短篇小説1 朝日ネット主催 第2回パスカル短篇小説新人賞優秀賞 ('95)

主婦+動詞

 主婦は佇む。降っても晴れても、同じ時刻、同じ場所に。
 雲が流れ、木の葉が舞い、雷鳴とどろき、雨粒が透明のビニール傘を滴り落ち、或いは強い日差しが無慈悲に首筋を焼き、或いは木枯らしが吹きすさぶ中を、宅配便の運転手に道を聞かれ、新興宗教のおばさんに話しかけられ、生命保険の勧誘を受け、難民救済の募金を頼まれながら、主婦は佇む。そこはハチ公前ではない。紀伊国屋のエレベーター横でも、東横線の改札口でもない。過去の通過点ではなく、現在の定点のひとつに、主婦は佇む。待つものは一緒に映画を見る男ではなく、買い物をする女友達ではなく、美術展でも、ピクニックでも、コンサートでも、潮干狩りでも、駆け落ちでもない。丈夫で錆びないアルミ製物干し竿屋の軽トラックが通る。トルコ・マーチを流しながら、コシヒカリ10キロ6千円米屋のライトバンが通る。ゴミ収集車が通る。垣根の向こうで犬が吠える。黄色いバスが止まり、洟をたらした幼稚園児が降りて来る。

 主婦は歌う。FM局から流れる音楽に合わせて、かつて知っていたはずの英語の歌詞をところどころ歌う。2日前の晩からリビングルームの隅に積まれていた洗濯物の山を片付けながら、主婦は歌う。タオル類、夫、息子、娘、そして自分、五つの分類項目。大きいものの上に小さいものを、ズボンの上にトレーナーを、ポロシャツの上に下着を。裏返った靴下を引っくり返し、ほつれた糸を引きちぎり、曲がった衿を押さえつけ、5つの分類項目をルールにしたがって満たしていく。歌う、ワンフレーズだけ。歌う、サビの部分だけ。
 項目の上に項目を重ねる。歌いながら考える。どうして「夕方、すわって、子供が遊んでいるのを見ていると、涙が流れる」のか。どうして「自分達のことなど考えず一生懸命働いて育てたのに、ずっと長い間独りぼっちだったと、彼女は家を出て行く」のか。分からない。歌う。
 歌う。歌いながら、項目を2階へ運ぶ。

 主婦は洗う。1回に十数枚の皿と茶碗と鍋を、1日に数十枚の皿と茶碗と鍋を、1週間に数百枚、1カ月に千数百枚、1年に数万枚、一生の間に数十万枚の皿と茶碗と鍋を、洗う。目を閉じると、これから洗われるであろう数十万枚の食器が一列に並んでいる。主婦の作る手抜き料理を嬉しそうにこびりつかせ、奇妙にも整然と並んんで、順番を待っている。

 主婦は叱る。泥棒を叱る。引き出しの奥の主婦の財布から500円玉を盗んで、漫画週刊誌とスナック菓子を買った泥棒を叱る。嘘をつくのをあきらめた泥棒は、ついに悲しくなり、大声で泣き始める。
「ごめんなさい、ごめんなさい、もうしません。」
 しゃくりあげる泥棒の肩越しに、主婦はもう一人、30年前の泥棒を見ている。大きな、穴のない50円玉で、チョコレートを買ってしまったチビの少女である。

 主婦は運転する。3度目の車検を間近に控えた赤い国産車は、アクセルをいっぱいに踏み込まれ、かろうじてスピードを保ちながら、住宅地の坂を上り県道へ出る。夫を駅へ、息子を塾へ、娘を音楽教室へ運ぶために、主婦は運転する。ウインカーを出さずに左折する車、コンビニエンス・ストアの狭いパーキングから突然バックしてくる車、大胆に右折するタクシー、潰れた猫、轢かれたヒキガエル、飛んでくる紙袋、落下したボール箱を避け、主婦は運転する。時折、どこか知らない町を走ってみたい誘惑に駆られるが、バーゲンでごった返す駅前デパートの駐車場で6回もハンドルを切り返し、ようやく所定の位置に止まった自分を思い出して、勇気は萎える。空想の中、自分だけのためにいつもと違う景色を走る主婦は、宝物のエルメスを首に巻いている。

 主婦は繕う。パンヤの飛び出したぬいぐるみの熊、膝の抜けた息子のズボン、丈の長い娘のスカート、ボタンの取れた夫のシャツ。白いものは白い糸で。黒いものは黒い糸で。一針一針、心を込めず、ただ早く終わらせたいと焦っていると、針が指に突き刺さり、ポタリと雪の上に落ちた血は赤く赤く、お妃はこの雪のように肌が白く、血のように赤い唇のお姫様が生まれますように、と願ったのでした。しかし、主婦の娘はどら焼きのように黒く丸い。
 繕いながらくつろがず(1)、主婦はとりとめのない物思いにふける。夕方スーパーで挨拶した奥さんは、はて何という名前だったか。夫のゴルフは今週だったか、来週か。息子はこの1年で何本の傘をなくしたか。自分のセーターをクリーニングに出すべきか否か。ピアノの先生へのお中元はいくらにするか。そろそろ、姑に電話をすべきだろうか。
 熊はほころびたまま数週間放っておかれたせいで、すっかり痩せてしまった。なくしたボタンと同じものがなければ、色合いか形のいずれかで妥協する。

 主婦は眺める。テレビ・ニュースを見ながら、遅い夕食を取っている男の横顔を眺める。耳の横から後頭部にかけて増えつつある白髪を眺める。猪首の後ろのしわを眺める。しみを眺める。
 左の肘をテーブルにつき、せわしなく右手で箸を動かしながら、男の視線は画面と食卓を2秒毎に往復し、時折広げた新聞の上に落ちる。コマーシャルになると、男は子供の様子や近所の誰某のことを尋ね、おおむねその場で忘れてしまう。
 男は夫という必需品である。
 必需品は選ぶ時が最も楽しいのだった。幾つものパンフレットを集め、時間をかけてデザインの善し悪しや使い勝手を比較検討する。多様な機能の付いたもの、ランニング・コストの少ないもの、色、サイズ、、、。そうして選択された冷蔵庫、洗濯機、掃除機、ビデオは、配送され、梱包を解かれ、定位置に置かれると、その後は毎日黙々と働き続ける。そして動いている限り、その存在が意識されることは稀なのだった。故障した時に分かる有難さ。
 ニュース番組が終わり、必需品が、もう一方の必需品を眺める。ワレナベニトジブタ。破鍋に綴じ蓋。

 主婦は読む。本を読む。持ち得る限りの声色と演技力を駆使して、絵本を音読する。楽しくも煩わしいお話タイムである。子供は次から次へと絵本を持ってくる。「これでおしまいね」の3冊目から、さらに何冊読まされたことか。
 象のババールの王国で、ウォーリーとバーバパパがかくれんぼをし、ももちゃんとタンタンがお猿のジョージを追いかける。地獄のそうべえは機関車トーマスに乗り、キャベツくんがはらぺこあおむしの水曜日のすももを横取りする。マドレーヌはマギーBの船で嵐に遭い、はろるどがどうながプレッツェルにいたずら描きする。くまくんがあくびをすると、ぐりとぐらは眠ってしまい、ピッキーとポッキーはマリーちゃんと一緒にかちかち山に登った。おやすみしないフランシスはおだんごパンを食べ、ちいさいおうちのライオンくんがはなをくんくんさせて、はじめてのおつかいに行く。ピーター・ラビットがあいうえおうさまとぐるんぱのようちえんに出かけ、のんたんはブルーナのうさこちゃんとはみがきはーみーの真っ最中である。
 ソファの回りも主婦の頭の中も「ひっちらかし、とっちらかし、おっぽらかし、おおあらし」になった。(2)

 主婦は抵抗する。自らの老いに抵抗する。気功法、自彊術、エアロビクス、ヨガ、ストレッチング、ラジオ体操、満点体操、ワークアウト、、、。思いつきで雑誌の切り抜きを持ち出し、忘れられていた筋肉を15分もねじっていると、気分はすっかり若返る。しかし、翌日主婦を待ちかまえるのは、紛れもない筋肉痛である。
 抵抗は続く。しわ伸ばしクリーム、しみ抜きクリーム、何とかエッセンスに、何とかトリートメント。ところで、しみとしわの同居するこの部分には、どちらを先につければよいのだろう。迷う。気分任せに塗りたくりながら、主婦はケアされたい、トリートされたい、と願う。ささくれだった心にモイスチャーを、プロテインを、プラセンタを、コラーゲンを。

 主婦は集める。台所の物入れカゴの中に、ブルーチップを、ベルマークを、ふりかけのどらえもんマークを、コーヒー缶お楽しみスタンプを、コーンフレーク箱のミッキーマーク、米屋の割引券、クリーニングサービス券を、集める。時折思い出してそれらを数え、応募期間を過ぎた券をごみ箱に捨てる時、それによって得られたかもしれない品物のあれこれ、得られたかもしれない楽しさのことが、主婦の心に浮かぶ。そして、当たっても変わらないであろう人生のことなどを、ほんの少し考える。

 主婦は乗る。自転車に乗る。雨ざらしの黒い自転車で、通い慣れた道をショッピング・センターへと急ぐ。ギーコ、ギーコ。新装開店した八百屋の店先には、バナナ一房、キャベツ1個、大根1本がいずれも100円で並んでいることだろう。大安売りのチラシが、主婦のその日の行動を決定する。安い。だから、急ぐ。それが習い性となった。
 公園を横切りながら、多次元宇宙について考える。隣の次元の主婦も、今、八百屋へ急いでいるだろう。その隣の次元の主婦も、白髪の出始めた髪を風になびかせて急いでいる。その隣の主婦はどこへ急いでいるか。その隣の隣の3つ離れた次元の主婦は、誰のために、どこへ行こうとしているか。それからさらに五つ離れた次元にいる主婦は何をしているか。家族はどんな顔をしているか。どこに住んでいるか。さあ、そして、その向こうの向こうの彼方の次元の主婦は、果たして主婦をしているだろうか。
 主婦なのである。2枚の鏡を合わせて、できるだけ細くすき間を開け、覗き込む中に大勢の主婦がいる。角度の変化で少しずつ違って見える顔、顔、顔、、、。しかし、それらは皆、主婦なのである。主婦でない主婦は無限の多次元宇宙のいずこにも存在しない。主婦の時間がツー・ディケイズになんなんとする今、主婦を存在させているのは主婦である事実そのものなのだった。
 夕食時、テーブルの下にもぐり込んで、ぶつぶつ言いながら、娘のこぼした牛乳を雑巾で拭く時、ずっと離れた次元で、南の島のニッパ椰子の小屋に住む主婦もまた、ヤムヤム言いながら、誰かがひっくり返した山羊のミルクが土に浸み込む様を見つめているのだろう。
 八百屋は大にぎわい。知り合いに出会えば、習性に則してにこやかに挨拶する。
「こんにちは。お久しぶりね。お嬢さんはお元気。いいお天気ね。またそのうちお茶でも。」
 長葱がカゴから落ちそうになる。人参も一袋100円なら安い。パイナップルを買うべきか否か思案する。じゃが芋は家にあといくつ残っていただろうか。
 多次元宇宙の遥か彼方で、
「ハイ、奥さん、消費税込みで824円ね。まいど、どうもっ。」
と声がする。

 主婦はむしる。むしってもむしっても伸びてくる、しぶとく、無神経で、無遠慮で、無分別で、くったくがなく、大らかにも明るい雑草をむしる。55坪の敷地、35坪の建て売り住宅の小さな庭にも、雑草は無数に生えている。空高くジェット機が飛んで行く。その音を聞き、主婦はいつか見た航空写真を思い出す。整然と造成され、区画整理された1000戸余の新興住宅地。効率を優先して区切られたほとんど等しい面積の敷地に、一つずつ行儀よく収まり、きちんきちんと道路を向いて並ぶ家々は、マッチ箱より小さく、まるで四角い豆粒のようだった。
 豆粒の回りを這い回り雑草を引き抜く行為の果てしない無意味さ、そして豆粒の中で営まれる暮らしの胸が痛むいとおしさ。アンビヴァレンスに引き裂かれて、主婦はうずくまる。

 主婦は観る。週末毎にビデオ映画を観る。超大作、B級、空前絶後、二番煎じ、お涙ちょうだい、抱腹絶倒、荒唐無稽、こけおどし、喜劇、悲劇、のビデオ映画を観る。子供を早々と眠らせ、夫をさり気なくしかし強引に誘い、缶ビールを手にいそいそとソファに座って、ビデオ映画を観る。
 ビルが爆破され、ジェット機が岩山に激突し、竜巻が家を破壊し、洪水が農地を押し流す。俳優は悪人に蹴倒され、銃で撃たれ、氷の海に潜り、蛇や毒グモに囲まれ、空を飛び、断崖から落下し、縛り首になり、法廷で無実を勝ち取る。女優は難病に倒れ、愛する人に死なれ、子供を失い、美しき羨ましき裸身をさらし、歌い踊り、誰かとめぐり逢う。
 主婦は泣きたいのだった。笑いたいのだった。怒り、怯え、悲しみ、可笑しさにひたすら浸りたいのだった。ありえない環境に一時身を置いて、現実で味わうことのない感情の中を漂いたいのだった。ここではないどこかを束の間さまよいたいのだった。
 2つ目のビールが空になり、映画が終わる。エンディング・テーマを聴きながら切なくうるんだ眼で横を見ると、夫はいつの間にか、口を開けて眠りこけている。

 主婦は失う。名前を失う。ある日、ふと気付くと、主婦には名前がなかった。
「ワタクシは主婦である。名前はもうない。」
 名前を呼ばれることが絶えて久しいので、それはもうほとんど何かの記号のようである。住民票に、診察券に、子供の学校の書類に、アンケート用紙に、クイズの応募はがきに、時折書かれる戸籍名。ごく稀に名前を呼ぶ人がいると、その響きはなぜか気恥ずかしく、他人のようでもあり、戸惑いが返事をわずかに遅らせる。
 主婦は誰であったか。何を求めていたか。どこへ行こうとしていたか。「名は体を表わす」ので、名を失った主婦の体は知らぬ間に霧散したのだろうか。プシュッ。主婦は何であったか。
 かつて少女に名前を与えていたのは、何者かであろうとする意思の力だった。名前と共に失われた意思。風化した夢。主婦は今、たくさんの妻の一人、数多くの母親の一人になった。多数のおばさんの一人、数え切れないお客さんの一人、何かの統計上の値のひとつ。

 主婦は広げる。食卓の上に息子の社会科地図を広げる。そこには見たことのない町、泳いだことのない海、歩いたことのない平原の名前が記されている。サンチアゴ、ハイデラバード、バンギ、アドリア、タスマン、パンパ、、。
 行ったことのない場所は行くことのない場所となるであろう。主婦の居場所からは、ニューヨークもパリも、喜望峰も、博多も、青森もほぼ同距離に遠い。鹿児島も八戸も、ローマも、サンパウロも、遠いという点で同じである。主婦はどこへも行かない。いつも、家のある町とその周囲、せいぜい10キロ四方の空間をこまごまと動き回り、1年が、5年が、10年が過ぎる。文化の中心も辺境の地も、主婦には無縁である。訪れることのないままにピサの斜塔は倒れるであろう。スフィンクスは崩れ落ちるであろう。主婦が行ったことのない、見たことのない多くの場所で、多くのものが変化し、失われ、生まれていく。そして、その変化を知ることなく、主婦の日常は過ぎるであろう。
 主婦は破綻のない球形の中に閉じ込められ、或いは閉じ籠っている。主婦が子供たちの弁当を作り、掃除をし、残り物を食べ、午睡をし、窓拭きをしている間に、夫に小言を言い、子供の成績に一喜一憂し、井戸端会議をし、年にほんの数回の外食と新しい服で浮き立っている間に、時間は流れてゆく。時代は静かに確実に、主婦の傍らを通り過ぎてゆくのだ。

  1. 林真理子さんのコピー、確か西武百貨店の「つくりながら、つくろいながら、くつろいでいる」だったと思います。
  2. 谷川俊太郎さん『めのまどあけろ』(福音館書店)
    その他、ここでは福音館、講談社、文化出版局などの絵本のタイトルを借用しました。


Centaury Home