三二 体力検査で三等位となる

 

 日々の作業に、いつも体力に限界を感じつつも一年余を過ごした。それは厳しい労働との闘いであった。この苦痛は誰にも、どこへも訴えようがなかった。ただ己に巡りあわせた運命であると、悟りともつかぬことを自分に言い聞かせながら、ひたすら強制労働に耐えていた。

 昭和二二年三月三日、この日は日曜休日であった。どの段階の仲間が企画したのか三月三日の雛節句にちなんで、午前十一時から所内食堂で慰安演芸会を開くと云うのである。このようなこころみは、全くはじめてのことであった。この頃には既に民主運動のいき過ぎが禍となって、所内仲間内にも心許せない空気が漂っていた。しかし、ふだんなんの楽しみもない所内生活であったから、このような催しともなれば別で、開演時を童子のように待っていた。勿論、私もその一人であった。聞くところによると、この行事のために普段の給食材料の一部をカットして蓄えた小麦粉などで、饅頭を作って配るというので、むしろ、そのほうに楽しみがあったのかもしれない。いずれにしても、地獄の息抜きであるから結構なことで、仲間達はふだんにない笑顔を浮かべてはしゃいでいた。

 そんなところへ、我々の作業小隊に作業命令が飛び込んできたのである。これまたなんの因果で、こともあろうに我々だけにと無念の息をのんだが、抗しきれる相手ではないので、ぶつぶつ云いながら身支度をして衛門を出た。作業は伐採材の搬出道路の整備であった。ソ連側は昨冬から集中的に伐採を進めていたが、搬出用トラックの台数が少ないこともあって搬出作業がかなり遅れていた。私達の目にも、これほど伐採現場に山積みになっている木材を、春までに果たして運び出すことが出来るだろうかと、他人事ながら案じていた。搬出の主要道路は、やはり結氷した川面であったから、春をひかえソ連側が急ぐわけも理解出来ないわけではなかった。作業器材を持たされ、いつもの伐採現場近くへ急いだ。道路作業に入ってからも、所内にいる仲間たちは今頃炊事場で手を叩き笑いに興じているだろうと思い、除雪作業をしながら雪にやつあたりした。

 翌日には代休が与えられた。相変わらず寒さの厳しいよく晴れ上がった朝であった。私はなかなか得られないこの機会に、医務室へガーゼを貰いに出かけることにした。手術痕が癒えてからも、作業で動くたびに傷痕が擦れて赤くはれ、常に痛みがあったので、やわらかいガーゼをあてて凌いでいた。医務室に入ると、森永軍医が私の顔を見るなり、「今日は俺は診ないよ、ロスケに診てもらえ」と云う挨拶であった。私としては今すぐにどうこう処置しなければならないものでもなかったので、おおむがえしに「あァいいよ」と云い返した。その後ひと時おいて現れたのが、私にとって初顔のソ連軍医(中尉)であった。森永軍医には大見えを切ったものの、なんといっても言葉がいまだに通じないので、私はガーゼを貰いに来たことを告げるよりも、いっそ腹の傷痕を見せた方が手っ取り早いと思い、即座に上着を脱ぎ、ベットの上で腹を出し、下腹に力を入れて傷痕を見せた。軍医は腹の傷痕に手をやりながら、いたわるように片言で、「イタイ」と問いかけてきたので、私はただ頷いた。きっとこの軍医にとって珍しい症例であったのであろう。診た後で、何やら記録しながら「帰って休め」と云ってくれた。予想もしていなかった意外な診断結果となった。今まで何度となく森永軍医のところへ通い続けたが、今日のような温情のある診断は一度も受けたことがなかった。もしかしたらこの先当分の間、作業に出なくてもよくなるのではないかと、都合のよいことを考えていた。しかし、前日の診断結果がどこでどうなったのか、翌日からまた作業に駆り出され、ふだん通り伐採作業に出かける嵌めになった。やはり一日だけの糠喜びに終わったのであった。

 この年二回目の体力検査が三月末日に行われた。この日も伐採作業で、疲れた体を引きずるようにして戻り、衛門近くで行われていた体力検査場に立ち寄ることにした。私にとっては疲れているところ、わざわざ衣服を脱ぎ冷え切った体を曝すのが苦痛であった。たとえ受けても二等位には変わりないと思うと大儀であったが、何しろこれとて厳命であり逆らう事もできず、嫌々検査待ちの隊列に加わった。体力検査は、相変わらず上部機関から差し向けられた軍医たちが腕や臀部の筋肉をつまみ、その弾力を診て決めるだけであったから、さほど待たず私の番が回ってきた。少佐の肩章をつけ老眼鏡をかけた女医が、偉そうに私の臀部の肉を抓み、すかさず助手兼立会の軍医に「フタロイ(二等位)」と告げ、私の体を押しやるようにして次の者を前に立たせた。私も押しやられるまま急いで脱いだ衣服を抱きかかえ、その場を立ち去ろうとすると、肩越しに「ヤポンスキー」と声をかけられたのである。私もそれとなく自分に声をかけられたと思い、すぐ振り返えると、立会の軍医が私を手招きして呼び寄せ、「お前は、ここが悪いだろう」と私の腹を指さすのである。そう云われてその軍医の顔をよく見ると、一カ月ほど前に医務室で受診したときの軍医であった。軍医は私に腹の傷痕を見せて再検してもらうように促し、自ら検査官に再検を取りなしてくれた。その結果、三等位を言い渡された。とにかく私はうれしかった。この若い軍医の重ねての温情ある取り計らいに、涙ぐむほどに嬉しさをかみしめた。たった一度の診察で私の顔と症状をよく覚えていてくれたと思うと、ただ感激した。これが医師としての職業意識であろうか、この上ない有難さで、終生忘れえぬご恩として胸に刻んだ。

 その翌日の朝、厳しい寒さのなか作業に出かけて行く仲間たちを宿舎のなかで見送り、居残って使役のくるのを待つことになった。夕べのソ連軍医の一言の口添えで、こうも大きく私の生活環境が変わるのかと不思議にさえ思えた。又内心ではこれで命びろいができたと思い、諦めかけていた祖国への帰還に望みをつなぐことが出来たのである。三等位になった初日の使役は、道路整備作業に出かけていた仲間二〇余名への昼食運搬であった。午前十一時頃、炊事場からカーシャの入った樽を受領して、他の宿舎から来た同じ三等位の相棒と二人で担ぎ、三キロメートルほど離れた作業現場まで運び、それを分配をして空き樽を担ぎ戻った。この所要時間は二時間余であった。炊事場に戻ると炊事係からねぎらいをうけ、とても食べ切れそうもないほどのカーシャを貰った。こうしてこの日の使役はなんなく終わったのである。その夜傷痕に手をやりながら、まるで夢のような今日一日を振り返えった。三等位の作業量は二等位の二分の一とは聞いていたが、その後、私が就いた仕事は所内の雑役とか、ソ連軍官舎の当番、薪切りなど生活周辺の使役が殆どであった。しかも、これらの使役では一切監視、監督を受ける事がなく自主的に働くことができた。やっと人間性をとりもどした労働環境に就いた。