玉川上水通船

この玉川上水に船が浮かんだことがありました。


(東京都小平市西中島橋付近)

明治3年4月15日のことです。舟には荷物や人が乗って
青梅から多摩川を下り、羽村の堰を通って、四谷大木戸(新宿)まで1日がかりでした。
帰りは、舟に綱をつけて、船子が上水の両側の堤の上から引っ張っりました。

経営者は村の名主や有力者でした。
元文二年(1737)からその動きは始まりました。
甲州や 多摩の農村と江戸市中の生活物資供給のルートになるのでは?とも思われましたが
上水の汚濁が問題になって、明治5年5月30日、通船は終わりになりました。

再会運動が続けられましたが、いずれも拒否されました。
しかし、それが廻りに巡って、甲武馬車鉄道〜甲武鉄道〜JR・中央線につながっています。
西武蔵野でおきた、江戸時代末から明治初年にかけての話です。

玉川上水通船〜JR・中央線へ

 18世紀の初め、江戸市中には人口があふれましたが、武蔵野には人もまばらで(もちろん鉄道もビルも団地もなく)、西部方面では、丘陵の麓や街道筋以外は一面の新田と原野(一部森林)で覆われていました。その中を江戸への主要な交通路として甲州道中(街道)、青梅道(街道)、五日市道(街道)が通っていました。また、貴重な上水の供給ルートとして玉川上水の水路が両側に雑木林や桜並木を養いながら帯のように江戸と武蔵野西部を結んでいました。

 江戸市中の生活物資の需要は過熱気味で、周辺の村々からの人と馬と大八車による輸送手段では追いつきませんでした。また、街道筋の宿駅に整備された問屋や伝馬から、それぞれの権益の主張がされて、何やかやの取り立てが行われました。これらが経費を嵩ませる元ともなって運送料が次第に高値を付けてきました。一方で送りきれない生鮮食料は市(いち)や生産地で滞留して腐敗する状況にもなりました。

 こうなると、陸上より舟による運送の方がはるかに安価なことがはっきりしてきて、物流は街道から河川へと変わろうとしていました。川のない武蔵野では困りました。元気のある江戸の商人が、玉川上水の近くに新たな掘り割りを設けて多摩川から水を取り入れて、舟運を開設する計画をたてて運動を起こしました。しかし、これには関連する地域の農民が、農業に支障が出ると大反対をして、実現しませんでした。

 武蔵野で力を蓄えた面々は、この計画とその結末に目を向けて、別のことを考え出しました。玉川上水そのものを利用して舟運を開くことです。しかし、幕府は許可しません。100年近く、挫折が繰り返されました。

 武蔵野の実力者は、時の政権が乗りやすいような方法を編み出して、事業の成果が幕府財政に寄与するような目論見を出しました。事業を行う→江戸市民の需要が満たされる→幕府への税金が増える・・・との申し出でです。

 たいしたもので、いつの間にか、幕末までには、幕府役人の現地確認が行われるようになりました。そうこうしている内に、黒船が羽田沖に現れ、尊皇攘夷、御一新が叫ばれます。やがて、維新の組織変更を迎えると、そのどさくさに紛れたのでしょうか、ついに、玉川上水利用の舟運が実現しました。明治3年4月15日のことです。

 歴史用語では「玉川上水通船」と呼ばれます。当然、反対もあり、石や土塊が投げつけられたりしましたが、事業が繁盛した時には、舟の折り返し地である「新宿」界隈の盛り場は、一時、船頭が大もてになったとされます。しかし、飲料水の水源である用水を利用しての事業です。間もなく水質汚濁の問題が指摘され、明治5年5月30日、廃止されました。約2年1ヶ月の運行でした。

 それからが武蔵野土着の面々の力の発揮どころでした。10数年間、再開運動が続けられました。その過程で、「舟運」は廻り巡って、玉川上水の縁を走る「馬車鉄道計画」になりました。しかし、これも時代の速度に合いません。

 今度は本物の資本がバックアップして、「馬車」が「陸蒸気」(おかじょうき)を産みました。上水の縁の曲がりくねった馬車軌道は鉄路と変わります。それならば、もっと効率の良い場所に鉄道は敷かれるべきだと、玉川上水を離れて武蔵野の別の位置に移りました。

 そこを走ったのが「甲武鉄道」(こうぶてつどう)でした。こうして現在のJR・中央線になりましたが、その過程は、武蔵野の歴史の面白さを堪能するのに十分です。そこで

  「玉川上水通船」
  「馬車鉄道計画」
  「甲武鉄道」

の三つに分けて、その跡をたどりたいと思います。



印が玉川上水のルートです。
多摩川の水を羽村に堰を設けて取り入れ、狭山丘陵の南、小川村で野火止用水に分水し、
内藤新宿を経て四谷大木戸に達し、江戸市中に配水されました。
ここに船を浮かべて、物と人を運ぶのが通船でした。

この通船が駄目になると、そのルートに馬車鉄道を走らせる計画が持ち上がりました。
然し、それは非効率であり、更に広域の交通路に転化して、現在のJR・中央線になったというお話です。
少々話がくどくなりますので、お許し下さい。とりあえず、ここで区切っておきます。

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T 通船のため、新しく堀をつくる計画

 八代将軍吉宗の頃です。玉川上水に舟を通す計画の前に、玉川上水に沿って新しく掘り割りを行い、そこに、舟運を開こうとする計画がありました。福生市史は、福生市の名家に伝わる「玉川通船新堀につき相対証文」という貴重な資料をもとに、次のようにその計画の顛末を伝えます。

 『元文二年(1737)江戸の商人五嶋屋次郎右衛門、熊沢屋市郎兵衛らは、玉川上水の南側に一七間(三〇メートル)離れて、新たに福生を取水口とする運河を掘り、物資の船による流通を計画した。「玉川通船新堀につき相対証文」(『石川酒造文書一』)によると、元文四年一二月、五嶋屋、熊沢屋たちは熊川村名主七之丞と、次のような内容のとりきめをしている。

 一このたび福生村から江戸芝新堀まで通船運河を計画し幕府へ出願した。これが認可されたときは、沿岸
   村々と取りかわした合意事項は必ず守ること
 一水路にかかわる年貢諸経費は、すべて出願者側の負担とする
 一水路筋にかかる農耕地、地代金はその土地の相場をもって、着工以前に支払うこと。家屋移転、建築費
   はすべて着工前に支払うこと。立木道路橋の修理もすべて出願人の負担とする

 この運河計画に関する石川彌八郎家の資料は、この一通のみであるが、伊藤好一は『江戸と周辺農村』の中で、この通船計画について、次のように述べている。

  この通船新堀の開掘計画は、上水沿岸の村々から、次の二つの点で反対を受けたと云われる。第一は新堀筋の農業に支障が生ずるという点であり、第二は通船の開始によって、この方面の陸運の荷が奪われることを危惧する点であった。このため願人達は村方との折衝でいくつかの譲歩案を出すが、結局は在方の反対は続き、この通船計画は実現を見ないで消えていった。』(福生市史 下p283)

 また、「小平市三○年史」では、「元文三年(1738)江戸町民の泉屋平八らによって通船のための新堀計画があって、「小金井市史V」によれば、野中新田、貫井村、下小金井村、梶野新田の四か村が同意している」(p99)としています。

 元文2年(1737)というと、武蔵野の村々では、地元の生産品である「野菜」「薪」「炭」「木綿織」「栗や柿」などを馬の背に乗せて江戸市中に運んで、出入りの武家屋敷に売り渡し、肥料(干鰯、油かすなど)や生活用品を買う代金とすることが浸透し始めた頃です。

 これは、幕府による商工業は原則禁止の政策の中で行われた、生産者による直接販売で、「農間稼」(のうまかせぎ・のうかんかせぎ・農間渡世)と呼ばれました。狭山丘陵南麓の村(東大和市)の例では、名主が主導して、村方役人が一団のグループを作って、五日市(東京都五日市町)で薪炭の買い付けをして、それを馬に乗せ、青梅街道を赤坂方面まで往復している例があります。明治まで続けられています。

 生産者による直接販売は、江戸市中の問屋や小売業者と競合することになりますから、様々に問題が引き起こされます。天明2年(1782)には、武蔵野から江戸への入り口である内藤新宿の名主と荷駄を運ぶ口銭の支払いをめぐって争いが起こりました。内藤新宿を経由する者は馬1匹について銭2文を払えとするものです。

 これでは、農民は稼ぎになりませんので、訴訟になりました。11月になって、農民が自分で生産したものを自分で運ぶ場合(自分稼)には口銭を支払わなくてもよしとする契約が成り立っています。さて、通船新堀の開掘計画はこの契約が成立する約50年前ですから、まだ「農間稼」の初期にあたります。その時、早くも陸送より河川運送に手を出そうとするのは、さすがに江戸の商人で、目の付け所が違います。

U 第一回玉川上水への通船計画

 玉川上水沿いに新堀を掘って通船しようとした計画は実現しませんでした。しかし、この動きをじっと見ていたのでしょう、小川村の名主東ばん(石+番=とうばん)が、玉川上水それ自体を船運に利用しようとする計画をたてました。明和7年(1770)のことです。

代々、名主を引き継いだ小川家の玄関棟が
「小平市ふるさと村」に移築、復元されています。

 小川村(現・小平市)の小川家に伝えられる「玉川上水通船目論見帳」(小川家文書)によってその内容がわかります。「小平市三○年史」から要約します。

 『船数二〇隻で幅六尺から七尺、長さ六間から七間 一隻につき米五〇俵(一七石五斗)
 積み荷 馬二五駄分
 通行は月六回(五日で一往復) 航行区間は小川村ー四ツ谷大木戸・内藤新宿天龍寺近所

 ・・・船積荷物が具体的に示されていて、下り船で積出す荷物は山方の林産物と、近在の村々で生産された穀物や野菜などの農産物で、そのほかに織物やたばこ・そうめんといった特産物も挙げられている。

 また上り船では主に日用品と食品が運ばれる予定で、米糠などの肥料や布糸類も挙げられている。江戸近郷の経済発展による商品流通が相当盛んになってきていることが推察できる。これらの商品を大量に運べば大きな商売ができたと思われるが、計画の認可が下りずに東ばん(石+番=とうばん)の宿願は日の目を見ることはできなかった。』(小平市三○年史 p98)

 また、福生市史では『東ばんの計画では、この通船業は小川一族のものより人を選んで、これらの人々に永々通船業を独占させることを考えており、他より船持、または河岸を出願しても許可しないようにして欲しいと併せて出願している。東ばんの出願は結局許可されずこのときの玉川上水通船計画も実現しなかった。』(福生市史 下p284)

 としています。東ばんは、なかなかのやり手で、通船計画に先立って、元文4年(1739)には、鈴木新田の名主・利左衛門とともに「市場取立願」を出して許可されています。小川村で、地元の穀物を扱うことを目的としていましたが、あまり振るわなかったらしく、天保3年(1832)には廃止しました。いずれにせよ、1700年代初めには、武蔵野に貨幣経済が浸透しており、これらの動きを背景に玉川上水への通船計画が進められたことがわかります。

V 第二回玉川上水への通船計画

 小川村の名主の計画は実現しませんでしたが、それから約100年後の慶応3年(1867)10月、今度はもう一つ上流に位置する砂川村(現・立川市)の名主・源五右衛門が玉川上水への通船計画をたて、運上目論見書を 幕府の御普請方出役に提出して通船の願い出をしました。


(砂川村の名主をつとめた砂川家 立川市砂川町)

 運上目論見書の概要と経過は立川市史によれば
 
 『・・・・、船の大きさは敷幅四尺長五間半、上り下り共荷物一〇駄積、人足下り三人、上り九人(三人掛り日数三日)として「船数百艘にて壱月六度宛上下之積り」で、壱ケ年運上金一八○○両、砂利一三三坪三合を納めることとしている。この通船目論見が幕末の政治的動乱とは無関係に、物資輸送という全く経済的動機から出されたものであるかどうかは不明であるが、当時の政治情勢から日の目を見ることはなかったと思われる。』(下巻 p752)

 として、この事業が成立しなかったことを伝えます。しかし、福生市史は田村家の「丁卯日記」の記録から、次のように、幕府側の事前調査があって、実現間近の段階にあった様子を伝えています。

 『慶応三年九月二六日の条では「上水御試筏川下げにつき柳沢弥作様、山口清五郎様御立寄り」同二八日「十兵衛羽村へ行き、筏に乗り山口清五郎様、柳沢弥作様、茂十郎、源兵衛、与一右衛門、八十吉同道、宅裏まで乗り参り、岩次郎乗り替え砂川まで行く」同二九日「またぞろ筏にて御乗り下げ、堀通り御見分これあり候」と記されている。

 試筏の運行による堀筋の見分とは、玉川上水通船のための、幕府側の事前調査ともみられるので、源五右衛門らの目論見書の提出は、当時の行政側の意向を体したものと考えられる。「東京市史稿」によれば、明治三年二月付の、清水大令史から出された「玉川上水堀筋両岸切広見込書」の中で、「先年筏下げ試しの節、堀幅切広、出洲俊之節入用半高村々へ下げ遣わし」と記しているので、さきの試筏の運行による堀筋の調査が、玉川上水通船開始のための、役所側の諸準備の一環であったことを示している。 』 (福生市史下 p285〜286)

 実質的には、この時期に、上水通船は許可の段階にあり、丁度、明治維新に重なったため数年の遅れとなって実現したものと思われます。

W 玉川上水への通船

 このように、玉川上水通船は幕末に実施寸前まで詰められて、明治維新を迎えました。三度目の正直とばかり、明治2年9月、周辺の三村が共同して、砂川村名主・源五右衛門、福生村名主・半十郎、羽村村名主・源兵衛の3人揃い踏みで、「玉川上水船筏通行願」を新政府に提出しました。この背景には、すでに徳川政権時代に幕府役人の現地確認が 済んでおり、地付きの実力者たちは力をためて、時期を見計らっていたと思えます。

 「玉川上水船筏通行願」を見ると、当時の武蔵野の姿がよく浮かび出ています。それとともに、甲州との関係や輸送料の問題をあげて、玉川上水の通船が「国益」にかなうことを主張 していて、なかなかのものがあります。原文は「立川市史」に掲載されていますが、読み下してはあるものの現代文ではないので、主要な部分を拙いですが訳出してみます。

 『恐れながら書付をもって願い上げます。
 玉川上水元 武州多摩郡羽村名主・源兵衛、砂川村名主・源五右衛門、福生村名主・半十郎

 玉川御上水は羽村から堰を設けて取り入れ、武蔵野の中央を13里ほど流通して東京へ達します。両縁(流域)10里四方の村々は古の武蔵野で、薄地軽土(痩土)であることから、糠、藁灰などを大量に用いないと、雑穀はもちろん野菜に至るまで一切生育しません。

 このため、糠、藁灰などはすべて東京から小荷駄で運んでおります。また、水源の甲州境の山中では、耕地とするところはなく、杉や檜、薪炭などを東京に出して生活の糧としています。ところが、舟や筏の通行がなく、駄馬に頼っています。そのため、生産品も高値になり、年々疲弊して来ています。加えて、近ごろは駄賃が格別に引き上げられて、ますます難渋しています。

 これらのことから、玉川上水通船を許可してくだされば、武蔵野の村々は輸送の労を免れ、御府内(東京市中)の物価は安定し、甲州、信濃まで影響が莫大で御国益にかなうと思われます。ついては、
河岸場、造船、堀内の浚渫・修復、切り広げなどについて、御上水関係の村々へ差し支えないと仰せ渡してくだされば、皆で集まって、私論を省き、御国益第一に致しますので、通船を許可してくださるようにお願いいたします。

 覚
 一 船数 およそ100艘 巾5尺 長さ4間 一艘につき税金10両づつ
   合計1,000両
 四谷大木戸より芝金杉橋まで
 一 舟数 およそ30艘 上記と同じ
   税金 300両
 筏3000枚 1枚につき 金2分づつ
   年間税金1500両
 合計毎年2800両を上納いたします。』(立川市史・下 p753〜754)

 とするものです。さすがに税の見込みをしてあるだけに、当局も願いに応じたようで、東京市史稿に「四月十五日、玉川上水羽村大木戸間に通船を開始す」とあることをもって、この日から許可されたものとしています。立川市史では

 『請願者らは、恐らくこの願書を提出すると同時に、砂川源五右衛門が知遇を得ていた三条実美・江藤新平等政府高官にも直接とりなしを頼んだことであろう。玉川上水通船の儀は政府においても検討の段階に入った。』(立川市史 下 p755)

 と政治力を働かせたことを推測しています。当時の多摩の在地の勢力者・砂川村名主の砂川源五右衛門が、明治新政府の実力者である三条実美や江藤新平などに接触をするまでに力を付けていることに注目です。

 明治3年4月15日の許可は通船の試しのようなものであったらしく、実際に通船の免許が下りたのは5月28日とされます。そして、現場では許可が下りると直ちに通船開始の準備に入ります。

(1)通船開始の準備

 通船のための準備がいつから行われたのか、はっきりしませんが、幕末に実施寸前まで詰められていただけに、地元の人たちのやることには実に鮮やかなものがあります。
 明治2年9月「玉川上水船筏通行願」提出
 明治2年10月、上水両縁の切り広げ工事調査 
 明治3年3月22日、舟溜の設置許可
 という経過で進んでいます。どのような準備をしたのでしょうか?

 通船は往=下り(羽村から四谷大木戸)は上水の自然水流に乗って、復=登り(四谷大木戸から羽村)は二人の船子が舟に綱を付けて上水の両縁の堤の上から引っ張りあげる、いわゆる「曳舟」で行われました。このため通船開始にあたっては、上水の狭い部分の切り広げ、竹木の伐採、橋の嵩上げ、船溜場(ふなだまりば)、曳舟の足場などの整備が必要でした。 

立川市の史跡に「巴河岸」(ともえかし)がありますが
ここに云う、船溜場(ふなだまりば)の跡で、現況ではこのような状況になっています。
通船廃止によって埋め戻された結果です。

曳舟のため船子が苦労したであろう「足場」は散歩道として親しまれています。

 上水両縁の切り広げ工事は、24カ所が必要であるとの調査結果があり、早くも明治2年10月には行われたようです。面白いのは羽村から小川村までは巾が2間以上であったのに、小川村から高井戸の大六天橋までは9尺でした。そのため3尺(約90センチ)の切り広げが必要でした。工事は明治3年3月11日から5日間、玉川上水を水留めにして実施しています。その間の飲み水はどのようにしたのでしょうか?

 上水に架る橋は、舟の走りと曳舟のため、平水面から五尺(約160センチメートル)の嵩上げ(かさあげ)が全水路にわたって必要でした。明治3年3月22日には、舟溜の設置許可が下りていますから、それまでに実施されたものと思われます。

 さらに、通船は玉川上水だけでなく、明治4年6月に、小河内村から羽村までの多摩川が許可となりました。青梅村は

  多摩川→羽村水門→内藤新宿

 の直通便を申請し許可を得ています。これに青梅から乗った江戸の学者は弁当を舟の上で食べた旅行記を残しています。

現在の水門からは、多摩川からどのようにして上水へと船を導いたのか想像しかねます。
画像上が多摩川になります。

(2)経費の負担

 通船開始に必要な経費と負担ですが、事業者は税を負担し、政府が費用を負担する方法がとられたようです。ただ、様々な「冥加金」(みょうがきん)負担の話題が出ていますから、事業者は必要な都度何らかの負担を強いられてことも考えられます。

 例えば、狭山丘陵南麓の蔵敷村では、1年間で事業から撤退しています。その理由は定かではありませんが、事業がペイしなかったことも考えられます。公費負担の実際例としては、福生市史が次のように伝えています。

 『「玉川上水橋々普請入用帳」(田村半十郎家文書)によると、福生村では、玉川上水のすべての橋の嵩あげに、金一六両一分二朱を計上している。こうした工事の費用はどのような分担になっていたのであろうか。

 さきの「通船一件」によると、明治三年四月一四日内藤新宿名主喜一郎から出された書類によると、通船に障害があるとして改修を命ぜられた悪水吐用の石樋の移築費用として、総経費の八割、五〇両三分銀一匁を公費から支給されているところから、通船のための上水橋の改修費用も、相当部分が公費負担されたものと考えられる。』(福生市史 下p286)

(3)どこの村が参加したか

 非常に興味を惹くところですが、明治3年9月の状況を「玉川上水通船ノート(2) たましん地域文化財団」で梅田定宏氏が紹介されています。それによれば

 上直竹(現・埼玉県飯能市)、川辺、新町、千ヶ瀬、友田、羽村、下草花、五ノ神、川崎、福生、箱根ヶ崎、
 熊川、蔵敷、砂川、小川、小川新田、野中新田、鈴木新田、廻田新田、境新田、角筈

 の各村(「玉川上水通船ノート(2)たましん地域文化財団」p11)で、玉川上水を遠く離れた上直竹(埼玉県)や箱根ヶ崎、蔵敷など狭山丘陵の麓の村が参加しています。

舟数の推移は

  明治3年5月6艘、6月18艘、8月3艘、9月21艘、10月5艘

 で、計53艘とされます。(多摩百年史研究会編著 東京都市町村自治調査会 p40)また、明治4年10月28日現在の様子は立川市史p761に持ち船の数と共に、次のように記されています。

 青梅名主 5 川辺名主 1 新町名主 1 千ヶ瀬名主 2 友田組頭 1 羽村名主 14
 川崎名主 3 福生名主 18 熊川名主 5 拝島村舟持惣代百姓 3 宮沢新田年寄 3
 砂川名主 22 小川組頭10 小川新田組頭 1 野中新田舟持惣代百姓 2
 廻田新田名主 3 鈴木新田舟持惣代百姓 2 梶野新田舟持惣代百姓 1
 境新田舟持惣代百姓 3 連雀村舟持惣代百姓 2 吉祥寺村舟持惣代百姓 2

 で、稼動総数は104艘、村に入れ替わりがあることがわかります。圧倒的に多いのが

  羽村名主 14 福生名主 18 砂川名主 22

 で、願い出た実績が反映しています。ただ、福生市史が面白い実話を乗せていて、必ずしも表面だけでとらえては間違うこともありそうです。

 『石川彌八郎家の日記、明治三年二月一三日の条に「昨十二日羽村より集会ふれ参り候につき、三郎左衛門を遣し候ところ、御上水へ通船出来に相成り候趣、昨年中御達これあり候処、尚又今般のぞみの者出願すべき旨仰せ渡され、もつとも年々運上の儀、船壱艘につき金十両ツツさし出すべき旨仰せ渡され候よし、羽村役人より相談これあり候趣、よんどころなく当方も壱艘お受け仕り候」とあり、有力者の中には、不本意ながらも船主に名前を載せていた者がいたことを示している。このような事実からも通船開業を直前にひかえて、上水通船の申請人に名を連ねた人たちは、一〇〇艘の予定船数を満たすために奔走していた様子が偲ばれるのである。』(福生市史 下p288)

 この記事からすると、「よんどころなく当方も壱艘お受け仕り候」と消極的な参加もあったようで、蔵敷村が1年で撤退していることからも、事業の採算には地域性というか、商品化できた余剰農産物の品種や生産高にも関係がありそうです。

村のおおよその位置を示す概念図です。
印が玉川上水です。関わった村は最初から、明治4年までを入れました。
途中で、入れ替わりがあります。その状況は

・明治3年9月時点での免許を得た村
・明治3年6月28日までに実際に通船する鑑札を得た村
・ 明治4年10月現在に鑑札を得た村

の図が、たましん地域文化財団発行の 「玉川上水通船ノート(2)」p11〜13にあります。
新田の村々が積極的に参加していますが、その理由はじっくり考えたいところです。

(4)通船への妨害

 通船事業参加の村を見ましたが、結構この事業に反対の村もありました。東京市史稿を引用して、福生市史は次のように伝えます。

 『通船業とは直接かかわりの薄い下流部の、高井戸・笹塚辺の人々の中には「この船ゆえに迷惑いたし」と、船運に反感を抱く気配があった。『東京市史稿』によると、「当五月二十二、三日小川村地内合樋分水新堀掘割村々人足のうち、塊(つちくれ)をもつて投げつけ、上高井戸地内にて百姓躰の男、小石をもつて投込み逃げ去り、梶野新田地内にて夜半頃何者に候哉石投げ込み、角筈村通りにて見物の者共、此船ゆえに迷惑いたし候間、戸田屋敷ドンドンにて打毀せ度など、そのほか口々悪口申つのり候ものこれあり」といった妨害が相ついだといわれている。』(福生市史 下p288)

 このため船主たちは、「御用」と印した幟を船一艘ごとに押し立てて運航したい旨を願い出ていますが、さすがに政府は応じませんでした。

(5)何を運んだか

  船は八王子の市の日(4日と8日)の翌日、5日と9日で、月6回と定められていました。ここからも想像がつきますが、八王子の市と直結していて、その市で扱われたものが東京まで運ばれています。 また、甲州からの品物も甲州街道と共に玉川上水の舟運で運ばれたようです。

 実際に何を運んだのかは、羽村市郷土博物館に、「上水を利用した運搬 玉川上水で運んだもの」として絵入りで品目が展示されています。それによれば

  大麦、小麦、蕎麦、粟、ヒエ、大根、ゴボウ、蕪菜(かぶらな)、里芋、真桑瓜、茶、糸、紙、炭、
  酒、たばこ、ブドウ

 が運ばれています。甲州からは「多摩のあゆみ4号」p18で立川愛雄氏が

 『甲州から東京への移出品(煙草・茶葉・ブドウ・繭蚕糸・木綿・篠巻・紙・柏木皮・足袋底など)が、時間的に有利な玉川上水の通船一を利用したのであった。』

 と紹介されています。この他、砂利や薪などがあったと考えられます。埼玉県の上直竹村は「石灰」を予定していました。帰路は塩や塩魚を運んだようです。

X 通船事業の廃止と再開願い

(1)通船の廃止

 通船を開始してから2年を経過して、玉川上水の汚濁が目につき始めました。丁度、新政府の組織変更が進み、水道行政は国から東京府に移ろうとしていました。東京府は水質検査を行います。その結果、明治5年3月24日、「百般の不潔は、もっぱら通船より相生じ候儀につき、通船差止め申さずして、ほかに改正の見込み絶てこれなく侯」と上水通船差し止め方を、大蔵省土木寮に進言しています。

 大蔵省は一ヶ月も間を置かず、4月15日、大蔵大輔井上馨の名をもって、「玉川上水通船相開き候以来、追々船数相増し、自然不潔にいたり、東京府下用水さしつかえにおよび候につき、来る五月晦日限り上水路通船さし止め侯条船持共へ洩らさざるよう相達すべく候」と通船の停止を発表しました。

 これには、事業に関わった人々はびっくりしたと思います。2年1ヶ月の期間ですが、もとの陸運に戻るには周囲は許さず、田畑や牛馬を資金に替えて従事した場合には、投資分が回収されたかどうかも不明です。死活問題を抱えて、様々な運動が水面下で展開されたでしょうが、5月30日をもって廃止されました。

(2)再開願い

 船持たちは通知を受けて二ヶ月後、明治5年6月14日には「通船再興願」を出します。それは、『自費をもって玉川上水の砂川から牟礼(三鷹市)までの四里の間に、さらに一本の堀を開削して神田川に直結し、船運専用の水路として上水の汚濁を防ごうとする計画』(福生市史)でした。

 この願い出は、武州多摩郡の次の村々の連名で行われています。
 青梅村 千ヶ瀬村 友田村 川辺村 羽村 川崎村 福生村 熊川村 拝島村 宮沢新田
 砂川村 小金井 小川村 鈴木 小川新田 境 廻り田新田 梶野 野中新田 連雀・吉祥寺
 
 『田畑牛馬をもって通船開業の費用に換えて営業をしてきました。差し止めになったからと云って、舟持ち共は舟または納屋を売り捌いて、元の田畑牛馬に換えようとしてもできません。土地柄はかっての倍に疲弊し、この春まで、畑は1反歩10両内外の売買でありましたが、通船差し止め後は、2〜3両に下落し、買う人もありません・・・。』と苦痛を訴えていますが、認められませんでした。
立川市史はこの願書の特徴として

 @通船業者が通船禁止より生ずる経済的損失とその影響を訴え(船・納屋の売却、農業復帰に必要な田畑
   牛馬の購入、土地価格の下落、甲信両州の物産の輸送手段の喪失)、
 A請願者の自弁により新用水路を開鑿して旧水路は通船用に利用し、
 B通船は羽村から牛込船河原橋まで営業する、
 C万一不許可の場合には、別に田無村から出願している石神井川筋でもよいから東京への輸送ルートを確
   保したい等である。(立川市史 下p776)

 としています。何より自弁でも事業をしたいと主張するところに、追い込まれた当時の声が聞こえてきます。その後も、明治5年から8年までの毎年、明治13年、16年と続けられましたが、いずれも却下されています。そして、この事業は思わぬ方向に展開するのでした。

(3)甲武馬車鉄道へ

 最後の再開運動を続けていた明治16年、玉川上水の通船にヒントを得たのか、銀座の住人滝沢久武と服部九一が玉川上水の通船ルートに沿って、新宿〜羽村間に馬車鉄道をひく計画を打ち上げました。
 
 玉川上水の通船を進めた面々は新たな展開に愁眉を開いた思いであったろうことが推測できます。ページを改めます。(2005.04.15.記)

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