六 内務班の生活

 

 入隊して一〇日程過ぎると、内務班の起居にも若干は慣れて、また、日々生活に関係する中隊内の施設の在り箇所もなんとなく分かってきた。でも、第一内務班と石敷の通路を隔た廊下の両側にある中隊長室、将校室、見習士官室、中隊事務室等が居並ぶ奥の院には、未だ一度も足をふみこんでいない。

 内務班の生活で、初年兵にとって一番怖い存在は古年兵であった。幸いにも、七二五〇部隊は八割かたが初年兵で編成されていたので、各班には三名乃至四名の古年次兵が、教育補助員として配属されていただけであった。私の所属する第二班でも、教育要員として菅原一等兵と坂本一等兵、そのほかに中隊付きの成田衛生上等兵が、内務班で起居を共にしていた。でも中隊内には二〇名余りの古年兵がいるから、常に何処からとなく意地悪い監視の目が注がれていたわけである。

 古年兵の顔を早く覚えていなければ、もし上衣を脱いでいた場合には、階級識別がつかないから、ついうっかりして欠礼をする嵌めになる。若しもそんなことが度重なると、それは大変なことで所謂ビンタと説教を受け、そこには如何なる言い訳も通用しない、「上官の命」と称する苛めがある。初年兵が内務班を出入りする場合には、必ず内務班の出入り口と見做されている銃架の前に立ち、班内に古年兵が居合わせた場合には、古年兵に向かって一礼し、「佐々木二等兵、厠に行ってまいります」とか、恰かも怒鳴る様な大声で、名前と用務先を告げなければならないのであった。若しその声が小さいと見做されると、三回以上を繰り返し復唱しなければまずお許しが出ない。

 たとえ何ら落ち度がなくても、気に入らないと思われると、隣班の古年兵と結託して、隣班の古年兵がそれとなく難癖をつけビンタを食らわす。いわゆる手間替えと称する制裁手段がとられるのである。日々運を天に任せるしか術がないのである。軍隊には、この様な苛めの構図があることは、入隊前、村の先輩諸氏から随分聞かされていたが、現実に同僚が痛めつけられている情景を目の当りにすると、密かに憤りを感じる。これはまさしく軍律とも士気とも全く関係のない単なる苛めと嫌がらせに過ぎないと思った。

 入隊後モールス符号の習得に血眼になっている初年兵に対し、単なる内務班生活の中のことで、訳も分からぬ鉄拳制裁が行われることが、何故こうまで許されているのか理解に苦しむのである。第二班には、私と同性の佐々木二等兵がいた。側聞したところによると、彼は東京帝国大学在学中の入隊で、見るからに理知的で整った風貌の青年であった。ところが、彼は何故か毎日のように厳しい鉄拳制裁を受けていた。周囲の同僚も為す術がなく、ただその様子を伏目で避けていた。どうしたことか、私にはその鉄拳が飛んでこなかった。ところが、入隊一ヵ月後の休日、午後三時頃のことであった。洗濯や衣服の整理を終え、寝台で同僚の本間二等兵等三人で雑談をしていたところを、医務室勤務を終えて帰ってきた成田衛生上等兵の目にとまり、内務班の入口で仁王立ちなり、「コラッお前等出てこい」と一喝された。急いで三人は出入り口の銃架の前で直立不動の姿勢をとると、いきなり一発づつビンタをくらった。「お前等は何時入隊したのだ」と問いつめ、「お前等には未だ早い」と説教を受けて幕となった。実はこのひと幕で、寝台の上での話合いが罷りならぬことを、初年兵は初めて知ったのである。

 このことがあった二日後の夜のことである。夕食後、日課もほぼ終わり、就寝前のひととき、初年兵等も煙草をくわえて一息ついていたところへ、あまり見かけない当番兵が現れ、「佐々木二等兵は居るか、川井見習士官が呼んでいるから見習士官室に直ぐ来い」と告げた。私は咄嗟に、又彼は、何か仕出かしたと思った。ところが、その当番兵も佐々木が二人いることに気づき、私の名前を付け足したのである。他人事と思ったのも束の間、何故俺が呼び出されるのかと、不安になり胸に激しい動悸が打ち始めた。

 初めて足を踏み入れた奥の院の廊下で、服装を確かめ直し、更に見習士官室の前で、ひと呼吸してからノックをした。すると在室の川井見習士官から、「おぉー」と一句だけが返ってきた。部屋に入り、「佐々木二等兵只今参りました」と申告すると、余程緊張していると見取ってか、「まあ此処へ来てかけれ」と椅子をすすめてくれた。この俺に、一体何んの用事があって呼び付けたのだろうかと、次なる言葉を待った。すると、川井見習士官は私に向き合いながら、まえもってよけてあった一枚の葉書を手にして、「君、この葉書の文面の末尾を呼んでみろ」云いながら手渡された。その葉書は、私が一〇日程前に、初めて母宛に書いたものであった。私は云われる儘に末尾の二行の文面を声を挙げて、「お母さん、私もどうやらみんなの後についていって居りますから安心してください」と読み上げると、直ぐさま、「君ッその書き方では却って心配するだろう」と云うのである。私も逆らうこともできないので、一応はハイと答えたものの、「怪訝に見つめる士官の目」に気付き、思い切って、「母はふだんから、自分の腹の傷を気遣っていたので、ただ元気で居ると書いても嘘をつくようで、そのように書きました」と云った。すると士官は尚怪訝そうな顔をして、「腹の傷とは何だ、見せてみろ」と云うのである。私は云われる儘に、士官の前で軍袴を下げ、袴下の紐を解き、上袴を手繰り上げて腹の傷を見せた。普段絞めている帯革で、傷口が擦れて赤く腫れあがっていた傷口を見た川井見習士官は、十分に納得した様な顔をして、「分かった」と一言云って頷いた。その後は、話題を変えて、いたわるような目付きで、「君は今まで何をやっていたのだ」と聞く。郵便局に居りましたと答えると、すかさずそうしたら葉書にハンコ押すのは得意だろうと云いながら、朱肉と川井の認印が手渡された。結局は軍事郵便の検閲印を押す羽目になったのである。一〇〇〇枚近い葉書の山を目の前に積まれ、これも上官の命ずる使役だと、心して指示された箇所に印を押し始めた。暫くは私の手捌きを見ていた見習士官が、部屋の隅でお茶を入れて、手掴みで茶碗と羊羹を持ってきて、君これを食べながらやってくれと机の右端に置いた。二等兵が士官にお茶を入れさせたとの快感を感じるどころか、その気配りに感激した。私もしばらくは遠慮して黙々と印を押し続けた。半分ほど押し終わったところで、折角の好意を無にしてはならぬと考えて手を休め、頂きますと断って、お茶を啜り羊羹をひと切れほうばった。すると、私が手を休めるのを待ち構えていたように、士官は雑談を話しかけてきた。私も言葉を選びながら相槌をうち、また残りの印押しに取りかかった。一時間程かかって押し終わり、川井見習士官のねぎらいを受けて士官室を出た。叱られることを覚悟して入った見習士官室を、こんなにも清々した気分で出て来られようとは、よもや思っても居なかった。内務班に帰ると、同僚達が心配そうな顔つきで待っていてくれた。なんだったのかと小声で聞かれたので、一応軍事郵便の検印押しだったと云うと、自分のことの様に安心して、「そうか、そうか」と頷いてくれた。

 ところが、このひと幕があった翌朝の点呼終了後、指揮台の川井見習士官が、私に向かって大声で、「佐々木二等兵、列外ッ」と指示して、自分が先頭に立ち、何時ものように中隊兵士全員を連れ立って営庭を駆け出して行った。やはり川井見習士官は、昨夜見た俺の腹の傷をかばってくれていると直感した。でも、遠ざかって行く隊列の後部を眺めながら、何だか自分が取り残されていく気がして一抹の淋しさと不安がよぎった。ひとり内務班に帰り、寝起きの儘になっていた寝台を直し、掃除に取りかかった。朝食を終えて間もなく、松尾班長が内務班に見え、今日の日課を告げたあと、「今日から佐々木二等兵を掃除、飯あげ当番から外せ」と命じたのである。これは明らかに、川井見習士官からの指示の下達だと思った。故郷の母宛に書いた葉書の一行の下りが因で、初年兵である私の内務班生活を、こうまで大きく変えるとは思ってもいなかった。これはまさしく神仏に願かけて、私の体を気遣ってくださる母の一念が通じたとしか、思いようがなかった。水曜日と決められていた烏の水浴びに等しい入浴の際に、赤く腫れ上がった私の腹の傷を見た同僚達は、折にふれ、「おい、お前あまり無理するな」と、口々に云ってくれる様になった。

 しかし、私への同情をよそに、相変わらず厳しい内務班生活が続いた。ある日、営外の演習から帰ってみると、整理してあった筈の衣服が寝台の上に散乱していた。なかには、枕かけに白墨で大きな金魚が書かれていた。すなわち、整理整頓の仕方が悪い、洗濯が行き届いていない意味の警告であった。又よくあったことだが、入浴中に営内靴がなくなり、裸足で帰ることになる。裸足はよいが、自分の不注意で官給品を紛失したことになるのである。これらに似たことは、洗濯物の干し場でもよく起きていた。いわゆる、「軍隊特有の員数付け」である。これは初年兵にとっては如何ようにも仕難い事で、目の色が変わる。員数検査でバレルとどうしょう。度胸を決めて自分で員数付けに出かけるか、叱られることを覚悟して、古年兵に打ち分け、相談に乗つて貰うしか術がないのである。

 私も入隊後初めての入浴時に、営内靴の片方が見当たらず、悄然として内務班に帰り、坂本一等兵にその旨を打ち分けたところ、ペチカに尻あぶりしながら、何事も聞かなかった風に装いながらただ頷いていた。その晩の点呼前には、私の寝台の前に営内靴が揃っていた。これでまた誰かが泣くことになったが、私にとっては涙の出る程に嬉しい早業であった。初めて酒肴品の配給があり、飯ごうの蓋に分け与えられた酒を戸惑いもなく、坂本一等兵に恭しく献上した。入隊後暫くは、朝の点呼の整列順位が気がかりで、自分も起床時前に厠え行き、そっと軍袴を履き、何喰わぬ顔で毛布にもぐり込み、起床の声を待つ日が暫く続いていた。二ヵ月も経つと次第に慣れ、要領もよくなり、楽しいとは決して言い難いが、日々の生活上で細かい事があまり気にならなくなっていた。