訪問者数



〜富士山、最後で最大の宝永噴火(1707年)とその後の小説〜

『怒る富士』、新田次郎著、文藝春秋

(現在(1999.6)は、上下2巻の文春文庫(1980年発行)でのみ入手可能。
 初出は、「静岡新聞」他に昭和47年3月1日から同48年2月8日まで連載。単行本は昭和49年(1974年)3月刊行。)

・内容紹介

  小説の冒頭から駆け落ちする名主の伜・佐太郎と水呑百姓の娘・つるの背景として、地震とそれに 引き続いて起こった富士山の噴火が描かれる。この小説を通して被害農民の代弁者としてこの佐太郎が脇役の一人として登場する。 11月23日(旧暦)から17日間続いた大噴火について、噴煙に覆われた空の暗さ、巨大な火山弾の恐ろしさと多量に降り続ける軽石・ 火山砂・火山灰による影響範囲の広大さ・甚大さが具体的に述べられる。その後の領主大名や幕府の対応と実務処理を任された 関東郡代・伊奈半左衛門忠順(ただのぶ)を主人公として話は進む。大災害に対し財政窮乏の幕府 の取った処置に抵抗し、餓死する農民を救うため、自らの命をも賭して幕府の米蔵を開き秘かに与えようとする・・・。
  著者は入手し得る史料を駆使して分かる限りの事実を元に、それでも明らかに ならないところを補った物語として”真相”を描いてみせる。この今となっては分からないところに、 当時の政府機構の権力闘争や実務官僚の苦衷を描き、終盤俄然 ミステリータッチも交えて結末へと向かう。時代小説であるため驚くような結末は無いが、 実に丹念に書き込まれた良い小説だと思う。

・著者紹介

 新田次郎(にった・じろう)
 明治45(1912)年長野県生まれ。本名藤原寛人。無線電信講習所(現在電気通信大学)卒業。
 昭和31(1956)年「強力伝」にて第34回直木賞受賞。41(1966)年永年勤続した気象庁 を退職。
 49(1974)年「武田信玄」などの作品により第8回吉川英治文学賞受賞。 55(1980)年2月没。
 氏は、富士山関係の作品を『怒る富士』を含めて長編5つ、中・短編20以上書いている、とのこと。
 (「富士山」(1975.9執筆)、『郷愁の八ヶ岳』(小学館、1997.5.20発行)P.91より)

・実在した主な登場人物

名前(よみかた)年齢備考
徳川綱吉
(とくがわ・つなよし)
 63正保3.1.8(1646.2.23)〜宝永6.1.10(1709.2.19)(64歳)。
延宝8.5(1680,35歳)から宝永6まで29年間、第5代将軍。
柳沢吉保
(やなぎさわ・よしやす)
 51万治1(1658)〜正徳4.11.2(1714.12.8)(57歳)。甲斐国22万8700石余領主。
元禄1.11(1688,31歳)から宝永3(1706,49歳)まで綱吉の側用人、
それ以降宝永6.6.3(1709,52歳)まで大老。
荻生徂徠
(おぎゅう・そらい)
 43寛文6.2.6(1666.3.21)〜享保13.1.19(1728.2.28)(63歳)。吉保お抱え儒者。
土屋政直
(つちや・まさなお)
 68寛永18.2.5(1641.3.16)〜享保7.11.16(1722.12.23)(82歳)。
常陸国土浦藩9万5千石藩主(1679.5〜1719.5)。 貞享4.10.13(1687,47歳)から
享保3.3(1718,78歳)まで31年間、老中。1705年から老中筆頭。
大久保忠増
(おおくぼ・ただます)
 53明暦2(1656)〜正徳3.7.25(1713)(58歳)。相模国小田原藩主(11万石)。
宝永2.9.21(1705,50歳)から老中。また、被災地域大部分の領主でもあった
井上正岑
(いのうえ・まさみね)
 56承応2(1653)〜享保7.5.17(1722)(70歳)。常陸国6万石領主。
宝永2.9.21(1705,53歳)に若年寄から老中。
折井正辰
(おりい・まさとし)
 59慶安3(1650)〜享保14.7.3(1729)(80歳)。
元禄14.12.1(1701,52歳)より正徳2.3.30(1712,63歳)まで大目付。
以後5年間寄合。忠順の岳父
荻原重秀
(おぎわら・しげひで)
 51万治1(1658)〜正徳3.9.26(1713.11.13)(56歳)。
元禄9.4.11(1696,39歳)から正徳2.9.11(1712,55歳)まで勘定奉行。
柳沢吉保によって取り立てられ、当時の幕府財政の一切を取り仕切った人物
中山時春
(なかやま・ときはる)
 57承応1(1652)〜寛保1.11.26(1741)(90歳)。
元禄15.11.28(1702,51歳)から正徳4.1.28(1714,63歳)まで勘定奉行。
以後9年間町奉行。
河野通重
(こうの・みちしげ)
 57承応1(1652)〜享保9.12.18(1724)(73歳)。
宝永5.7.25(1708,57歳)から(正徳2.10.3(1712,61歳)まで)目付。
以後佐渡奉行、京都町奉行。
伊奈忠順
(いな・ただのぶ)
 ??〜正徳2.2.29(1712.4.4)。
元禄10.12.10(1697)年伊奈家を継ぎ、第5代関東郡代。 幕府直轄領の内、関東40万石を支配。 河川の管理を重要職務とし、忠順も永代橋・本所堤防修築・六郷の渡しなど工事。伊奈氏は知行高約4000石で、家臣団を有す。
関東郡代は初代忠治(1642)以来代々世襲されたが、寛政4年(1792)3月9日、 忠尊が家事不行届の理由で失脚し、世襲は終わりを告げた。
「さてさて惜しき事なり、伊奈半左衛門殿と申せば百姓は勿論、町人に至るまで、神仏のように敬い申し候処、うんぬん」(『寛政四子年覚書』)
徳川家宣
(とくがわ・いえのぶ)
 47寛文2.4.25(1662.6.11)〜正徳2.10.14(1712.11.12)(51歳)。
宝永6.2.3(1709.3.13,48歳)より3年間、第6代将軍。
小笠原長重
(おがさわら・ながしげ)
 59慶安3(1650)〜享保17.8.1(1732)(83歳)。武蔵国岩槻城主6万石。
元禄10.4.19(1697,48歳)から宝永2.8.26(1705,56歳)と
宝永6.1.10(1709,60歳)から宝永7.5.18(1710,61歳)に老中。
間部詮房
(まなべ・あきふさ)
 43寛文6.5.16(1666.6.18)〜享保5.7.16(1720.8.19)(55歳)。
上野国高崎城主5万石から越後国村上城主へ。
宝永3(1706,41歳)から享保1.5(1716,51歳)まで側用人。
新井白石
(あらい・はくせき)
 52明暦3.2.10(1657.3.24)〜享保10.5.19(1725.6.29)(69歳)。 詮房お抱え儒者。
荻原重秀を敵視
能勢権兵衛
(のせ・ごんべえ)
 ?元禄14.5.7(1701)駿府代官就任。
享保4.6.12(1719)租税の負金多く年々上納
遅滞にをよびしこと其罪かろからず。遠流に処せらる。
(『新訂 寛政重修諸家譜 第22』、P.364より)
*年齢の項目は1708年当時で統一して表した。

・当時(1707年,1708年)の江戸幕府組織(一部)

将軍・
徳川綱吉
−−−−大老・柳沢吉保


 |



 |   −老中筆頭・土屋政直 −−−大目付・折井正辰

 |  | 
  |

 |−|−老中・大久保忠増−|−|   −勘定奉行・荻原重秀
(勝手方)

 −関東郡代・
伊奈半左衛門

 |  | 
  ||−|
 |

 |   −老中・井上正岑|   −勘定奉行・中山時春
(公事方)

 −駿府代官・
能勢権兵衛

 |   



 |   

|−−−駿府城代・青山幸豊

 |   



 |   

 −−−駿府町奉行・水野小左衛門

 |   




 −徒目付

  −−−若年寄−−−−−−−目付・河野勘衛門 −







 −小人頭−小人目付

*赤文字と青文字が対立したとされるグループ。                     
*大老・老中・若年寄は大名(1万石以上)、それ以外は旗本(1万石未満)が就任。
(*上表の表示がおかしい場合は、ウィンドウの横幅を広げて(1024以上)下さい。)  


・史実 *年月日の後のかっこ内は今の暦

元禄16(1703)年11月23日(12/31)、関東地方に史上最悪の元禄大地震(東海トラフ)発生(死者多数)
 ・この時の影響からか年末から年始にかけて富士山に鳴動あり。
宝永4(1707)年10月 4日(10/28)、宝永地震(震度6〜7、マグニチュード8.4(推定)、南海トラフ)発生

11月22日(12/15)、群発(50回以上)地震

11月23日(12/16)、噴火開始

12月 5日(12/28)、幕府の徒目付3名+小人目付6人が見分

12月 9日(1/1)、17日間続いた噴火が終息

12月11日(1/3)、小田原藩藩主名代見分(農民に農地の降灰自力除去を命ずる)
宝永5(1708)年 1月 8日(1/30)、百姓約5,000人が上訴に出発

〜1月30日(2/21)、藩主、藩米2万俵割り当て

閏1月 7日(2/28)、返地公収替地決定、救恤金令出る。
※幕府は救恤金令で救済費として48万両強を集めた。

閏1月18日(3/10)、返地の触れ。伊奈半左衛門が公地支配を任される。
(この頃、春からの流行性感冒に半左衛門もかかる)

 2月11日(4/1)、駿東郡59ヶ村を亡所と宣告(中山時春・河野勘衛門が通達)
※亡所とは収税地と見なさない替わりに手当てもしない土地。

 2月16日(4/6)、伊奈半左衛門、酒匂(さかわ)川浚渫工事(費用5万4480両)のため現地へ赴任

 3月(4/21)
   〜翌年2月、
幕府が米2万俵+αで、駿東郡59ヶ村と足柄上郡25ヶ村に
向こう1ヵ年扶持米支給

 6月22日(8/8)、出水で酒匂川の岩流瀬堤(がるぜどて)と大口堤(おおぐちどて)決壊

 8月(9/14)、富士山道の宿として須走村1ヵ村にお救い金1811両支給


この年、幕府は被災地に対して約6万両費やす
 ・また、この年末・年始にも鳴動・降灰があったか?
宝永6(1709)年 1月10日(2/19)、第5代将軍、徳川綱吉死す(はしかの後養生が原因)。

 2月(3/11〜4/9)、御殿場付近の7か村の住民のうち55%が飢人と記録。

 3月(4/10)頃幕府は被災地に対して3万両(工事費含む)支給

 8月 3日(9/6)、河功奉行が伊奈忠順から中山時春に交替する


この年、幕府は被災地に対して約10万両(2月までの扶持米1年分を含む)を費やす
宝永7(1710)年 4月15日(5/13)、幕府が金貨改鋳を行う(1706.6.6改鋳より良貨にした)

 4月(4/29〜5/27)、救恤金3,000両支給

 秋、駿東郡59ヶ村の惣代が土屋政直に訴状(17万両下賜願い)を提出
宝永8(1711)年 1月(2/17)頃、半左衛門私財500両と幕府から1,000両が与えられた
正徳1年 7月22日(9/4)、出水で大口堤決壊(2度目)

11月 1日(12/10)、将軍家宣が江戸城中で朝鮮通信使を引見する
この頃、駿府から救恤米5,000俵、駿東郡59ヶ村へ送られたか(?)
正徳2(1712)年 2月29日(4/4)、伊奈半左衛門忠順死す
その後・・・
(3ヵ年間、訴え無し)
享保1(1716)年
再び被災地諸村からの届出文書が一斉に提出され、これより後開発が急速に進む
寛保3(1743)年
噴火より36年後、復興により伊奈氏(第6代関東郡代忠逵(ただみち))支配を離れ、 元の領主(大久保忠興)へ返さる。
 

・宝永の大噴火の状況

  この噴火が起こる49日前に宝永地震が起こっており、この地震が大噴火の直接の引き金になった、 というのが専門家(早川由紀夫氏、小山真人氏等)の見方のよう である(しかし、大噴火の前にはいつも 大地震があるというような因果関係は不明のようである。つまり地震が必ずしも前兆になるとはいえないらしい)。 ただ前日(旧暦11/22)からこの噴火期間中ずっと大小の地震が続いていた。

  富士は玄武岩の火山で本来爆発性は無いようだが、この時は違っていた。溶岩は流出しなかった。夜になって、噴煙が火煙となり、小説でも 書かれている”真白な蹴鞠のようなもの”が噴き出された。この白い鞠のようなものとは 何であったか?ということについては専門家による次の説明がある。”「鞠のような白いもの」は ガラス質のマグマであろう。富士は元来ケイ酸の含有量の少ない玄武岩質の黒い色のさらさらした マグマを出すのであった。しかし、この場合は長年のマグマ溜まり内での成分分化が進行したあと、 その上澄みのマグマ液層にケイ酸の濃い部分が濃縮してたまり、それが宝永爆発の最初の1、2日に 噴出したために、ガラスの溶けたような白い、粘りけの強いマグマとなって現れたのである。” (『富士山の噴火』(つじよしのぶ著、築地書館、1992年発行)P.190より引用)とある。 これが白い灰となって降り積もったようである。その後、鉄とマグネシウムの多い黒い灰 に変わった。

  当初の被害としては、須走村全75戸はすべて焼失・倒壊したが死者が多く出た事実も無く、 冬に起こった噴火としては雪崩れなどにもならなかったようである(宝永噴火はプリニー式噴火といわれ、このタイプは しばしば火砕流を伴うといわれるが、そのような記録は見当たらない)。ただ噴火の音は桁違いに大きかった ようで、沼津市三津にまで伝わった衝撃波は戸・障子を震わせ、人の話し声も聞こえなくなる程であった、という。

  この噴火によって今も見られる3つの宝永火口と富士山東南7合目あたりに宝永山(2702m)が出現した。

  宝永噴火が富士山の噴火記録史上最大のものとされる理由は、多量に噴き出された噴出物の多さに よる(総量8億立方メートル=東京ドーム650杯分)。そのほとんどが噴火当初の3日間で噴出し、 噴煙柱は確実に高度10km以上の成層圏に達した、と言われる(素人考えで想像するに、これ程爆発的であったことが 却って幸いして、熱をもった火山弾も冷えて火災等の被害も少なかったのではないか?と思う)。この噴火によって 須走村では約3mもの火山灰に埋まることとなったし、御殿場で約1m、小田原で90cm、秦野で60cm、 藤沢で25cm、川崎で5cm、江戸でも1cm積もった、とある。この多量の砂を除けなければ農作出来ない上 (火山灰の上では普通植物が生えない)、また砂が川に流れ込むことによって洪水が起こるため その砂除けもしなくてはならない、ということが長年にわたる最大の被害となった。 (今でも須走で約2m、用沢で約1m強、御殿場で約50cmの積層が見られるようである。) 
 
(左)宝永山噴火の噴出物分布
   A玄武岩質の噴出物
   B石英安山岩質の噴出物(軽石および黒曜石)
   数字は噴出物の厚さ(cm)
(右)宝永山噴火の降灰分布
 (津屋弘逵,1955による)

 富士山の宝永噴火の噴出物分布図



・現在の伊奈神社(小山町須走)

   伊奈神社の由来
 宝永四年十一月ニ十三日早朝`富士山東口側中腹
より大音響と共に噴火し`その灰`砂等は御殿場市
小山町全域はもちろん神奈川県`東京都の一部にお
よび白昼にして暗夜の如く `特に須走地区は約三米
の降砂に埋没し`噴火は十二月八日まで続いた。
 被災地住民∧駿東郡五十九ヶ村∨は大打撃を受け
た。  家屋`田畑`山林を失った住民は`この窮状
を打開するため`ときの幕府に陳情したが`あまり
の大被害に幕府から見放され`食物もなく餓死寸前
となり`ついには離散するものもあった。
 しかし`被災民代表は死を覚悟で再三幕府に嘆願
し`ようやく聞き入れられ`ときの関東郡代`伊奈
半左 ェ門忠順を災害対策の指揮に当らせたのである。
 早速`被災地に着任した伊奈氏は疲労困憊した住
民を励まし`さっそく復旧工事の大計画を立て日夜
寝食も忘れ身を粉にして至難な焼砂の排除作業に着
手したが工事は難行し`その苦難には言い知れぬも
のがあった。
 更に復旧工事を進行させると共に被災民の食物を
苦慮した伊奈氏は厳しい幕府の掟を破り`静岡市紺
屋町にあった幕府貯蔵米を餓死寸前の被災民に施し
た。幕府御米蔵破り事件は即`江戸表に伝わり`
御公儀役人取り調べの後`伊奈氏は`お役ご免とな
り江戸表に送られ罰せられることとなった。
 恩恵を受けた住民は伊奈氏の特赦を願ったが当時
の幕府権力下にどうすることもできず哀別をするに
過ぎなかった。
 後`慶応三年`その遺徳を偲び有志数名が発起人
となり小祠を建て`明治十一年吉久保水神社と須走
上眞地に石祠を造営した。
 明治四十年に須走字西沢∧王子ヶ池∨に須走山入
合組合が神社を建立し`伊奈神社と称し`更に昭和
三十ニ年十月七日に現在地の小山町須走字下原に移
され`昭和三十四年六月二日神社本庁`昭和三十四
年十一月十六日静岡県より宗教法人`伊奈神社とし
て認証された。
 毎年春四月二十九日と秋十一月三日に大祭が挙行
され`今日に至っても伊奈半左ェ門忠順の頌徳が偲
ばれている。
























鳥居(境内左手)
神社正面
由来境内奥伊奈半左衛門像
(2000.2.11撮影)

※銅像は、昭和57(1982)年3月建立、制作者:堤 達男、題字揮毫:江藤 栄、台座施工者:服部石材店。(当初は、御殿場市ぐみ沢に建てられていたようである。)
 この地には、平成元(1989)年11月3日に移転された。



*背景は梅原龍三郎氏の『噴煙』、1950〜53年、紙、デトランプ、118.8×92.0cm、東京国立近代美術館蔵
  (描かれているのは浅間山)

↑TOPへ

←メインページへ

Copyright(C) S.Tomii 2000 All rights reserved.