のびどめ用水
(黒井千次 武蔵野短編集)

黒井千次さんの作品に「のびどめ用水」がある。
たまらん坂―武蔵野短編集―
に納められた作品で、1987年1月 海燕に発表された。

氏は、2000年12月1日、芸術院新会員に選ばれた。
身近なところが作品の舞台で、いつも魅せられていたので、改めて辿ってみた。



傾きかけた夕日に、木の葉が金色に輝いて舞う。
ひどく贅沢な黄金風景を、退職金の前払いでもあるかもしれないというような感慨をもって
「彼」は、西武拝島線「東大和市駅」を降りた。

35年を勤めあげ、60歳にもならぬのに会社を離れようとし
すぐに訪れる筈の定年後の自由に対する戸惑いを秘めながら・・・

どこかで、「玉川上水 清流の復活」のポスターを見て
名前だけ知っていた「野火止用水」にも行ってみたいとの願いを達するため
外出先から早めに引き上げてきたのだった。

駅を降りると躊躇なく玉川上水駅に向かって歩いた。
野火止用水の分水元まで遡れば、玉川上水と野火止用水の両方に出会えるとの
大雑把な見当をつけて・・・。
(どうやらここに伏線があるようだ)

傾きかけた夕日の中
子どもの頃、玉川上水にもんどりうって流れる猛々しい水を眺めていただけに
枯れ葉に埋もれる乾いた谷と化した上水路はやりきれないもので
清流の復活と聴いて、満ち足りた気分で歩く。

着いたのが「東京都水道局小平監視所」であった。

『小学校のプールほどの細長い水槽が二つ並んでいるだけで、なんとも殺風景な眺めである。
うっすらと滲んだ額の汗を拭いながら、しばらく立ち尽くすしかなかった。』

『俺はなにをしにこんな所まで来たのか、と途方に暮れた。
そのとき、どこからともなく、水音らしいざわめきが伝わって来るのに気がついた。

木立に向かう脇のふくらみに赤い乗用車が一台停められている。
(今回は、残念ながら、黒い乗用車があった)
そこを過ぎると突然人工的に整えられた

小さな空地が現れ・・・足場の手摺にもたれて下流を眺める黒いコートの人影があった。
彼は思わず駈け降りた。黒いベレーをかぶったコートの女性が
振り返りもせずにほんのちょっと身体を隅に寄せたようだった。』

『流れていますわね。』『え?』
『流れていますわね。』『ええ、流れていますね。』
『ずうっと流れているんですね。』『ずうっと流れているんでしょうね。』
話してもよし、話さなくてもよい会話だった。

『ケチな水!』
いきなり吐き捨てるように女が言った。

『今流れているのは下水ですのよ。使い終わって、余った、カスの水ですよ、これは。』
『それでも、なにもないよりはましかもしれない・・・』
彼は膝を折って・・・水に手を伸ばした。

『お飲みになるの?』『止めておきますよ。』女は喉咽の奥で小さく笑った。
『つまり、この水がお嫌いなんですね。』
女は彼を見据えたまま黙って首を横に振った。

『それなら、可哀そうな水だと言いたいんだ。』
『いいえ、悲しい水だと思っているだけ。』
大きくコートの肩が上がり、女は俯いて深々と息をついた。

『なんとなくちぐはぐな、妙な場所ですね。』
『だから仕方なく来るんです。』
いつか固い殻を脱ぎ捨てた女が沈んだ声で呟いていた。
『どうして?』『私がここを流れているみたいな気がして・・・』

コートのポケットに両手を入れた女は、誰にも会わなかった人間の後ろ姿となって
早くも右手へと登る通路を歩き出していた。

『玉川上水と野火止用水は先のどこかで出会わないんでしょうか。』
彼はコートの背に追い縋る声で叫んでいた。黒いベレー帽が横に揺れたが
彼の問いかけへの否定か、知らないと答えているのか
判断がつかなかった。

☆☆☆

彼は野火止用水を探しに、東大和市駅の方に戻ろうとする。
と、先ほどの赤い車があり、窓から覗くと、助手席に、スーパーの袋から
「木綿どうふ」が滑り出している。

『野火止用水はまだ土の中です 可哀そうな水なのか 悲しい水か
今はきっと 暗い水でしょう』

彼は手帳を引きちぎって書き付けた紙片を運転席に入れる。

『たとえ使い捨てられたカスの水であろうとも
野面を這うように進む流れであったなら、その景観にはまだ救いがあるかも知れぬ。』

と、彼は、野火止用水の始点を求めて、東大和市駅まで戻る。
実は、この煉瓦の下に野火止用水が流れている。

作者は、わざわざ一つ前の東大和市駅で主人公を降ろし
逆方向の玉川上水と野火止用水の分岐点まで、この道を歩かせる。

そこで、赤い車の黒いベレー帽の女と出会わせ
「ケチな水」「悲しい水」と言わせ、彼には、「暗い水でしょう」と紙片に書き置きさせて
この暗渠の上を、行ったり来たりさせる。

暗渠は青梅街道を地下で横断し

さらに、植え込み、遊歩道として続く。

『子供の手を引いた若い女性が夕日に顔をしかめながらゆったり歩いてくる。
腹の中にまで子どもを抱えているのが巻きスカートのふくらみでわかる。』

住宅街が近いことを暗示し、その親子に尋ねる。

『このあたりに、野火止用水というのが流れてはいないでしょうか。
道の下かも知れないのですが』

『野火止用水を捜しているんだって。どうしてえ、と子どもが訊ねた。
彼も母親の返事が聞きたかったが、歩き出した耳には、彼女の言葉は届かなかった。』

野火止用水は急に住宅の横に、せせらぎとして顔を出す。
彼は唖然とする。

『野火の匂いもなければ、疎水の踊りも感じられない。』

喘ぎ喘ぎの水にがっかりして、靴の中でふくらんだ足がひりひりと痛む。そして

『予想もしなかったような光景が彼を待ち受けていた。
「野火止用水清流の復活」と刻まれた重そうな自然石が道の右手に躍り出た。
公園のように整備され、片側にだけ赤い鉄柵のある一本の細い道が・・・



芝居の書割りを思わせるあまりに美しく整えられた細道は、
その先に何があるのか、見当がつくだけにかえって薄気味悪かった。

用水のどこを見回しても、黒いコートの女は居ない。
『日の沈んだ道を彼は駅へと向けてゆっくり歩き出した。
駅の方角から救急車の警笛が風に運ばれてきた。

もしも赤い乗用車が衝突したら、助手席の木綿豆腐が真っ先に崩れるだろう・・・。
暮れ残る空を映した細い水は足許を流れていたが、彼はもうそれを振り向こうとはしなかった。』

と、終わる。

福武書店 1989年版

その先は、堅牢な石積みの合間から、吐き出すように迸る用水がある。



そして
少し進めば、かってのままの風情に、復活した水が流れている。
作者は、あえて、ここを描かない。

『なにもかもが、小平監視所の前で目にした光景の繰返しに過ぎぬだろう。ただ異なるのは、
どこを見回しても黒いコートの人影がないことだけだった。
もう、帰ろう、と彼は思った』

『駅の方角から救急車の警笛が風で運ばれて来た。もしも赤い乗用車が・・』と結ぶ。

およそ1.5キロの間の舞台。

大岡昇平の「武蔵野夫人」のハケの精と
三次処理水が暗渠からほとばしり出る野火止用水の精には、こんがらがるばかりです。

☆☆

デジカメをしまおうとして、「野火止用水清流の復活」の自然石を見ると
傍らで、黒いドレスの女性が何かを想っていました。

黒井千次氏のひきあわせでしょうか。

2000.12.04.

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