は嬉しいものである。

「高野切」とは---Wikipediaより

高野切(こうやぎれ)は、『古今和歌集』の勅撰より約150年後の11世紀中期に書写されたもので、当初は20巻からなっていた。現存するのはその一部である。料紙は、上質の麻紙で、表面に雲母砂子(きらすなご)を散らしたものを用いている。
「高野切」などの「切(きれ)」とは、元来巻物や冊子本であった和歌集、漢詩集などの写本を鑑賞用とするため切断し、掛軸に仕立てたり、手鑑(でかがみ)と称するアルバムに貼り込んだりしたものを指す。こうした鑑賞形式は、室町時代以降、茶道の隆盛とともに盛んになった。こうして切断された紙片のことを「断簡」と称するが、高野切本古今和歌集のうち、巻九の巻頭の17行分の断簡は豊臣秀吉を経て高野山に伝来したため、「高野切」の名が生じた。
『古今和歌集』は和歌の規範として、平安時代の貴顕には必須の教養とされ、尊重されてきた。そのため写本も多く、平安時代にさかのぼる写本だけで約60種にのぼると言われているが、その中でも最古の写本であり、書道の手本としても尊重されているのが高野切本である。