武蔵国分寺伏屋

武蔵国分寺跡の北側に
9世紀中頃(平安時代)といわれる庶民の住宅が発見されました。

作り方が、これまでの発見例とは違って
柱や梁(はり)や桁(けた)がなく
「伏屋式(ふせやしき)
と推定されています。

併せて
「村の鍛冶屋」
と考えられる工房跡も見つかりました。

2000年3月5日、国分寺市による懇切・丁寧な遺跡見学会があり、その聞きかじりです。

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遺跡は、一番上(北)の道路(多喜窪街道)
と中央に見える現国分寺の間にある。

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北側道路付近からの遺跡の全景
この後方に、現国分寺、武蔵国分寺跡がある。

1 伏屋

 
なんとしても興味をひくのは、発見された住居跡です。平安時代の竪穴住居跡が約38軒、掘建柱建物跡が17棟、墓地跡3ヶ所など、様々なものが発掘されていますが、その中で、柱穴のない、焼けた住居跡が発見されました。

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「伏屋」と考えられる焼失家屋の全景

 東西3.3メートル、南北3メートルのほぼ四角い住居で、東側の壁際に「カマド」がつくられていました。画像では上に見えます。木材が炭になって住居の真ん中に集まるように(放射状に)焼け落ちています。

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焼けた垂木とカマドの状況

 焼けた木材は全部で12本で、太いものと細いものがあり、それぞれが真ん中に立てかけられて屋根にしたようで、何らかの組み合わせがされていたものと説明されています。

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カヤなどの屋根材

 そして、カヤや細い竹のようなもので屋根を葺いたらしく、焼けて木材の上に重なるように落ちています。さらに、土が被さっているようで、土葺き?との話題も出ていました。

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土が被さっていたかのような感じの屋根材の状況

 遺跡見学会の当日配布された国分寺市教育委員会、同遺跡調査会の資料には、次のような伏屋の推定復元図が掲載されていました。初めて見ただけに、驚きです。そして、武蔵の平安人が住んでいた家かと思うと、愛おしくなります。

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2000年3月5日、国分寺市教育委員会、同遺跡調査会配布資料「遺跡見学会のしおり」P7から引用
『柱や梁・桁がなく、木材(垂木)の上部を束ね、下部を地面に拡げて屋根の骨組みとし、
カヤを上に乗せて作る「伏屋式」で、簡単なつくりであった。と推定されます』
としています。

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カマド付近の土器の出土状況

2 村の鍛冶屋さん(鍛冶工房)

 伏屋もそうですが、なんとも心を引くのが、「村の鍛冶屋さん」の仕事場です。同じ遺跡の一隅に8軒の住居が重なった中に、炉とフイゴの羽口(炉に風を送る道具)が住居跡が発見されています。
 鍛冶工房跡にもいろいろありますが、この遺跡では、製鉄の過程で発生する鉄の滓が発見されず、鉄をうったときに飛び散る鍛造剥片(たんぞうはくへん)が見つかることから、農民の日常使用するクワやカマなどの農具の鍛冶屋さんであったろうとの話しでした。

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鍛冶工房とされる住居跡 中央左にフイゴが見える

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フイゴの羽口

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鍛冶工房と考えられる住居跡は8軒の住居跡と重なっている。
左端(説明員が座っているところ)の住居跡からフイゴの羽口がみつかった
重なっている住居跡からも、鉄をうったときに飛び散る「鍛造剥片」が発見されているという。
カマやクワなど農具を扱った村の鍛冶屋さんではないかと説明があった。

 遺跡全体では、平安時代の竪穴住居跡が約100軒、掘建柱建物が17棟、確認されています。ただし、一時期に生活したのは14〜15軒程度で、こじんまりとした集落を構成し、家族生活を送ったものと考えられています。

 農業を営む傍ら、農具や生活用品を扱う鍛冶屋さんがいて、仲間の農民の鍛冶を受け持っていたのを想像することができます。生活は苦しかったに違いないでしょうが、ひとかたまりの暖かさが浮かんできます。

3 その他

 竪穴住居跡と共に掘建柱建物が発見されています。倉庫だったのでしょうか?この遺跡は東山道武蔵路から約150メートル、国分寺崖線の上の台地にあります。すでに、東山道から東海道に転属になり、交通の流れも変わっていました。
 また、雷火のため焼失した国分寺の七重の塔の再建を、さきたまの豪族「壬生吉志福正」が願い出て許可された頃です。

 井戸はなく、水は、崖線の下のハケまで汲みに行ったのだろうと想定されています。畑などの遺構は確認されていませんが、当然に周囲には畑があり、農業が営まれていたはずです。

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2間×3間の掘建柱建物

 9世紀の中頃、武蔵国はそろそろ次の時代へと転換の支度をしていた頃でしょう。活動したのは、国分寺の関係者かも知れません。伏屋に住み、鍛冶屋に農具を注文し、修理を依頼した人たちがどのような生活を送り、何を考え、何を思っていたのかを想像するだけで、この遺跡への思いが高まります。

 このページは、2000年3月5日、国分寺市教育委員会、同遺跡調査会による遺跡見学会のときの説明を基につくりました。「遺跡はみんなのもの」という立場に徹した懇切・丁寧な見学会でした。
 まだ正式な報告書もない中での記述です。文責はすべて安島にあります。将来、報告書が発行されて、このページの記述が異なっていた場合には、責任を持って、報告書に合わせて訂正をする前提で書きました。

                                        2000年3月29日記

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