ウズベキスタン旅行記

今回は会社のリフレッシュ休暇を利用して、5月2日からユーラシア旅行会社利用でシリアヨルダン方面を旅行
するつもりだったが、1か月前に人数不足の為旅行中止になってしまった。シリアヨルダンはこれでふられたの
2回目。よっっぽど縁がないのだろう。もう定員に足しているが、なんとかウズベキスタン方面にもぐりこむことができた。
友達にウズベキスタンに行くというと大抵「何処にあるの?」と聞かれた。旧ソ連とはいえ、世界遺産はたくさんあるし
今人気のシルクロード?でもあるのだがまだまだ観光地としてはメジャーじゃないらしい。
中央アジアの中では比較的に知られた国だとは思う。ウズベキスタンとは1991年ソ連解体の時に独立した国
飛行機は関西国際空港からウズベキスタン航空が乗り入れているほか、昔からソウル経由のアシアナ航空
で行くのが一般的。旅費は9日で22〜万ぐらいでイスラム圏の中では安いほう。平均月収3,000円だとか。
国旗:三日月はイスラム教、12の星は州を表す。三色の一番上の水色は水と空、真中の白は綿花、下段の黄色は
    樹木、赤い線は国を守る決意
言語:ウズベク語(中央アジアもロシア語だと思っていた)
宗教:イスラム教.スンニ派(75%)ロシア聖教他
通貨:スム(1USD=約1250スム)10円ぐらいからお札なので40ドル両替しただけで山ほどスムがくる
時差:4時間
国名:ウズベク人の国(スタンは英語のLANDにあたるペルシャ語)
面積:44万7千4百Ku(日本の1.2倍)
人口:2370万人
民族:ウズベク人(77%)ロシア人(5%)タジク人(5%)カザフ人(4%)カラカルパク人(2%)キルギス人(1%)
産業:綿花生産(世界第2位)収穫は9月から10月。天然ガス、石油
観光客:フランス人がたくさん。次が日本人とか
世界遺産:サマルカンド文化交差路、シャフリサブス歴史地区、ブハラ歴史地区、イッチャンカラ
侵略の歴史:アレクサンドロス大王の東征、イスラームアラブの侵入、モンゴル軍の西征、異民族の侵入と破壊
        の繰り返し
        旧サマルカンドがあったアフラシャブの丘は1220年モンゴル軍の攻撃で破壊しつくされ
        復興することなく打ち捨てられた。
        ティムールは手に入れた領土の先々から優秀な職人や建築家を徴発し、サマルカンドを壮大な
        建築物の建ち並ぶ帝国の都に造り替えた。
5月11日(金)
前日天気が悪かったせいか朝から凄い風が吹いている。朝7時30分発のローズライナーで成田に向かう。
成田着は11時15分。30分集合なのでぎりぎり。ツアー客は自分入れて17名。
GWを避けている時期か仕事をリタイアした参加者が目立つ。添乗員は(いつきまき)さん。
3月から機内にペットボトルの水が持ち込めなくなったようで、機内で喉が渇いたらどうしようと不安になる
13時50分、OZ101でソウル仁川空港へ2時間のフライト。乗り換えは面倒だなぁ〜
機内食は肉ののっかった肉とにんじん、茶そば、冷たいパン、フルーツ、コーラ(なんかまずい気がする)
15時50分空港着。時間があるので免税店を冷やかして歩く。
17時50分OZ573便で首都タシケントに向かう。7時間40分のフライトなのに
機内は古く狭く、今時のパーソナルテレビも搭載していない。食事も激マズ。ビーフかシーフード
なぜか韓国系の飛行機はコツジャンが毎回つく。アシアナ航空よりもよりも昨年GWロシア行きでで利用した
なぜか、評判悪い大韓航空のほうがビビンバやお茶づけがでたり意外と良かった。
21時10分、タシケントに到着。日本は夜中の1時過ぎなのでさすがに眠い。地図じゃ近いのに遠いなぁ
バスで入国審査に向かうが、しょっぱなから自分のスーツケースが出てこない。
すぐ見つかって少しほっとした。入国審査ものんびり。パスポートは10年有効の人も多いので顔が違うと
言われた人もいたようだ。23時にようやく外に出ることが出来た。ガイドはディリさん。(人相がヤクザ)
23時15分、タシケントパレスホテルに到着
今のうちに両替する。添乗員さんは電話では100ドルくらい両替したらと薦めてくれたが、今回は40ドル
にしてみた。どっさりお金がきて財布に入らない。無造作に袋に詰めてしまう。
ウズベキスタンは意外と蒸し暑い。
5月12日(土)タシュケント→ウルゲンチ→ヒワ「イッチャンカラ」へ
当初7時だったフライトがサマータイム導入とかの理由で9時発になった。すこし朝がゆっくりになって良かった
6時モーニングコール6時30分朝食。パン、ヨーグルト、肉じゃが、ポテトサラダ、ジャスミンテイ、具なしインスタント
ラーメン他。今思い返してもここでの朝食が一番うまかった。
7時ホテル発15分後空港着。国内線なのになぜかパスポートを見せる。
バスで飛行機前まで行くがなかなかドアを開けて貰えずだんだん暑くなる。しばらく待たされ自分達より偉い人
のミニバンを待っていたことがわかり怒り沸騰。30分遅れの9時30分ウルゲンチに向かう
飛行機の座席番号はロシア語なのでよくわからず適当に座る。
10時45分ウルゲンチに到着。またもやのんびりでバスで待たされ、ホテルに着いたのは12時30分
12時30分城内ホテル「メドレセ」に到着。着いた時降っていた雨はあがった
場内ホテルはかな〜り趣がある。トイレは流れず近くにあるバケツで流す
夜が寒いのか電気ストーブもある。簡素なベットにバスタブなしのシャワー
水が出る時間が決まってるのか夜中は断水でさすがにビックリした。
お昼は場内レストランで。杏子の種、にんじん、サラダ、ナン、ピラフ、スープ他
タシケント産赤ワイン「ロイヤル」はみんなに人気だった。味見したらあっさり
14時50分、場内イッチャンカラの観光開始
ヒヴァの町はガイドブックや自分のイメージの青いタイルのウズベキスタンのイメージ
とは違いどこかタイムスリップしてしまう印象がある。
自分のウズベキスタンの旅では目玉はサマルカンドだったが後から思い出すと
ヒヴァが一番お気に入りだったかも
内城「イチャンカラ」は高さ8メートル、厚さ6メートル、長さ2100メートルの
城壁に囲まれた町でソ連時代は外国人の宿泊が出来なかったようだ
@ムハマンド・アミン・ハーンマドラサ
西門を入ってすぐ右手にある。1852年に完成した中央アジア最大の神学校
中庭を取りまく2階建ての建物には125の部屋がある。タイルの装飾が綺麗
そのうちみんな同じ模様に見えてくる
Aカミタミナル
泊まってるホテルの目印にしていた。カルタの意味は短いという意
青のタイルで覆われた美しいミナレット
ムハマンド・アミン・ハーンが1855年ペルシャとの戦いで死んだ為中断された
Bムハマンド・ラヒーム・ハーンのマドラサ
Cコフナ・アルク(牢獄や造幣所もあった)
17世紀に建てられた「古い宮殿」という意味。要塞で囲まれておりハーンによっって建てられた執務の為の公邸
くつろぎの間、モスク、ハーレムがあり、火薬工場、造幣所では絹のお札が作られた
中は青、緑、白の七宝タイルの細かい模様で装飾され多くの柱で支えている
ハーレムは宮殿の北側にあり入り口前広場は処刑台があった
Dアクシエイフ・ババの高台(綺麗な景色)
けっこう1つ1つの階段が急で上がるのが一苦労する
Eじゅうたん博物館
オープンカフエでティータイム(4人で1つのお茶を頼む)
雨が朝降っていたので椅子がびしょびしょ。
のんびりくつろぎながら現地の人を観察する。こっちの人はみんな民族
衣装を着ている。路地を歩きながら学生達が彫刻している場所を訪れる
杖の模様はすばらしいがコーランの本を置く本立てはお見事
Fパフラヴアンマブムド廟
メインストリートから南にある廟。
詩人で哲学者のパフラヴアンマブムドの墓を中心にムハマド・ラヒーム・ハーン
や親族の廟がある。青いタイルが美しい
Gイスラムホッジャのメドレセ
イスラーム・フッジャによって建てられた。ミナレットはヒヴアで一番高く45メートル。118段の階段がある
この大臣はロシアをたびたび訪問し得た知識を自国の発展に役立てようとヨーロッパ形式の学校や病院
、郵便局、橋や道を造って近代化したが、人気に嫉妬したハーンと僧侶達に生き埋めにされた。
19時。自己紹介しながらの夕食。ほうれんそううどんもどきパスタ
20時10分希望者は夜の散歩へ。夜は砂漠気候なのか凄く冷えて毛布を2枚かけて寝た。
5月13日(日) ヒワ→ブハラ(480キロ)
風は強く朝はやはり寒い。希望者のみ朝日を鑑賞に出かける。特別にカリタ・ミナルに登らせてもらう
昨日のレストランで朝食。午前中は自由行動。朝8時希望者のみガイドのディリさんの案内でバザールや
ハーレム見学に行く。ほとんどの人は着いてきた。
バザールは建物の中はお皿や日用雑貨やウエデイングドレス等売っているが外に出ると
パンツなどの下着や食べ物が売っていて多少活気がある。
サモサという焼いたクレープ生地にひき肉等包んだものが売っていて、器用にかまどにへばりつけて
焼いていた。多少油っぽい。羊のお尻の油とか?バザールで多少自由行動になったのできれいな
お皿を購入した。集合時間になっても二人足りないが、添乗員をバザールに残しハーレムや
ジュマ・モスクに行く。ジュマは多柱の建築のモスク。3m間隔で212本の柱がある。
柱にはたくさんの彫刻がありよく見るとお釈迦様があちこちに彫られている
11時少し外れたレストランで焼きたてのナンの昼食。ビーツのつけもの、アーモンド、チーズ
トマト、メインは餃子の皮に卵かチーズもどきが入っていて味がないやつだがけっこう美味しく
全部食べてしまった。食後レストランの外を花嫁さんが通る
12時10分、イッチャンカラを出てバスにてブハラまで出発。途中アムダリア川を渡る。写真撮ったり
休憩する。ブハラまであと「244キロ」の検問所を通過。青空トイレ16時40分。ガソリンスタンドで
ガソリンを入れる。(19時30分)1リットル50円。19時30分ホテル着。7時間30分のバス移動だった
夕食はホテル裏のレストランでロシアとウズベキスタン料理
真っ赤なボルシチが出た。メインはジプシーのケバブ、アイスクリーム。ブハラパレス
21時やっとホテルへ。ステキなピアノ音楽が響くロビーだった。
5月14日(月)(終日ブハラ観光)
ブハラはユネスコの世界遺産に登録している町で薄茶色の町全体にシルクロードの面影がある。
ブハラとは「僧院」を意味し、その名の通り宗教の町で全中央アジアからイスラム信者が集まったという
ホテルの朝食はパンとシリアル。なかなか旨い。9時ロビー集合。
観光はとっても暑くたくさん歩くので日射病に注意。水をもって1日観光に出かける
@イスマール・サマニ廟
イスラム初期の建築様式霊廟。892年から943年に造られた
日干しレンガを積み上げ半球ドーム型の屋根の単純な構造
ここを時計周りに3周しお願い事をすると願いが叶うそうなのでぞろぞろ時計周りに周る
9世紀の終わりにブハラを占領して都としたサマン朝のイスマール・サマニが
父親の為に建てた霊廟だが、後になって彼も孫も葬られ王族の霊廟になった。
Aチャシュマ・アイユブ
チャシュマは「泉」アイブは旧約聖書に出てくる預言者「ヨブ」
ヨブの泉という名。人々が水不足で苦しんでいたときに、ヨブが杖突いたら
泉が湧き出たという伝説がある。
12世紀に泉が出て14世紀に真中のドームが、16世紀に前のドーム
と次々に建て増ししたのでアンバランスな建物になっている
観光の途中で、桑の実がたくさんあったので白くてふっくらしたのを試食
Bボロハウズ寺院
1718年に建てられたハーン専用のユニークなモスク。祝いの日、ハーンは
アルク城を出て、じゅうたんの上を歩いてここまで来たと言われている
全面に彫刻されたクルミに柱が20本並んだテラス状の空間があり、軒の正面
や天井は赤、緑などカラフルに塗り上げられている。アイヴアンという建築様式
モスクの前にハウズと呼ばれる池があり四方は大きな石の段段で囲まれ
彫刻された大理石の給水口がある
Cアルク城/レギスタン広場
7世紀に女王フッタ・ハウトンがこの城でアラブ人と戦いモンゴル
来襲の際には立てこもった多くの町民がチンギ・スハーンの
軍隊に虐殺され、城も破壊されたが後に建て直された。
歴代のハーンは残虐な圧政の化身で、反抗した人を容赦なく惨殺した。
門を入ると登り坂になっていて、お店とか露店もあるが、道の両側に囚人の地下室があり
今は人形が置かれている。場内にはジュマ・モスク、玉座の間、ハーンの居室がある。
小さな博物館は残虐な刑の場面、監獄の記録が展示され、ツアー客は処刑の様子を熱心にディリさんに
聞いていた。私は怖い場面は苦手なので早々と退出したがみなさんお気にめしたのか
なかなかでてこなかった。ここは交通量が多いので道横断するときは注意。
12時リヤビハウズのレストランで昼食。メインはケバブ。ハウズは池のこと
周りは桑の老木が生い茂っていて涼しく休むことが出来る。
13時25分Dファズヤ・ゴダエフ商人館でお茶タイム。民族衣装着たりして昔にタイムスリップ。
係のものが赤ちゃんのあやし方など昔を再現してくれた後、を最後にTシャツ売っていた(誰も買わない)
Eカラーンモスク
カラーン・ミナレットと繋がっている。1514年、カラハーン朝
のアルスラン・ハーンによって建てられた。
広さは1ヘクタールで1万人の信者が礼拝できた。ソ連時代
は倉庫になっていたが独立後は再び礼拝所として再開
色タイルで装飾され、中庭は回廊で囲まれている
回廊は208本の柱で天井を支え、288の丸屋根で覆わる
Fミル・アラブのメドレセ(神学校)
カラーンモスクに面して建ち、巨大なアーチの両側に
2つの青いドームがある。青と白のモザイクタイルからなる
植物模様と文字模様を組み合わせた装飾は末期ティムール様式である。
1636年ウバイドゥツラー・ハーンが3000人以上の奴隷を売って建設した。
1階が講義を行う部屋や図書館、食堂、2階が寄宿舎。ソ連時代唯一開校を認められていた。
Gカラーン・ミナル
カラーンとはタジク語で「大きい」という意味。高さ46mでブハラで一番高い。
1127年、カラハーン朝のアスラン・ハーンによって建てられたもの。階段は105段
Hバザール・タキ(タキとは交差点バザールのこと)
当初は専門的要素が強く、宝石類、帽子類、金等売買されてた
交差点の丸屋根は大きく、外光が入りやすいようたくさんの窓がある。
Iマゴキ・アッタリモスク(じゅうたん博物館)
1936年、ロシアの考古学者シシュキンによって掘り出された。
マゴキは穴の中という意味。アラブに支配されるまでバザールだった。
ゾロアスター寺院もあったが現在はじゅうたん博物館になっている
Jナディールディワンベキ・ハナカ
Kホッジャナスレッテンの像。しっぽを3回触ると金持ちになるらしい
Lナディールデイワンベキ・メドレセ
1622年に建てられた神学校。2羽の鳳凰が爪で白い鹿
をつかんで、太陽に向かって飛んでいる絵が正面にある
中庭にはチャイハナがあり、ぐるりと取り囲んでいる部屋
は現在はみやげ物屋
Mチャルミナル














4本のミナレットという意味。1807年にメドレセの門番小屋
として建てられた。いったん今日の観光は終わり
暑くて歩きつかれた。見所はたくさんあるが最後には
みんな同じく見えてしまう。写真の整理は大変だ〜
17時ホテルにて休憩する
。19時神学校だった場所で民族舞踊みながら食事。
民族舞踊というよりフアッションショー。
こっちの人たちはみんな美人。日本人の踊り子もいました。留学生かなぁ
食事中に木から桑の実が落ちてくる。食事はスープ、トマト、ニンニク、メインは水餃子だが中は羊???











5月15日(火)
今日は列車でサマルカンドに行く。駅に着いて見れば朝7時30分の列車が8時になっていた。
時間があるのでホームで写真を撮る。
以前の誰かのホームページでは中央アジアシルクロード列車は
4人がけのコンパートメントと聞いていたが、今回のツアーは1等車で
食事付き、小さい液晶テレビ付きの二人がけ。
でもなぜか後ろ向きに発車する。1等のせいか乗客は西洋人が多い。
列車の顔もなく貨物車に見える。しばらくするとチャイのサービスや
お菓子を配りに来る。映画も始まる。発車してまもなく配られた
ボックスランチを食べてしまう。大きな鶏肉とパンとマンゴージュース
チーズ、トマト。まもなく食事が配られた。パンとジャガイモとひき肉炒め
ツアー客はお腹一杯なのでみんな残していた。乗車時間は4時間と聞いていたので
12時着だと思っていたが11時にある駅に到着。しきりにサマルカンドと叫んでいるが
誰も席に立とうとしない。ガイドのディリさんは熟睡中だったが添乗員に起こされ
この駅がサマルカンドとわかりあわただしくみんな下車した。途中電車はスピード
を早めたらしい。バスは予定時間通り着ていた。人間だけ電車の旅でバスは荷物
積んだままブハラからはるばる追いかけてきた。ご苦労様。
電車の最終駅はタシュケントまで行く。途中下車の旅は危ない危ない。
昼食の前にウズベク天文台跡に行く。気温38度。あまり暑く感じない
現在は円い天文台の基礎と六分儀の地下部分のみが残っている。かつて六分儀は、地下11mと合わせて40m
の高さがあり、弧長は63mという巨大なものだった。ここでの観測をもとに、望遠鏡のない時代
恒星時1年間を365日6時間10分8秒と推測し、現在の精密機器観測の365日6時間9分9.6秒と
誤差は1分にも満たない。
昼食は肉とポテト、胡麻和えサラダ、コーンサラダ、りんごとくるみのデザートがおいしかった。昼食後は
15時にビビハニム寺院を観光
かつてイスラーム世界で最大の規模を誇ったモスクの跡。
入り口には巨大アーチが建てられている。1399年、インド遠征から帰ったティムール
は世界に比べるものがない壮大なモスクを造る決意をする。
建設には帝国各地から集められた200人の職人と500人の労働者、95頭の象が従事
し、テイムール自身が、毎日現場に出向き、指示していたようである。
しかし急ぎすぎたせいと、度重なる地震で崩壊が進み廃墟となった。
1974年より修復。
15時30分隣のシャブスキーバザールにてフリータイム
ここはドライフルーツやナッツがたくさん売っている。
安田さんとひとみさんと3人で干しあんずや干しメロンを
試食しながら散策する。どこの店もなぜか売ってるの同じ
途中バケツごと桑のみを買ったディリさんと遭遇。
むしゃむしゃ食べていた。安田さんは値切りながらいろいろ
購入。16時20分シャーヒ・ジンダ廟に行く
階段沿いにたくさんの廟が並んでいた。
シャーヒズィンダとは「生ける王」という意味で、7世紀のアラブ
侵略時に生まれた伝説が元になっている。
布教の為にサマルカンドにやって来た預言者ムハマンドの従兄クサム・イブン・アッバーズはここで礼拝
しているときに、ゾロアスター教徒に襲われ首を跳ねられてしまった。ところが彼は動じることなく礼拝を終え
自分の首を抱えると深い井戸へと入っていった。彼はそこで永遠の命を得て、イスラームが危機に陥ったとき
救いに現れるのだという。ウルグベクが建てた入り口の門をくぐるとすぐ先に階段がある。
この階段を数えながら上がり、その数が行きも帰りも同じだったら天国に行けるそうだ。ちなみに36段


天国への階段の途中にある2つの冠した廟はウルジョイオイーム廟。中からは若い女性の
骨が発見されている。ティムールの乳母であろうと言われている。
トゥグル・テキン廟は階段を登ってすぐ右にある廟。ティムールの部下の将軍フセインの
母親の名いくつもの廟を高い階段を登りながら覗いていく。
しまいにはみんな同じに見える
写真を撮りながら突き当りまで行き、戻ってくる。今日の観光はこれで終わり。
17時30分ホテルにて休息。18時30分レストランで壺料理
じゃがいも、にんじん、肉の煮込み。やわらかくて美味しい。
夜、ホテルに着くとカミナリがなっていた。中央アジアでも雷雨はあるのだなぁ....
5月16日(水)
9時30分集合なので遅い朝食。ロビーのまんなかでバイキング。いちごやドーナツ、クレープ
がある。安田さんと一緒に食べる。昨日までの38度とはうってかわって気温17度
小雨も混じり寒い。風邪を引きそうだ。9時40分
チムールの墓の残るグル・エミル廟に行く。着いた早々雨が激しくなる。
チィムール一族が眠っていてドーム中はとっても綺麗。
タジク語で支配者の墓という意味。
ティムールの墓は黒緑色の軟玉で作られ中央に置かれている。
その北側にティムールの教師ミサイード・ベリケと孫一人、息子の
ミランシャーの墓石が並んでいる。亡骸は地下3mの墓室に
同じ順序で葬られている。1941年6月22日ソ連の学術組織によって
墓が開けられ、ティムールが足が不自由だったことと、ウルグベクが断
首されて死んだことが証明された。
10時40分メロスと呼ばれる工芸職人工房で陶芸体験いや見学???。
しかし停電でよく見えない。(帰るまで復旧せず)

今回自分もろくろまわすのか
と思っていたら、ただ見るだけ
だったので大いにがっかりした。
ジプシーが多いのでなかなか
個人では来にくい場所ではある
らしいのだが。
狭い敷地なので半分はかまど
を見学。1日に12個入れて12時間
もかかる。狭いので雨にぬれる
ので早々と出てきてしまった。庭はバラが綺麗。前半の人たちの粘土工作を冷やかす。あまり時間とっていなく、
交代。粘土の塊を渡され小学校でやった粘土工作をする。パンフには陶芸体験とあるがこれじゃ粘土工作体験だ。
手のひらサイズの団子粘土からじゃ、象や犬を作るがうまく作れず、最後には団子にして置いて来てしまった。
ここでとれる土らしいが、焼いてホテルまで届けてくれるのでもなく、しばらく乾燥させないといけないので邪魔になる。
水も出なく手洗えないのでちょっと無理がある内容だったと思う。
11時50分アフラジャコ考古学博物館。ソグト人の壁画を見学するが形をとどめていないので写真を購入する。
6枚で3000スム(300円ぐらい)その裏のアフラジャブの丘に行く。
かわった植物(ラクダ草)が生えている
モンゴル人に徹底的に破壊される以前、何世紀もの間、サマルカンドの町はこの丘の上に
営々と築かれてきた。発掘調査の結果、文化の痕跡が11層の厚さで積み重なっている。
お昼の頃はもっと雨が強くなった。市内レストランで串焼き。みんな美味しそうに食べている
ヨーグルトのサラダがお気に入り。デザートはアイスクリーム。
次はサマルカンド外語大で交流会。15時に言語大学の学生と大学で待ち合わせ。
ホテルから大学は近いので、徒歩で大学に向かう。学生さんがうじゃうじゃ
2つの教室に分かれ一人一人に学生が着く。教室には日本語の書き順が描いてあった
先に現地の生徒の挨拶や質問、その後旅行者の自己紹介等をする。
私についたのは21歳のヒロラさん。まだ大学2年生であまり日本語がわからない。彼女の
祖父はタジク人なのでタジク語、ウズベク語、ロシア語、英語が堪能で日本語は少し。
日本語は難しく途中で辞めてしまう人が多い。彼女のノートには日本語の漢字がびっしり
努力に頭が下がります。うまく交流できている人もいれば、そうでない人もいました。
別の部屋の人はグループになっている。16時10分ごろ、みんなでひとつの部屋に集まり
お別れの挨拶。歌を歌ってくれました。
写真を撮りあったり、メルアド交換したりしたが、あまりコミニュケーションとれなかったので
ほんとうに何度もメールがきたら嫌だなぁと思いました。ここだけの付き合いでいいやぁ














16時30分から18時50分まで自由行動。
お部屋で休んだり、交流会の続きをホテルでした人もいたが安田さん、猪俣さん、丸山さん、酒井さん夫婦等
10人ぐらいで、雨の中、徒歩でレギスタン広場に行ってみる。今回の旅のハイライトでガイドブックにも載っている
ここは青空をバックでなければ映えないでしょう。遊歩道を通りながらホテルから20分ほどで、到着するが
雨が強いので、さすがに観光客は観光客は居ない。しばらく眺めた後、無理やり写真を撮ったりしばしうろうろ。
みやげ物の店はないのか、細井さんと小林さんがしばし代表で偵察。店を見るのにお金がかかること、警察に
話をつけなきゃいけないこと、明日も来ること考慮し、本日はもう退散することに。
スーパーで水(1.5リットル)を購入。60円ぐらい。ホテルでは400円だったらしい途中のホテルで切手を購入。
他の人もなにかとお買い物をしていた。
18時ころホテルに到着。19時レストランへ。今日はサラダ3種類とあまいお菓子。
酒井さん夫婦、ひとみさん、安田さんと同席。肉のホイル焼き、スープ。ケーキは2個食べる
夜、酒井さんから電話がありカップラーメンがあるとのこと。シーフードを頂く。スープまで完食。

5月17日(木)9時集合
チムールの生まれ故郷シャブリザブスへ。雨のち晴れ。9時ホテル出発。集合時間まで昨日の学生と交流
していた人もいました。朝食はまた安田さんとひとみさんと一緒。イチゴをたくさんとるが芋虫が入っている
の発見(げろげろ)約4時間のバスの旅。途中いろいろな動物にあう。青空トイレもここで体験
ほんとうは2時間でつくが、昨日の雨で水溜が沢山できていたことと、道路事情悪く、あなぼこたくさんで
なかなかスピードが出せない。川のようになっている個所もあった。バスは20年ものだが
アルメニア人のベテランドライバーが器用によけて通ってくれた(感謝)
12時シャブリザブスに到着。まずはティムール像の前で記念写真。その後、アクサライ宮殿へ
1380年に着工されティムール死後の1405年まで建設が続けられた建造物。アク・サライは白い宮殿の意味。
実際は青と金色のタイルで装飾された宮殿。白は高貴なという意味がある。
ジャンハギール廟コクグンハウスモスク見学











13時15分、民家が経営するレストランで食事。
この辺は食事するとこがないのでここの家は裕福かも
餃子やサモサ、肉じゃがのもてなしがあった。
この旅行で、いつもでてくるお茶は、塩が入っているウーロン茶?
14時20分、レギスタン広場に向かって出発。16時45分、到着。
レギスタンとは砂地の意味。チンギス・ハーンの来襲以後、
アフラシャブの丘から移動したサマルカンドの商業の中心地。
謁見式や罪人の処刑なども行われてきた。
ウルグベクのメドレセはレギスタン広場の西側に1420年に建て
られた神学校。当時ここは100名以上の学生が寄宿し、イスラーム
神学をはじめ、数学や哲学を学んだ。入り口のアーチには35mの高さがあり青い星をモチーフにしたタイル模様
が描かれている。北側のミナレットは少し傾いている。














ティラ・カーリーのメドレセは1660年に建てられた神学校。広場から正面にある。サマルカンドの
主要礼拝所。修復に3キログラムの金が使われた。
シェルドルのメドレセはタイル装飾。1636年に建てられた神学校。
ライオンが描かれたという意味。
次は楽器の演奏を楽しみました。
ルターは2弦で魚の皮で出来ている
女性の楽器でギターに似てる。
タンブールは4弦で男性の楽器。
三味線みたいな音色。
ハムローは桑の木と牛の骨で
11弦等いろいろな音楽を楽しむ。
その後フリータイム。私はフランス人の団体と大道芸(口から火吹く)と民族音楽を聞いていました。

他のツアーの人は、お買い物したり傾いたミナレットに登ったり、おしゃべりしたり。みんないろいろなことしてました
19時30分ホテルのロビーに集合して、バスで民家へ訪問。夕飯を食べます。他にもお客さんがきていました。
またまた、陶芸の時と同じく停電で蝋燭やランプでの食事になりました。しょっちゅう停電しては、復旧しないよう。
民家は素朴で大家族がもてなしてくれるものと勝手に想像していたがここもレストランとたいして
変わらずがっかり。このツアーは陶芸でがっかり、民家訪問でがっかり。私の想像力が間違っている?
イエメンの時と同じくソーメンが出た。肉ばかりで食べるものなかった私は、ソーメンはちょっと嬉しかった。
しょっぱかったけどね。
5月18日(金)
最終日なのに朝からお腹を壊してしまった(無念)。。。。。。。。。。。。。
8時にホテル出発。バスにてタシケントまで5時間の旅。途中青空トイレ休憩。
サマルカンドは、パンが美味しくて有名でスークでもお盆ほどの大きさのパンが売られていて
ガイドブクには日持ちすると書いてあったので購入している人がいた。今回運転手が途中の市場で
パンを買うのにバスを留めたので、便乗購入者がたくさんいて、たちまちバスはいい匂いに。
私はどうもウズベキスタンのパンは口にあわず、イランやインドのひらべったいナンや
ロシアのライ麦の黒くてすっぱいパンがお気に入り。ウズベキスタンのは弾力があり水分も
まぁまぁで塩味でちょっと胡椒がきいている。車窓から人間ウオッチングしているといろいろ気づくことがある。
ヒワなどは女性がみな民族衣装を着ていたが、首都にはいるとみんなオシャレな格好をしている。
1時にタシュケント駅近くの中華料理屋さんへ。
中国人のスタッフか?と思いきや現地の人。
ウズベキスタンには日本食料理屋と韓国料理
は一緒でまだ、中華料理ともどもあまりない。
タシュケント在住のアルメニア人ドライバーは
中華が口に合わないのか、早々と退散して
しまった。昼食後は日本人墓地観光。
いく途中で代表者数名が花屋さんでお花を買う
日本人墓地は日本人の捕虜が眠る墓地
第2次世界大戦でソ連の捕虜になった79名の
日本人が眠る。綺麗に管理されている。
日本人墓地のあとは
ウズベキスタン工芸博物館
1907年ロシア公使の私邸
を博物館にしたもの
陶器や浮き彫りなどの展示品
スザナと呼ばれる刺繍の壁掛
が展示されている。
その後、アミール・チムール広場
に向かう。希望者は1区間だけ
地下鉄体験。写真はとれない。
チムール広場で銅像前に記念撮影。
ナヴオイ・オペラ・バレエ劇場に行く。1947年に完成
1500人収容できる。6つの休憩ロビーはタシュケント、
サマルカンド、ブハラ、ホレズム、フエルガナ、テルメズ
地域のスタイルでレリーフが施されている。
この劇場は第2次世界大戦後、タシュケントに抑留されていた
旧日本兵などの捕虜に、強制労働で造らせた建物。
デイリさんは本日、自由時間を設けるため観光をさっと
にしてくれた。いつもは長い説明で1個所沢山時間
費やしてくれた。
チムールの銅像近くのスーパーで1時間の自由行動。ハンバーガーショップもある。2階は靴や洋服
1回が日本のスーパーと同じ。みんなスムを使いきる為いろいろ購入する。値段は安くはない
安田さんと丸山さんと探検する。ユーラシア旅行社は営利目的のみやげ物屋に立ち寄らない。
しかし休暇をとってきている会社員は手ぶらで帰るわけにはいかず、安いチョコレートを20個購入
安田さんはウエハウスを購入するがレジでお金が足りなくなり500スム寄付。(よかったよかった)
集合時間までまだあるので散策すると油絵市場があった。みんなとっても上手。風景画もいいがやはりモスク
を描いてある絵が目を引く。いくらかわからないが、少し欲しくなる。でもとっても邪魔になる。旅行者は断念
みんなそれぞれお買い物をし、夕食へ。生歌が流れている。ピラフの夕食。私は猪俣さんからおかゆをもらい
完食。食後空港に向かう。税関申告でお金がいくら残っているか申告するが出たところでカバンの中やサイフ
の中まで全部のぞかれた。女性だけらしい。スムの持ち出しをチエックしているのか.......嫌な気分
空港の免税店でもお酒とたばこしか売ってなくておみやげ用のチヨコレートが売っていなくて残念。
22時30分発のアシアナ574便は強風の為、遅れる。みんな深夜のせいか熟睡。機内食は焼きポテトを
チョイス。乗り継ぎに1時間30分あったはずが韓国到着9時半、飛行機は10時。またもやお土産を買えず
係員にいそがされ空港を走りアシアナ102便にすべりこみセーフ。のってまもなく離陸。あわただしい帰国。
成田には12時30分到着。13時の京成電鉄に乗り、15時スーパー日立に乗って日立へ。

ウズベキスタンは、ベストシーズンを狙うのは難しい国。5月中旬でも38度の気温や日差しが強いので
帽子だけでなく日傘や折りたたみ傘が大事。傘は青空トイレでも目隠しがわりになる。
気温差も激しく、38度の翌日は17度と寒かったりするので上着は持っていったほうがいい。
観光地でもトイレもほとんど水が流れなかったしヒワでは完全断水。トイレットペーパーも厚い紙だったり
ゴムひものように伸び縮みするので日本から丸ごと持っていったほうが無難
一番こまったのは食べ物、イランやパキスタンではなんか食べられるものがあったし、イエメンでは
肉嫌いな私にオムレツをメインにしてくれたので助かったが、今回は朝のホテル以外全部肉。
パンと水で生きていたようなもの。毎回サラダ、トマトきゅうり、あんずの種。ボルシチのもとの
ビーツの漬物、さくらんぼ、にんじんの千切り、パンは出ていた。
お金は結局40ドルしか使わなかった。ほとんどは観光地の撮影料。100円から500円ぐらい。
昼夜のお水はただなのでビールやグラスワインを飲む人は1食300円前後必要。
でも40ドルでも束でお金が来るので少しづつ両替が無難。
観光地はタイル模様や建築で似ているのもが多く写真整理に困る。予習で地球の歩き方を見るのも手

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