一九  軍組織の解体

 

 十一月三日朝、私が目覚めたのは、多分六時頃だと思う。そっと頭を上げてみると、疲れが溜まっているせいか体が重だるく感じた。部屋の中はまだ暗く、土間の通路の中程に置いてあるストーブの炊き口から漏れる火明かりが目に入った。私は又体を横にして目を閉じ、静かに夜明けを待つことにした。昨夜、就寝が遅かったことを配慮してか、九時過ぎ久し振りに起床の声がかかり、舎外の空地に集合せよとの指示があった。私はふと中隊での生活を思い出しながら、身繕いをして戸外に出た。雪原の中、黒い樹海の上に顔を出したばかりの朝日がきらきらと光っていた。一応、入居建物ごとに隊列を組み、南向きに並び終わった。少し小高いところから石橋少尉が我々に視線を一巡し、「今日は十一月三日、明治節である。只今より我々が軍人として、最後の宮城遥拝を行う」と諭し、石橋少尉の先導で、南東の空に宮城を遙拝し一同最敬礼を行った。これは最早や忘れかけていた軍隊を、再び呼び起こさせる厳粛そのものであった。しかし、意外にも遥拝を終えた石橋少尉の口からは、この厳粛な緊張感を打ち消すかのように、「本日、只今をもつて軍組織を解体する。従って階級を廃止するから、階級章はすべて取り外すこと」との言い渡しがあった。これを聞いた我々初年兵は、何だか急に上司から突き放された感じこそあったが、なんと云っても日々の生活上で、常に精神的負担となって居た階級意識から開放されるかと思うと、一抹の喜びと開放感が得られた。

 私が入隊以来ずっと考え続けていたことは、日本の軍隊は日常の営内生活において、必要以上に厳しい軍律と階級意識を求めすぎていると思った。上級者が下級者に対するしごきとも言える扱いには不審を抱かざるを得なかった。確かに、軍人勅諭には「下級の者は、上官の命を承ること、実は直に朕が命を承る義なりと心得よ」とはあるが、上級者なる者のなかには、この本旨をはき違えた私心による言動があまりにも多かったと思う。下級者につまらぬ私用を押しつけたり、言い掛かりをつけ苛めをして、自分に対する従属意識を高めるようと見せしめ的言動をとる。若し、これが意の儘にならないときには、直ちに制裁行動に出る。古年兵には、この様な卑怯な輩が多かったので、初年兵達は一時たりとも気を許すことができないばかりか、常に怯えていた。

 敗戦から二ヵ月余り、表だっての制裁言動は眼にしていないが、兵士仲間には未だ階級意識が、日々敏感にはたらき続けていた。石橋少尉の指示で、今日から我々に、この最大の重荷がなくなれば、過酷な俘虜生活のなかで、せめて精神面だけでも人間らしく、己を活かして生きて行けると思ったのは、決して私一人ではなかったと思う。その日、指示通り各自の手で階級章は取りはずされた。

 しかし、その後におけるラーゲリの生活の中では、常に階級意識が見え隠れしていたのである。私と同じ部屋にいた元下士官のなかにも、黒パンの分配のたびに睨みを利かせ、他の者より少しでも多く分配を受けられるように仕向けていたのである。若しも平等に分配したら、その分配者には割り当て以外の使役に出すなど、制裁手段にでることが屡々起きていた。かれらにしてみれば、長年耐えて得た現階級と、彼等なりにもっている階級意識に裏打ちされた特権的なものは、そう簡単には手放し難いのであろう。しかし敗戦となり、かってない虜囚の屈辱にうちひしがれている同胞同士でありながら、何故共々助け合って生きていこうとしないのか、これは人道的にも許しがたい行為だと思った。又自分だけが生き延びようとする姑息な考え方が、そう長続きするものとは思えなかった。

 このラーゲリでの抑留生活も二ヵ月が経ち、昭和二一年の正月を迎えた。勿論、正月といっても、「今日は元旦だ」と各自が胸中に意識するのみで、抑留生活では何等変わることがなかった。ところが年が明けてからは、次第に階級意識が薄れ始めたのである。これには色々考えられるが、なんと云っても極寒の抑留生活が当初の予想を超える厳しいものであり、下士官や古年兵達も助け合わないと、己の生存も危ぶまれると気づいたのであろう。したがって、その頃から階級呼称が取れ、「OOさん」と呼ぶことに、互いに抵抗なく受け入れられた。私もこんなにも早く、彼等に階級意識が薄れるとは思ってもいなかった。なぜ二ヵ月足らずでこうまで変わったかと私なりに考えてみると、一つには、集団の全員が病弱者であり、帰還の目途のない極寒の抑留生活では、仲間の協調が欠かせないこと。二つには、ソ連側が提供する日本新聞によると、日本が壊滅状態にあり、最早や日本軍人としての階級そのものに何等の意味も為さないと云うことが、彼等自身も気づいたことにあると思われた。何はともあれ初年兵だった我々にとっては、望み通りの人間関係に入り、仲間たちのなかにも上級者に対する警戒心が薄れ、新たに年長序列の人間関係が生まれ、互いに助け合って生きていこうとする協調性が次第に高まりをみせた。