たまらん坂(2)
(黒井千次 武蔵野短編集)



くにたち中央図書館

 要助は図書館へ行った。
 まず、落武者を捜そうとして、合戦録を調べた。関八州の古戦緑を手に取った。上杉謙信と武田信玄の争いであり、多摩周辺には近づいて来てくれない。ようよう、分倍河原の戦いや元弘三年の新田義貞と鎌倉勢の戦いが出てきた。

 さらに調べると
 『・・・この付近一帯に小さな戦いは他にも散在したようで、時代と地域の幅を広げるにつれ、小手指原の合戦とか、女影原の合戦とか、立川原の合戦とかの名称が要助の知識に付け加えられてくる。・・・しかし、いずれの書物も・・・どこぞの落武者が域を喘がせて逃げ登った小さな坂道などが書き残されているとはとうてい思えないのが恨めしかった。

 ・・・合戦についての小さな知識が貯えられれば貯えられるほど、、そこから「叢林の中の小道」への距たりは大きくならざるを得なかった。つまり、合戦は何時のものでもかまわなかったし、それなりの落武者はいくらでも存在すると思われるのに、彼等の内の誰一人として小さな坂道を登ろうとはしてくれないのだ。』

 1階に地誌を求めた。

 『「国立」という地名が表題にはいった一冊を要助は気軽に引き抜いた。著者は古老というほどの歳の人ではなかったが、それは郷土の土地のあちこちに纏わる史実や言い伝えを丹念に集めた風土記ふうの読みものらしかった。

 目次を追ううちに、国立の坂についてまとめた章のあるのを要助は発見した。一気に横に走った要助の眼は「たまらん坂」という文字にぶつかった。もどかしくそのぺージを開くと、旭通りから府中に向う途中のだらだら坂がそれであり、四、五十年前まではあまり人通りもない林道で現在よりは急な坂であった、と書かれている。    

 江戸へ向って坂を登っていた旅人が、これはたまらん、と言ったのでその通り名が生まれた、と呼び名の由来が説明されていた。求めるものが、案外手近な所からひょいと顔を出しかかったようで要助の気持ちは昂ぶった。』

 さらに追った。

 『要助は緊張してぺージをめくった。坂の名称は前の本と同じく「たまらん坂」と表記されていたものの、本文の一行目を読んで彼は突き放された。この坂の名の起りはまだ新しい、と書かれていたからだ。地形上の説明はあまり異っていなかったが、国立地区が開発される頃までは国分寺の駅へ通ずる唯一の林道であった、と書き加えられている。

 それに続けて坂の名の由来が短く紹介されているのを読んで要助は一層落胆した。そこには、昭和の初め頃にこの坂をランニングで登り降りした大学生達が急な勾配に閉ロして、これはたまらん、と繰り返したところから坂の名前がついた、と述べられていた。江戸時代の旅人が、こちらの本では昭和初頭の学生に変っているのだった。』

 『落武者の影が俄に薄れ衰えて、我が身の廻りから立去ろうとする淋しさを要助は感じた。彼が消え去ってしまうなら、後には舗装されて両側に狭い歩道を持つ「多摩蘭坂」が残されるだけではないか。・・・
 ・・・このままでは、落武者は半殺しの状態であり、宙吊りに放置されてしまっている。・・・』

 要助は「地域資料室・二階」の張り紙を見て、『もしや、という気持ちが渇いてひりつく咽喉と熱い疲労の溜まった腰を二階へ押し上げていた。』

  そこで、透明なビニールのカバーをかぶせた「国立・あの頃」(国立パイオニア会編)を手にする。一橋大学関係の同窓会の文集ででもあるらしく、自費出版めいた匂いを漂わすごく内輪の出版物のようだった。昭和3年、4年、5年と恐らく卒業年次別に集められた50〜60人の文章が詰め込まれている。



くにたち中央図書館には、要助の見た「国立・あの頃」が蔵書になっています。
とても物静かな、親切な司書さんに案内されて、この前に立った時、思わず、くらくらっとしました。
黒井作品のファンで、是非写真を撮りたい、とせがむと
わざわざ館長さんの許可を得てくださった。

 要助はページを繰る。その中に

 『「たまらん坂その他」という表題が身を隠しているのを要助は偶然拾いあげた。・・・卒業後三十年して国立を訪れた筆者のK氏が、思い出の「たまらん坂」が「多摩蘭坂」の名称で今日も生き続けていることを知って懐しさと愉快を感じると同時に、もしもこの坂の名を漢字で表わすなら、宛字などではなく「堪らん坂」と書くべきだ、と述べていたからだった。

 坂の名の表記について、かつて自分が抱いたものと全く同じ考えが書き記されている。K氏に背を押されるようにして要助は先を読んだ。K氏によれば、昭和二年、箱根土地株式会社が開発を計画した学園都市の走りとして、一橋大学の専門部が神田から国立に招致された。「たまらん坂」は、当時は国分寺に向けて雑木を
切り開いた赤土の坂で、まだ名はなかったという。

 学生の通学は八王子行の汽車によったが、その頃省線(国電)は今の国立の一つ手前の国分寺迄しか来ていなかったため、学生は汽車に遅れると国分寺まで電車に乗り、駅前に待っていた一台だけのタクシーを共同で利用するか、四キロほどの道のりを歩くしかなかった。

 ようやく「たまらん坂」の上まで辿り着くと校舎が見えるのだが、ちょうどその辺りで始業の鐘が鳴り始める。天気の好い日はまだ救われたが、雨降りの折などは赤土が泥檸んで足を取られ、走ることも出来ない。ズボンを泥まみれにして土のこびりついた重い靴で教室に駆け込むと、もう先生は出欠をとっている。

 辛うじて返事をすませた後、「こいつぁ、堪らん」と息絶え絶えの言葉が口から洩れたのだそうである。これが「たまらん坂」の名の起こりだ、とK氏は明言している。やはりそうなのか、と要助は肩を落とした。・・・』

 『それで、落武者の憑き物はやっと君から落ちたわけか。』・・・
 『いや、もう少し後があるんだ。』

 要助は、手の中の本を閉じようとしてもう一度目次に目を戻した。そして、最後の方にY氏の「多摩蘭坂物語」という標題を発見した。国立の新校舎に通い始めることになったY氏は近くの農家に下宿した。その宿舎の周囲には一面にコスモスが乱れ咲いていた。

 『ある晴れ上がった秋の日、長い袴をはいいた音楽学校の女生徒達が、坂を登って来るとコスモスの前に足を停めた。やがて彼女達は花を摘み始めた。秋の日射しの中に群がり咲くコスモスの可憐な色がそれを摘む人々の顔に照り映えて、女生徒達の姿を一層美しいものにせずにはおかなかった。

 部屋にいたY氏等学生は、花に手を伸ばす彼女達の姿を息を殺して見つめていた。暫くして、花を手に溢れさせた女生徒達は国分寺の方へ歩み去って行った。その時、宿舎の一角から突然叫びが上った。「わしゃ、
もう、たまらん」と。剣道の選手で仲間うちの一番の年輩者の声だった。

 「『たまらん』という言葉、それは、青春の感情の極限を表現するものだったのかもしれない」とY氏は綴っている。その後、「たまらん」という言葉は仲間の合言葉のようになり、学校からの帰途、この坂にさしかかる度に、そこを登って来る女生徒達の姿を思い起し、「もう、たまらん」と叫んだという。

 そこで、この坂に「たまらん坂」と名をつけよう、と話がまとまり、そのままではあまり趣きがないので土地から「多摩」をとり、北大の校歌から鈴蘭の「蘭」をとって「多摩蘭坂」と命名した。Y氏等は厳かにその名を宣言し、切り開かれた両側の赤土の壁に大きな字で「多摩蘭坂」と刻み込んだ、というのである。

 ここまで書かれれば、もう要助にはどうすることも出来なかった。』

 『たった一日図書館に出かけただけで、俺はあっさり寄り切られてしまったんだぜ。』
 まだ火をつけていない煙草を口惜しそうに前歯で噛みながら、飯沼要助は諦め切れぬ様子だった。

 『しかしよく調べたよ。つまるところ、「たまらん」という叫びにはやや猥褻な響きがこめられていたんだな。』
 私の中にもなにかそれと近い記憶が眠っているような気がする面映い話だった。

 『猥褻と純情となー。』
 飯沼要助は私の言葉を丁寧に修正した。

 『落武者捜しがとんだところに行きついたもんだ。』
 『ま、そもそもは「たまらん」坂だったことは間違いないけれど、ランニングにしても、コスモスにしても、あの坂はとにかく今の俺とは無縁の青春の坂だったというわけよ。』

 『そうともいえないよ。また百年か二百年経ったらさ、中年を過ぎかけた物好きな勤め人がふと坂の名を気にしはじめて、いろいろ調べてみるかもしれないぜ。その結果、この坂は昔、一人の疲れた勤め人が「たまらん、たまらん」と眩きながら毎晩登ったためにこんな名がつきました、という説がつけ加わることだってないとは言えない。』

 『二百年先にも勤め人はいるだろうかね。』・・・
 『さぁ・・・。わからんけどね。いるんじゃないか。』
 『わからん坂か――。』・・・


 こうして、黒井千次氏の「たまらん坂」は終わります。『』内は、「たまらん坂」から引用。・・・は一部省略。

 武蔵野の幻影が浮かんだり消えたりするなかに、落武者と中年のサラリーマンの悲哀が重なって、時代や場を超えた坂が、たわみを持って迫ってきて、たまりませんでした。この辺は、同じ作家の「春の道標」の舞台でもあります。1949年代の高校生と中学生の恋と別れがあって、棗(なつめ)と明史(あかし)

 『大事なお友達に、なれると思う・・・・・。』
 『地獄だよ、そんなの。』

 と交わす、「あの丘」でもあります。そして、「たまらん坂」を幾度となく読んだにもかかわらず、『昔、どこか、この近くで戦があってえ、・・・』と抑揚を持つ作中の息子の言葉がこびりつき、まだ、落武者を捜している自分に、呆れます。坂の雑木の中に、恐らく、故郷に向かったであろう落武者が、ふと目にしたかも知れない、淡く、ひっそりと咲く武蔵野の丘陵独特の花に、「ここを通ったんだよ」と言い聞かせます。

 さて、次の話題に進むために、少しばかり寄り道をお許し下さい。この坂は西から見れば、麓が国立市から始まり、途中で府中市になり、最後は国分寺市という3市にまたがっています。全体として多摩川に向かって傾斜し、国分寺崖線を形成して湧水をもたらし、武蔵国分寺、武蔵国府(府中市)の地域へとつながっています。


中央が東山道武蔵路 右側が国分寺 左側が国分尼寺
「たまらん坂」は画面一番奥、東山道武蔵路の左側に位置し、坂の上で東山道武蔵路と交差する。
丘陵のように見えるのが国分寺崖線
国分尼寺のほぼ中央から北方向に旧鎌倉街道が走り「たまらん坂」と交差する。
(国分寺文化財保存館 模型)

 坂のすぐ東側に、古代東山道武蔵路が通過(画像中央)し、それを挟むように国分寺と尼寺がありますが、その北側の国分寺崖線(画像では森)の上を通る道です。また、画像左の国分尼寺の北側中央辺りから北に中世の鎌倉街道が走り、たまらん坂の上で交差しています。

 同様に、国分尼寺の西側には、府中市域ですが、「白明坂」(しらみざか)と呼ばれ、元弘3年(1333)新田義貞が鎌倉攻めの際、この坂まで来た時、夜が白々と明けたとのいわれを持つところがあります。このように、どの場をとっても歴史の匂いが充満しています。たまらん坂の道は、それらとつながる、武蔵野台地の国分寺崖線ぎりぎりの際(きわ)を通る、踏み分け道であったのではないでしょうか。

 国分寺市域では「多摩蘭坂遺跡」として旧石器時代以来の遺跡が集中しています。しかも、神津島で使われた黒曜石と同じ物が使われて、その黒曜石は神津島から運ばれていたことがはっきりしたそうです。先史時代から、海を介しての交流があったところでもあります。

 坂の中央の根岸病院から都立府中病院の辺りにかけての府中市域では、旧石器時代の遺跡や縄文早期時代の集落遺跡が発掘されています。何よりも、「天平勝宝九歳」(757)の漆紙文書が発見され、武蔵国分寺の創建年代を考える資料となっています。

 坂の南側は、国分寺市域で黒鐘谷と呼ばれるように、古代から中世にかけて鍛冶関係の集落があったことが推定されています。また、中世から近世にかけては、様々な戦乱を経て、飯沼要助ばかりでなく、当然として何らかの歴史的な背景があったことを感じさせる場所です。



旧鎌倉街道(国分寺市)

 「たまらん坂」は落武者があらわれても、ちっとも不自然ではないところの坂でした。黒井千次氏は、巧みにその場に、現代の勤め人と「猥褻(わいせつ)と純情」を配して、武蔵野の幻想を語ったのでしょうか。そして、最後に、もう一つの強力なパンチを食らわせます。

たまらん坂1
たまらん坂3