家康の府中御殿と江戸入りの頃

東京都府中市に「御殿跡」と伝えられるところがあります。
かっては多摩川の向こうに、多摩の横山、相模の山々を一望し
目の前には、切り下ろすような府中崖線を境にして、水田と茫々たる武蔵野が広がる
“風光明媚”な台地の先端です。

「武蔵名勝図会」の一部を引用(慶友社 片山迪夫校訂 p72)させていただきますが
中央に見える三角状のところです。家康が鷹狩りや鮎漁をしたときの宿泊所=御殿とされます。

手前の道が旧甲州街道で左側が大国魂神社、右端に高安寺
御殿跡地の左側の道が現府中街道、旧甲州街道と交差するところが御旅所・高札場
上は多摩川(玉川の書き込みがある)、多摩の横山、相模の山々です。

いかにも家康好みで、ここに造った気持ちがうかがえます。
しかし、その意図はどうも鷹狩や鮎漁ばかりでなく、別にありそうなことに気がつきました。

高崖にして展望よし

 すっかりデパートや駐車場に変わってしまった今でも、この地に立って、ビルや住宅を視野から消すと、かっての景観のすばらしさを追認できます。新編武蔵風土記稿は1820年代の様子を次のように記しています。

 『旧蹟 御殿跡 妙光院の西方にあり、東北は平地につづき、西南は三丈ばかりの高崖にして眺望よし、その下は水田なり、廣さおよそ百歩許の丘皐なり、此地は太古当国の国造住し旧蹟なりとぞ、・・・』

 国造が住んだかどうかは別として、「高崖にして眺望よし」はうなずけます。そして、複雑に入り込んだ府中崖線のひだと多摩川や山々はおおむね残り、家康がこの地に過ごした頃の様子がそのまま目に浮かびます。

火事で焼けた

 さらに新編武蔵風土記稿の記述ですが

 『・・・、東照宮この地に御殿を造営ありて、遊猟の草舎などなしたまひき、寛永中 回禄(かいろく)に遇て再営ありしが、正保の頃また 鬱いう(うついう)の爲に烏有(うゆう)し、それより構営の沙汰なし、享保九年に及て開墾し陸田とせらる、今村民の耕作の地たり、・・・』

 寛永の頃火災にあって再建したけれども、正保の頃(正保3年10月=1646)また火災にあってそれからは再建しなかった。享保9年(1724)村民の耕地になった、としています。耕地としての利用はずっと続いたようで、約100年後の状況が上に引用した画像の状況です。なおその100年後の大正5年(1916)に訪れた高橋源一郎は「一面の桑畑になって居って、その間に二三の民家があるのみで・・・」としています。

「御殿坂」と名付けられた府中街道の一部で、左側一帯が「御殿跡」
撮影位置から右に妙光院の長い参道があります。

造ったのは天正18年か?

 この御殿はいつ造られたのか? 多くは、『徳川家康が天正18年(1590)8月1日に江戸入城ののち、鷹狩りや鮎漁で府中へきた時に宿泊するところ・・・』と説明されて、その時期は明らかにされません。武蔵野の一隅に住んでいると、どうしてもここのところが気に懸かります。家康はいつ江戸に入ったのか、どのルートを通ったのか、どのような防備をしたのか、家康の関東移封は秀吉の策謀だったのか、・・・などに関係しそうだからです。

 そして、「武蔵名勝図会」に次のような記事があるからたまりません。これからの話の種であるため、長くなりますがおつきあい下さい。

 『・・・。その頃 大閤奥州下向ありしかば、帰陣の前に造畢すべしとて、近郷近里の大匠へ御下知ありて、不日にして御殿造畢すと云。このとき御殿御造営に出たる大匠の子孫、小宮領大久野村に居て、その時の御下知状の古書数本を伝来せり。

 編年集成 云 天正十八年(一五九〇)七月 小田原落去後、大閤奥州へ下向せんとす。これは九戸の芦名政実、主の南部に叛きて謀反を企てければ、この度のついでを以て彼を征伐のためなり。

 十四日 小田原出立、十五日 江戸に到着の処、御入国の前にして江城御修補の最中ゆえ 大閤の仮館となるべき殿舎なければ、江城 北曲輪 平川口に日蓮宗 法忍寺を以て旅営として饗応の事をはからうと云。後、この寺は本所へ移さる。押上の法忍寺これなり。このゆえに山号をいまに平川山と号す。

 同 廿四日まで御滞留して、廿四日には奥州発駕にて 岩槻旅営なり。神祖君 御入国はなけれども、御分国となる上は饗応を神君より御下知なり。大閤は会津 黒川の城に陣座あり。ここは奥州の都府なり。瑞雲山広徳寺を仮の決断所になし給いて、奥州の成敗を沙汰せられて、程なく会津を発し給う。

 蒲生、木村両氏へ政務をさとして、それより長沼通り十八、九里を経て、五十里宿の端より一里半の嶮を凌いで信州 屋代に赴き、それより上州堺 笛吹峠より武州に至りて 川越に到着、御殿に旅営ありて、当所新営の御殿に至って旅営し給う。神祖君より饗応の御下知ありて、ここより相州田村、小田原へと出給う。

 編年集成 云 天正十九年(一五九一)正月五日奥州の葛西、大崎の凶徒退治として羽柴黄門秀次は清洲発駕にて東海道を経て、同十四日 武州府中の御殿に旅営し給う。この日 神祖君も当所に渡御、奥州の一揆も蒲生氏郷が勇略を以て城砦数多陥りたるの告げありて、時に神祖君にも岩槻より江城へ還入し給い、今日またここへ渡御あり、この旨を秀次へ御演説によって、秀次は翌日元の路へ軍をかえすと云。・・・』

 要は、天正18年、秀吉軍によって、後北条氏の八王子、小田原城が落城。秀吉はその前後に家康に関東移封を伝え、自らは奥州に向かった。家康は秀吉の帰陣の前に御殿を建築してもてなすべきだとして、御殿を造った、秀吉は帰路、この御殿に泊まった。翌、天正19年正月には、羽柴秀次と家康が泊まった。との話です。

 面白いのが建設の下知と奥州からのルートです。建設の命令は、わざわざ「神祖君(=家康)御入国はなけれども」と、家康の関東入国前であることを云っています。たいていの書物は、家康の関東入国を天正18年の8月1日とします。

 この日は武家の伝統的な祝い日・農民の収穫の祝い日=「八朔の日」(はっさくのひ)で、その目出度い日に家康が「関東御討ち入り」をした、だから記念すべき日とされ、以後、この日は幕府の儀式日として重要な扱いをしてきました。

 「武蔵名勝図会」は武蔵府中御殿の建設を、その8月1日以前に家康が命令したとします。そして、秀吉への饗応のため、奥州からの帰陣の前に造るべしとして、秀吉にとても気を遣っている様子を伝えます。当時の秀吉と家康の関係が浮かんできそうです。

 そもそも、8月1日入府は、内藤清成の「天正日記」をもととするものでした。しかし、伊東多三郎氏が「天正日記と仮名性理」によって、天正日記は後で作られたものの寄せ集め、との見解を出し、以後、天正日記をもとにした日程をそのまま信ずるのは危険となりました。

 武蔵名勝図会もまた、その一つに入るのでしょうが、秀吉の奥州征伐の日程とあわせると、数日の違いはあったにせよ、8月1日以前に、府中御殿建設の何らかの動きがあったことは事実のようです。なによりも、秀吉への気の遣いようが一様ではありません。

 それは、関東への領地替えを加増としてとらえての感謝の饗応なのか、またどこかへ移封される恐れのある秀吉の部下・一大名に過ぎないものとしての御世辞なのか、それとももっと高次元の・・・?と、つきません。水江漣子氏はこの当時の家康を次のように記します。

 『・・・八月一日入府の記録が直接には残されなかったこともあわせて、このころの家康の動きは、あるいは完全に秀吉の掌中に握られていて、意志決定の余裕がなかったのかもしれない。そして、そういう臣従にひとしい立場の家康を記録するのは、後の世の徳川家中の史官としては、憚(はばか)りがあって、あえて史料に残さなかったという事情があるのかもしれぬ。』(家康入国 角川選書 p130)

 徳川の基礎を築いた家康が江戸へ移る頃の一こまとして、御殿の跡にたたずむと、ほんとうはどうだったのかとソワソワします。

工事をしたのは多摩の頭領

 家康は江戸へ入るのに伴い、従前の領地から商人、工人を江戸に呼び寄せていますが、天正18年7月当時は、まだそれが出来なかったはずです。そこで、御殿は誰が造ったのかが疑問になります。武蔵名勝図絵では、小宮領大久野村の大工が建設に当たり、その「御下知状」を持っているとします。

 大久野村の大工は、番匠 落合四郎左衛門で、旧家で、その子孫が北条氏照の朱印や江戸城本丸、西丸、府中、河越御殿などの建設に当たった「御下知状」を持っていると伝えます。ただ残念なことには、武蔵名勝図会は「その後、何年の頃よりか、国役番匠御用も止めになりたるか、その謂われも知らず」としています。

 したがって、武蔵名勝図会の記述が実証されているわけではありません。しかし、当時は秀吉の力は強く、先が読めない中で、家康が要所要所に御殿を造り、武蔵府中では、地元の工人を使ってその一つを造ったとの話題は興味を引きます。

 そして、「多摩の代官」(たましん地域文化財団1999)の中で「江戸時代の代官像」を書かれた村上直氏は

 「天正十八年寅七月二十日
 一、府中御殿御作事国役大工三十人、番匠四郎左衛門へ相渡すべき旨仰渡され候」

 との文章を紹介しながら、『大久野村の四郎左衛門に三十人の部下をつけて、天正十八年、家康が関東に移封された年に府中御殿を造らせたということです。』と解説されています。(p35〜36)

 これもまた天正18年7月20日という日付がモロに興味を引きます。家康は8月前に江戸への実質的な采配を振っていたことがわかります。もっとも、家康が秀吉から後北条氏討伐の恩賞として関東進上の話が出たのは4月で、『4月22日、家康は、戸田三郎左衛門忠次を、江戸城の検使として行かせている(家忠日記追加)水江漣子 家康入国p113)』のですから、当然のことであるかもしれません。

村に地頭、八王子に十八代官と千人同心

 家康が江戸に入って先ずしたことが、家臣の新領地への配置でした。武蔵野の地方史ではいずれも、

 1万石以上は利根川以北、江戸近くは直轄地とし
 1夜泊まりの範囲に直属の家臣を置くことを原則として
 北条氏の村々に、新しい領主や地頭が家族と共にやってきた
 陣屋が間に合わず、最初は、神社やお寺、時には地元の実力者の家に住み込んで
 馬に乗って江戸まで勤務した

 と伝えます。

 江戸はまだ多くの家臣が住めるところではなく、領主は地頭として村に住み、村人は時代の変わりをはっきり目の前に見たのでした。その状況下で家康は素早く手を打っています。大名を置かなかった北条氏照の支配地であった八王子に、なんと、18人の代官(関東十八代官)を集中配置し、そこから各地の支配体制を組みました。代官頭は大久保長安でした。

 もしかすると起こるかも知れない後北条氏関連の一揆と秀吉対策には別の手を打ちました。家康の関東移封とともに、恐らく、秀吉はにらみを利かせたのでしょう、家康の旧領地であった甲斐に、秀吉の養子羽柴秀勝を置きました。

 一揆と山越しの甲斐への直接防備として、これまた八王子に、千人同心を配備しています。千人同心は、天正10年(1582)家康が甲斐の武田を支配下に置いたとき、恩顧を約して採用された武田の家臣を中心に構成されたものでした。

府中には高室代官と御殿、六所宮(大国魂神社)に500石寄進

 問題は江戸と八王子の間に隙間です。そこで、家康は府中に目を付けたようです。八王子の十八代官から独立した、これらとは違った系統の「高室代官」が置かれています。そして、今回紹介する御殿を造ったのでした。図式的にみれば、

八王子・・・・・府中・・・・・江戸

 で、江戸と八王子にそれぞれのまとまりを置き、その中間である府中に、もう一つのまとまりを造っています。恐らく、武蔵の各地に造られた御殿も同様な背景があったのではないでしょうか。ここに家康の新たな領地への睨みの目を見ます。

 重要な家臣配置は、天正18年9月中には終わり、旧領地の中心であった駿河を含め、各地にいた家臣すべてが関東に移って、秀吉がその早手回しに舌を巻いたとされます。

 そして、六所宮(大国魂神社)には、500石の寄進をしています。府中から直線で約9キロの私の住む町は13.4平方キロ、6人の地頭が配置されて、総石数は1、380石でした。多くて330石、少ない人は150石です。六所宮の処遇は抜群でした。

 六所宮(大国魂神社)、高室代官、御殿、この3点セットによる相乗効果を素知らぬ顔して鷹狩りに置き換えた家康のにんまりした顔つきが浮かびます。そして、この地は、当時の道中に大きな意味を持っていたのではないかと考えます。

御殿跡地から六所宮は目の前で、その森が手の届く先にあります。

北関東と相模の接点

 先に紹介した武蔵名勝図会は、秀吉が奥州平定のため、軍を奥州に進める際や秀次が江戸へ来る際、

 『笛吹峠より武州に至りて 川越に到着、御殿に旅営』
 『時に神祖君にも岩槻より江城へ還入し給い、今日またここへ渡御あり、・・・
  ・・・、秀次は翌日元の路へ軍をかえすと云。・・・』
  元の路=清洲発駕にて東海道を経て、同十四日 武州府中の御殿

と、そのコースを記しています。まぎれもなく、武蔵府中が北関東・相模の接点としての役割を果たしています。

 河越・北関東・奥州
 ・
 ・
 ・
八王子・・・・・府中・・・・・江戸
 ・
 ・
 ・
 相模

 やがて、慶長8年(1603)、家康は征夷大将軍に任じられ、江戸に幕府を開きます。翌、慶長9年には、日本橋を起点とする5街道の整備がなされました。それまでの間、府中は武蔵の交通の要としての位置を占めていたのではないでしょうか。さらに、府中と江戸とをつなげる意味深い説があります。

 『現在の日本橋付近の「アマ」店(だな=尼店)・・・・(中略)・・・。ここを本拠とする谷(矢)の弾左衛門が、家康入国にあたり府中まで出迎え、恐らくは江戸城まで徳川軍団の先導をつとめたのであろうが、これまでの家康の「江戸打入り」に触れた諸書は多数にのぼるが、管見の範囲ではいまだ正面きって、この弾左衛門の府中出迎えという記録にとりくんでいる書は見いだせない。

 しかし矢野氏が家康を府中まで出迎えたという記録(例えば『史籍雑纂』所収の「浅草弾左衛門由緒書」など)は、江戸とくに近世都市江戸の成立と発展の跡を追うためには、非常に重要な問題を合んでいるといえる。』(鈴木理生 江戸と城下町 新人物往来社 p20)

 と、鈴木理生氏は天正18年7月23日に、矢野氏が家康を迎えに江戸から府中に赴いたとの興味しんしんの説を出されています。江戸から府中への道筋は、後の甲州道中に近いもので、かっての武蔵国府への国府路が実質上の連絡路を形成していたものと思われます。

武蔵の統治

 神奈川、東京、埼玉には、○○御殿、御殿山、御殿坂・・・など御殿に関わる呼び名を残すところがたくさんあります。多くが鷹狩りに関するもののようですが、その背景には鷹狩りに名を借りた地域視察があったのでしょう。特に徳川政権樹立前後のものはその傾向が強いように思えます。

 慶長13年(1608)9月12日、家康が尾張清洲から江戸に来ます。その時など、江戸城には入らず直接府中御殿に入り、2代将軍秀忠が江戸城から府中御殿に出向いた、との記録があります。

 慶長16年(1611)11月には、家康は忍(おし)(埼玉県行田市)、秀忠は鴻巣(こうのす)(埼玉県鴻巣市)にいるところへ、11月12日、駿府から徳川義利が急病になったとの連絡が入ります。この時には、13日、河越で両者が落ち合い、14日に、二人で府中御殿に入っています。

 このように江戸初期には、武蔵野を大御所(家康)や将軍(秀忠)が行き交い、河越や府中がその中継点・たまり場になっていた様子が知られます。恐らく、それぞれの立場から、関東の統治につてざっくばらんな会話が交わされたのでしょう。

 元和2年(1616)4月家康は75歳でなくなります。翌、元和3年(1617)3月、家康の棺が久能山から日光へ遷座されることになり、3月20日、大磯を通り、中原の御殿(神奈川県平塚市)に着きます。翌、3月21日、府中御殿に着き、2日にわたり法要を行い、3月23日、日光へ向けて出発します。そのときの様子です。

 『廿三日、山の端(は)しらぬ むさし野に わけいらせ給ふ。草より出るは月のみかは、あかねさす日もおなじ萱生より、かげのどかに、霞にもるる春のながめ、えもいはず、友におくれかへる雁のつばさ、もののあはれなりければ、僧正おもほえず霞の袖をぬらしけり。行もかへるも雁の泪に、堀かねの井は右に見てとほる』(東照宮後鎮座記 府中市史上p673)

 と掘りかねの井戸を右に見ながら、日光へと向かいました。まさに武蔵野の原を突っ切っています。家康はそれほど、武蔵野のこの空間が好きだったのでしょうか?

 焼失から農地へ

 武蔵の府中御殿はそれから30年後、正保3年(1646)10月、府中の大火で焼失してしまいます。その後は、再建されることはありませんでした。3代将軍家光の最盛期で綱吉が誕生した年です。徳川の幕藩体制は安定期に入り、御殿は鷹狩りの宿になり、江戸の周辺に数多く造られました。府中御殿の機能は別の体制に移っていったようで、耕作地になりました。

  跡地に立つと、家康が江戸入府に際して直面したであろう様々な問題を地下に秘して、何かの折りに発見されることを待ち望んでいるようで、去りがたい思いと武蔵野の厚さにハマリます。

 

現在は立体駐車場となり、周辺は住宅で埋まりました。
古代から栄えた馬市に変って、競馬場に大勢の人々が集まります。
そのための駅からの通路が多摩や相模の山々の前に強烈に視覚を横切ります。

JR南武線、武蔵野線「府中本町駅」で降り、武蔵野線改札口に出ると
目の前一帯が御殿跡です。

(2002.12.20.記)

ホームページへ