八神君と猫の日誌。
以下の文章は、1996.12.12から1997.8.29まで、八神君から来たメールを転載したものである。
当時の「こどものもうそう」や米光の日々記録に対する感想などは、いま読むとわかりにくいので省略した。
メールをもらって掲載していた時には意味がわからず省略していた部分は、ほとんど省略せずに載せることにした。
また、一時期、後半部分が、いつのまにか消えていたのだが、原因は不明である。これも完全に復活させた。

12.12
兄の友人の依頼でこれを書くことになった。
インターネットに掲載するという。
兄がたのまれたらしいが、ぼくが書くことになった。

猫のことについて書くのなら、ぼくのほうがいいだろうということらしい。
だけど、ぼくは猫が大好きなわけではない。兄は猫が嫌いで、ぼくはさほど嫌いではない、というだけだ。

猫を好きなのは父と母だ。
つきあうきっかけも猫であるらしい。
くわしくは知らない。(今度、聞いてみよう)

猫について書く。
名前は、ティル。まっしろな雪のようだと母は言う。
たしかに雪が降った庭に出せばティルは識別できそうにない。
よく病気になる。ぼくと同じで、からだが弱い。
寒いのが嫌いだ。けど、降っている雪は好きみたいだ。


米光さんへ
今日は、これぐらいにします。
長くパソコンを使っていると父にしかられそうだ(^^;)。
最初に書いたのは長くなったので、あれこれ考えて削りました。 おかしなところがあれば、教えてください。
どんなものを書けばよいのか、まだ良くわかってないのです。
ご希望にそえれば嬉しいのですが。


12.14
自分のことを書く。
書いているのがどんな人なのか、わかったほうが読みやすいだろうと 米光氏のアドバイスがあったからだ。
中学2年。
自分のことはよくわからない。
運動神経抜群ではない。
いろいろな活動に積極的に参加するといった性格でもない。
初めて会う人にたいして、すんなり親しくなれない。
かといって、暗い性格でもないと思う。
自分のことを書くのは、むずかしい。よくわかってないからだ。
背は少し高い。
少しやせすぎだと言われる。
色が白い。
小さいころは、女みたいだと言われて、いじめられた。
ティルとは、2年前から友達だ。
ティルのことを書くのは、自分のことを書くのと同じぐらいむずかしい。
ぼくは、ティルのこともよくわかってないからだ。



12.16
寒くなってきた。
ティルもすぐにクッションのすみにもぐり込むようになった。
父はときどき、ティルを連れてドライブに出る。
昔は、兄やぼくも一緒に行ったけれど、最近は父とティルだけだ。
何をするわけでもない。
車に乗って、どこかで弁当を食べて帰ってくるだけだ。
ぼくたちは、昔、それだけでもひどく楽しかった。
父は、今でも楽しいのだろう。

12.18
ティルが、本棚のすみに陣取って、何もない空間を見つめている。
何があるのだろう、と思う。
ティルの世界では、そこに何かが在るのだろうか。
それとも、何もないが、ただじっと凝視しているだけなのか。
ぼくには、ティルが、何かを見ているようにみえる。

12.19
父が出したクイズ。
  密室に真理子と雄貴の死体。部屋には、他に壊れた金魚鉢と水があるだけ。
  どういうことだろう?
考えている。父はニヤニヤしてヒントすらくれない。

12.21
ティルは平然としている。
ぼくもティルのようでありたいと思う。
父と母がケンカしている。今、言いあらそっている。
ぼくには、どうやって止めればよいのかわからない。
じっとよそを向いて、それが終わるまでがまんしているだけだ。

12.23
ティルはすぐに病気になる。
でも、すぐに治る。
ぼくは最近、ティルのようになりたいと、よく思う。



12.25
クリスマスだ。ティルがよくなく。



12.27
ぼくの名前は八神ではない。
名前を出さないようにしてくださいと頼んだので
仮名ということで、米光氏がつけた名前だ。
本当の名前は、ちがう。
前に送ったものが嫌になったので
新しく書きなおして送ったのだが
前のもののほうが良いので、そちらを載せたいと言う。
だから名前を出すのをやめてもらうことにした。

1.8
あけましておめでとうございます。
新学期が始まった。
寒いのは好きではないが、しょうがない。
ティルはミルクが好きだ。
寒い日は、あったかいミルクをぺろぺろとなめる。
ティルの舌は、猫舌じゃないのだろう。

1.10
冷蔵庫を空けると、ティルはすぐに飛んでくる。
あらぬ方向を向いているときでも、離れた部屋にいるときでも、すぐに探知して走ってくるので、おそらく音を聴いているのだろうと思う。
だが、おもいきり静かに、そぉっと開けても、やってくる場合がある。
どうやって気づいているのだろう?


1.12
朝礼は何のためにあるのだろう。
あんなところに集団で立っているだけなんて、猫なら死んでもやらないと思う。
教室ではだめなのだろうか? よくわからないけども。
戦争やってたときの名残りなのかもしれない、とも思ったりする。
猫の集会は、ちゃんとみんなの顔が見えるように輪になってやる。
人間も、そのほうが、楽しいだろうに。

1.13
父が12.19に出したクイズの答え。わかってしまった。
あしたのメールに答えを書くので、まだ答えを見たくない人はとばしてください。
1.14
答え。真理子と雄貴というのは金魚の名前だった。
金魚鉢が落ちて、真理子と雄貴が死んでしまったのでした。

1.15
マラソン検診があった。ぼくは走らない。
父はまた車でティルと出かけた。
父は、ティルのことをトゥールーと呼ぶ。
理由を聞くと、本当の発音はもっと難しいんだと言う。
それ以上は、教えてくれなかった。何か意味のある言葉なのかもしれない。

1.16
にゃーにゃーにゃー。ぼくはティルになりたい。
なにが起こっても、平然として、何もない空間を
じっと、にらみつけているティルになりたい。
耳をふさいでも聞こえる声は、どうすればいいのだろう。
心をふさぐことはできないのだろうか。

1.18
体調が良くない。風邪も引いてしまったようだ。
風邪を引いてはいけないと言われていたのに。

1.22
クラスの女の子が、プリントを届けてくれる。
彼女は、ティルを見て、すごくうれしそうに笑った。
ティルは、ぷいっと反対を向いたが、そのまま玄関にいた。
玄関は寒いから嫌いなはずなのに。



1.25
わたしは、あなたがティルと呼んでいる猫。
本来の発音はまったく違うのだが、あなたたちには不可能なのでしょうがない。
もちろん、おやじさんの発音も違う。
お願いがある。
そのために危険をおかして、これを書いている。
おやじさんが車で、わたしを連れ出すのをとめてほしい。
お願いだ。

1.30
25日のメールは、ぼくが書いたのではない。
父だと思うのだが、よくはわからない。
ぼくは、父のパソコンを使って、米光氏にメールを出している。
もちろんIDは別にとっているが、父が、ぼくの通信ソフトを使って
ぼくのIDでメイルを出すことは、おそらく簡単なことだ。
ぼくは、19日から、また入院していて、メールを出せなかった。
メールを出すことが可能なのは、父か、兄だけだ。
他の家族は使い方を知らないはずだから。
でも、兄はそういったことをしない。父もしないとは思うが、
ときどき奇妙なイタズラをすることがあるので、おそらく父だと思う。
父には、聞いていない。父がやったのだろうか?



2.2
あのメールは、兄の可能性もある、と思う。
兄は、父のことを、おやじ、とか、おやじさん、と、呼ぶからだ。
だが、父にも兄にも、聞きにくい。
気にしないことにしよう、と思う。
兄は、無職だったのだが(失業保険でのんびりしていた)、先日めでたく就職。

メールをくれたみなさんへ
体調が悪いときは無理してメールしないほうがいいよ、との
おきづかい等、ありがとうございます。
だいじょうぶです。むりしていません。
というより、ぼくは、このメールを出すのが楽しみになっています。

2.4
ティルが、ときどきぼくのことを訴えるような瞳で見ている。
ような気がする。
あのイタズラメールのせいだろう。
最近、父の帰宅が遅いので、あまり顔をあわせず。
よって、メールのことを父に聞くこともできない。

2.6
兄の会社は、休日に出勤すると、お休みカードをもらえるそうだ。
そのカードで、別の日に休むことができるらしい。
カードにしなくてもいいのに。おもしろい会社だ。
ティルがよくなく。




5.24
連絡遅れてごめんなさい。
ひとつき以上たちましたが、父が亡くなりました。
ティルと一緒にドライブに出て、それきりもどってきませんでした。
交通事故、大型車とぶつかったそうです。
父の車はぺちゃんこになり、父も同じようになったそうです。
ティルは、生きています。
体の骨がまがって、上から見ると「く」の形になっていますが、生きています。
なかなくなりました。
痛そうにしていますが、ぼくにはどうしようもありません。

5.28
母は、ティルの曲がった体をなでながら、父の魂が入っていると言います。
だから、ティルはこんなからだになっても生きていられるのだと言って泣きます。
ぼくは、母のためにもしっかりしなくてはと思うので、泣かないようにしようと 思っています。

6.2
だいじょうぶです。ぼくは、元気です。
ティルは、なかない。

6.8
ティルには、本当に父の魂が入っているのかもしれない、と思うことが時々ある。
以前、ティルは、クッションのすみにもぐり込むのが好きだったけれども、あの日以来、もぐりこまなくなった。
父が座っていた位置に、ちょこんと座って、ウトウトしていることが多い。
それを見ると母は、「とうさん、フトンに入って寝なさいよ」とティルに向かって言う。
ぼくは母の悲しみがわかるから、何も言わないようにしている。

6.12
ティルが、またじっと上を向いて動かない。
何もない所をにらんでいるのだろうと思った。
でも、そうじゃなかった。
ティルは洋服ダンスの上にある手さげ金庫を見ていたのだ。
金庫をタンスの上からおろすと、ティルは上を向くのをやめてすりよってきたから、たしかだと思う。
父のものらしく、母も開け方を知らない。
兄も知らない。
中に何があるのか、誰も知らない。
ティルは、その金庫に向かって、にゃぁとないた。

6.18
ぼくは、ティルと話がしたいと、とても思う。
あの1.25のメールは、本当にティルからのものだったらいいのに、とも思う。
また、ティルからのメールが現れないだろうか。

6.20
冷蔵庫を開けてもティルはやってこない。

6.22
金庫は開かない。鍵も見つからない。
母と相談して、壊して開けることにした。
小さい手さげ金庫だから、ペンチかカナヅチでどうにかなるだろうと思ったのだ。
あまかった。

6.24
今日も、母はティルに話かける。
ティルは、金庫を持っていこうとすると、うるさくなく。

6.26
米光氏の友人の平川氏が、そういった簡単な金庫なら開けられるかもしれない、とのこと。
鍵屋で働いていたことがあるからだそうだ。
父の金庫、ティルがたびたびにらみつけている金庫。
何が入っているのか、気になる。

6.28
ひさしぶりに家にいた兄が、食事中にどなった。
母が、ティルのことばかり話すからだ。
しかも、ティルとは言わない。父さん、と呼ぶ。
母さんの気持ちもわからないことはないけど、しっかりしてくれよ、
そういった意味のことを兄は言った。
泣きそうになるのをこらえるために、ことさら大声になっているようだった。

6/30
外は雨だ。風と雷の音で、ぼくは寝つけなかった。
水を飲みに降りようと思った。
母の声が聞こえた。また母がティルと話しているのだ。
ぼくは疲れているのかもしれない。
聞こえたような気がしたから。
ティルが答えているように聞こえたから。
父の声でティルが、「ぬれたタオルをたのむ」と言ったような気がしたのだ。

7/2
眠ろうとすると「ぬれたタオルをたのむ」という声がよみがえってくる。
ぼくは父を尊敬していた。
普段はとても厳しくて、曲がったことが嫌いだった。
でも休日、ドライブに出かけたときは、子供みたいにはしゃいで、ティルと遊んだり、ぼくたちと遊んだりしてくれた。
ぼくは、そんな父を尊敬していたと思う。

7/3
夢を見た。
ティルでありながら父である存在が、ぼくに対して話しかけてくる。
何を言っているのか理解できない。
ぼくは、タオルを持ってくる。ぬれている。
ぼたぼたとしたたり落ちる水滴。
ティルでありながら父である存在が、泣いている。
ぼくは目を覚ます。パジャマが汗で重くなっている。
太陽の強い光が窓から射し込んでいて、ぼくは泣いている。

7/4
今日も雨だ。
ぼくは体調が悪く学校を休んでいて、ひとりだった。
(ティルはいたけど)
昼前に、兄がやってきた。
夕食時以外にやってくるのはめずらしい。
仕事はどうしたの?と聞くと、
「お休みカードだ」と笑いながら答える。
以前、書いたと思うが、兄の会社は休日出勤をすると
お休みカードがもらえ、そのカードで代休を取ることができるのだ。
「おまえ、どうする?」
ベットに腰かけた兄がたずねる。
顔と目線で階下のティルのことだとわかる。
ぼくは、どう答えていいのかわからない。
昨日見た夢のことを話す。
兄は、天井を向いて、大きく息をはきだす。
「おまえとおふくろだけに、まかしちまって悪いと思ってるんだ」
べつに悪かないよ、と答える。
「本当は、俺がもどってきて世話をするべきなんだと思う」
おおげさだよ、と答える。
兄は今やっている仕事の話をする。
「今のプロジェクトが成功したら、楽になるから、そうしたら、ちゃんとするから」
ぼくは、だいじょうぶだよ、おおげさだよ、と答える。


7/6
へんなメールが届く。本文は「もどってこい」だけである。
差出人は、chutill。

7/8
雨がつづく。
金庫を開けてくれる約束をした平川さんとメールをやりとりしている。
商売でやっていたころは、聴診器や定規や針金なんかをカバンにつめて
鍵を開けに行っていたそうだ。
でも、本当は、そんなもの何の役にもたたない。
聴診器も定規も針金も、いらない。
ダイヤルをまわす指先の微妙な感じだけで開けるのだそうだ。
でも、ダイヤルを回しただけで開けると
料金をねぎる人がいるので、いろんな機材を持っていって
みせかけだけの準備をするのだそうだ。

7/10
雨がやまない。
母が、くの字に曲がったティルの体をなでているとき
ティルがうめくようにしゃべっているのが聞こえた。

7/12
ぼくも母の影響をうけているのだろうか。

7/14
ずっと雨がふっている。
来週の土曜日の午後、米光さんと平川さんが来てくれるという話になる。
金庫を開けることができると思うと、少しドキドキする。
米光注・このページは八神君のメールをそのまま載せるというコンセプトだったので、ここに私の文章を載せるのはどうかと悩んだが、注という形で挿入することにする。私は八神君のところへ行く予定はない。平川という友人はいるが、彼も八神君にメールを出したことはないと言っている。それに平川は鍵を開ける技術など持っていない。これらの文章を、彼がどういう意図で書いたのか、私にはよくわからない。八神という仮名を私が彼につけたように、彼は私たちの名前を仮名でつかったのではないかと思う。だから、彼の文章に出てくる米光と平川は、私たちのことではない。

7/16
食事が終わると、母はティルにおかゆを食べさせる。
動かないティルの口を開いて、さましたおかゆをスプーンで流し込む。
話しかけながら、ゆっくりと流し込む。

7/19
平川さんが金庫を開けてくれると約束した日まで、あとちょうど1週間。

7/22
母は、週に1度ぐらい、ぬれたタオルでティルのからだを拭く。
からだが汚れてきたから拭いてくれと、父が言うそうだ。
ぬれたタオルはティルの毛をたばね、よけいに汚れたようにも見える。

7/25
明日、平川さんと米光さんが来てくれる。金庫が開く。


7/26
金庫を見て、「3枚羽根のダイヤル」と平川さんが言う。
ディスクが3枚ついていて、右、左、右と3回数字をあわせれば開く方式、であることを説明してくれる。
「聴診器とかは省略するね」と言って、平川さん笑う。
集中した顔になる。みんなシンとして、緊張している。
ダイヤルをまわす。
3分もしないうちに、1本指を立てる平川さん。
1つ目の数字がわかったということらしい。
別の部屋で待っていてくれたほうがやりやすいとのことなので、
ぼくたちはキッチンでお茶にすることにする。
結局、20分ぐらいで金庫は開いた。

中にはいくつかの書類と、2冊の大学ノートが入っていた。
父の字で、びっしり書き込まれている。

7/28
ノートを読んでいる。
2冊とも父が書いたもののようだ。
1冊は大学の論文のためのメモのようで、わからないところが多い。
もう1冊は、日記のようだ。
けれども、こちらもわかりにくい。
覚え書きのような感じだからだ。
英語がまじっていたり、研究のメモだったり、読んだ本の感想だったりする。
しかもちゃんとした文章にしていない。
短い文や単語だけのメモのような内容だ。

7/30
ノートをティルに見せると、うれしそうに鳴いた。

8/2
体調が悪い。
ノート読みに熱を入れすぎて夜更かしをしたせいかもしれない。
まだ最初のあたりしか読んでいないが
母と出会った時のことが書いてあった。
父が道端の猫を見ていて、母とぶつかった、という昔の少女マンガのような出会いだ。
父のひとめぼれらしい。


8/4
父のノートを読んでいる。
解読しているって感じだ。
どうしよう。この内容を、ここに書くべきなのか。
言葉や文章の断片で、しかも英語なんかも混じっているので、ここにそのまま写すのはむずかしい。
絵(へたくそだ)なんかもある。
あせることはない、じっくり順番に読もうと思っている。

8/8
父のノートは、母との3回目のデートから一気に時間がとんでしまう。
プロポーズや結婚式や新婚旅行のことなど、少しも書いてない。

8/10
ぼくは、1冊目の父のノートをほとんど読んでしまった。
何を書けばいいのだろう。
ぼくの中で整理がつかない。
父のノートに書かれてあることは、どこまでが本当なのだろう。
どこから父の創作(いや、空想か?)なのだろうか。
父は、何故こんなノートを書いたのだろう。
今、母がティルを父だと思い込んでいるのも、このノートが原因なのではないだろうか。


8/18
母は、金庫のノートのことはまったく知らなかったらしい。
でも、父のこの妄想が、母に影響を与えなかったとは考えられない。
父の日誌が、妄想めいてくるのは、結婚して3年目あたりからだ。
弟(つまりぼくのことだ)が産まれた年だ。
英語であったり、ばらばらだったりした部分をおぎなって、ある程度、意味の通る文章になおしてみた。
まったく意味不明の日や、人の名前だけの日、数字や単語だけの日の記録は、とばしている。
六月五日・雨
久美子と喧嘩。診察。旧き者の仕業だと言う。
(八神注・久美子というのは母のことだ)

七月二日・曇リ一時晴レ
鱗をはぎ取ろうとする。笠井は信用できない。
(八神注・日誌の前の部分から推測すると笠井という人は医者のようである)

八月三日・曇リ午後ヨリ晴レ
久美子は、ティルに食べられたのだと言い張る。出生記録もないのだから隠蔽する必要もない。
(八神注・このティルは、別の猫だろうと思う。ティルは、そんなに年寄りではないからだ)

八月十三日・快晴
こんどはチークに食べられたのだと言う。タオルは燃やす。ふたりとも死んでしまった。2匹が残った。

九月十五日・曇リ後晴レ
久美子、ティル。泣いていた。笠井に新藤を紹介。

九月二十六日・天候不明
久美子、話しかける。ティルが兄だと言う。喧嘩。新藤、受電。

九月二十八日・天候不明
新藤、来る。入院のこと。掘り返す。

九月三十日・晴レ
久美子、入院。

十月三日・晴レ午後ヨリ曇リ
ふたりを自分たちの子供にして育てることにした。願いは、久美子が届けると言ってきかない。

十月二十日・曇リ
退院させる。新藤に詫びる。旧き者、届ける。

十月二十一日・快晴午後ヨリ煙霧
新藤、笠井、来る。久美子、泣く。


父の日誌は、こんな調子でつづく。
えんえんと続く日誌の断片の中には、ぼくや兄は出てこない。
いや、でてきているのかもしれないが、日誌の中で、ぼくや兄は、ティルとチークという名前になっている。
どういうことなのだろう。
ここには、ぼくと兄は存在していない。
2匹の猫が、ぼくたちとすりわかって生活している。

8/19
ばかばかしい。どう考えてもばかばかしい。
父の妄想の日誌は、何の意味があるのだろうか。
たんなる創作なのか。実生活をもとにした創作なのだろうか。
だが、その父の創作は、確実に母をむしばんでいる。
歪んだ形で、母の中に根づいている。
父は、ぼくたちを猫だと妄想し、母は、父の死を受け入れられずに、
背中が曲がった猫を父だと妄想する。
母は、創作の中で暮らしている。

8/20
母を、こちら側にもどす方法はないものだろうか。
父の死を受け入れて、創作の中から抜け出させる方法。
ぼくには、何ができるのだろう。

8/22
ティルがいなくなれば、母は正気にもどるだろう。
父の死を受け入れるだろう。
ぼくはティルを消したいと願う。
そうすれば、ぼくは、ぼくでいられる。



8/24
母の目の前でティルが死んでしまえばいいんだ。
もちろんティルは大切なぼくの友達だ。
だけど、猫だ。
背中がくの字に曲がって苦しそうにしている猫だ。
母を助けるか、猫を助けるか?
確実な方法。
母が、父の死を確実に受け入れる方法。

8/25
ぼくは、ずっと考えている。
ティルを消す方法。
父の妄想から抜け出す方法を。

8/26
少年が行った猫殺しのことをニュースが話している。
猫殺しの方法。
ぼくは、考えている。ティルの殺し方を。
猫殺しの方法を。

8/28
くだものナイフ。包丁。カッターナイフ。
きちんと血を流したほうがいい。
はっきりと死がわかるほうがいい。
そうしないと、母は死を受け入れないだろう。

8/29
夏休みは終わらない。
明日、実行にうつす。

/
ティキティキティキティキティキティキ。
ぼくは、ティルの喉元を確実に刺したはずだ。
満月のような猫の眼が、きゅううううと引きしぼられる。
ぶるぶると震えて、白い毛が逆立つ。
噴水のように血が吹き上がる。
ティルが、「ぬれたタオルをたのむ」と言う。
母の悲鳴。「ぬれたタオルを」
視野が急速に拡大する。
背中が曲がっている。
くの字になっている。
どすんどすんどすん。喉の血がぼこぼこと音をたてる。
笛の音が聞こえる。
母が、ぬれたタオルを持ってきて、喉から吹き出る血を押さえようとする。
母は泣く。
おかしくなっていたのは、ぼくのほうだ。
虚構に飲み込まれていたのは、ぼくのほうだったのだ。
交通事故でつぶれて死んだのはティル。
からだが曲がってしまったけれども生き残ったのは父だ。
ぼくは、その事実を受け入れることができなかった。
ぼくは、動くことのできなくなった父をティルだと思い込んだ。
そして、父を殺した。
喉から血を流しながらベットに横たわっているのは父だ。
体が曲がって動けなくなっていた父だ。
母は泣いている。
ぼくは振り返る。
「警察に行ってくる」
そう言って、家を出る。
こうしなければ、ぼくは父の死を受け入れられなかったのだろうか。
夜の道。
「ぬれたタオル」という父の声を思い出す。
歩く。
今日で夏休みも終りだ、などと考えていた。
「戦場のメリークリスマス」のメロディが聞こえる。
だれかピアノの練習をしているのだろうか。
季節はずれで、なんだか笑えてくる。
白いものがヒラヒラと落下してきた。
空を見上げた。
星。
たくさんの白い紙片が、ひらひらと落ちてきた。
夏の雪。
なんだろう?
猫の鳴き声。
路上駐輪しているたくさんの自転車。
自動販売機の明り。
黒い猫がいる。見る。こちらを見ている。
手をさしのべた。逃げるかな、と思ったが逃げない。
近づこうとした。目と目があった。目の高さが同じだった。
こっちに来いというように黒い猫は頭をふった。
ぼくたちの国に来いと、黒い猫は目で語った。
兄さん。
猫は前足を出して、落ちてきた白い紙片を踏んだ。
それはお休みカードだった。
天から、一生休めるぐらいのお休みカードがひらひらと舞い落ちてきている。
夏休みは終わらない。
猫は、自転車のすきまを通って、自動販売機と壁の間へ入っていった。
ぼくは、自転車のスポークのすきまをするりと抜けて、彼についていった。






米光さん、メリークリスマス!(冗談です。こちらは、まだ夏休みです!)
先日は、ぼくの代理人と会ったそうですね。
彼がもう1通だけメールが届くなどと言ったらしいので、こうしてメールを書いています。
米光注・私は、メールの内容が気になったので本人に直接会いに行ったのだ。中学生。入院していた。彼は、あのメールの内容は、すべて本当のことだと言い張った。そしてもう1通だけメールを送る、それが最後になる、と言った。
お世話になったので、夏のクリスマスカードのかわりです。
このメールもHPで公開してくれることを望みます。
ほんと言うと、米光さん宛じゃないですから。

これが最後のメールです。
ちょっと嫌がっているように書きましたが、八神という名前をつけてもらえて感謝しています。
でも、本当の名前をあかさないのも、フェアじゃないと思うので、ちゃんとした自己紹介を最後にさせていただきます。
ぼくはティル。本当の発音は違うのだが、人間の喉では発音できないのでしょうがない。
メールを、米光さんがHP上で公開してくれるということなので、こうやって使いなれないキーボードをうっている。
君に連絡がとりたかったからだ。
君がここを読んでいることは、ぼくたちにはわかっているよ。
こんな長い長いメールを最後まで読んでいるのは、君ぐらいのもんだ。
わかってるよね。
そろそろ君が本当は何者なのか、ぼくたちが君に何を伝えたかったのか、もうわかってもいいころだよ。
ためらうことはない。何も気にすることはない。
さぁ、はやく来なよ。スポークのすきまをするりと抜けて、ぼくたちの国に。


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