坂口安吾と矢田津世子 木枯らしの荒れ狂う一日、 放浪、求道、退廃、神秘、虚無、諧謔・・・、さまざまに評される安吾が 本郷3丁目の交差点を東京大学方面に向かい 菊坂はずっと下り、直進すれば、営団南北線の通る菊坂下に出ます。 その途中、長泉寺への坂をのぼって最初の路地を左に曲がると 大正3年、営業を開始し、昭和19年に終業するまで、最も自由で、勝手気ままで、瀟洒なホテルとして 正宗白鳥、真山青果、大石七分、大杉栄、伊藤野枝、羽太鋭二、竹久夢二、谷崎潤一郎、 瀬戸内晴美はその様を、芸術・学問の鬼に憑かれた人々の住む
『御手紙ありがとうございました。矢口にいて始め二日は何も知りませんでしたが、東京へでてみて物情騒然たる革命騒ぎに呆れました。今日、左記へ転居しました。 それを打ち切るかのように、菊富士ホテルへ移ってきたのでした。何らかの心の決め所があったのでしょう。安吾30歳です。その事情を近藤富 枝は次のように書きます。 『一日会わなけれは息絶えるかと思うほど、純粋な恋心のとりことなっていた安吾は、ある日突然奈落の底につき落とされた。津世子には時事新報社のWという部長と深い交際があったことがわかったからである。あるときWが社内で手帳を落とし、その手帳には矢田津世子と日曜日ごとにランデ
ブーするスケシュールが記されてあり、手帳を拾った笹本寅(当時時事新報社員、のちに作家)が坂口と矢田との感情を知らずに「桜」同人会の席上で、その事実をすっばぬいてしまったのだ。 しかし母親に聞かれると、 ところが安吾が女から逃れて蒲田の自宅に帰ると、どこかで見張っていたかのように、三、四日目に津世子が訪れ、 これをきっかけに、矢田津世子は何度か菊富士ホテルに足を運びました。しかし、『このつつましく、激しく、しかも実らなかった二人の恋』(近藤富 枝)といわれるように、ついに世界を別にします。近藤富枝はさらにその間の事情を伝えます。 『・・・、そうした作家としての真剣な生き方が、逆に恋には臆病な態度となって現われたのだ。強烈な安吾の個性を思えば、自分の生活も作風もすべてを喪うことの覚悟なしにどうしてこの結合が許されよう。安吾の才能はすばらしい。しかし安吾は津世子の才能を認めていないのだ。安吾には津世子の小説は書けない。 自分に出来ないことはすべて否定するのが安吾のやり口だった。ことに「神楽坂」一作で津世子は文壇に認められたのである。あいかわらず失意の底にいる安吾と、安吾の同感できない作品で世に出た津世子と、二人の心理関係に歪みが起き亀裂が深まったのも当然であった。 ある日安吾は、津世子と本郷三丁目のフランス料理を食へ、そのあと塔の部屋へ彼女を誘った。安吾は今宵こそと思い、むしろ情欲はなく、あるのはただ決意の惰性だけであったが、津世子を抱きしめた。そして風をだきしめたような思いに襲われて、うちひしがれる。このたった一度の接吻が別れの日となり、その夜安吾は絶縁の手紙を津世子におくった。六月十七日である。それ以後二人は会わず、昭和十九年三月に津世子の永眠までその誓いは破られなかった。』(以上 近藤富 枝 本郷菊富士ホテルから引用) 七北数人氏は「評伝 坂口安吾 魂の事件簿」(集英社 p126)で、この時のことを次のように紹介しています。 『・・・その後、事務的なハガキを除けば最後の矢田宛書簡が六月十六日に投函される。「吹雪物語」の原形となる長篇を書きはじめた頃である。 1937(昭和12)年1月31日(29日とも云う)、安吾は菊富士ホテルを定宿にしている尾崎士郎らに見送られて京都に出立します。「命をちぢめてもいいと思つて」書き続けた「吹雪物語」は安吾の病気も重なり苦痛を伴うものでした。近藤富 枝は「・・・、途中から作品の出来栄えに自信を失い、絶望し、市井にまみれることで苦しみながら逃れようとした。そしてその間、尾崎士郎からは毎月十円ずつ金が送られてきていた。」とします。 1938(昭和13)年6月、安吾は「吹雪物語」の原稿を持って上京し、再び菊富士ホテルの塔の部屋に入りました。7月、竹村書房から「吹雪物語」は出版されますが、サッパリ売れなかったようです。安吾は囲碁にうつつを抜かし、翌年5月16日、茨城県取手町に移ります。滞納を重ねた部屋代の代わりに掛け軸を置いてゆきます。 『その軸は、木の洞の傍らに二本の竹が勢よく描かれている河野通勢の絵に、尾崎士郎が左のような賛を行なっている。 戦中の暗い時代、小田原や新潟を転々とし、歴史書を読み漁る中で、「黒田如水」「二流の人」などを書きました。1944(昭和19)年3月14日、矢田津世子の病死を知ります。そして、戦後には、アッと云う間に「流行作家」(この言葉に苦笑しているでしょう)になっていました。推理小説、捕物帖を含め、凡人には追っても追い切れない世界を築きました。 ・・・・・見はるかす武蔵野が真紅に焼ける夕暮れという時分に 安吾は、途方もなく気に入った一つの集落を見つけ出したのでしょうか。 2002年は坂口安吾と矢田津世子の当たり年 父 神楽坂 旅役者の妻より 女心拾遺 凍雲 痴女抄録 茶粥の記 鴻ノ巣女房 『今回、文庫収録された作品の多くには、家長制度の時代を生きた「妾」など、不遇な女性たちが登場する。支芸評論家の川村湊氏は、「彼女は美人作家というイメージとは裏腹に、社会的にも支学的にも無視されてきた女性たちの姿をいとおしむように書いた女流作家の先駆け。題材は一見古めかしいが、家族の崩壊が叫ばれる現代、家の問題を考えさせる作品の力がある」と評価する。 「花蔭の人矢田津世子の生涯」の著書がある作家、近藤富枝さんは、「矢田さんは、命がけで 文学に精進した修行僧のようにストイックな作家。肺炎を患い、胸に氷を当てながら執筆したような人で、作品はよく練られていて、いま読んでも面白い」という。 偶然だが、先月には矢田と交流があった元読売新聞記者で、若くして戦病死した文学者の作 品集「平田耕一全著作」(邑書林)が出た。この著作には矢田との間に交わされた書簡が収録されており、その中で矢田は「私は自分のかくものをすくなくとも五度以上はよみかえし、筆を入れる事にしてゐます」と書いている。文学への信頼が揺らぐ時代、 文学を信じた作家の作品に光が当たることの意味は小さくない。(鵜)』 6月10日、七北数人(ななきたかずと)氏の「評伝 坂口安吾 魂の事件簿」(集英社)が出版されました。安吾文学の背景や解釈には千人千通りのものがあります。しかし、今度の「評伝 坂口安吾 魂の事件簿」は見事です。その徹底した検証ぶりは驚くばかりです。 例えば、坂口安吾と矢田津世子の最初の出会いは、普通1932(昭和7)年とし、その時期は夏とされますが、七北数人氏はさまざまな行動記録を積み上げ、次のように結論付けています。 『つまり、二人の出逢いは十月半ば以降、翌年一月までの間ということになる。二人の間に交わされた膨大な量の書簡のうち、矢田が書き送った分は残っていないが、安吾の書簡も三三年一月二十三日が最も古く、三二年の分が一通もなかったこと、安吾の自伝的小説においても三二年にどんな付き合い方をしていたのか判然としなかったことなどの謎もこれで解ける。書簡が失われたのではなく、出逢っていなかったのである。 万事この調子で、安吾の行動、友達づきあい、作品の背景には、詳細な裏打ちがされています。この本と一緒に、安吾作品を読む楽しみが増えました。でも、正直の所、今後の安吾作品の接し方に震えが出ます。(2002.6.21.記)
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