シリア・ヨルダン

今年の夏休みは11連休である。5月ウズベキスタンに行ったので、安く旅行できるところを探していたら
タビックスジャパンのフンザ方面22万を見つけた。8年前はタキシラ、ラホール、ハラッパと中部の遺跡めぐり
だったので、今回6名より催行とあって早々と申し込んでいた。が。。。夏休みのピーク時期もかかわらず催行中止
となり、どうしても旅行行きたいという勢いもあり満席であること承知の上でユーラシア旅行社に駄目もとでメールした
5月催行中止になり涙をのんだシリア・ヨルダン方面かイスラエル方面に絞って。
期待とは裏腹にすぐメールが来て、2,3日お待ちいただければ何とかなるという返事だったので、待つことにした。
その日のうちか次の日の夜の10時頃、電話がありシリア・ヨルダン方面がとれるということだったので即日申し込んで
しまった。我に返ると旅行代金はパキスタンの約倍の43万だった(一人参加)
シリア・ヨルダンは20代の頃から行きたかった。でも昔から旅行は催行されないし値段は高かった。
数年前、新日本トラベルで申し込みしたら催行されなかった。ここはワデイ・ラムは行くがペトラの奥のエド・ディルには
行かない。勤めているので9日がせいぜい。旅行会社によって同じ9日でもアレッポに行くもの、ボスラが外れている
と微妙に内容が違う。よくガイドブックを検討し行きたい所が入っているか、目的をある程度明確にし選んだほうがいい。
(シリアの歴史)
紀元前3000年以降、アラビア半島から移住してきたセム語系の諸民族が、現在のシリアに住み着いたのが
起源。前4世紀のアレクサンダー大王が現在のヨルダンまでも含むシリア地域を支配下に収め、それを契機に
交貿が活性化し、ダマスカス、アレッポなどの都市にヘレニズム文化が開花した。紀元前3世紀にシリア砂漠に
興った都市国家パルミラは東方貿易の重要な中継地として栄えた。
前63年に地域一帯を支配したローマ帝国とともに共存関係を保ち、石造りの壮大な都市を作り上げた。
しかし3世紀後半にローマ帝国からの独立をもくろみあえなく破滅の道に突き落とされる。
7世紀にかけてメッカでイスラム教が興り、アラブ人がビザンティン帝国を駆逐してシリアの支配権を握った。
シリア人は言語や文化の近いアラブ人の支配を歓迎しイスラム教に改宗。
661年に成立したウマイヤ朝がダマスカスをイスラム帝国の首都とした。
しかし750年にアッバース朝が支配を奪い、抗争の時代に入る
11世紀には十字軍がシリア各地に遠征を開始し、地中海沿いに城を建設した。
12世紀にイスラム軍は英雄サラデイーンを中心に対抗、第3回遠征の自由十字軍と壮絶な戦いを演じた。
13世紀からマムルーク朝が支配権を握っていたが、16世紀以降はオスマントルコがビザンテイン
帝国の旧支配地、2大聖地メッカとメデイナ、エジプトなどを支配し、シリアもその属州のひとつになった。
18世紀ころからオスマントルコ帝国も衰退し1830年代にはエジプトがシリアを支配した。
オスマントルコ帝国からの独立運動は第一次世界大戦中、イギリス人「アラビアのロレンス」
の支援する「アラブの反乱」へとエスカレートしたが、イギリス、フランスはレバノンとメソポタミア地域の
オスマントルコ帝国を分割する秘密協定を締結。シリアはフランスの植民地となる。 
1946年に独立
(シリア・アラブ共和国)
人口:1836万人
面積:18.5万平方キロ(日本の約半分でヨルダンの2倍)
首都:ダマスカス
政体:共和制。バース党が実権を握る。バッシャード・アサド大統領
民族:アラブ人85%、アルメニア人、クルド人、パレスチナ人、イラク人
産業:サービス業、鉱工業、農業、繊維、食品加工
通貨:シリアポンド 1SP=2.4円
(ダマスカス)
カシオン山はカインとアベルの兄弟殺の舞台である。
市内を流れるパラダ川の名前の語源はペルシャ語のパルディス(楽園)でパラダイスはパルディスが英語
になった。ダマスカスの名前はダム(血)カシュ(兄弟)やダ(定冠詞)マシュク(かんがい)が起源と言われてる。
西にレバノン山脈が、春先には豊富な雪解け水が土地を潤し、地下水も豊富で古代より食ことに事欠かない地。
東から砂漠、そして土漠を何日も旅したキャラバン隊はダマスカスがパラダイスと信じていた。
古くから商業が盛んでメソポタミアや幸福のアラビアより運ばれた品々はダマスカスに集められ市に出された。
洗礼者ヨハネの首が埋葬され、聖パウロが改心し世界布教に旅立ち、8世紀初めは初代イスラム帝国の首都が
おかれたのがダマスカス
8月9日
羽田集合19:45だったので、東京駅行き高速バス15時発でのんびり行く。モノレールに乗り集合時間より
早く着いた。空港で待っていたのは添乗員の「伊藤三智夫」さん。荷物を預けてゲートへ向かった。
今回羽田からは5名、関空から14名、計19名とのこと。EK6251便(JAL共同運航便)にて関空へ。
からだめぐり茶が美味しかった。深夜、関空よりエミレーツ航空EK317便にてドバイへ。
機内食のパンは氷のように冷たく、機内は冷蔵庫のように寒かった。が、ジュースはけっこう美味しい
和食とオムレツを食べたがまぁまぁ。
今回エミレーツ利用は3年ぶりだが機体は新しくなっておりエンターテイメントの画面が大きくなっていた。
映画の種類も多いし音楽の種類も多い。70年代の沢田研二の「勝手にしやがれ」を聞きながら睡眠。
10数時間後早朝4時ドバイに到着。乗り継ぎに時間あったので、お土産屋さん見学。展示してある車はクジ!
空いている椅子を探して座ろうと思ったが、地べたに寝転がっている沢山の人のお陰でなかなか
座りにくかった。今回木曜発なので、通常のルートとは逆まわりの日程。ヨルダンではなくシリアより観光する。
8月10日
朝、EK911便に乗り継ぎシリアへ。ここでは毛布がなく寒い思いした。
3時間後シリアに到着。ビザの手続きで少し待たされる。入国審査をえて荷物をピッックアップ。
シリアの観光へ出かける。10数時間寒い思いをして寝不足のまま、炎天下の観光はちときつい。
最初は国立博物館へ。正面はシリア砂漠から発掘されたカルス・アル・ヘイル門
庭は緑も多く、貴重?な遺跡があちこちに転がっている。シーザーの像や黒いモアイ
もどきの像がある。シリア中から発掘された出土品の数々が一堂に会しているのが
博物館。金曜でもうすぐしまってしまうせいかひっそりしている
個人的に博物館は好きなのでゆっくり見られて、丁寧に説明してくれたので
よかった。世界最古といわれるウガリットのアルフアベトが彫られた粘土版や
土器やアクセサリーがある。地下はとっても暑いが見ごたえのある
パルミラの地下墳墓を原寸で再現したものがあり私は地下の展示品に大満足。
ただし中はとっても暑いのでバスにある程度置いて身軽にしてから観光がお勧め
庭にもたくさん遺跡がころがっているがどうも写真に収めようとするがしっくりこない..続いて
聖アナニア教会へ。地下の礼拝堂が美しい!絵がストーリーを追って描いてある。フランス人観光客多し!
ここで聖パウロはアナニアと面会し説法を受けて祈ってもらい目が見えるようになった
「目からうろこがおちる」のことわざの起源。道中パン工房屋さん発見。とっても美味しそう
あつあつをみんなで分け合って食べる。遅い昼食に行く。メインは嫌いな鳥だった。
ウズベキスタンと違いパンや野菜等他に食べられるものがあるので少し一安心。
今回は飢え死にしないように食料を沢山揩チてきたが心配はないようだ。昼食後はストレート通りと聖パウロ
の門見学。ユダヤ教からキリスト教に改宗し仲間から命を狙われるようになったパウロが夜陰、ぱん籠に
乗せられて城門を抜け出し城外に降ろされ小アジアに逃れた。教会にパン籠てが展示してあるくらいで中は
たいしたことはない。次はサラデーン廟を見学。サラデイーン将軍の廟所。昔、プリンセスでよく連載中の
青池保子のマンガにサラデイーンを題材にしているマンガを読んだことがある。
サラデイーンとは1187年に聖地エルサレムを十字軍から奪回したムスリムの英雄。
幼少の頃、スーフィズムを学び神学に通じ信仰心があつく、一兵卒に至るまでサラディーンの元に団結して戦い
彼の軍は負け知らずだった。キリスト教徒がエルサレムを逃げるときも生命と財産を保障した。
ダマスカスのウマイヤドモスクの前には彼の廟所があり現在も多くのイスラム教徒が参拝に訪れる
木製の墓標はオリジナルのもので大理石の墓標はドイツ皇帝ウイルヘルムより第一次大戦前にドイツと
オスマントルコの友好の印として送られたもの。
ウマイヤド・モスク見学。物凄く暑いのに女性はねずみ小僧のような服を着なければならない(臭くはない)
ウマイヤ朝の時代、715年にカリフアル・ワリード1世により
建てられたバジリカ様式の世界最古のモスク。
建築には10年の歳月が費やされ、それまではキリスト教と
イスラム教が同じ場所で祈りを捧げていた。
内部には聖ヨハネの首が納められている
壁のモザイクはガラスが使われ天国をあらわす。中はじゅうたん
が敷き詰められている。中庭には3万人、中は1万人が礼拝
することができる。西の塔はイエスの塔と呼ばれ終末に際して
イエスがこの塔に降臨すると言われている。
メデイナ、エルサレムについで第3のモスク。
生オレンジジュース屋さんがいたので1ドルで生ぬるいオレンジ
ジュースを購入。暑いからかみんな注文していた。半分にきった
オレンジを4,5個絞ってくれてビタミンCがたっぷりで一息ついた
歩いてアゼム宮殿へ。現在は民族博物館になっており広い敷地に沢山の小部屋がありいろいろ展示されてる
1749年にオスマントルコのダマスカスの統治者アッサード・バシャー・アゼムが建てた宮殿。
ハーレムの跡とか寺子屋、メッカ巡礼の様子を再現したものや楽器、シリアの工芸
品がありなかなか見ごたえたっぷり。添乗員さんの伊藤さんの説明も詳しくわかりやすかった。
自由時間後、スークを通ってバスの待っているとこへ。金曜なのであまりお店も開いていなくお客も少ない
オリーブ石鹸や洋服とかいろいろ売っているらしい。本日はシャッター通り!
でも、アイスクリームのお店は開いていた。けっこう美味しくて有名らしい。
スークを抜けると、道中に二人の水売りおじさんがいた。
モロッコのフナ広場でお見かけするようなかっこをしている。ミーハー気分で写真を撮る。
バスに乗り込みホテルに行く前にヒジャーズ駅へ。中には入れない。
1917年のオスマン帝国時代に造られたものだが、現在は使われていない。写真撮影のみ。
シャームパレスホテルにチエックイン。キーが接触悪くなかなかドアが開かなかった。一人部屋追加のわりに
これはシングル??というくらい狭い部屋。食事前にフロントで10ドルくらい両替する
両替をしていると後ろから私を呼ぶ声が..振り返ってみるとパキスタンのツアーでご一緒だった「金城さん」
偶然、海外で知り合いに会うとはほんとビックリ。
彼女もユーラシアで8月3日よりシリア・ヨルダンツアーに参加していて私と入れ違いに帰国の日であった
彼女はヨルダンからの通常ルートでの参加だったので「ペトラめっちゃあついで」のセリフを言い残していた。
それを聞いていた伊藤添乗員が「大丈夫大丈夫」とはいうが彼の大丈夫はいささか信用できない
本日はホテルレストランで中華の夕食。ツアー参加者の道山さんが私に絵葉書を持ってきた。
さっきロビーで会った金城さんがヨルダンで出し忘れたハガキを出してくれとのこと。(出しましたよ)
中華は黒いさっぱりとしたスープからはじめ、炒め物やヤキソバ等。ジャスミン茶が美味しかった。


夕食を食べながら、自己紹介をする。
8月11日
ホテルで朝食後、ダマスカスを発ち、マルーラ村へ。人口10,000人程度
マルーラはイエス・キリストが話したと言われるアラム語が話されていること、住民の大半はギリシャ・カトリック
教徒で有名。岩斜面に立てられた家は屋根が工事中のままが多い。税金対策だとか。
聖サルキス教会参拝
アラム語で祝福を受ける。
ここはマイナーな観光地なのか
他観光客はいない。外観を
写真に収めようと思ったら
洗濯物が干してありなんとも
のどか。売店ではいろいろな
ものが売っていて小さい砂絵
(1ドルくらい)を数本購入
その後、クラック.ド.シュバリエに向かう
十字軍が残した美しい城。
元はクルドの遊牧民が建てた要塞を
フランス人主体の十字軍が占領した。
2重の防壁がなされたこの城は切立った
急勾配の丘に建つ。約50年前まで城内
人が暮らしていた。この城をぐるりと観光
するが風は強いし、ところどころあなぼこ
が空いているので注意する。
この城からの眺めはすばらしい。
城壁には馬小屋や倉庫、中はアーチ
の天井ホールや食料貯蔵庫がある。
昼食時、現地旅行社で販売している
ごまクッキーやお菓子を試食。
ごまクッキーはとってもおいしいが
大きいサイズしかなく重くてもって
帰れない。ここでもお肉...
昼食後はパルミラへ。途中イラクの
標識のところで写真ストップ。なかなか
イラクの国境近くまで行くチャンスはない

















系列のシャームパレスホテルにチエックイン。街中と反対側にある遺跡近くのホテル。
夕日を見るため、小さいバスに乗りアラブ城に行くが、エアコンが効かずドライヤーの熱風バスだった。
夕方のほうが気温が高いのでとっても辛い。アラブ城には夕日を見に沢山の観光客が来ていた。
12世紀に建設された要塞で麓からは30分でこられるらしい。外国人は徒歩??で来てるのかなぁ
城を登り散策しながらパルミラの夕日に染まる遺跡をパチリ!!!
夕日が沈むのを見計らって、ホテルへ。
8月12日
パルミラ観光
バスで列柱通り近くに行くが「通常行って折り返しの観光だが
みなさん歩けるようなので.」ということで急遽パルミラ観光周遊
フルコースに!!!物凄い風で持ってきた日傘が役に立たず。
見所たくさんの遺跡で、どこ写真とっても絵になるが歩くのは
暑い。すぐ干物になってしまう!外人観光客も暑いのでまばらです。
パルミラはダマスカスの北東約230キロ。なつめやしを意味する「パルマ」というギリシャ語に起源
1980年ユネスコ世界遺産に指定。パルミラは2世紀に繁栄を極めたシルクロード隊商都市である。
昔から地下水が豊富で緑豊かなオアシスがあり、オリエントでももっとも古くから農業が行われてた。
バビロニアとアッシリアを結ぶ砂漠のキャラバンルートが通り東西の物産が商われる大市が開かれる
都市だった。西安から始まるシルクロードの終点の1つがパルミラだった。
紀元前1000年には現在のバール神殿があるあたりに町ができていたという。
紀元前64年にはローマから自治権を与えられた都市になる。
交易による関税の徴収によって豊かな経済活動を続け2世紀にはペトラに変わり通商権を受け継ぐ。
パルミラが最盛期を迎えるのもこの時期。多くの神殿がこのころ増改築された。
永く自由都市とされるが3世紀に女王ゼノビアが夫のオダナイト王亡き後、幼王の摂政に君臨し実権を握る
と周辺の都市に征服戦争を仕掛けた。がローマによる平和を乱したとしてローマ皇帝アウレリアヌスの
進撃に対し、降伏勧告を拒み続けるが272年ローマの手に落ち、以後、ローマからの自由都市の特権
を取り上げられて直接支配を受けるようになる。捕らえられたゼノビアは黄金の鎖に繋がれ凱旋式の
見世物とされた後、ひそかに処刑されている。
見学は一番奥にあるローマの軍事基地デイオクレテイアヌスの軍営跡、戦の女神アラートの神殿跡、
王墓跡、列柱通り、四面門、アゴラ(市場)跡劇場跡、ゼノビアの浴場跡、記念門、ベル神殿、博物館見学
記念門の近くにはラクダの客引き。ツアー客の塩谷さんが無理やりのせられて10ドルふっかけられた
ただその辺を1周しただけなので4ドルで解決したらしいが彼女の中ではなにかすっきりしなかった
ようだ。外国人というとふっかけるのはもちろんだが女性だとどさくさに体を触ったりしてくるので要注意
















                                         














次はエラベルの墓に行く。階段をひたすら登ったが何もない。美しい壁画で有名な3兄弟の地下慕を訪れ
アラブ民族の祝い事に食するマンサフが昼食。このメイン羊が食べられないのでバイキングで食べられるものが
私の昼食。羊好きにはたまらない一品だろう。鳥、鳥、羊と肉嫌いにはちょっと辛い!!!!
午後は一路ダマスカスに。途中バックダットの標識で写真撮影とバックダットカフェでミントテイを飲む。














ミントテイは甘くてとっても美味しかった。夕刻、金曜は休みだったダマスカスのスークに行く。
こないだとうって変わって沢山の人手、洋服屋さん、下着屋さんをえて自由行動。みなさんオリーブ石鹸や
コーヒーなど沢山買っていました。塩谷さんと田中さんと私はぶらぶら...
ホテルにいったんチエックイン。最初に泊まった部屋の階とは違うしこんどはダブルベットだった。
怪しいウエルカムドリンク(赤いやつ)はもう沢山..ここは朝ご飯のパンやフルーツ、ヨーグルト
が充実しているので戻ってきて少しほっとしている。シャームパレスホテル。再びバスに乗り込み
夕食はカシオン山から100万ポンドの夜景が楽しみながら夕食。またまたお肉でした(とほほ)
カシオン山は斜面に公園や高層住宅がありお金持ちが住んでいるようだ。
8月13日
朝、ダマスカスを建ち、黒い町(黒い火山岩)と呼ばれるボスラへ行く。
ボスラの劇場を観光する。毎年8,9月に音楽祭が行われ日本人では北島三郎
が歌ったことがあるようだ。世界遺産の劇場はAD2Cにローマ人によって建設された
収容人員は15,000人で十字軍以降はアラブ人によって要塞として使われた
現在でこそ人口数千人しか満たない小さな村だが、アレキサンダー大王の征服
により植民地となてからはヘレニズム化がすすめられ紀元前1世紀にナバタイ帝国
の北の都となった。見学後はダラアの町を経由してシリア国境へ











パスポート回収。スタンプを押してヨルダン入国へ。ヨルダン入国は時間がかかった。
バスに積んであるスーツケースを全部だし、女性は人相検査があるとかで別室へつれてこられる
他にポルトガル人旅行客。添乗員の伊藤さんは外で待機。カーテン1枚のほったて小屋に我々約10名
外数名。しばらくして係員が来るとあっという間にスルーパス。男性人と合流し免税店へ。チョコやお酒
を購入してた人がいました。ながい入国審査をかけて無事ヨルダンへ入国
(ヨルダン)屈強なる力の意
ヨルダン・ハシミテ王国(ハシミテとはハシームの意。預言者ムハマンドがでたアラビアの名家)
人口:約600万人
面積:9.8万平方Km。日本の約1/4ほどの大きさ
首都:アンマン 人口は約150万人で総人口の1/4が首都に集中する
政体:立憲君主制(民主化も比較的に進んでいる。現王アブドッラー2世)
民族:アラブ人(イスラム教95%、キリスト教4%、その他1%)
産業:リン鉱石、四海製品、農業、観光、セメント工業
通貨:JD(ヨルダンデイナール)1JD=JPY170
(アンマン)
ヨルダンの首都で人口は中心部に約100万人郊外に約50万人が住む
1929年に英国の保護領のトランスヨルダンが成立するとアンマンが首都とされる
1946年に英国より独立すると急速に発展する.第一次、第二次中東戦争後は数多くのパレスチナ人が
流入し人口が30倍以上に増加する。現在も市民の60%以上がパレスチナの移住者。
ヨルダンに入国してから、ジェラシュ遺跡近くのレストランで昼食。
ここでも肉の串刺し・・・・水たばこ体験もしました。ほんのりイチゴ?バニラ??
あつーい中、ジェラシュ遺跡観光。古代名はゲラサと呼ばれた。ローマ時代はオリエントのデカポリス
の主要都市として栄えた。5世紀にはササン朝ペルシャの侵攻、6世紀には大地震が襲い現在も30%足らずしか
発掘が終わっていない。1925年修復作業が始まるまで完全に人々に忘れられた廃墟だったらしい。
最初の見学はハドリアヌス帝の記念門を見てヒポドローム(馬車レース場)、南門、卵型の広場フオーラムへ。
イオニア式の列柱に囲まれた広場は市場か宗教儀式に使用されたらしい。そしてコンサートにも使われる
3000人収容の劇場、12本の柱のアルテミス神殿。12世紀にアラブ人と戦った十字軍に一部破壊された。
ゆれる柱は隙間に指をはさめるとなんだか圧力がかかってきて怖い。600m続く列柱道路を歩いて
191年に建てられた妖精ニンフに捧げたニンフェウム(噴水、イルカのレリーフ)を見て自由行動




























道山さんとのんびりきた道を帰る。途中道山さんが砂絵を購入。
けっこうおみやげ屋さんがある。喉が渇いたので1.5リットルの水を購入する。バスに乗り込みホテルに向かう
途中、ヤボク川の写真撮影。アンマンのル・メリディアンホテル泊。ここの夕食のバイキングは種類も多いし
デザートも豊富だし、なにより魚やお寿司があった。飲み物は高いが食べ物はみんな美味しく大満足
ホテルのベットも4人ぐらい寝れる大ダブルベット!!!
8月14日
ここの朝食も美味しい。卵焼きを焼いてもらう。本日はアンマン観光。大型バスは乗り入れられない為
郊外の観光となる。アンマン市内に行くにはタクシー利用しかない。昨晩ガイドのオプションで市内散策
された方がいました。午前中、アンマン要塞の中にあるヘラクレス神殿跡、現存する最古の旧約聖書である
死海文書が展示されているが他の展示品もとっても興味あって伊藤添乗員はたいしたことないと言ってたが
いつまでもいたくなるような博物館だった。宮殿跡やビザンチン教会跡を見学する。











いよいよ死海に向かう。死海はイスラエルとヨルダン境にある内陸の塩湖。水面下392mで世界一低いところ
通年流れ込む川はヨルダン川のみで流出する川はない。一年中暑くおびただしい量の水分が蒸発する為
水中の湖底はミネラル分が多く沈殿し、塩分濃度は海水の10倍で30%に達する。
面積はこれまではビワ湖の1.5倍とされてきたが近年行われた調査ではビワ湖より小さいという報告があった。
死海は年々小さくなっておりこのまま縮小が進めば50年以内に100Ku以下になる可能性がある。
来年より世界銀行が出資しイスラエルとヨルダン共同で紅海から水路でもって海水を流入させ縮小を食い止める
プロジエクトがスタートする予定のようだ。
死海はネットでみると連日45度の猛暑である。男性はひげをそらないほうがいいし傷がある人はしみる湖らしい
バスが海抜0mのポイント地点到着で写真撮影する。その後リゾートホテルへ。沢山の外国人観光客がいた。
ロッカーのカギが壊れていたので貴重品はビーチに持っていかないといけない。
更衣室も手狭で塩谷さんと二人で入り水着に着替える。ホテル泊でもないから仕方ないかもしれない











日差しが物凄くきつく、日焼け止め全身に塗っても暑い。死海もぬるい。たくさんの外人が浮かんでいた
けっこうすぐ浮かぶがバランスをとるのが大変。海底はごつごつ岩で歩きにくくぞうりがはさまれ壊れてしまう
人たくさんいた。とりあえず新聞をもってお決まりポーズ!!!死海のドロは固くつかみにくい
体に塗ってみたがひりひりするのでそうそうと塩谷さんと引き上げる。体に塩が沢山ついたのでホテルのプール
で人泳ぎ。とっとと着替えてホテル内ロビーへ。着替えた順からランチバイキング。
観光地のせいか缶コーラが4ドルもする。日本の富士山の頂上なみのぼったくり値段
メシのバイキングもたいして美味しくない。死海目の前のホテルで観光客呼び込めるせいかなんかお粗末!!!
午後は一路ペトラへ。途中みやげもの屋さんで死海の石鹸やバスソルト購入。1こ2ドルから3ドル。
石鹸は塩と泥がありみやげ物のオヤジがみんなに死海石鹸おまけにくれた。ネットで購入すると1200円前後
だからお土産には最適(重いけど)いい匂いするしすべすべになったという意見帰国後に聞きました。
ワディ.ムーサ(モーゼの谷)のモーゼの泉で写真ストップ。モーゼが岩を杖で打ったら水が湧き出したといわれる
岩と小さい池があるだけ。夕刻クラウンプラザホテル着。またまたオプションで小ペトラと夕日とチャイの観光が
あったようだが19時20分の日の入りには間に合ったようだがチャイがなかったようで食事のときに揉めていた
今後の現地ガイドと添乗員の伊藤さんの関係にかかわってくるので少し心配。最終的に少し安くなったようで
一安心、またチャイがなかったことで気をきかせたのか夜に近くの飲み物屋さんにみなさんを誘っていました
私は翌日のペトラ終日観光(徒歩16キロ)に備えて体力温存
添乗員さんの伊藤さんがみんなにテイーパックのお茶や味噌汁を配っていました。ご馳走さまぁ
8月15日
本日は終日ペトラ観光。(岩の意味)西アラビアから移住してきたナバテア人が築いた古代都市遺跡。
宗教や死生観は、エジプト、建築や技術はギリシャの影響を強く受け、死後にやってくる永遠の生を信じ
死はむしろおめでたいことだった。巨大墳墓を築くのもエジプトの影響である。
紀元前6世紀頃には遊牧や時として附近を行き交う隊商を襲う山賊行為を業としていたがのちに自らも交易
業に乗り出し、また通過するキャラバンからは安全を保障するかわりに税金を取っていた。商業と税金で
潤うとこの岩山に囲まれた谷に都市を築くようになる。東から西に伸びる谷がシークと呼ばれペトラの入り口
であるとともに、神殿や巨大墳墓が作られた聖域となり、南北に伸びる谷に人々は生活した。
ナバティアのナバとは土木工事、ティアとは人の意で、ナバティア人の水利工事の技術はとても優れていた。
ナバティア王国が南ヨルダンに君臨した前4世紀から前1世紀までが最盛期で以後はセレウコス朝、ローマ
帝国の影響下に入り、2世紀初めにはローマ人がペトラを支配するようになる。現存する遺跡にはローマ劇場
列柱道路、凱旋門、噴水などの跡が残る。最盛期には3万人ものの人口を誇ったペトラは794年の大地震で
その60%以上が倒壊し歴史から姿を消し、ペトラはベドウインの人々がただ夜営するのみのゴーストタウン
になるが1812年にカイロに向かう途中のスイス人考古学者のブルクハルトに発見されヨーロッパに伝えられ
以来現在も発掘が続けられている。
入場料が1JDから20JD以上と値上がりし中は旅行者とみやげ物屋で混雑しているがやはり
シリアのパルミラの遺跡、ヨルダンのペトラの遺跡は外せない観光地!
朝、今日は歩くのでたくさんご飯を食べる。リポビタンDやビタミンゼリーとかかばんに詰め込む
遺跡近くのホテルとはいえ、遺跡の近くのシークまで炎天下の砂利道を2キロくらい歩く
階段状の墳墓やオベリスクの墳墓がありシーク(谷)の入り口(ダムの跡)をさらに2キロくらい歩く。
きりたった崖に細い下りの道、馬車でエル.カズネまで行くこともできるが我々のツアーは歩き。
ラクダとキャラバンのレリーフを見ながら、エル.カズネへ。映画インデイージョーンズ最後の聖戦のロケ地
他の旅行会社ではここで引き返してしまうか、日の当たらない午後にくるツアーもある。
岩をくりぬいて作ったエル.カズネは
中に入ると何もない。みはりが2人
いるだけ。高さは約30m。前1世紀〜
後2世紀のもの。ここがメインらしくラクダ
ひきがいる。ここからさらに奥に行く。
墳墓群、劇場、王の墳墓群(4つ)、
ニンフェウム(泉)跡、列柱道路、
トラヤヌス帝の凱旋門、ナバティア
の神殿と奥のほうにも見所は沢山ある
日傘があるがほんと暑い。遺跡の中に
あるレストランフオーラムで昼食。
ここしかないせいか外人もいっぱい
バイキングだが外でお肉を焼いてる
添乗員の伊藤さんが持ってきた緑茶
の粉末で生き返る。とりあえず食べる
もの食べたらリポDとビタミンゼリー
流し込む。いよいよ900段の階段をのぼってエド.デイルまで行くからカロリー沢山とって準備!!!
混んでいるからと店の店員に追い出され、いよいよ登山開始。エド.デイルまではロバのタクシーもあるが
すべってスペイン人が亡くなった事があるらしい。階段だか岩だかわからない狭いところで上には砂があり
滑りやすい。ゆるやかな階段??と旅行会社からきたチラシには書いてあったが緩やかではけしてない!
登る途中ライオンの墳墓によって登山開始。ロバも通るので階段はロバの糞だらけだし物凄く臭い空気
の中えっこらえっこら登っていく。周りの景色はすばらしいのだけれど.前に見える人影を見るたびにあそこまで
行くのか..と思いながら1時間ほど登ると修道院エド・デイルに到着














途中ライオンの墓にみんなで寄り道しながらやっと着いた。エド.デイルは高さ45m、幅50m。
1世紀中ごろ建てられたナバタイ人の神殿。さすがに奥にあるせいか観光客はぐっと少なくなる。
周りはグランドキャニオンもどきの景色が広がる。エド、デイル奥にも階段があり道が続く。
散策後、エド.デイル前の休憩所でコーラを飲む。一息ついた〜。下りは30分ぐらい。
すべるので要注意。朝から散策していた道を引き返す。帰りの足は重い。ラクダの勧誘がいたが
法外な値段。最終的に5ドル(数分)で落ち着いたようだが...
午後(夕方)になるとあの有名なエル.カズネも日陰に入り観光客はいるがぱっとはしない。
やはり観光は午前中に限る。来るときラクだった2キロほどのシークは登りだからちょっときつい
。ホテルまでの砂利道も夕方の強い日差しで歩くのが辛い。やっとの思いでホテルに到着。
誇りまみれ、汗まみれで気持ち悪いので速攻でシャワー。ペトラで最後の夕食をとる。
8月16日
朝食後、デザートハイウエイとキングハイウエイをひた走る。途中なったばかりの世界遺産
um ar rasasに立ち寄る。添乗員さんも4月に来たときは気が付かなかったとか(偶然発見)
みるかぎり瓦礫だけ。これが世界遺産??みやげ物屋も観光客もいない















見学後、道中、景色がいいところで写真ストップ。イスラエルまでほんの少し...またバスを一走りし
マタバの町に入る。人口は約、83万人で約半数がキリスト教徒で現在は10以上の教会がある
旧約聖書にはメデバ(果物の泉)と記される。6世紀のパレスチナ地図がモザイクで描かれている
聖ジョージ教会見学。566年に建立された教会は749年の大地震で倒壊した。19世紀に現在の教会
が建てられる際に地中からモザイクが出てきた。世界最古のパレスチナ地図でオリジナルは20mx10m
の大きさだったが現存するのはその半分の10mx5m。160ケ所以上の地名(ギリシャ語)が230万個
の石片を使って描かれる。死海やヨルダン川、ナイル川が描かれ中央には聖地エルサレムがある。
巡礼者が迷うことなく聖地に行きそして帰れることが出来るよう作成された。










見学後、歩いてレストランへ。バイキングなので食べられるものをしこたまとり体力をつける。
何処で飲んでも2ドル以上する割には紅茶がまずい。テイーパックにしても最低のランク。
バックダットカフエで飲んだミントテイがまとも。帰国後、ルピシアの美味しい紅茶を飲んでストレス
解消...ほんとにまずかったシリアヨルダンの紅茶!昼食後はモーゼが葬られているというネボ山観光
モーゼはエジプトからイスラエルの民を脱出させ、シナイ山で神より十戒を授かり、イスラエルの民を
率いて40年荒野を彷徨い約束の地カナン(乳と密の流れる地)の目と鼻の先まで来るが、カナンを
攻め込もうとした時、カナン人があまりに屈強で町は防備が固く豊かであった為人々は臆病になり
神の伽護を信じなかった。その為神は怒りイスラエルの民が約束の地に入るのを禁じ更に40年間
荒野を彷徨うよう命じた。荒野へ出発する日にモーゼがネボ山に登り、カナンの地を眺めていたとき、
神はモーゼに先祖と一緒に眠る時が来たことを告げモーゼは天に戻された。モーゼは120歳だったという
モーゼが何処に葬られているかは謎。展望からは死海、ヨルダン川とヨルダン川渓谷、エリコの町
が見える。エルサレムまでは40キロ。近くにはネボ山の教会がある。床にはモザイクが。
教会は中はシンプルだがモザイク
は見事。15時頃空港に着く。
帰りにも買った死海石鹸を
スールケースに入れなおす。
死海石鹸は塩と泥等あるが
ネットでは1200円もするらしい
自分は死海に入りひりひりした
ので使わなかったが、お土産
の塩石鹸は帰国後大好評
匂いはいいし、さっぱりしてる
とか。多少重くなるがお土産には
最適だろう。重さに厳しい航空会社
なのでチエックイン時だいぶ待た
された。一路、ドバイへ。今度は
毛布があった。3時間ほどのフライト。機内食は鳥と魚、魚を選んだがえらくまずい。臭いし香辛料がへん
後ろの席では鳥ながくビジネスクラスの鳥を食べることが出来た人もいた。
今回家族ずれというか乳児をつれた大家族が沢山乗っていてあっちでギャーこっちでギャーとうるさかった
きっと裕福な家族がドバイでの休日を過ごすのであろう。なかなか眠れないうちにドバイに到着。
ドバイについたのは夜の10時前だった。
しかし乗り継ぎが悪く深夜2時30分までヒマである。来るとき、席がなく寝転んでる人を沢山見てるので
今度も席があるか不安。眠いし..乗り継ぎが長い場合ミールが出るかもしれないということで17番ゲート
に向かう。2004年イエメンに行ったときは、不景気の為、ミールサービスを辞めたとかでなかったが
今回復活したよう。テーブルとイスが確保されるだけで満足。ナツメヤシの干したものを買いたい人は
添乗員さんの伊藤さんについていってお買い物。私と塩谷さんと道山さんと中島さんは席を同じくし
バイキングを堪能。機内食より美味しい。カレーとか野菜がありゼリーやプリンもある。おしゃべりしている
と深夜〇時に。会社のお土産を買いに免税店へ。行きはけっこう綺麗に並んでいたのに棚はぐちゃぐちゃ
で売り切れてる商品もあった.日本人もけっこう見かける。飛行機に乗り込んだときは深夜の3時近かった
機内食はパスして寝ることに。ソバが出たようである。到着2時間前のオムレツは全部食べた。
隣の席の団体はドバイ経由のスイス8日(37万)の団体であった。スイスに行くのにドバイ経由は勘弁
いくら安くても無駄な時間はつくりたくない。関西についたのは夕方だった。ここで関西の人達とお別れ
荷物をピックアップした5人は急いで乗り継ぎに。到着が遅れたせいかまだ羽田行きの便は待っていて
くれた。羽田行きの飛行機に乗り込み、羽田についたのは20時過ぎ。21時の日立行きのバスに乗り日立に
ついたのは深夜〇時。丸2日移動。タクシーで寮に帰りその日の内に洗濯し荷物を片付け爆睡。
起きたら土曜の14時30分だった。ほんと疲れた。添乗員の伊藤さんは27日よりバルト三国らしい。
感想
いくら湿気がなく過ごしやすいとはいえ夏の遺跡観光はとってもきつい。水分補給と帽子や日焼け止め
は必要。けっこう値段が高いのでベストシーズンに行ったほうが得。GWあたりまでが良いのかもしれない。
洋服は夏は長袖のほうが日差しから守れるのでお勧め。
10月あたりから寒くなるし雨が意外と多い。ペトラのエド・デイルに行くかどうかもツアー選びのポイント
ホテルは4つ星以上だが水の排水が悪かったり完璧とはいえないがウズベキスタンのように断水
になったりはしない。トイレットペーパーの紙の質もまぁまぁで青空トイレはなかったがホテル以外
紙がついていないとこが多かったので紙の持参は必要。食べ物はシリアヨルダンとも同じよう。
パンにつけるペーストが何種類か置いてあり生のきゅうりやトマト、すいか等はけっこうでた。
アンマンのホテル以外魚を見かけず、肉肉ばかり。バイキングは比較的多かったが油がべったり
料理ばかり。胃が疲れやすい人は梅干や整腸剤が役に立つと思う。食事時の飲み物代がお金かかる
ヨルダンはビールが10ドル、缶コーラ4ドルと信じられない値段。まだシリアのほうが割安
ヨルダンでは現地通貨には両替しなかったが、飲み物の換算の時、ドルで払うととっても不利。
シリアでは10ドル程度、ヨルダンでは20ドル程度、両替していたほうがいいと思う。
なんでもドルで払えるので両替の必要性は余りない。お土産は石鹸に絞ったほうがいいかも..
砂絵と死海製品以外は惹かれるものはない。定番なお菓子はドバイの空港でも購入可能。
ドバイの乗り継ぎが悪いので疲れるし、到着してすぐの観光はけっこう答える。新日本トラベル
はエミレーツでないので催行されればまたユーラシアとは違った旅が体験できるだろう。


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