和宮下向と狭山丘陵の村

幕末の一大イベントとも云うのでしょうか、ぼろぼろの徳川幕府が
再起を賭けて よみがえり策を講じます。

安政7・万延元(1860)年から翌年にかけて
「皇女和宮降嫁(こうじょかずのみやこうか)」と云われる出来事です。

その時、狭山丘陵周辺の村で起こった様子を訪ねました。

公武合体

 嘉永6年(1853)6月のペリー来航以来、国を挙げて開国・攘夷に湧き、安政の大地震(安政2・1855)、コレラ大流行(安政5・1858年)、安政の大獄・・・などなど、自然災害を含め日本国内は大揺れに揺れます。幕府の開港に 対する反発は高輪東善寺・イギリス公使館への浪士襲撃、生麦村(横浜市鶴見)でのイギリス人殺傷事件(文久2・1862年8月21日)など攘夷運動を先鋭化させます。 一方で、海外貿易の影響も現れ、物価の高騰、「浮浪の徒」の跋扈など社会不安が広がりました。

・万延元年(1860)3月3日 桜田門外の変 
    武力弾圧強行の大老井伊直弼(なおすけ)を水戸の尊王攘夷派が暗殺 
    混乱する政治情勢打開のため、公武合体派登場 皇女和宮の将軍家茂への降嫁を決定
・文久元年(1861)皇女和宮 中山道を経て江戸へ 10月20日京都発 11月15日江戸着
・文久2年(1862)1月15日 坂下門外の変 公武合体派を水戸浪士が襲撃 合体運動迷走
            2月11日 和宮・将軍家茂(いえもち)結婚
 ◎和宮の犠牲にもかかわらず公武合体策は実らず、倒幕運動は激しさを増す

 年表にすると僅か数行ですが、幕府と朝廷、尊皇攘夷派間の大きな政治的な動きの中で、「皇女和宮の降嫁」が行われます。大老井伊直弼が桜田門外で暗殺されて、安藤信正・久世広周(ひろちか) が地位を回復し幕政を引き継いだところから急速に浮上しました。天皇の身内を徳川幕府・将軍の妻に迎えて、朝廷と幕府の緊密感をアッピール する。より尊王姿勢を明らかにして、幕府の権力回復をねらう。他ならぬ政略結婚ですが、公武合体策と呼ばれます。

 これは、すでに、井伊直弼政権時代にその萌芽がありました。朝廷側の権力統制を目的としての降嫁で、意味合いを若干異にしますが、さまざまな人選や駆け引きによって、延び延びになっていました。 次期政権は、厳しい世情を背景に、時流と合わせた政権安定策として、仁孝(にんこう)天皇の第八皇女「和宮」と将軍「家茂」との婚姻を奏請しました。安政7年・万延元年(1860)4月のことでした。

 幕府の申し込みを孝明天皇(=和宮の兄。和宮の父・仁孝天皇は和宮が生まれる前に亡くなった)は拒否しました。和宮にはすでに、有栖川宮 熾仁(ありすがわのみや たるひと)親王という婚約者があり、結婚を間近にしていました。 しかし、幕府はあきらめません。和宮の周辺に何かと工作をおこなったようです。一方、天皇の侍従を務めていた公卿・岩倉具視(ともみ)の説得もあって、万延元年(1860)6月20日、天皇は政治上の条件をつけて降嫁を認めました。 和宮が幼い身内への影響を察知して意を決めたとの話もあります。

 降嫁の条件は、10年以内に攘夷を実行することでした。これが、あとあとまで幕府の足を引っ張ることになりま す。このような政治の舞台の中で、武蔵野の村々、特に狭山丘陵周辺の村ではさまざまな動きが起こります。

村の動き

 ごくごく、はしょって簡単に紹介しますが、中央の動きはほぼ同時に、回状・触や通達の形で村方にも伝わっています。たとえば、

 ・安政元年(1854)異国船渡来につき取締方の回状
            異国船渡来につき関東取締出役より達書
            小前請書 
 など、黒船来航に伴い、代官や関東取締出役から注意喚起、街道取り締まりの回状や達しがきます。村人たちはそれらを守る約束を請書として提出します。また

 ・安政2年(1855)尾州様御鷹場御預村割帳
            貯穀之儀御申渡回状
            震災時脱獄囚逃亡につき召捕方達書

 など、異国船渡来の不安と穀物貯蔵、脱獄囚の召し捕りなど江戸近郊の村特有の問題に追われていることがわかります。

 ・安政4年(1857)8月16日 アメリカ使節登城拝礼につき達書

 下田表に在留のアメリカ使節が近々江戸へ来て、登城するので、この段心得るように、との達しです。

  ・安政6年(1859)6月 外国人居留地取締方など御触につき請書
 
 外国人居留地が決まり、村人たちも心得違いをしないように誓っています。ごく一部を紹介すると

 『一、神奈川が開港され、ロシア・フランス・イギリス・オランダ・アメリカの五か国が本年六月より横浜で我国の商人達と交易することを許可され、諸外国の役人や商人達が同所へ居住をはじめるにあたり、横浜から江戸の方角は六郷川を限り、その外は十里を境としその内側の地を遊歩区域とすることを許可し、今後外国人が自由に往来するようになるため、取締り向を厳重にすることを申し付けられ承知致しました。

 一、外国人が遊歩するときに見聞したことは外国へも伝わるため、住民のうち心得違いの者がいては外聞に   響くので、全員 がよく相談し、お互いが気をつけあって、少しも心得違いや不取締りのことがないようにします。・・・』

 と横浜を遠く離れた村々で直接開国の気配を知るようになります。一方で、10月には

 ・安政6年(1859)10月 肥糠値下げ要求嘆願書
  肥料に使う糠(ぬか)の値段が高騰し、農業が続けられないので値下げを要求する運動が相次いで起こっています。

  江戸近郊の当時の村は、自給自足の建前の中で、貨幣経済に巻き込まれ
  農産物価格と肥料や生活用品の価格が釣り合わず 天候にも左右されて
  疲弊にあえいでいました。商品相場の変動は目に見えて高騰しました。

 幕末の江戸諸品相場の変動

品        目 安政 4年 安政 6年 文久 元年 文久 3年 慶応 元年 慶応 3年
米(1両につき) 64.07升 56,33升 40,33升 44,33升 26.62升 15.06升
綿(1両につき) 2.260匁 1,980匁 1,120匁 1,120匁   660匁   460匁
〆粕(1両につき) 31,000目 20,000目 20,000目 16,000目 10,000目 5,000目

 (狭山市史通史編1p920)

 ・安政7年・万延元年(1860)桜田門外の変が起こり、和宮降嫁が勅許となります。
       この関連で村に最初に来たのは
 ・文久元年(1861)2月 幕府代官から宿役人あての通知
   和宮下向の道筋が東海道から中山道に変更になったとのことでした。

 ・文久元年(1861)11月、柏原村(川越市)へ次のような達書がきました(狭山市史通史編1p905)。

 1 このたびの和宮下向につき、村方に浪人を置かないこと。
 2 疑わしい者は、すぐに届けること。
 3 百姓の他出を禁じ、他所者に宿を貸さないこと。
 4 寺杜参りは慎むこと。
 5 日待・月待などの集会を禁止すること。
 6 勧進は村へ入れないこと。
 7 火の用心に気をつけること。
 8 宿場・旅籠屋に一宿の客を置かないこと。
 9 村々の取り締まりを厳重にすること。
 10 街道を往来する武士・飛脚は、問屋へ名前を届けること。
 11 荒川筋の渡船を禁止すること。
 12 中山道沿いの村々は、一行が通行する三日間の外出を禁ずること。
 武蔵野の各村々には同様の通達があったと思われます。

和宮の道筋

 和宮一行は当初、東海道を通行する予定でしたが、不穏の動きもあり、道中の安全確保、横浜居留地 や川止めの回避などから急遽中山道に変更になりました。

 10月20日 京都出発
 11月11日 本庄宿・泊
     12日 深谷宿・昼休、熊谷宿・泊、
     13日 吹上宿・小休止、鴻巣宿・昼休、桶川宿・泊
     14日 上尾宿・小休止、大宮宿・小休止、浦和宿・昼休、蕨宿・小休止、板橋宿・泊
     15日 早朝江戸へ 九段清水邸 12月11日江戸城へ 文久2年(1862)2月11日、祝言

 江戸から勘定奉行、目付他1万人が京都に上がり、京都からは1万5千人が下って、和宮一行は千数百人ですが、総勢約2万5千人の大通行となったとされます。 このほかに沿道の警護が各藩に任され、直接警護に12藩、道中警護に29藩が動員されています。公武合体に反対する尊皇攘夷の志士たちの和宮奪還に備えたとされます。 こうして、1ヶ月にわたる警護の総数は延べ数十万人と目されています。

 和宮は弘化3年(1846)閏5月10日生まれとされますから14〜5歳です。 将軍家茂は弘化3年閏5月24日生まれとされますから同じ年になります。京都への迎えの中に天璋院(てんしょういん=家茂の養母で家定の夫人)がいて、早くも嫁・姑の関係が危惧されます。


11月13日 桶川宿で和宮が宿泊した本陣

和宮助郷(すけごう)

 和宮の下向が近まると、宿を提供する中山道の宿場から狭山丘陵の村々に「助郷」の要請が来ました。狭山丘陵周辺の村々は中山道の宿駅である大宮宿、蕨宿、桶川宿などを対象と して、主に運送業務に従事する役割を負わされていました。

 例えば、1日の助郷の命令が出た場合、その日は、自分持ちの馬を引いて大宮宿、蕨宿に行き、翌日1日「運送」に従事し、その翌日、馬を引いて帰村するという仕組みでした。 費用は村持ちでした。                    

・文久元年(1861)9月、中山道浦和宿年寄及び問屋名で狭山丘陵の周辺の村々に回状がきました。和宮下向による浦和宿の負担は、定助郷・加助郷・大助郷を総動員してもで人馬に不足する。浦和宿に「当分助郷」(臨時の奉仕)をすることを納得してもらいたい。というものでした。参考までに対象となった多摩の村 が東村山市史(通史編上巻p879)に紹介されています。

 小川村(小平市)・小川新田(同)・中藤村(武蔵村山市)・蔵敷村(東大和市)・芋久保村(東大和市)・芋久保新田(立川市)・高木村(東大和市)・横田村(武蔵村山市)・久米川村・大沼田新田(小平市)・廻り田新田(同)・柳久保新田(東久留米市)・柳窪村(同)・下里村(同)・鈴木新田(小平市)でした。

・文久元年(1861)9月、同様な文書で今度は大宮宿への出動依頼が来ました。対象となった多摩の村は

 後ケ谷村(東大和市)・宅部村(同)・高木村(同)・奈良橋村(同)・清水村(同)・廻り田村・殿ケ谷村(瑞穂町)・箱根ケ崎村(同)・富士山村(同)・堀之内村(埼玉県所沢市)・矢寺村(同入間市)・石畑村(瑞穂町)・岸村(武蔵村山市)(以下文書破損につき不明)。

 でした。

・文久元年(1861)9月9日入間郡の村々に、幕府代官の奥書を着けた回状が上尾宿問屋から届けられました。

・文久元年(1861)10月1日、 浦和宿・大宮宿から二度目の回状がきました。村役人は印鑑を持って10月8日にそれぞれの宿に出頭して、請書(奉仕を承諾したとの書類)を出せというものでした。宛先は

  足立郡32か村
  入間郡62か村
  高麗郡20か村
  多摩郡の村々(若干村の出入りがある)

 でした。こうしてみると、武蔵野のほとんどの村が何らかの宿の奉仕にかり出されたことがわかります。

 村々はそれぞれ集まって対策を練ったようで、助郷免除、割引嘆願が出されます。しかし、相次いで動員要請が届き、助郷免除要請は拒否されました。どうしようもなく、へとへとになって 押しつけ義務を果たしたようです。大宮宿の場合

 最初の頃は、各村とも村高100石につき人足3名、3本のたいまつを出したようです。それが日がたつにつれ増加し
 11月9日には、高100石につき人足18名となり、総動員態勢がとられました。大勢が一度に集まった宿場はどうなったのでしょうか?

 この勤労奉仕にかかった費用は、村人たちが負担しました。東村山市史に「廻り田村」の例が紹介されています。

 『多摩郡廻り田村では大宮宿への増助郷人足賃の負担について、十月六日に金一五両、十一月九日に金一五両を銭で各戸より取り立て、その後も人足動員ごとに「御伝馬臨時入用銭」の名目で、各戸の持高割で出銭した。文久二年(一八六二)二月の決算では金八二両二分二朱と銭八〇九文となり、銭に換算して三五三貫五〇〇文余りであった。』(通史編上p882)

としています。疲弊にあえぐ村人たちにとって、この負担はさぞ重かったことと思われます。

通行止め

 幕府の威信をかけた行事であることから、和宮一行の通行中は前後3日間、中山道はもちろん脇往還に至るまで一般人の通行は禁止とされました。関東取締出約が回村し、道筋の家は窓を覆うこと、道筋の清掃などが命ぜられました。(続徳川実紀)

 中山道から遠く離れた「青梅村」にも、村自体が「宿」であるにも関わらず、臨時の助郷の通知がきました。 文久元年(1861)9月、上尾宿から、青梅地方各村の村高と人別調書の差し出し要請でした。代表者が上尾宿に出かけ、「先例もないことなのでご勘弁を」と願いますが聞き届けられません。

 やむなく、村では人馬を差し出すことはしないでお金で解決したことが知られます。17か村が責任を持って

  該当村割4分
  総村高3分
  15歳〜60歳 男人数 3分

 の割合でお金を集めた議定書が残されています。この地方でも、和宮が通行する期間は通行止めとしています。青梅市史がその状況を伝えます。

 『本市域内はその道筋からはるかに遠く、関係なさそうに思えるのだが、厳重な警備は本市域にも及ぴ、これまた大変な出費がなされていたようで、つぎの小曾木・小布市の「市川家日記」(『青梅市史史料集』第十号)の中にもみられるのである。

 「十一月、和宮様御下向に付、御領分大岡様(当時、南小曾木村下分は岩槻の大岡領であった)より仰せに付、当村に見張りを立て、通行差留に極り、四日より水穴(みどあな)清兵衛隠宅見立てに相成り、大工人足等これあり候。五日、村中道普請。七日に御代官宮本源助様上下八人御出でなされ、役宅に御着成される。八日に四ヶ村御廻村これあり、十日より見張場へ御出なされ、十一日より通行留。十五日迄にて相済む。十七日朝、御返り成され候。右一件に付、諸入用十七両相掛り、是を四ヶ村割合に相成る」。』(青梅市史 上巻 p465)

 11月5日 道普請
 11月7日 代官が8人詰める
 11月8日 村を回る
 11月10日〜見張り場に立つ
 11日〜15日まで青梅街道通行止め

 であったことが綴られています。

公武合体の瓦解

 和宮の犠牲にもかかわらず、公武合体は崩れます。和宮降嫁の条件である、「10年以内に攘夷の実行」を迫る空気が日に日に高まります。公武合体派の老中安藤信正が文久2年(1862)1月15日、江戸城坂下門外で、水戸の尊攘激派浪士に襲撃されました。

 和宮降嫁への怒り、幕府の開国路線に疑問を持つ尊攘派の反発が表面に出てきました。武蔵野の村でも早くもその動きを伝えます。

 「関東に於ては安藤対馬守殿速二退役仰せ付けられ御座なく候ては人心潰乱変乱の基と相成るべき哉に存じ奉り候」
 「公武御合体上下一致之上、異人の御処置天下の公論を以て永世貫徹致し、(中略)、公武御合体人心一和の道を御成就成され侯様御座有るべく候」

 文久2年4月15日の町谷村(所沢市)の「御用書留」に挟まれた資料の一つで、全9箇条の建白書の写しとされます(所沢市史上p816)。安藤信正の退役がなければ人心潰乱変乱の基となると云い、「異人の御処置天下の公論を以て永世貫徹・・・」としています。武蔵野の村の長には、このような建白書に興味を持つ、あるいは関心を寄せる人がいました。安藤信正は4月11日老中を罷免されます。

・ 文久2年(1862)2月11日 将軍家茂と和宮結婚
            4月23日 寺田屋事件
            7月    一橋慶喜将軍後見職
            8月    朝廷 岩倉具視に辞官落飾を命ずる
・ 文久3年(1863)2月3日 関東取締出役から武蔵野の村々に
                                           「後上洛につき御取締向の触」が出される              
            2月8日 浪士組(近藤勇)上京のため江戸を出立 中山道
            2月13日 家茂上洛
            5月10日 攘夷決行を約束
             8月18日 政変 長州藩、尊王攘夷派志士、公家 京都を追われる
            12月   家茂上洛
・元治元年(1864)3月 水戸天狗党(尊皇攘夷急進グループ)筑波山に挙兵
・慶応元年     5月16日 将軍家茂 第二次長州征伐のため大坂へ赴く

 

東海道川崎宿助郷

 将軍家茂は元治元年・慶応元年(1864)5月16日 第二次長州征伐のため大坂へ赴 きます。砂川村(立川市)は出立に先だって5月4日次のような命令を受け、承った旨の請け書を提出しました。

 奉差上 御請書之事

 一 今般御進発被為在候ニ付、御用物継立ヲ始、御供奉御役方様方御通行人馬多御入用ニ付、右御用御
    日割中之継立ニ限リ、私共村方より当分助郷被仰付、川崎宿役人共から相触次第、無滞人馬差出可申
      旨、承知奉畏候、依之御請書差出申処如件

     慶応元丑年五月

 狭山丘陵の村々が中山道の助郷にかり出されているとき、現在の立川市近辺では川崎宿の助郷に携わったことがわかります。将軍の出発に際して、御用の物の運搬を始めお供の役人の通行に多くの人馬が必要であるので、・・・川崎宿の役人から連絡があり次第滞りなく人馬を指し出します。と約束しています。

・ 元治元年(1864)6月5日 新撰組 池田屋事件
                           7月19日 蛤御門の変 長州藩と幕府連合軍
                                              (薩摩藩、会津藩、桑名藩の藩兵など)の戦闘
・ 慶応2年(1866)1月     薩・長連合成立
            7月20日 将軍家茂没する
・ 慶応3年(1867)       大政奉還運動(土佐)と討幕運動(薩摩)並行                  
  と御一新に向けて動きます。

武蔵野不穏

 慶応2年(1866)将軍家茂が大阪で病を養い、7月20日に没しますが、その頃、武蔵野の村々には、生活維持のための不穏な空気が充満していました。

・6月7日、川越町氷川神社に町内および近郷の大工職人が集まり、
  米価高騰、売り惜しみから、100文につき、米5合売りの実施を求めました。

 川越藩は打ち壊しの蜂起に発展することを恐れて藩の管理米を払い下げて、妥結を図りました。

・6月13日、秩父郡上名栗村で農民が蜂起し、「武州世直し一揆」がおこります。
 一揆は一挙に拡大し、数千人に及んだとされます。所沢宿で豪商たちが打ち壊され、田無、府中、飯能に及び農兵隊が出動しました。19日に終結しましたが、「世ならし」「世直し」を旗竿に掲げ、「横浜へ乱入いたし、国病の根を絶ち、万民安穏の心願と申す事」を目標に据えていました。

 はっきりと「世ならし」を宣言し、その根元を横浜の生糸売買として目を向けています。この年、江戸近郊ではこの種の「不穏」がいくつも起きました。そうした中で、維新が進められます。  

官軍の東征

・慶応4年(1868)1月3日 鳥羽・伏見の戦い 旧幕府・会津・桑名と薩摩・長州軍の衝突
                   旧幕府軍敗退、慶喜軍艦で江戸に戻る
            1月7日 新政府が慶喜追討令
                  和宮 将軍慶喜の助命を嘆願、徳川の家名存続に尽力
             2月9日 東征軍(官軍)編成 東海道、東山道、北陸道を進む。大総督は
                   有栖川宮熾仁(ありすがわのみやたるひと=和宮の婚約者)
           3月14日 勝海舟・西郷隆盛会談 江戸城総攻撃中止 
           3月14日 五箇条の誓文・宸翰発布 京都御所紫宸殿

  和宮の苦衷はいかばかりかと歴史を離れて胸を打ちますが、倒幕運動は激しさを増して、結婚後落ち着く間もなく、家茂は上洛を繰り返し、ついに慶応2年(1866)7月20日、大阪で没します。慶応4年には新政府が慶喜追討の命を出し、和宮は将軍慶喜の助命を嘆願する立場になります。そして官軍の東征が始まります。率いる大総督は和宮のかっての婚約者有栖川宮熾仁でした。

 「宮さん 宮さん お馬の前に ひらひらするのは 何じゃいな・・・」

 武蔵野の農民たちはこの囃子をどのように受け止めていたのでしょうか?
 (2004.06.30.記)

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