大ぬかり山

  武蔵村山市 役所の西、「かたくりの湯入口」の標示のある交差点を狭山丘陵側に入ります。暫く進むと、左側に武蔵村山市立民俗資料館があり、かたくりの湯の駐車場に着きます。その正面の給食センター奥に構えるのが大ぬかり山です。

近くの山からやや強引に全景を見ると下のようになります。

 左側がかっての横田村(武蔵村山市)に続き、現在は野山北公園となっています。右側からは現在の山口貯水池に下り、かっての勝楽寺村(しょうらくじむら・所沢市)に向かう径が通じていました。

 右側に見える道路は「所沢武蔵村山立川線」 で、村山貯水池と山口貯水池の間を通って、西武球場前駅、西武ドームにつながります。この話の江戸時代には、当然、ありませんで、杣径(そまみち)がかすかに連絡していたかも知れません。 

 右側の道路がやや登っていることがわかりますが、この付近が丁度、分水嶺になっていて、周辺に湿地帯が広がっていたそうで、「おおぬかり」と呼ばれていました。空堀川の源流の一つとも考えられます。そこに接する山が「大ぬかり山」でした。



江戸時代の状況を再現してみました。「大ぬかり山」は中藤村(なかとうむら・武蔵村山市)の最北に位置します。
中藤村の人々は、今は山口貯水池の湖底に沈んだ勝楽寺村の人々と
丘陵を超えて直接交流していました。

今回のテーマではありませんが、勝楽寺村と現在の日高市、飯能市との関係
飯能市に「中藤」という地名があること
などを思いおこすと、この径はなかなかの意味を持っているのかも知れません。

大ぬかり山の麓を通って勝楽寺村に通じていた径は
現在、武蔵村山市給食センターの北側に、画像のようなフエンスで仕切られて残されています。

山が殿様のものに

 さて、この大ぬかり山で、江戸時代、村人達はとんだ目に遭います。恐らく、中世までは、村人達はこの山の林を共同で、自由に 利用していたのでしょう。獣や鳥を狩り、実のなるものは食料とし、下草を刈って飼料や踏み草とし、木々からは落ち葉を集めて堆肥とし、 薪や炭の材料としていたことが伝えられます。

 それが一変しました。人々が「めえばやし=前林」とか「おくやま=奥山」とか都合のいい呼び名で親しんでいた場所が、「御林」(おはやし)になったのです。御が付くだけなら、たいしたことはなさそうですが、村人達には 黙っていられないことになりました。

 慶安2年(1649)4月のことです。江戸幕府の大目付である設楽(したら)勘左衛門他5人の役人が、中藤村の地頭・前島十左衛門と渡辺忠四郎の二人に対し、手紙を出しました。 それまで 「おおぬかり山」の利用を巡って、中藤村の領主である地頭と地元の百姓が争っていたのを裁いた通知です。大要次の通りです(原文は武蔵村山市史 資料編 近世p2)。

 『一筆申し上げる。あなた方の知行地である中藤村のうち、「おおぬかり山」の木について、去る正保二年(1645)に、実地検分して審議したが、只今まで、そのままにしていた。今度、いよいよ双方からの申し分を詮議して、地頭の山であると判決を下したので、 あなた方の知行高の割合にしたがって山を分割しなさい。 慶安2年(1649)4月14日』

 というものです。村人達は山を取り上げられてしまいました。自由に入れなくなったばかりでなく、 大げさに言えば、農民の「共同使用地」が「旗本知行地」になって、「殿様のもの」になりました。狭山丘陵の林に 特定の人の権利が付きました。散歩していて、いつも気になっているのが、狭山丘陵に所有権が付いたのはいつのことなのかということです。

 この裁きを知って、疑問の解決に一歩近づいたように思えます。前島氏や渡辺氏 は、この土地を去るとき、蔵米(くらまい)とか代替の場所を貰って領地を幕府に返していますから、所有権ではないでしょうが、何らかの権利が発生したことは確かなようです。

 前島氏や渡辺氏のような家康の家臣である地頭がこの地に入ったのは天正19年(1591)です。それから50余年後、 ついに狭山丘陵は誰かの持ち物となったようです。

 ついでに、狭山丘陵には、この他、幕府が直接に管理する林がありました。これらを「御林」「御料林」といいました。ちなみに「大ぬかり山」も、前島十左衛門が寛文8年(1668)、渡辺忠四郎 が明暦元年(1655)に、それぞれ領主でなくなり、幕府に土地を返還しています。以後、幕府領となり、幕府直轄の「御料林」となっています。

 農民にとっては、林の下草を刈り取って、馬の飼料や、馬に踏ませて肥料とすること、日常生活の薪や炭の材料とすることは生活上の必需でした。それが出来なくなったことには相当の抵抗があったものと思われます。前島氏 は寛文8年(1668)、知行を蔵米に替えて中藤村から離れますが、武蔵村山市史は「・・・村の抵抗があったためかもしれない。」(通史編上p728)としています。

林の松は中野の犬小屋で薪になった

 さて、「おおぬかり山」でもう一つ面白いことがあります。ここには松の木が植えられていました。なんと、その松の木が中野の犬小屋で薪に使われていました。

 生類憐れみの令で有名な五代将軍綱吉は犬を大事にして、江戸中の犬を集めて養育しました。 そのため、新宿や中野、四谷、喜多見(世田谷)などに大きな犬小屋を造りました。この問題に詳しい大館右喜氏は次のように紹介します。

 『中野の犬小屋は元禄八年一一月一三日より、敷地一六万坪に及ぶ規模で犬の収容に当ったが、即日で一〇万頭が運びこまれたといわれている。一説にこれらの犬に供する食料が、元禄八年一二月、一日米三百三〇石・味噌一〇樽・干鰯一〇俵・薪五六束に及ぶ有様であった。府内外の農民・町人の負担が倍加するのも当然の成行きであったろう。』(所沢市史研究第3号p139)

 大ぬかり山の松が、この中野の犬小屋の薪になっていました。

(1)「正徳元年(1711)七月 中藤村御林差出帳」が武蔵村山市の旧家に残されています。そこに大ぬかり山の木が松で1万8千本あることが記されて、付記として「拾四年前 中野犬こや御用薪に御払あそばされ・・・」と記されています。

(2)「正徳六年(1718)四月 中藤村御林改帳」では大ぬかりの「松御林」として具体的に
  面積が七町三畝五歩 木の数5273本で内訳は
 
      松 2150本 長さ1間半〜2間まで  太さ1尺〜1尺4・5寸(目の高さで)
      松 1856本 長さ1間〜1間半まで    7寸〜5・6寸
      松 1267本 長さ1間〜1間2尺まで   4寸〜2・3寸

  としています。長さが、長くても3メートル60センチで、太さが30センチから40センチの低木であることがわかります。 細いものは6センチから13センチ足らずのものがあります。この理由を

  元禄12年(1699)、13年(1700)に中野犬小屋に御薪として、浅草の瓦屋利右衛門方の御払いで伐ったことによると説明しています。

 農民から取り上げた林の松の木が、犬小屋の薪になっては、伐り出す農民もさぞ腹が立ったことだろうと思います。浅草の商人が介在していることも気になります。この当時は幕府直轄の御料林になっていますから、商品に転化する過程を知りたいものです。

 また、運搬の経路が書かれていて

 中藤御林より玉川柴崎岸まで2里半
 柴崎より江戸鉄砲津まで10里

 とあります。立川の柴崎町まで馬にひかせたのでしょうか?玉川=多摩川から筏を組んだのでしょうか?
 多摩川から鉄砲津=鉄砲洲(中央区)まではどのようにして運んだのでしょう。?
 中野であれば、青梅街道を陸路で運んだ方がより効率的なのに、なぜ、鉄砲洲まで運んだのでしょう?

 疑問だらけですが、中野の犬小屋はすぐ満杯になり、今度は溢れた犬を多摩・入間の農民が預かることになります。その経緯と綱吉が亡くなったあとの仰天する後始末は生類憐みと村の悲劇にまとめました。

林は切り開かれた

 やがて、この林は切り開かれて開発されます。宝暦11年(1761)のことです。武蔵村山市三ツ木の旧家に、伐り払いの願いをした文書が残されています。

 「宝暦十一年九月 三ツ木村・芋窪村・横田村御林伐払願」です。この3つの村の名主、惣百姓がそろって次のことを関東郡代・伊奈半左衛門に願い出ました。その云い分に、当時の村人達の苦渋と同時に、問題の振りのうまさ 、たくましさが浮き彫りにされて、驚きです。長くなりますので、箇条書きにします。

 拙者どもの村々の林は、近年イノシシや鹿が多く籠もり、昼夜へだてなく田畑の作物を食い荒らしている。
 昼夜に限らず百姓どもが見回って防いでいるが、尾州様の御鷹場のため鉄砲で撃つことができない。
 御林の近所は申すに及ばず、その他の田畑が殊の外荒らされ、村では年ごとに困窮し、難儀している。

 このような書き出しで

 その原因は、近くの「直竹山」「宮寺郷の内谷寺村」の林、「私領である地頭様」の林が伐採になり、
 跡地の開発が進められたことによる
 夥しくイノシシや鹿が籠もり居るのを防ぐことは、我々の村の百姓の手段に及ばず、はなわだ迷惑

 よってお願いすることは

 三ツ木村・芋窪村・横田村の御林の雑木は節が曲がり立ち枯れ同然である
 ことに、材木を出す津(河岸場)が悪く、御用木に伐り出す命令もない
 だから、御林を伐り払いしてもらいたい。

とします。その後の顛末は明らかではありませんが、許可があって、伐採されました。

切り開く条件と個人所有

 ご丁寧に上記の文書は、切り開いた跡のことを、次のように約束しています。

 伐った木は材木、板類にはなりがたい、河岸場が悪く運送の過程で「失却」が多い
 だから、過半数を鍛冶や炭、薪にして、冥加金を上納する
 跡地は三年間は年貢なし、地代を差し上げる
 三年後には検地をしていただき、土地相応の年貢を納める

とします。その後の顛末は明らかでありませんが、許可されて、ついに、御林の一部が個人所有になったようです。

 「大勢の百姓あい助かり、大変なお救いとなり、有り難く幸せ・・・」です。

と結んでいますが、農民のたくましさを実感します。こうして、気になっていた狭山丘陵の所有権は農民に渡ったようです。意外に身近に、興味ひく歴史が転がっていますが、 何処か一つでも、史跡指定をして、その跡を留めて欲しいものです。

 残された大ぬかり山は、緑に埋まっています、しかし、松の木を見るのは難しくなりました。
(2006.07.29.記)

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