たまらん坂(2)
要助は図書館へ行った。 さらに調べると ・・・合戦についての小さな知識が貯えられれば貯えられるほど、、そこから「叢林の中の小道」への距たりは大きくならざるを得なかった。つまり、合戦は何時のものでもかまわなかったし、それなりの落武者はいくらでも存在すると思われるのに、彼等の内の誰一人として小さな坂道を登ろうとはしてくれないのだ。』 1階に地誌を求めた。 目次を追ううちに、国立の坂についてまとめた章のあるのを要助は発見した。一気に横に走った要助の眼は「たまらん坂」という文字にぶつかった。もどかしくそのぺージを開くと、旭通りから府中に向う途中のだらだら坂がそれであり、四、五十年前まではあまり人通りもない林道で現在よりは急な坂であった、と書かれている。 さらに追った。 『落武者の影が俄に薄れ衰えて、我が身の廻りから立去ろうとする淋しさを要助は感じた。彼が消え去ってしまうなら、後には舗装されて両側に狭い歩道を持つ「多摩蘭坂」が残されるだけではないか。・・・ 要助は「地域資料室・二階」の張り紙を見て、『もしや、という気持ちが渇いてひりつく咽喉と熱い疲労の溜まった腰を二階へ押し上げていた。』 そこで、透明なビニールのカバーをかぶせた「国立・あの頃」(国立パイオニア会編)を手にする。一橋大学関係の同窓会の文集ででもあるらしく、自費出版めいた匂いを漂わすごく内輪の出版物のようだった。昭和3年、4年、5年と恐らく卒業年次別に集められた50〜60人の文章が詰め込まれている。
要助はページを繰る。その中に 『「たまらん坂その他」という表題が身を隠しているのを要助は偶然拾いあげた。・・・卒業後三十年して国立を訪れた筆者のK氏が、思い出の「たまらん坂」が「多摩蘭坂」の名称で今日も生き続けていることを知って懐しさと愉快を感じると同時に、もしもこの坂の名を漢字で表わすなら、宛字などではなく「堪らん坂」と書くべきだ、と述べていたからだった。 坂の名の表記について、かつて自分が抱いたものと全く同じ考えが書き記されている。K氏に背を押されるようにして要助は先を読んだ。K氏によれば、昭和二年、箱根土地株式会社が開発を計画した学園都市の走りとして、一橋大学の専門部が神田から国立に招致された。「たまらん坂」は、当時は国分寺に向けて雑木を ようやく「たまらん坂」の上まで辿り着くと校舎が見えるのだが、ちょうどその辺りで始業の鐘が鳴り始める。天気の好い日はまだ救われたが、雨降りの折などは赤土が泥檸んで足を取られ、走ることも出来ない。ズボンを泥まみれにして土のこびりついた重い靴で教室に駆け込むと、もう先生は出欠をとっている。 辛うじて返事をすませた後、「こいつぁ、堪らん」と息絶え絶えの言葉が口から洩れたのだそうである。これが「たまらん坂」の名の起こりだ、とK氏は明言している。やはりそうなのか、と要助は肩を落とした。・・・』 『それで、落武者の憑き物はやっと君から落ちたわけか。』・・・ 要助は、手の中の本を閉じようとしてもう一度目次に目を戻した。そして、最後の方にY氏の「多摩蘭坂物語」という標題を発見した。国立の新校舎に通い始めることになったY氏は近くの農家に下宿した。その宿舎の周囲には一面にコスモスが乱れ咲いていた。 『ある晴れ上がった秋の日、長い袴をはいいた音楽学校の女生徒達が、坂を登って来るとコスモスの前に足を停めた。やがて彼女達は花を摘み始めた。秋の日射しの中に群がり咲くコスモスの可憐な色がそれを摘む人々の顔に照り映えて、女生徒達の姿を一層美しいものにせずにはおかなかった。 部屋にいたY氏等学生は、花に手を伸ばす彼女達の姿を息を殺して見つめていた。暫くして、花を手に溢れさせた女生徒達は国分寺の方へ歩み去って行った。その時、宿舎の一角から突然叫びが上った。「わしゃ、 「『たまらん』という言葉、それは、青春の感情の極限を表現するものだったのかもしれない」とY氏は綴っている。その後、「たまらん」という言葉は仲間の合言葉のようになり、学校からの帰途、この坂にさしかかる度に、そこを登って来る女生徒達の姿を思い起し、「もう、たまらん」と叫んだという。 『たった一日図書館に出かけただけで、俺はあっさり寄り切られてしまったんだぜ。』
こうして、黒井千次氏の「たまらん坂」は終わります。『』内は、「たまらん坂」から引用。・・・は一部省略。 武蔵野の幻影が浮かんだり消えたりするなかに、落武者と中年のサラリーマンの悲哀が重なって、時代や場を超えた坂が、たわみを持って迫ってきて、たまりませんでした。この辺は、同じ作家の「春の道標」の舞台でもあります。1949年代の高校生と中学生の恋と別れがあって、棗(なつめ)と明史(あかし)が と交わす、「あの丘」でもあります。そして、「たまらん坂」を幾度となく読んだにもかかわらず、『昔、どこか、この近くで戦があってえ、・・・』と抑揚を持つ作中の息子の言葉がこびりつき、まだ、落武者を捜している自分に、呆れます。坂の雑木の中に、恐らく、故郷に向かったであろう落武者が、ふと目にしたかも知れない、淡く、ひっそりと咲く武蔵野の丘陵独特の花に、「ここを通ったんだよ」と言い聞かせます。 さて、次の話題に進むために、少しばかり寄り道をお許し下さい。この坂は西から見れば、麓が国立市から始まり、途中で府中市になり、最後は国分寺市という3市にまたがっています。全体として多摩川に向かって傾斜し、国分寺崖線を形成して湧水をもたらし、武蔵国分寺、武蔵国府(府中市)の地域へとつながっています。
坂のすぐ東側に、古代東山道武蔵路が通過(画像中央)し、それを挟むように国分寺と尼寺がありますが、その北側の国分寺崖線(画像では森)の上を通る道です。また、画像左の国分尼寺の北側中央辺りから北に中世の鎌倉街道が走り、たまらん坂の上で交差しています。 同様に、国分尼寺の西側には、府中市域ですが、「白明坂」(しらみざか)と呼ばれ、元弘3年(1333)新田義貞が鎌倉攻めの際、この坂まで来た時、夜が白々と明けたとのいわれを持つところがあります。このように、どの場をとっても歴史の匂いが充満しています。たまらん坂の道は、それらとつながる、武蔵野台地の国分寺崖線ぎりぎりの際(きわ)を通る、踏み分け道であったのではないでしょうか。 国分寺市域では「多摩蘭坂遺跡」として旧石器時代以来の遺跡が集中しています。しかも、神津島で使われた黒曜石と同じ物が使われて、その黒曜石は神津島から運ばれていたことがはっきりしたそうです。先史時代から、海を介しての交流があったところでもあります。 坂の中央の根岸病院から都立府中病院の辺りにかけての府中市域では、旧石器時代の遺跡や縄文早期時代の集落遺跡が発掘されています。何よりも、「天平勝宝九歳」(757)の漆紙文書が発見され、武蔵国分寺の創建年代を考える資料となっています。 坂の南側は、国分寺市域で黒鐘谷と呼ばれるように、古代から中世にかけて鍛冶関係の集落があったことが推定されています。また、中世から近世にかけては、様々な戦乱を経て、飯沼要助ばかりでなく、当然として何らかの歴史的な背景があったことを感じさせる場所です。
「たまらん坂」は落武者があらわれても、ちっとも不自然ではないところの坂でした。黒井千次氏は、巧みにその場に、現代の勤め人と「猥褻(わいせつ)と純情」を配して、武蔵野の幻想を語ったのでしょうか。そして、最後に、もう一つの強力なパンチを食らわせます。
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