【切り絵】コラム --------------------------------------

「蹉駝のとき」  2020年1月20日 記
 

 無心で紙を切っているときに気づいたことがある。無心だから何も考えていないかというと、実はそうではないということだ。ぼんやりとではあるが、何か考えている。なかでも不思議に亡くなった人のことをよく思い出す。それも長年共に暮らした父母のことではなく、昔一緒に遊んだ仲間や、仕事でお世話になったメーカーの人、そして一番頻繁なのは、若くして逝った歌の好きな妹のことだ。毎朝仏壇に手を合わせる時よりもかえって「死」を思うことが多い。
 振り返れば多忙な毎日だった。歯科医として40年、仕事と家庭のために懸命に働いた。立ち止まって人生を考えるなどという余裕はなかったし、そんな気も起こらなかった。リタイアして生活が一転し、終日何をする予定もなくただ「切り絵」を切っている時間を、当時と比較して空しく感じることもある。

 そんな時、「徒然草」の解説本(中野孝次、講談社文庫)で、以下の一節に出会った。
「世俗の黙しがたきに随ひて、これを必ずとせば、願ひも多く、身も苦しく、心のいとま暇もなく、一生は、雑事の小節にさへられて空しく暮れなん。・・・日暮れみち途遠し。吾が生すでにさだ蹉駝たり。諸縁を放下すべき時なり」
(世間の習慣、価値観、決り事を無視できないで、いちいち守ろうとしたら、やらずに済ませられることなど何一つない。が、万事そんなふうにしていたら、こうあれかしという願い事も多くなる。したくないこともせねばならず、身も苦しくなる。心の安らかな折とてもない。そして、そんなふうに生きていたら、一生はつまらぬ小さな事どもにかまけ、妨げられているうちに空しく暮れてしまうのだ。・・・はや日は暮れかけたのに道は遠い。わが人生は、すでにケリがつき、これだけのものとわかった。今こそ世間との諸々の縁を断ち切るべき時だ。・・・)

 もし、いまの状況が兼好のいう「蹉駝のとき」であれば、「切り絵」は、僕にとってあながち無為の作業ではないのかもしれない。「日暮れ、途遠し」・・・。きっとだからこそ、無意識に「死」を思ってしまうのだろう。歌好きな仲間とリサイタルまでやって、人生を大いに楽しんでいた妹は、あの時すでに「蹉駝のとき」を悟っていたのだろうか。そうだとしても、30歳で出家遁世してから40年近くも生きた兼好と比較して、妹の死がいかにも早すぎたように思えてならない。