一一 終戦を知る

 

 昨夜は緊迫した中で過ごしたので、今朝は寝不足で前頭部が重い。でもそんな悠長なことを云っていられる状況下ではない。今日はこれからどの様に状況が変化していくのか、ソ連軍の間島への侵攻があるのか気がかりである。普段ならまだ起床前というのに、独歩患者達はベットを離れ動き回っていた。矢張り私同様に落ち着かないのであろう。ベットでこの様子をじっと見ていた私も気を取り戻し、洗面所が空いたのを見計らって洗面に立つた。廊下に出てみると、やはり早朝だけに、看護婦や衛生兵の動きは疎らで静かであった。

 こうして確かな戦況も入らないまま、ただ気の焦りと不安のなかで、四、五日が過ぎ、八月一五日を迎えた。この日の朝洗面中、頭上にある院内放送スピーカから、「七時の時報」とニュースが入った。これ程緊迫しているはずの戦況ニュースは入らず、「本日の正午に重大放送がある」旨を繰り返し伝えていた。重大放送とはいったい何だろうかと、私は洗面中の顔をあげてスピーカを見つめた。正午までに病院周辺に特別変化がなければ、是非、「この重大放送」とやらを聞かなければと思った。しかし、関東軍の事だから機密保持に差し障りがあると見なせば、我々には聞かせないだろうが、一応心して待つことにした。洗面後、廊下の窓を開けて戸外を眺めると、もう既に晩夏の気配が見られ、頬を撫でる風も涼味さえ感じられた。この様に平和な自然の中で、間もなく戦火に見舞われ修羅場化するとは、誰もが想像しがたい光景である。院外周辺では、昨日見られた兵士の動きは、早朝のせいか疎らであった。

 病室に戻ると、やはり先程の「重大放送」が話題となっていた。でも放送内容を予測する者は全くいない。ただ何か大きな変化が起きていることは間違いないと話し合っていた。どうせ五時間後には結果が出ることだから、まさしく病人は寝て待てと云うことになった。九時過ぎに回診があり、このところ毎日の様に筒井軍医が回って来た。私の再切開痕を診て「大分肉が上がってきたな」と云いながらガーゼ交換をすませた。私はこの傷口がもう少し小さくなっていれば、若しものことがあっても動き様があるのだがと呟く。でもガーゼ交換が終わるとなぜか一日の仕事が終わった気分になり、戦況を気にしながら院内を出歩いていた。ソ連軍参戦以来、例の佐藤上等兵も五目並べを諦めたとみえ、その後一度も呼び出しがなかった。

 一〇時半頃、突如空襲警報が鳴り響いた。院内は騒然となった。間もなく衛生下士官が駆け込んできて、独歩患者は直ちに院外の待避壕に退避するから、各自毛布を被って非常口から出ろと云う指示が出た。私にとっては初めての臨場経験であったから、急いでベットから毛布を剥ぎ取り、小脇に抱えて非常口へ向かった。非常口を出ると、衛生兵が待ち受け、患者六人に看護婦一人を付き添わせ、病院から二百メートル程先にある防空壕に向かって、毛布をかぶって退避せよと指示があり、皆は夢中になって駆け出した。私は腹の傷口が突張って、未だ腰が伸び切らない状態であったから、看護婦に手を引かれ小走りで急いだ。防空壕といっても直経二メートル、深さ二メートルほどの穴が掘られているだけで、独歩患者六人と看護婦が入ると、殆ど身動きが出来ない状態であった。

 頭から毛布をかぶって息を殺して待避してると、警報どおりソ連空軍機が爆音を響かせながら頭上を通過して行く、通過して間もなく数発の爆弾の炸裂音が響いた。古年兵患者の一人が、間島市街の地理に詳しいとみえ、炸裂音を聞いた途端、「あぁ飛行場がやられている」と言った。炸裂音を聞いてから間もなく空軍機の爆音が遠ざかった。どうやらこれでひと安心と思うと、頭から被っていた毛布が急に息苦しく感じ、毛布の四隅を少しづつ開けて空気を入れて深呼吸をした。空襲があってから既に一時間半も経つていたが、一向に空襲解除命令が出ない、ソ連機の再来を予測していたのであろう。防空壕内で待機時間つぶしに、七人が出身地の事などを語り始めたが、私は皆の話を聞きながらも、今朝のラジオ放送、「重大放送」が気になり、時々腕時計を見ながらそわそわしていた。しかし正午を回ってからは諦めた。どうせ病室に戻れば分かることだからと思い直した。

 十二時三〇分過ぎになって、空襲警報の解除命令が出た。私達は毛布をたたみ小脇に抱え、穴から出て病棟へ向かって歩き出す。終わってみれば、何だか防空演習にでも参加した気分であった。私も非常口で、途中で看護婦に持って貰った毛布を受け取リ、皆の後に続いて病棟内に入った。すると院内は、停電になっていて薄暗いのである。咄嗟に変電所でも爆撃されたのだろうかと思いながら薄暗い病室に入った。先程まで待避壕の穴の中で、長時間中腰になって耐えていたせいか、急に疲れが出て額が汗ばんできたので、とりあえず落ち着かせようと、静かにベットで横になった。しかし枕に頭をつけてはみたものの、やはり重大放送のことがどうしても気になり、またベットから出て院内の様子を探る。空襲警報の後だけに、衛生兵や看護婦の動きが、いつになく激しく感じられるのである。この変化を気にしながら洗面所前で立って見ていた私の前を、衛生兵と看護婦が話合いながら通り過ぎた。その話はどうも、「終戦になったらしい」と言うのである。私は一瞬耳を疑った。「終戦って」どういうことだろう。今朝のラジオ放送で予告があった、「重大放送」とは、終戦を告げる放送であったのかも知れない。

 それにしても終戦とは、どういう内容のものだろうか、現にソ連軍が侵攻して来ているのである。これは一体どういうことになるのだろうかと思いつつ病室に戻ると、病室を出る時とはうって変わり終戦の話題で騒然となっていたのである。空襲時に院内警護についていた衛生兵が、ラジオ放送を聞いた情報では、天皇陛下から直々に、終戦を告げるお言葉が流れたと云うのである。ところが途中で停電になったので、放送内容の具体的なことは分からないが、どうも終戦になったらしいと云うことであった。

 この話を聞いていたある下士官の患者は、終戦なんかは有り得ない、日本には既に降伏するしか道がないと、かなり自信のある話をするのである。私も日本を出て来る時の戦況から推しても、この下士官の言うことには筋が通っており、納得が出来る話だと思った。ここまで徹底抗戦を続けておきながら、今更和平交渉を持ち出しても、連合軍側が受入れることはまずあるまい。やはり日本は降伏したとしか考えられない。五月上旬ドイツ軍が降伏したと耳にしたとき、いずれ日本もそうなるのではないかと密かに思ってはいたが、若し終戦が事実とするならば、歴史的にも敗戦の経験が全くない日本政府と国民に、どんな対応が残されているのだろうかと思った。又このさき我々はどうなることだろうか、降伏後におけるドイツ軍の情報を聞いていないから予測すら出来ない。それにしても、今侵攻してきているソ連軍との交戦が、別個に扱われるとは考えられない。それでは先程あった、ソ連空軍機の空爆は一体どういうことなのか理解に苦しむ。

 午後二時過ぎから、病院内は次第に騒然となってきた。とても平常の院内業務態勢とは考えられない。何か変化が起きていると思っていた矢先、病室に衛生下士官が現れ、独歩患者は直ちに支度して院内集会室に集合せよと命令が出されたのである。やはり来るべきものが来たと直感した。私にはこれといった支度も無かったので、取り急ぎ集会室に出向いた。集会室には、独歩患者が一〇〇名以上が集まった。直ちに衛生兵があらかじめ用意してあった中古の冬軍衣に着替えさせられ、別命があるまで集会室で待機することになった。衛生兵の話では、ソ連軍が間もなく間島市内に侵攻して来るから、独歩患者は間島市から避難すると云うのである。長らく白衣姿で療養を続けていた患者兵士とはいえ、ボタンさえ満足についていない中古軍衣に身を纏うと、見るからに敗残兵のような哀れな姿に見えた。私は避難中、この軍服で隠された腹の傷を誰が処置してくれるのだろうか、未だ腰も伸びきらない状態で、果たして皆と行動を共にすることが出来るだろうかと、次々と不安が広がった。

 独歩患者とはいえ、つい先刻までベットで療養していた体だから、待機時間が二時間も続くと、全員疲れが出始めたとみえ、無造作に体を投げ出している。その状態は、かっての厳しい軍律のかけらも見られなかった。既に患者兵士の頭には、終戦を意識しているとも受け取られるし、体力が続かず覇気がないのか、もう半ばなるようにしかならないと諦めているように見受けられた。昨夜消灯前に洗面所で、ある古年兵の独歩患者が洩らしていた噂では、北満の某陸軍病院では、重患者をそのままにして爆破したとか、全く考えられないことを耳にした。そうした噂とソ連軍の侵攻が目前に迫っている現実を考え併せると、今ここで泣き言を云っている場合ではない。この際逃避することも、あながち無策とは言い難い。しかし、その逃避命令は遂に出されなかった。待機は解かれず、おそらくソ連軍により間島市街は包囲され脱出の隙が無かったのであろう。

 午後五時過ぎになって衛生下士官が再度現れ、「間島市内に原隊のある者は直ちに原隊復帰せよ」と命令した。先程まで逃避するかとまで考えていた我々患者に、原隊復帰とは余りにも苛酷な扱いだと思った。やはり病院側としては我々独歩患者の扱いに苦慮し、結局は原隊に身柄を預ける策をとったとしか考えられなかった。私も原隊復帰の命令を聞いた途端に、入院前の内務班生活を思い起こし、これは大変なことになったと思った。この体で戦列に加わる事は全く不可能だと思いながら重い腰を上げた。

 所属部隊ごとに整列が終わってみると、私の所属部隊の兵士は上等兵を頭に総員八名であった。直ちに上等兵の指揮下に入り、原隊復帰することになった。私も取り急ぎ病室へ引き返し、今までお世話になった残留患者に原隊復帰する旨を告げ、別れの挨拶を交わした。今まで隣のベットに居た山木上等兵が、私の腹の傷を気遣って、「佐々木、腹の傷は大丈夫か」と云ってくれた。私もこの期に及んでは仕方ないので、命令通り原隊に復帰しますと答えた。院内残留組とて、必ずしも安全とは言い難い状況下にあったので、互いの無事を祈って別れた。八名が揃って病院を出たのは、すでに午後六時ちかくであった。久し振りに目にした院外の光景を左右確かめながら歩く、一〇〇メートル程行くと道路沿いのあちこちで、臨戦態勢をとっている兵士の険しい行動を見かけた。我々はこの状況に刺激され、精一杯歩を早めて部隊兵舎に急いだ。

 部隊兵営に入ると、意外にも静かであった。この状況では、夫々が所属中隊で復帰申告することが難しいと判断し、各中隊兵舎に戻る前に、八名が揃って復帰申告をすることにして、その取り計らいを待つた。陸軍病院側から既に連絡を受けていたとみえ、川井見習士官が現れた。八名を代表して上等兵から復帰申告をすると、川井見習士官は厳しい血相で、「今晩ソ連軍が侵攻して来る。お前たちには戦っては貰らおうとは考えていないが、身の始末だけは各自でしろ。又灯りは標的となるから絶対に漏らしてはならない」と、厳命して直ちに立ち去った。

 原隊復帰とは名ばかりで、各中隊への帰営すら許されず、とりあえず我々八名は被服庫の一隅に身を隠すことになった。やはり病院側は、責任逃れをして退院させたとしか考えられなかった。広い被服庫内の片隅で毛布を敷いて腰を下ろすと、わが身が哀れに感じられた。郷を出るときはこんな筈ではなかった。既習兵は中隊の宝とまで云われたが、全く役立たずして無残にも軍籍こそあれ非戦闘員として果てることとなるのかと、悔しさがこみ上げてきた。

 我々兵士八名は、所詮指揮官無き患者仲間に戻っていた。先刻代表して復帰申告をした上等兵も疲れが出て、既に毛布にくるまって横になり動こうともしない。灯は絶対に使用してはならぬとの厳命であるから、明るいうちに飯を食うことに話がまとまり、二等兵の私もこの場にじっとして居れず炊事場へ飯上げに出た。やはり部隊は、全員が戦闘配置についているのか、各兵舎とも空き家同然となっていた。部隊兵舎の北側に続く丘陵で、陣地を構築して臨戦態勢をとっているのか兵士の動きが見えた。この様子で我々も既に戦場の真っ只中にいることを知った。今夜ソ連軍が侵入すれば、兵舎はかえって標的となり、一斉砲火をあびることも考えられる。

 炊事場に入り炊事係に、目下所属中隊に戻れない八名の患者集団である事情を説明し了解が得られ、八名分の麦飯と福神漬けを受領し、人目を避けて兵舎の軒先を急ぎ被服庫に戻った。点灯していない被服庫内はもう薄暗く、出入り口近くで飯の分配を済ませ、薄暗い被服庫内の片隅で横になって居た六人に食事を促した。私にとっても久し振りに口にした原隊の麦飯の味であった。副食が福神漬だけであったが、誰一人として不服を口にはしなかった。むしろ戦友達が敵前の厳しい緊張の中で、飯を食っていることを思えば相済まないとさえ思えた。私は飯を喰いながら、先刻目にした部隊の戦闘配置状況を話して、この部隊兵舎も戦場と全く変わりない状況下にあることを知らせた。そうして我々八名は最後まで行動を共にすることを誓い合った。

 午後九時ともなると被服庫内は、全く手探りで歩かなければならない状態となつた。我々は月明かりを求めて、出入り口近くでたむろする。耳を澄ませば時折砲声が耳に達する。私は兵舎周辺の状況が気になり外に出た。月光下で見る部隊兵舎の黒い影が、なぜか不気味にさえ感じる。二時間ほどまえ、飯上げに出掛けた時の状況とは変わり、厳しい緊張感が一層身じかに伝わって来るのである。なぜか営庭内を行き来する兵士の数が増えているのである。時折、「敵はまだ入らぬか」と、兵士同士が声掛け合う言葉が、私の耳にもはっきりと聞き取れた。既に着剣して行動しているとみえ、銃剣が月明かりで光る。この状況は単なる部隊兵舎の夜間警備ではなく、銃撃戦の構えだと思った。

 夜半になっても、我々仲間は誰一人も眠ってはいなかった。月明かりをとるため、開け放しにしていた出入り口から入ってくる夜半の風は最早冷たく、みんな軍衣のうえに毛布を羽織つて座っていた。どうしたことか、夜半過ぎに砲声が収まった。かえって、それが不気味に感じられた。午前二時を過ぎ、我々仲間も疲れに耐え切れず、一人二人と体を横にし始めた。この状況では、今すぐにはソ連軍が侵攻して来るとは思えない。私も昨日の朝七時から緊張の連続で、体の芯から疲れを感じていた。昨日は遂に傷のガーゼ交換も出来ず、そのせいか少し傷口が痛む。この状況下では今日も、いや今後は治療をして貰えないかも知れない。このまま放置しておくと数日後にはまた化膿すると思った。八月一六日は、激変と緊張の長い一日であった。朝七時までは、白い包布をかぶってベットで寝ていた患者であったが、今では土間同様の被服庫の片隅で、薄汚れた毛布で身を包るみ、こうして息を殺して身を隠しているのである。昨日は故郷ではお盆の中日である。母も家裏の土手に咲く盆花を携え、父の墓参に出掛けたことだろう。今日は戦況がどう展開するのか全く考えられないが、所詮死を覚悟のうえである。それにしても昨日聞いた、「終戦」とは一体どういうことだろう。とめどもなく色々なことが脳裏を駆け巡るのである。午前三時近くになってから、誰が策するともなく、夫々が庫内に山積みしてある被服類の陰に身を隠して仮眠にはいった。勿論、全員が疲れ切っていたので不寝番は立てず、場当たり対応を覚悟してのことであった。