宮沢賢治の大きなトランク
(大正10年の上京)

『・・・あれは茶色なズックを張った巨きなトランクだった。
大正十年七月に、兄はそいつを神田あたりで買ったということだ。

トシ ビヨウキ スグ カヘレ

という、妹の病気を知らせる家からの電報で、
兄が狼狽えてその巨きなトランクを買ったら、汽車賃の外に銀貨が一枚残ったので、
小さな梅びしおを土産に買ったということだ。・・・

・・・手っ取り早く言ってみれぱ、その年の正月に二十六歳だった兄は、
念仏とお題目のことについて、父と激しく話し合った後で、いきなり東京へ逃げたのだ。

東京へ着いたら六銭余ったので、二度ほど豆腐をたべ、三日仕事をさがし、一回卒倒したということだ。
それから本郷の菊坂町では、芋と豆腐と油揚げを毎日食べて、筆耕もやったし辻説教もやり、
童話もうんと書いたと言う。

一カ月に三千枚も書いたときには、原稿用紙から字が飛び出して、
そこらあたりを飛びまわったもんだと話したこともある程だから、
七カ月もそんなことをしている中には、原稿も随分増えたに相違ない。

だから電報が来て帰宅するときに、あんなに巨きなトランクを買わねばならなかったのであろう。・・・』
(宮沢清六 兄のトランク 筑摩書房 1987 p67)

この本には、弟さんの名文と前方を5分の1ほど空けて、岩手軽便鉄道の鉄橋を、銀河鉄道のように
蒸気機関車が煙をたなびかせる写真があって、賢治の故郷と東京の生活を重ねさせます。

 地元の文京区教育委員会発行「ぶんきょうの史跡めぐり」p35では宮沢賢治旧居跡(本郷菊坂町75番地 稲垣方)として、大正10年1月、25歳の時に上京した賢治が間借りをした家が、平成2年末まで残っていて、二軒長屋の左側の2階6畳間に住んでいたことを伝えます。また、

『創作熱最高潮

 生活のための労働と布教活動と平行して、童話、詩歌の創作に専念した。妹トシの肺炎の悪化で同年八月には急ぎ花巻に帰ることになるが、皮トランクにいっぱいになるほど原稿が入っていた。童話集『注文の多い料理店』(大正十三年刊)に収められた『どんぐりと山猫』、『かしはばやしの夜』などがこの上京中に作られている。左側の細い路地に掘抜井戸があったが、菜食主義者で自炊した賢治が使用したと考えられる。』

 と紹介しています。



現在は、本郷4丁目35−4 ベルウッド本郷(画像女性の右側)に改築されています。
道路は菊坂下通り、右100メートル足らずに、樋口一葉の旧居跡があります。

 文京ふるさと歴史館、常磐会館跡を経て「たどん坂」を降りて右折しても、本郷3丁目から菊坂上通りに入り、長泉寺、オルガノの前、よしむら歯科と花明生花店の間の石段を下っても、この静かな場所に着けます。



菊坂上通りからの宮沢賢治旧居跡、左・よしむら歯科、右・花明生花店、正面のビルがベルウッド本郷

無断上京

 大正10年(1921)1月23日、賢治(25才)は、家人に無断で上京したようです。上京の理由は、親戚の関徳弥に宛てた大正10年1月30日付の手紙が残されていて、次のように書いています。

 『何としても最早出るより仕方ない。あしたにしようか明後日にしようかと二十三日の暮方店の火鉢で一人考えて居りました。その時頭の上の棚から御書が二冊ばったり背中に落ちました。さあもう今だ。今夜だ。時計を見たら四時半です。汽車は五時十二分です。すぐ台所へ行って手を洗い御本尊を箱に納め奉り御書と一所に包み洋傘を一本持って急いで店から出ました。』 「御書」=「日蓮上人御遺文集」
 
 なお、山内修氏は、この時の賢治の行動を次のように紹介しています。

 『賢治は上京するとすぐ鶯谷の国柱会館(国柱会中央事務所)を訪ねている。その時応対した高知尾 智耀(たかち お ちよう)は、当時の様子を次のようにいう。

 「私は昨年、国柱会の信行員として入会をゆるされた岩手県花巻の宮沢賢治というものであります。爾来国柱会のご方針にしたがって信仰にはげみ、一家の帰正を念じて父の改宗をすすめておりますが、なかなか了解してくれません。これは私の修養が足らないために父の入信が得られない。この上は国柱会館へ行って修養をはげみ、その上で父の入信を得るのほかはないと決意し、家には無断で上京して来たものであります。どういう仕事でもいたしますから、こちらに置いて頂きご教導をいただきたいのです」ということであった。・・・』(山内 修 編著 年表 作家読本 宮沢賢治 河出書房新社 p70〜71)

鶯谷の国柱会館(国柱会中央事務所)

 JR山手線、鶯谷駅ホームから上野駅方面を見ると、陸橋があり、華(はな)学園の大きなビルが見えます。ここに国柱会館がありました。当時の様子を伝える写真は、山内 修 編著 年表 作家読本 宮沢賢治 河出書房新社 p68に掲載されています。

 陸橋を言問通り方面に渡ると右側にビルの一群があります。ここが国柱会館があった跡で、奥田弘さんは「賢治地理」・宮沢賢治の東京における足跡(小沢俊郎編 学藝書林 1975年 p127)で「鶯谷ガレージ」であったことを突き止め、福島泰樹さんは、宮沢賢治と東京宇宙で

 『・・・車道になってしまった坂(「陸の橋」)を、かまわずのぼってゆく。それにしてもと思う、奥田弘が昭和四十一年に調査した時点での国柱会館跡地・台東区桜木町一番地(現・台東区根岸一丁目)あたりの風景もずいぶんと変わってしまったな。奥田手書きの地図には、「鶯谷ガレージ」が記載されている。そう、たしかにグランド跡地は、ながく野外駐車場となっていたな。

 コークスを一面に撒き散らしたような黒い色をした空き地は金網のネットのあるグランドになっていたな。・・・
・・・少しの駐車場を残して、華学園(お嬢さんたちが通う、のどかな洋裁学校であったが……)の大きなビル(学舎とは言い難い)が線路間際に建ち、その脇には落合学院(予備校)のビル。隣のビルには「パチンコダイヤモンド」の大きなネオン(ビル全体が遊興場なのであろうか)。そのまた隣は「ダンスホール新世紀」。親の代から支那ソバの味が語り継がれていた中華料理「珍々亭」の跡地には「ゲームセンター」。とても学校居並ぶ文教地区とは言えそうもない。・・・』(福島泰樹 宮沢賢治と東京宇宙 NHKBOOKS 785 p18)

 と現状を紹介しています。

 学園、パチンコ店、ダンスホールとビルが並び、ひっきりなしに人が通り、陸橋には車の絶え間がありません。もし、賢治がこの姿を見たら、『注文の多い料理店』はどんな風に展開したのだろうかと、改めて物語に惹かれました。

 今回の上京の背景にある、賢治と仏教の関係は小さい頃からのものです。中学時代から法話に魅了され、1912(大正元)年11月3日、16歳の賢治は、父に「歎異鈔の第一頁を以て小生の全信仰と致し候」と書き送っています。この時代には、父を初めとする家の信仰である浄土真宗に関心が向けられていたようですが、1918(大正7)年、22歳、盛岡高等農林学校実験指導補助につく頃から法華経に触れ、法華経の勉強をする決心が語られています。

 1919(大正8)年には、妹トシの病気看病のために上京しますが、その時、国柱会の創立者田中智学に合い、講演を聞いています。1920(大正9)年(24歳)には、国柱会に入会し、花巻のまちに、太鼓をたたいて「南無妙法蓮華経」の題目を唱えて歩く賢治の姿がありました。

 こうしてみると、大正10年(1921)1月23日の無断上京は、相当の意を決してのものであったことがわかります。上京して、先ず、ここ国柱会館を訪ねた意味もうなずけます。

文信社

 「さあ  ここで種を蒔きますぞ。もう今の仕事(出版、校正、著述)からはどんな目にあってもはなれません。ここまで見届けて置けば今後は安心して私も空論を述べるとも思はないし、生活ならば月十二円なら何年でもやって見せる。・・・」

 上京してすぐの関徳弥宛の手紙です。仕事として、出版、校正、著述をしていること、そして月12円の収入があることが書かれています。これらについては多くの見解がありますが、仕事仲間であった鈴木東民は次のように書いています。

 『・・・アルバイト学生だったわたしはそこヘノオトを貸して一冊につき月八円、ガリ盤で切つた謄写の原稿の校正をして、四ペエジにつき八銭の報酬をうけていた。賢治の仕事はガリ盤で謄写の原稿を切ることであつた。かれはきれいな字を書いたから、報酬は上の部であつたろうと思うが、それでも一ペエジ二○銭ぐらいのものだつたろう。この仕事を専門の職業としている人でも、一日に一〇ペエジ切るのは容易ではないといわれていた。

 ・・・そのころのかれは袴を必ずつけていたが、帽子はかぶらなかつた。いまでこそ無帽はあたりまえのことになつたが、当時、袴をつけて無帽というのは異様に感じられたものだ。その袴の紐にいつも小さい風呂敷包がぶらさがつていた。最初、わたしはそれを弁当かと思つていたが、童話の原稿だということだつた。

 もしこれが出版されたら、いまの日本の文壇を驚倒させるに十分なのだが、残念なことには自分の原稿を引きうけてくれる出版業者がいない。必ずその時が来るのを信じているなどと微笑をうかべながら語つていた。そういうときのかれの瞳はかがやき、気魂にあふれていた。』(筑摩書房 宮沢賢治全集 「筆耕のころの賢治」)

 また、奥田弘さんは、先に紹介した「賢治地理」・宮沢賢治の東京における足跡(小沢俊郎編 学藝書林 1975年 p152)で次のように推論しています。

 『・・・しかし、月十二円の生活では、相当苦しかったろうと思う。鈴木東民氏の「筆耕のころの賢治」(筑摩版全集別巻)から推定される収入と、父あての二月二四日付の書簡のそれとでは、だいぶ差異があるので、にわかに断じがたいけれども、後になって、食事を二度にへらしたり、また父から仕送りも受けるようになっているところからみて、筆耕の収入はそれほどでもなかったようである。』

 賢治が上京して、収入を得る糧としたのは筆耕の仕事でした。コピ−や電子処理が進んだ現在では、もうほとんど見られなくなりましたが、ヤスリの上に油紙を載せて、鉄筆で文字を切り込む、いわゆる謄写版のガリ版切りです。大学の講義を謄写印刷するための原盤つくりでした。その文信社は東大赤門前の大学堂眼鏡店の辺りにありました(本郷6丁目2番地、現在は5丁目)。

東京大学赤門               大学堂眼鏡店

 菊坂町〜文信社〜国柱会のトライアングル

 大正10年上京の時、賢治が過ごした三つの拠点を紹介しました。菊坂町の稲垣宅から文信社までは500メートル程度の距離です。近道をすればアッと云う間に着きますが、鶯谷の国柱会までは相当の距離があります。朝起きて文信社に出社して働き、退社後は国柱会で宗教活動をし、その間に原稿を『一カ月に三千枚も書いた』のですから驚くべき生活でした。『袴の紐にいつも小さい風呂敷包』をぶらさげて、書きためた原稿を持ち歩いている賢治の姿が浮かびます。

 作品「どんぐりと山猫」は注文の多い料理店の冒頭に置かれています。『三百でも利かないよう』な数のドングリが集まって、それぞれが、誰が一番「えらいか」を言い合って三日、決着が付かずに、山猫が裁判をする話です。そこへ招かれた一郎は山猫から「どうしたらいいでしょう」と相談されます。一郎はわらって答えます。

 『「そんなら、かう言ひわたしたらいいでせう。このなかでいちばんばかで、めちやくちやで、まるでなつてゐないやうなのが、いちばんえらいとね。ぼくお説教できいたんです。」

 山猫はなるほどといふふうにうなづいて、それからいかにも気取つて、繻子(しゅす)のきものの胸を開いて、黄いろの陣羽織をちよつと出してどんぐりどもに申しわたしました。

 「よろしい。しづかにしろ。申しわたしだ。このなかで、いちばんえらくなくて、ばかで、めちやくちやで、てんでなつてゐなくて、あたまのつぶれたやうなやつが、いちばんえらいのだ。」

 どんぐりは、しいんとしてしまひました。それはそれはしいんとして、堅まつてしまひました。』

 山猫はお礼にと
 「あなたは黄金のどんぐり一升と、塩鮭のあたまとどっちをおすきですか。」
 「黄金のどんぐりがすきです。」

 山猫は鮭の頭でなくて、まあよかったというように・・・して、一郎は黄金のどんぐり一升をもらって自宅まで送られますが、着いてみると、あたりまえの茶色のどんぐりに変わっていて、いつの間にか山猫は姿を消していた。というお話です。

 途中、裁判が終わった時、山猫から名誉判事になってくれと頼まれ、通知に「・・・これからは、用事これありに付き、明日出頭すべし」と書いていいかと聞かれ、一郎が断る場面があって

 『それからあと、山ねこ拝といふはがきは、もうきませんでした。やつぱり、出頭すべしと書いてもいいと言へばよかつたと、一郎はときどき思ふのです。』

 で、この話は終わります。この部分は“童話”?を離れてさまざまに解されていますが、「ぼくお説教できいたんです」とか「山猫は鮭の頭でなくて、まあよかったというように」(菜食主義)とか、菊坂町〜文信社〜国柱会を往復するこの当時の賢治の姿を彷彿とさせます。

 賢治の生活

 花巻を離れ、ここ本郷菊坂町では、どのような生活をしていたのでしょうか。弟の清六さんは『芋と豆腐と油揚げを毎日食べて』と賢治の菜食主義を紹介しています。作品「ビジテリアン大祭」でも明らかなように、賢治は菜食主義を重んじ、自らもそれを通したと云われます。

 最近、鶴田 靜さんの「ベジタリアン 宮沢賢治」(晶文社 1999年)を読みました。賢治のどの作品からもベジタリアン・宮沢賢治の思想と感覚を掴みだして示す優れた本ですが、菜食主義者を「肉を食べずに野菜を食べる人」と考え、それを仏教に絡ませて理解していた単純な頭に冷水を浴びせられました。

 銀河鉄道の中の話です。 
 『銀河鉄道に乗っていたジョバンニとカムパルネラは、川の向こう岸に、ルビーよりも赤く透き通って燃えている火を見た。それは蠍
(さそり)の火だった。その火のことをよく知っている女の子がこう説明した。

 昔、野原に一匹の蠍がいて、小さな虫を殺して食べて生きていた。ある日、いたちに見つかって食べられそうになり、一生懸命に逃げた。ついにとらえられそうになったとき、前にあった井戸に落ちておぼれ始めた。そこで蠍はこう祈った。

 「ああ、わたしはいままでいくつのものの命をとったかわからない、そしてその私がこんどいたちにとらえられようとしたときはあんなに一生けん命にげた。……どうしてわたしはわたしのからだをだまっていたちに呉れてやらなかったろう。……こんなにむなしく命をすてずどうかこの次にはまことのみんなの幸のために私のからだをおつかい下さい」。

 すると蠍のからだは真っ赤な火になって燃え、永遠の命となって明るく闇を照らし、人々の役に立っているという。』

 この話を鶴田 靜さんは『食物連鎖を受け入れずに転生する別の生き物を、賢治は「銀河鉄道の夜」に登場させている。』とし、

 『・・・賢治は世界全体的な幸福を目指したが、その手段とした賢治自身のベジタリアニズムを、仏教の枠組みの中だけにくくってしまうのは狭窄(きょうさく)である。彼のそれは、宗教を超え、普遍的な倫理の天地へと拡大されているからだ。

 賢治の食を果実に見立てると、種は仏教かもしれない。が、その種の中にある核はベジタリアニズムである。種のまわりには身があるが、それは、食物が生産される風土とそこに生きる人々の生活(文化芸術を含めての)である。その果実は、岩手県のイーハトーブという地域だけでなく、世界全体に生り、食されるものである。・・・』
 (鶴田 靜 「ベジタリアン 宮沢賢治」 晶文社 1999年 p20〜41)

 と説明するのです。国柱会で法華経の実践活動をしながら、「食物連鎖を受け入れずに転生する別の生き物を」考えていたとしたら、ここ菊坂町の生活は食物連鎖を断ち切る都会と自然の連還が生きる花巻との別種の世界を統合する、まさに賢治の原点を生み出す母胎であったと思われます。

 『本郷の菊坂町では、芋と豆腐と油揚げを毎日食べて、筆耕もやったし辻説教もやり、童話もうんと書いた』(宮沢清六 兄のトランク)生活は後の賢治を育てる栄養源であったのでしょう。

 文信社での仕事は『朝八時から五時半まで座りっ切りの労働です』と手紙に書き、金田一京助が『ある日上野の山の花吹雪をよそに、清水堂の大道で、大道説教をする一味に交わり、その足で私の本郷森川の家を訪ねて見えた。』と書くように、そこには、日々を労働と信仰と作家として過ごす、もの凄い緊張の連続があったのではと、推測するところです。

この辺りで大道説教をしたのでしょうか。後が上野の「清水堂」。

 本郷から鶯谷と賢治が通ったであろう道を歩くと、大都会の奥に潜む魔物に、賢治がどんなに反応したのか、「注文の多い料理店」を初めとする各シーンが浮かんできて、肌寒い感じがやり切れませんでした。賢治の東京の軌跡を詳細に追う奥田 弘さんは、この時の上京について、次のように書いています。

 『・・・いずれにしても、この時の上京は、彼の生活史、制作史の上で、東京という巨大な都会の断面と、その中にうずまく都会人の生活とを、じかに見聞することによって、人生、社会、宗教、文芸に対する考え方がより深められた点で、重要な意味を持っていると思う。・・・』(同上 p153)

 「もう少し濃いといいひげになるんだがなぁ、かう云う工合(ぐあい)に。剃らないで置きましょうか。」
 「いいや、だめだよ、僕はね、きっと流行るような新しい鬚の形を知っているんだよ。」

 「どんなんですか。」
 「それはね。実は昔の西域のやり方なんだよ。・・・」

 「今どこで流行っていますか。」
 「イデア界だ。きっとこっちへもだんだん来るよ。」

 「イデア界。プラトンのイデア界ですか。いや。アッハハッハ。」
 「アッハハッハ。君。どうせ顔なんか大体でいいよ。」

 の「床屋」は本郷区菊坂町と添え書きがあります。「注文の多い料理店」の「どんぐりと山猫」「かしわばやしの夜」などはここで書かれたとされます。

 せっかくの機会だったのに 出版実現せず

 トシ ビヨウキ スグ カヘレ

という、妹の病気を知らせる家からの電報で、原稿を一杯に詰めて花巻に持ち込まれた大きなトランクは、2年後再び上京します。この時、トランクが空っぽになっていたら、宮沢賢治が、もっともっと早く世に知られたでしょうに、・・・。

 『・・・大正十二年の正月に、兄はその大トランクを持って、突然本郷辰岡町の私の下宿へ現われた。「此の原稿を何かの雑誌社へもって行き、掲載さして見ろじゃ」と兄は言い、それから二人で上野広小路へ行って、一皿三円のみはからい料理を注文して財布をはたき、さっさと郷里へ引き上げた。


龍岡町の辺り 賢治の弟「清六」氏が下宿した

 当時学生の私は、そのトランクを「婦人画報」の東京堂へ持って行き、その応接室ヘドシッと下し、小野浩という人に「読んで見て下さい」と言って帰ったのだ。あの「風の又三郎」や、「ビヂテリアン大祭」や「楢ノ木大学士の野宿」などと言う、桁っ外れの作品が、どうして婦人画報の読者たる、淑女諸氏と関係ある筈があろう。そいつを思う度毎に、私はあまりの可笑しさに、全く困って了うのだ。

 「これは私の方には向きませんので」と数日後にその人は慰勲に言い、私は悄然とそれを下げて帰ったのだ。
そしてそのトランクは、またうすぐらい蔵の二階にしまわれて、九年という長い年月を経たのである。・・・』
 (宮沢清六 兄のトランク 筑摩書房 1987 p70)

 惜しいことをしてしまったものです。「鹿踊りのはじまり」「注文の多い料理店」「春と修羅」「イギリス海岸」などもトランクには入っていたはずです。

 宮沢清六さんの云う「東京堂」は「東京社」で、当時、「婦人画報」と「月刊絵本コドモノクニ」を発行し、野口雨情や北原白秋が活躍していました。「あの町この町」「雨降りお月さん」「兎のダンス」など、現在も親子で口ずさまれている名曲はここから生まれています。そこに、賢治の作品が掲載されていたら・・・? 本当に残念です。

 堀尾静史 宮沢賢治年譜では、

 『一月四日(木)上京、本郷龍岡町に寄宿中の弟清六を訪ね、大トランクにつめた童話原稿を婦人画報及び月刊絵本コドモノクニ発行所東京杜へ持参するよう言い、その後上野の料理屋で兄弟会食する。なんでもみつくろってもってきてくださいというとさざえの壷やきが大皿にもって出され、「これはとられるかな」と笑った。

 清六は言われた通り勇敢に東京社へいき編集部の小野浩にあい、日を改めて出向くと雑誌にむきませんからとことわられた。なお六日から五日間、鶯谷国柱会館で国性劇の試演があり、清六を伴って観劇する。演し物は田中智学作「林間の話」「凱旋の義家」「函谷関」の三本で、「函谷関」では田中智学がそのへんを掃除する端役で出演した。

 その後清六は兄がどこへいったのか、どこにいるかも知らなかったが、やがて風のように現われて、トランクをぶらさげて十一目帰花。

 このときの行動は明確ではないが、静岡県三保の国柱会本部へ行ったと推定する。それは同会の妙宗大霊廟に
トシの分骨が合祀されたのが同会記録に一月とあり、トシの戒名教澤院妙潤日年善女人は一月九日に授与されて
いるからである。』

 としています。

 話は変わりますがこの時のトランクは革製のものとする考えもあります(小倉豊文 大トランクと「雨ニモマケズ手帳」の運命 小学館 群像日本の作家12 宮沢賢治 p246)。なお、賢治が上京した時を思わせる、賢治自身の作品に「革トランク」がありますが、別に書きます。

 本来なら、今回の散歩はここで終わるのですが、トランクのその後についてだけ追っておきます。

 トランクの蓋の裏

 トランクは藏の二階にしまわれました。しかし、その後、もう一度、昭和6年9月に上京します。今度は東北採石工場の技師となった賢治によっ壁材料の見本をパンパンに詰めて運ばれてきたのでした。

 9月20日、午後東京駅に着き、神田駿河町の八幡館に宿泊します(現在の千代田区神田駿河台1丁目4番地 奥田 弘「宮沢賢治の東京における足跡」p161)。その夜です。激しく発熱し、賢治は自ら危険を感じ、父母への遺書、弟妹への別れが書かれます。

この中の 奥田 弘「宮沢賢治の東京における足跡」は実に詳しい。

 9月27日、寝台車で花巻に帰り、そのまま病床に着きます。10月3日、「雨ニモマケズ」が手帳に書き込まれます。病は一進一退で、昭和8年9月21日永眠しました。トランクの蓋は弟清六さんの手で開けられました。その時のことを清六さんは次のように書いています。

 『・・・あのトランクについての思い出は、最後に一番大切なことが残されている。実は私はそのことを長い間気付かなかったのであるが、あのトランクの蓋の後には、ポケットのような袋があったのである。私はそのポケットの中から、見なれない一冊の手帳と、両親と、私たち弟妹に宛てた二本の手紙を発見した。

 その手帳の最初の頁にはこんなことが鉛筆で書かれていた。

昭和六年九月廿日
再ビ東京ニテ発熱

大都郊外ノ煙ニマギレントネガヒ
マタ北上峡野ノ松林二朽チ埋レンコトヲオモヒシモ
父母ニ共ニ許サズ

癈躯二薬ヲ仰ギ
熱悩ニアヘギテ
唯是 父母ノ意 僅
(わずか)二充タンヲ翼(ねが)

  それからその手帳には、「雨ニモマケズ」とか「月天子」とか、さまざまの詩や詞が書かれてあり、この手帳と手紙が、遺稿全部の中でも、非常に重要なものであることが、朧ろげながら私にも解って来た。・・・』
 (宮沢清六 兄のトランク 筑摩書房 1987 p74)

 賢治の上京の中では、一番良いときだったかも知れません。

上野 忍ばず池

(2002.7.13.記)

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