独歩の碑

  武蔵野と切っても切り放せない人に国木田独歩がいます。
文学論は多様に展開されるでしょうが
その息づかいを伝える
東京にある「碑」を訪ねてみます。

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 JR中央線「武蔵境駅」北口を出て、真っ直ぐに商店街を北へ約800メートルほど行くと、桜橋交差点です。信号機からわずかに右へ目を移すと、この碑があります。 桜橋のたもと、玉川上水の雑木林に覆われています。
 碑面には

doppohimeibunn.jpg (23089 バイト)  『今より三年前の夏のことであった。自分は或友と市中の寓居を出でて三崎町の停車場から境まで乗り、其処で下りて北へ真直に四五丁ゆくと桜橋という小さな橋がある、 』

と、彫られています。「武蔵野」第六章の書き出しです。この碑は、昭和32年、独歩五十年忌に武蔵野保存会の手によって造られたものといわれます。さて、ご案内したいのは、この作品を書いた頃の独歩です。

 「武蔵野」の本文の続きを、さらに、追ってみます。

 『・・・小さな橋がある、それを渡ると一軒の掛茶屋がある、この茶屋の婆さんが自分に向て「今時分、何しに来ただア」と問うた事があった。 自分は友と顔を見合わせて笑て、「散歩に来たのよ、ただ遊びに来たのだ」と答えると、婆さんも笑って、それもばかにした様な笑いかたで、「桜は春咲くこと知らねえだね」と言った。・・・  茶屋を出て、自分等は、そろそろ小金井の堤を、水上の方へとのぼり初めた。ああその日の散歩がどんなに楽しかったろう。・・・』(新潮文庫 P 21ー22 原文の通り)

となっています。
 これに引き続いて、独特の筆致で武蔵野の持つ真価を次々とえがき上げて、読む者を一気に魅了します。希望に満ち、美に酔い、随分と明るい雰囲気に包まれているように思いませんか?


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国木田独歩著「武蔵野」の初版 明治34年3月 民友社 
蘆花恒春園 記念館(世田谷区)

失意のどん底
 ところが、現実には、独歩の日記や手紙を読むと、この時期、失意・悲哀のどん底にあったようです。最愛の恋人「信子」に無言で失踪されて、狂気のように探し回り、顔青ざめ、目血走った状況で、悲痛な諦めのうちに離婚を決意し、渋谷に引っ越した時に当たります。

 それが、一転して、このような作品になっている。何がそうさせるのか、詩人・文学者独歩の立ち上がり、精神の奥の方、作家の秘密に引きづり込まれるようです。 最晩年に書かれた「窮死」や「竹の木戸」などから、死を写実する独歩の魂というか、透徹した精神的な昇華を読めば、これも頷け、碑の前に立つ度に感動させられます。    

 少し、日記からたどってみます。作品「武蔵野」では、一緒に散歩したのは「或友」ですが、実際は、明治28年8月11日に、独歩は恋人信子とともにこの道を歩いたようです。しかも、この日は、二人の恋の成就した日でした。  
 信子の親(日本橋の佐々城病院長、母は矯風会副会長)は、農学士の萱場三郎との結婚を望み、職も安定しない独歩との結婚には反対でした。それを押し切って、合意をしあった日です。

結婚
 その間のことが「欺かざるの記」には、踊るように書かれています。8月11日条  
 「嬢(信子)は吾が愛よりも更らに切なる愛を吾に注ぎ居たる也。  吾等は堅固なる約束を立てたり。吾等が愛は永久かわらじと。」

 先ほど、引用した「ああその日の散歩がどんなに楽しかったろう。」という舞台裏です。「三崎町の停車場」は、JR中央線の前身であった「甲武鉄道」の駅で、当時は飯田橋にありました。作品「武蔵野」では「境」で降りていますが、日記では、国分寺で下車し、車で小金井の橋まで来て、流れに沿って下ったとしています。

 そして、桜橋につくと、老夫婦の営む茶屋があって休みます。 「吾等も何時か彼の老夫婦の如かるべし」と相擁して林間に入って、「若き恋の夢!」(欺かざるの記)を語ります。

 信子の母親の反対は高まり、信子に死を暗示するほどでした。独歩は徳富蘇峰に相談したり、手を尽くしますが、信子の父も反対に廻り、独歩をして

 「吾が恋愛の前途は殆ど暗黒なり」
 
 と書かせるほどの状況(10月3日)になりました。 一方、信子は周囲の圧迫に耐えられず、家出をします。このような積み重ねから、ついに信子の親も折れ、信子を勘当することにして話がまとまって、二人は11月11日に結婚しました。 徳富蘇峰が仲人で、逗子に住みました。

sakurabasi.jpg (13343 バイト)  今の桜橋は自動車の行き交う交通混雑きわまりないところです。
 独歩と信子の恋や騒動など全くお構いなしに、忙しく事物が動き、あっけらかんとしています。

信子の失踪
 これほどまでにして結ばれた二人ですが、経済的には厳しく、12月4日「欺かざるの記」には、「米五合に甘藷を加えて一日両人の糧となす。豆の外に用うべき野菜少なし。・・・「あじ」「めばる」「さば」の如き小魚二尾を許すのみ」と書く状況です。また、「人間社会を見る前に天地を見る事なり。人を見る前に神を見る事なり、事業を見る前に信仰を見る事なり」と続けられ、清貧と信仰の日々を送ったようです。

 信子の従姉妹は、このような生活が、自由人信子にとって幸せかと疑問を投げかけています。明治29年3月には、窮乏生活も底をついたのか、麹町の両親のもとに同居することになりました。信子は焦燥の日を送り、明治29年4月12、ついに、教会からの帰り道、独歩のもとを黙って立ち去ります。

 独歩は苦悶、痛心の中に、狂気のように信子を探し回ります。「欺かざるの記」には悲痛の言葉と心の破れがつづられます。 のたうち廻って、傷心の末、離婚を決意します。4月24日にはこう書かれます。
 「余と信子とは今日限り夫婦の縁、全く絶えたり。・・・斯くまでに相愛したる信子、遂に吾と相離るるに至りたる事、極めて悲痛の事なれど、人の心の計り難きを思えばこれも詮なし。・・・」

 そして、独歩が移り住んだのが、「渋谷村なる閑居に在り。家は人家離れし処に在り」とする「渋谷の丘の上の家」です。明治29年(1896年 26才)9月4日のことでした。翌年春まで、弟と一緒に住みました。道玄坂から東急百貨店に向かって坂を上った、今のNHKセンターのあたりでしょうか。 信子は有島武郎の「ある女」のモデルと言われます。

武蔵野執筆
 ここで書き上げられたのが「武蔵野」でした。 明治29年10月26日には
 「林中にて黙想し、回顧し、睇視し、俯仰せり。「武蔵野」の想益々成る。われは神の詩人たるべし・・・」
  ああ、「武蔵野」。これ余が数年間のかんさつを試むべき詩題なり。余は東京府民に大なる公園を供せん。」
と書いています。

 『昔の武蔵野は萱原(かやはら)のはてなき光景を以て絶類の美を鳴らしていたように言い伝えてあるが、今の武蔵野は林である。林は実に今の武蔵野の特色といっても宜(よ)い。則ち木は重に楢の類で・・・    
 武蔵野の美はただその縦横に通ずる数千条の路を当てもなく歩くことによって始めて得られる。・・・これが実に又た、武蔵野第一の特色だろうと自分はしみじみ感じている。
 ・・・林と野とが斯くも能(よ)く入り乱れて、生活と自然とがこの様に密接している処が何処にあるか・・・。』
                                    (新潮文庫 武蔵野 P11ー19)

 引用はいつまでしてもキリがありませんが、武蔵野への思いが湧き出し、見据えるように美しさを記します。あの失意の中に見た己の魂の紡ぎ出しのように思えます。 独歩の武蔵野については、ロシアのツルゲーネフの描いた白樺林に武蔵野の雑木林を重ねて・・・と解説されます。茜に染まる雑木林に立つ時、私には、独歩の恋が赤か赤と浮かび、自然と人のただずまいを濾過した時の葛藤の凝縮が実感として迫ってきます。

 しかし、ここに紹介した独歩は、ある一面のようです。渋谷に移り住んでまもなく、早くも、独歩は富永徳磨の妹に求婚しています。(結局は不調に終わった) 30年6月には、後の治子夫人と知り合い、恋をし(31年8月結婚)、一方、信子は遠く離れて、女の子を産んでいます。独歩の子どもです。
 31年1月ー2月に「今の武蔵野」が「国民之友」に連載されました。「欺かざるの記」に生涯書き続けた信子への思いを読みながら、年譜を見ると、私には、不思議な独歩像が浮かんできます。どれが実像なのだろうかと、朝の林の小道を歩く時によぎる疑問です。 

独歩橋
 さてさて、桜橋の文学碑からとんでもないところに飛んでしまいました。 現地に戻ります。桜橋から1−2分の上流にある橋が、橋銘は記されていませんが「独歩橋」と名づけられています。素朴で、取り柄のない橋ですが、独歩をしるす橋があることは何ともいい気分にします。

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うど橋
 これに比べ、その1−2分上流の橋は立派で、交差点になっていて、「うど橋」と名づけられています。ここにも、碑がつくられていて、大要、こう彫られています。

 『今から180年位前より、土地の人々が、薪炭をつくり、落ち葉の温熱で軟化独活(ウド)を栽培し、生活していた。栽培法が改良され大量出荷されて、全国に東京独活(うど)特産地として有名になった。橋を架けるに際して、特産
地の名をとどめるため、独活橋と命名した。』

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 昭和40年3月25日と彫られていました。通学路新設によって架橋されたと伝えられれます。いずれにせよ、文学と特産ウドが同居するのが玉川上水のたくましさでしょうか。
 
 長くなるので、三鷹の碑については、次に続けることにします。

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