新宿さまよい歩き 8

 新宿御苑の北に「花園小学校」「花園公園」があります。その一隅に、余程、集まりやすいらしく
いつ行っても自転車やオートバイがあって、囲まれるように碑が建っています。

三遊亭円朝旧居跡(所在地 新宿区新宿1丁目21番地)

 明治の落語家「円朝」が住んでいた家の跡を示す碑です。50歳の時本所から転居してきました。円朝といえば、7歳で初高座、17歳で円朝を襲名・・・と神童ぶりが伝えられますが、最初の頃は母親から芸人になることを反対されて、紙商兼両替商へ奉公に出されたそうです。

 今で云えばストレスと反抗でしょうが、病気が重なり、今度は歌川国芳のもとへ画家として弟子入りさせられたとされます。また病気になり、ついに、母親も諦めて落語会に復帰したという異色の経歴をもって、後はトントン拍子で、遂に名人とされました。

 その円朝がここに大きな邸宅を構えていました。野村敏雄「新宿うら町おもてまち」では、次のように紹介しています。

 『・・・場末の新宿に家を買ったのは、市中住まいの喧騒から逃れるためだったらしい。新しい住居は地所三百坪建坪六十坪で、もとは武士の屋敷か裕福な商人の隠居所だったろうという。屋敷のそばには孟宗竹の深い藪があり、まわりは広い野菜畑だった。

 屋敷内には母家と廊下つづきで庵室のような離れがあった。茅葺で二畳と三畳の二間があり、円朝は円通堂と名づけて居室につかい、奥の三畳間に机を置いて著作をしたという。円朝五十六歳の新作「名人長二」はこの庵室で生まれた。

 明治二十八年まで円朝はここに住み、それから新宿新小川町に転居した。屋敷はこのとき売却されたが、買い手は新宿の妓楼の主人で、総額千百五十円で売れたという。妓楼の名はわからない。円通堂はのちに母家から切りはなされ、独立した建物として他所へ移築されたという。・・・』(p175)

 新宿区教育委員会の説明板では次のようになっています。

 『このあたりは、明治落語会を代表する落語家三遊亭円朝(1839〜1900)が、明治21年から28年(1888〜1895)まで住んでいたところである。円朝は本名を出淵次郎吉といい、江戸湯島の生まれ、7歳の時小円太の名で初高座をふみ、9歳で二代目円生の門下に入門した。

 話術に長じ、人物の性格・環境を巧みに表現し、近代落語を大成した。また、創作にもすぐれ、、自作自演に非凡な芸を発揮し、人情話を完成させた。代表作に「塩原太助」「怪談牡丹灯籠」「名人長二」などがある。

 屋敷地は約1000平方メートルで、周囲を四つ目垣で囲み、、孟宗竹の藪、広い畑、桧、杉、柿の植え込み、回遊式庭園などがあり、母屋と廊下でつづいた離れは円通堂と呼ばれ、円朝の居宅になっていた。新宿在往時の円朝は、明治24年以降寄席から身を引き、もっぱら禅や茶道に心を寄せていたという。

                           平成3年11月  東京都新宿区教委区委員会』

 一芸に達するとはさすがなものです。さて、文学散歩に関係しては、夏目漱石と正岡子規は寄席が好きで、よく通ったそうですが、漱石が「吾輩は猫である」を書く時に、二代目円遊のしゃべり方をヒントにしたといわれます。その円遊の師匠が円朝でした。 

新宿は坂の町です。
「大木戸坂下」という江戸時代を偲ばせる名の交差点を越えて靖国通りへ出ます。

ここで一緒になって交差するのが「禿(かむろ)坂」です。
坂の下の自証院の横にあった池に禿頭(おかっぱを短く切りそろえたような髪型)の
童達の姿が見られたことから、こう呼ぶそうです。

「大木戸坂下」を下って靖国通りが「禿(かむろ)坂」と交差するところに
成女学園があります。そして小泉八雲の旧居跡です。

成女学園校門
向かって右側に小泉八雲の碑があります。

小泉八雲旧居跡(富久町20 成女学園)

 小泉八雲の東京での最初の居住地です。アメリカの雑誌特派員として明治23年(1890)に来日、島根県立松江中学校の英語教師となり、翌年、熊本の第五高等中学校(熊本大学の前身)へ移りました。

 日本人セツと結婚。神戸で一時英字新聞記者として活躍後、明治29年(1896)帰化し小泉八雲と名乗り、9月、東京帝国大学文学部の講師に招かれ上京して、この地に居を構えました。

 ここから東京帝国大学まで人力車で通いました。月給400円(のち450円)の高給を得ていたと云われます。ここで5年生活し、大久保に移りました。

 小泉八雲に日本語の著作はなく、全て英語ですが、耳なし芳一、雪女、貉など「怪談」が特に有名です。邦訳として『小泉八雲作品集』(12巻、平井呈一訳、恒文社)、『ラフカディオ・ハーン著作集』(15巻、西脇順三郎、森亮監修、恒文社)があります。

 自然を愛した八雲は、近くの自証院の風致を特に愛し、常に散歩していたことが伝えられます。自証院は老杉が鬱蒼と生い茂り、庭は美しい苔で深々と覆われていたそうです。別名瘤寺(こぶでら)と呼ばれたように皮を剥いただけの節がそのままの檜丸太で組み立てられた建物であったことからも気に入ったようです。

 ところが、親しくしていた住職が変わって、寺の経済的な理由から杉の木を切り倒すのを見て

 「なぜこの木切りました。私、心痛いです。今日もう面白くないです。もう切るなとあなた頼み下され」(小泉節子「思い出の記」)とセツに懇願したと伝えられます。

 このようなことからいたたまれなくなって、明治35年(1902)西大久保に転居したとされます。八雲の葬儀は自証院で旧住職の元で行われています。 一つ北よりの道を入ると自証院です。 

自証院(瘤寺、天台宗、市谷富久町18) 

 江戸名所図会を見ると、現在の靖国通りから総門、中門を通って長い参道が続き、杉の高木に囲まれた広い境内に梅の木が諸所にあり、本堂、方丈、庫裡が連なっている姿が描かれています。また、小金井公園には、日光廟を思わせる「旧自証院御霊屋(おたまや)」が移築されています。

 自証院の現状からは想像も出来ませんが、地形は十分に当時を偲ばせます。もとは牛込榎町にあった日蓮宗のお寺で、寛永17年(1640)に三代将軍徳川家光の側室お振りの方(法名・自証院)が埋葬されたため、家光の命により現在地に移り、自証寺と改称されました。小金井公園に移築された霊屋はお振りの方を祀ったものとされます。

 江戸名所図会には『昔は山林に桜多かりし由、諸書に見えたれども、多くは枯れ失せて今わずかに古木二三株存せるのみ。』とあります。江戸名所図会が成立した天保5年(1834)〜7年にはこのような情況であったことがわかります。

 自証院境内には「弘安四(1281)年銘板碑」や宝篋印塔、2体の地蔵尊像などがあります。弘安4(1281)年といえば、弘安の役があった年で、元・高麗軍勢によって筑前・長門が襲撃を受けました。一度に中世の世界に引き込まれ、思わず板碑を見つめてしまいます。

 自証院から次の永井荷風旧居跡へは、靖国通りへ戻って曙橋から市谷台町に行ってもいいのですが、遠回りなので、自証院の横の道から適当に住宅地を抜けて余丁町(よちょうまち)へ向かいます。

どこを通っても市谷台町から抜け弁天への道(302号)に出ます。
ここから永井荷風の旧居を探すのが大変です。

  抜け弁天への道(302号)を弁天に向かって右側歩道のビルに新宿区教育委員会の建てた案内板があります(左画像の自転車の人の前方のビルの柱に黒く見える)。道路の左側から見ると、左から3つ目のビル。この範囲は永井邸であったとされます。右画像の最初のビルの横にある小径を入ると、すぐ右側に「余丁町郵政宿舎」があります。

画像右側が荷風の住んだ旧居跡です。
(正面は東京女子医科大学)
この現況を荷風が描いたら、なんと描写するのでしょう・・・?

永井荷風旧居跡(余丁町75)

 『小説家永井荷風(1879〜1959)が、明治41年(1908)から大正7年(1918)まで住んでいたところ。』とビルの一隅の新宿区教育委員会の解説板は書き始めます。

 永井荷風は、明治12年(1879)小石川区(文京区)金富町45番地(春日町2丁目20)で生まれました。その後、諸処に転居し、あまり学校へは行かず、一時は落語家の弟子になったり、歌舞伎座作者見習いになっています。明治34年(1901)23歳、日出国新聞社に入社、翌年解雇され、暁星学校の夜学に通いフランス語を学びました。その後は、先の新宿区教育委員会の解説を引用すると

 『・・・荷風は本名を壮吉といい、東京に生まれた。明治34年(1901)に暁星学校に入学し、フランス語を学び始めると、フランスの小説家エミール・ゾラに傾倒し、「地獄の花」「女優ナナ」の翻訳を発表して文壇に登場した。

 明治36〜41年まで、父の命に従い実業家をめざして欧米に留学、帰国後この地に住んで創作活動に入り、「歓楽」「冷笑」「すみだ川」などを発表した。当時、腸を病みがちだった荷風は、この家の離れを「断腸亭」と命名し、その日記を「断腸亭日乗」と題した。』

となっています。明治41年帰国した家風は、父の命令の実業化をめざすどころか、その面では、お先真っ暗でした。この年に書かれた作品に「監獄署の裏」があります。

 『・・・お手紙ありがたう御在います。無事帰朝しまして、もう四五個月になります。然し御存じの通り、西洋へ行つても此れと定つた職業は覚えず、学位の肩書も取れず、取集めたものは芝居とオペラと音楽会の番組に女芸人の写真と裸体画ばかり。年は已に三十歳になりますが、まだ家をなす訳にも行かないので、今だにぐづぐずと父が屋敷の一室に閉居して居ります。・・・ 

 語学の教師になろうか。いや。私は到底心に安んじて、教鞭を把ることは出来ない。・・・
 新聞記者になろうか。いや、私は事によったら盗賊になるかも知れない。・・・
 雑誌記者になろうか。いや。私は自ら立って世に叫ぼうとするほど社会の発達 人類の幸福のために
                  夜の目も眠らず心配しているのではない。・・・
 芸術家となろうか。いや、日本は日本にして西洋ではなかった。・・・』

 と書いています。その反面で、創作欲はもりもり湧いたらしく、「悪寒」「カルチェー・ラタンの一夜」「祭りの夜語り」「晩餐の夜」と立て続けに発表、明治42年3月には「フランス物語」を刊行する直前に発売禁止になるという激しい風当たりを受けています。

 明治43年(1910)には、森鴎外、上田敏の推薦により慶應義塾大学文学科教授になり、三田文学の編集を行い、「見果てぬ夢」「紅茶の後」「冷笑」と書きまくっています。この頃から身辺は慌ただしく、父の強いすすめで、明治45年・大正元年9月28日、本郷湯島の材木商の娘ヨネと結婚します。

 その頃、荷風は新橋の八重次と交渉があり、これを秘しての結婚で、12月には八重次とともに箱根に旅行をしています。30日に大雪に逢い31日帰京、八重次のもとに居続けている最中に、父親が脳溢血で卒倒、呼び戻されるような事態になっています。1月2日、父の死をむかえました。

 荷風の心情いかばかりか、はかりかねますが、後日、「断膓亭日乗」(大正15年・1926正月2日=父の命日)に『平生不孝の身にはこの日虫の知らせだも無かりしこそいよいよ罪深き次第なれ』と書いています。

 荷風は父の死を待っていたかのように、2月17日ヨネと離婚します。翌、大正3年3月、母以外の家人の同意を得られない中で、八重次と結婚します。しかし、翌、大正4年、八重次は荷風のもとを離れます。その経過は網野義ひろ氏の人と作品43「永井荷風」から引用します。

 『八重次は「矢はずぐさ」に荷風自らかいているように食事の仕度はもちろん、少しの暇があれば夫の気づかぬうちに机の塵を払い、硯を清め筆を洗い、あるいは鉢物の虫を取り、あるいは古書の綴糸の切れたのをつくろうな
ど殊勝に立ち働いていたが、荷風の浮気が原因で大正四(一九一五)年二月一〇日の夜、「つまりきらはれたがうんのつき見下されて長居は却而御邪魔」云々の置手紙をして永井家を去り、新橋で本巴屋八重次として再び芸妓となった。』(p85)

 5月、京橋区築地1丁目6番地(2丁目とする年譜もある)に部屋を借ります。荷風は腸が弱く持病となっていて、隅田川沿いの中洲にある中洲病院に通い、院長の大石貞夫が主治医でした。築地への部屋借りは、病院通いのためと考えられています。もちろん三味線の音が聞こえる町であることも大きな理由でしょう。

 大正5年(1916)38歳、浅草旅籠町1丁目13番地米田方に移り、3月、病気の理由で慶応義塾大学教授の職を辞します。そして、4月、ここ大久保余丁町の実家(来春閣)に戻りました。7月、玄関脇に一室(6畳)を増築して「断腸亭」と名付けました。腸が弱かったこともさりながら、荷風が好んだ花「断腸花=秋海裳(しゅうかいどう)」からとったとされます。その家について「監獄署の裏」では

 『・・・私の家は市ケ谷監獄署の裏手でございます。五六年前私が旅立する時分にはこの辺は極く閑静な田舎でした。下町の姉さん達は躑躅の花の咲く村と説明されて、初めてああ然うですかと合点するくらいでしたが、今ではすつかり場末の新開町になつてしまひました。変りのないのは狭い往来を圧して聳立つ長い監獄署の土手と、其の下の貧しい場末の町の生活とです。・・・』 

 荷風はここで、「四畳半襖の下張り」を発表しますが、大正6年9月、木挽町9丁目(新橋演舞場近く)に借家を借りて「無用庵」と名付けます。川本三郎「荷風と東京」では

 『「断腸亭日乗」を書き始めた大正六年ころ荷風は、京橋区木挽町九丁目の路地、現在の銀座八丁目あたりに
小さな家を借りていた。

 随筆「断腸花」(昭和九年)によれば、その家は、三十間堀にかかった出雲橋に近い木挽町九丁目の裏通りにある格子造りの二階建て。隣りは深雪という待合茶屋。ここで電話を借りて什出し屋から料理を運んでもらえる便がある。そのころ習っていた三味線を借りることも出来る。真向かいの家は芸者の着物を縫う仕立屋でその隣りは駄菓子屋と豆腐屋。大久保余丁町にある山の手の家とはまったく様子が違う、昔ながらの東京の下町である。』(p56)
 
 として、山の手から下町への荷風の動きととらえています。「断腸亭日乗」はこのころから書き始めたようです。    「九月二十日。昨日散歩したるが故にや今朝腹具合よろしからず。午下木挽町の陋屋に赴き大石国手の来診を待つ。そもそもこの陋屋は大石君大久保の家までは路遠く往診しかぬることもある由につき、病勢急変の折診察を受けんがために借りたるなり。南郷は区内の富家高鳴氏の屋敷。北郷は待合茶屋なり。・・・」とあります。

 文面からは大久保の家から木挽町に来て往診を受け、一時逗留してまた大久保に戻るような時期と受け止められます。この家は「無用庵」と名付けられました。作品の中でも大きな位置を占める日記「断膓亭日乗」は「断腸亭」と「無用庵」で記され始めたように思えます。

 そして、いよいよ荷風の世界を実践します。「無用庵」に1年過ごし、翌、大正7年12月、余丁町の邸宅を売却し、築地2丁目30番地に自宅を購入して転居します。この時代のことを、入江相政(昭和天皇の侍従長、エッセイスト)が、「余丁町停留所」(昭和52年・1977)に次のように書いています。

 『・・・亡父は永井荷風から地所の半分の五百余坪を譲り受けた。私は小学六年生。当然ながら越してからしばらくは、見るともなく、庭を散歩する荷風の姿を見たものだった。

 わざわざのぞいたわけではない。少し尾籠で恐縮だが、私の使う便所の窓から、自然荷風のうちの庭が見えた。だから荷風が庭にたたずんだ姿を、一度だけ見たのである。

 そのころのあのあたりは荷風の「大窪だより」そのままのものだった。東大久保 抜け弁天へいく途中の右側には、坪内逍遙が住んでいた。夕方になると脚立を持って店先のランプに一軒一軒火を入れてまわる人があらわれた。』   

 こんな余韻を持つ家=余丁町の家は荷風が次の時代に移る、まさに象徴のようです。それは、
 一つには、大逆事件をきっかけとする転機であり
 もう一つには山の手と下町の2極ループへの門出
であったのでしょう。余丁町の家は読者にとってもまた意義深いように思えます。

ビルのてっぺんまで入れて、もう一度見回すと、荷風が白い歯を見せているようでした。

東京監獄市ヶ谷刑務所

 現在の小石川工業高校のあたりから富久町児童遊園のあたりまでの区域に東京監獄市ヶ谷刑務所がありました。荷風の父が家を建てるとき、荷風が外国へ旅立つときにはまだ無くて、帰国後目の前に聳え立つ獄舎を見ての印象が「監獄署の裏」です。

 明治44年の「大逆事件」、北原白秋の姦通罪事件などが東京監獄に関係しましたが、昭和12年廃止されました。余丁町児童公園の中に日本弁護士連合会の建てた「刑死者慰霊塔」が立っています。永井荷風は、随筆『花火』(大正8年)の中で、「大逆事件」について次のように書いています。

 『明治四十四年慶応義塾に通勤する頃、わたしはその道すがら折々市ヶ谷の通で囚人馬車が五六台も引続いて日比谷の裁判所の方へ走って行くのを見た。わたしはこれ迄見聞した世上の事件の中で、この折程云うに云われない厭な心持のした事はなかった。私は文学者たる以上この思想問題について黙していてはならない。

 小説家ゾラはドレヒュー事件について正義を叫んだ為め国外に亡命したではないか。然しわたしは世の文学者と共に何も言わなかった。私は何となく良心の苦痛に絶えられぬような気がした。私は自ら文学者たる事についてはなはだしき羞恥を感じた。

 以來わたしは自分の芸術の品位を江戸戯作者のなした程度まで引下げるに如くはないと思案した。その頃からわたしは煙草入をさげ浮世絵を集め三味線をひきはじめた』

 このことについて、川本三郎氏は次のように云います。

 『荷風の転向である。

 もっともいまさら引用するのも恥かしいくらい有名な「花火」のこのくだりは額面通りに受け取らないほうがいいかもしれない。桑原武夫は卓見を述べている。「あそこで彼は、おれは敏感だから差恥を感じたが、世の鈍感な文学者たちはケロリとして芸術家営業をしていると、例のイヤミをいうところに力点をかけているのです」(「永井荷風」、「中央公論」昭和三十五年九月号)

 「無用庵」を別宅にした荷風はいよいよ「三味線」の世界に入っていく。』(荷風と東京p59)

 何とも惚れ込む切り口で、脱帽です。

荷風の「断腸亭」跡と同じ通りを抜け弁天に向かうと一塊りのビルがあって
一部空き地になっているところがあります。

よくも巨人が同じ地域に住んだもので
坪内逍遙の住居があり、文芸協会演劇研究所があったところです。

坪内逍遙旧居跡(余丁町112・114)

 文芸・演劇の巨人・大御所も開発はお構いなしで、表示板は歩道の片隅に、今にも吹っ飛びそうな気配でようやく立っています。書いてあることは凄くて、

 『坪内逍遙宅跡 文芸協会演劇研究所跡 東京都指定旧跡
  所在地 新宿区余丁町112及び114
  指 定 昭和27年11月3日

 文芸協会は明治39年(1906)2月坪内逍遙を中心として早稲田大学の文芸運動と新しい演劇を興すために創設され、42年9月ここにあった逍遙の宅地内に研究所を建てた。

 この研究所は演劇に関する基礎的な知識を授けるとともに、実際演劇を習わせるところで、その第一期生には松本須磨子らがいた。44年公演所を増築して600人を収用する劇場と舞台を造り、それに隣接して書斎と図書室があったが、大正9年逍遙も熱海に移り、協会は解散した。現在は民家が建ち並び、往時を偲ばせるものは何もない。
                       昭和61年3月31日  東京都教育委員会』

 というものです。『往時を偲ばせるものは何もない。』からこそ、当時の写真と区域がわかるようにきちんと表示して貰いたいものです。これでは大東京都の指定旧跡も形無しです。

 逍遙は文京区からこの地に移ってきました。明治22年(1889)のことで、逍遙にとって小説を断ち、演劇へ移行する画期となる場になります。 逍遙は小説を書くことから演劇・新舞踏劇運動家へと転換し、この家をその運動の拠点としました。

 逍遙はペリー来航の6年後(安政6年=1859)に生まれています。日本が大きく、激しく変わる坩堝の中で少年時代を過ごし、明治の変革期に青春を燃やして、その発展期を準備しました。学校嫌いの気取りやで、寄席や遊郭や芝居小屋に入り浸っていました。そのおかげで、猛烈な名古屋弁が数年で純江戸っ子弁になっていたと伝える話もあります。

 根岸の妓楼から迎えた妻を生涯大切にし、養子を中心にして日本の伝統芸術の舞台化を図ったとも云われます。松井須磨子らも去り、大正9年(1920)、熱海に別宅が完成し、ここから転居しました。(2003.11.7.記)

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