阿佐ヶ谷の北原白秋 昭和15年4月16日、白秋は砧村喜多見成城(現・世田谷区)から 「持ち主の留学中という契約で借りていた」成城の家に持ち主が帰国し、約束のため 天から与えられたように 気に入った家が見つかったのは、親戚の本吉氏の骨折りとされます。どんな風にしてこの家と出会ったかは、白秋の晩年、身近にいた野北和義が「阿佐ヶ谷時代の北原白秋」で次のように紹介しています。 『候補の家があったというので、夫婦で見に行った白秋は一目でこの家が気に入ってしまったという。ところが、借りるについては複数の競争者があって、しばらくは誰に決まるとも分らない時期であった。その 間の気のもみようを、「胸ばかりわくわくして一睡もできなかった」とか「入学試験を受ける少年の心理であった」などと書いている。 どういう経過を辿ったか知らないが、結局白秋が借りることに、期日ぎりぎりに決定した。そのことについても「最後の五分間という間際になって、天から与えられたように」阿佐ケ谷の家の扉が自分に開かれた、と言い、はては、この家がどうやら自分のためにとっておきのものだったらしい、とまで言っている。』(p29) ともあれ、白秋の気に入った家が、杉並の、いわば武蔵野の中に見つかったと云うことは、我田引水もいいところとは承知の上、誇らしい限りです。 薄明微茫 いよいよ白秋は転居してきました。 しかし、当時、白秋は糖尿・腎臓病に過労が重なって、視力が落ちて、日常生活もステッキで辺りを探る程であったとされます。「まっ白い麻の背広にヘルメット帽をかぶった黒眼鏡の白秋が、ステッキ 」をついて歩いた道が残っています。マスコミ報道は「白秋失明」「盲目の詩人」などと伝えたようですが、本人は
『「私は失明もしていなければ、盲目でもない。ただ『薄明微茫』の中に居る」
それを白秋は、それだけの内容をそっくり包含しながら、実に鮮やかに自分の言葉の世界に移して表現したのである。 いかにも言葉の名人らしいですが、その心底を思うとたまりません。 阿佐ヶ谷駅から自宅までは5〜6分程度です。ところが、白秋の健康状態は、その間が「かなり大儀であったかも知れない」と思われるような状況とされます。 自動車の行き交いが激しく、うかうかしていられませんが、「薄明微茫」の中で、「天から与えられたように」気に入ったという、白秋の気持ちになって歩いてみました。 尖り屋根の家 自宅のあった「阿佐ヶ谷五の一」一帯は 、住居表示によって、「阿佐ヶ谷北5の1」とかわっています。同様に駅からの景観も変わっていますが、道路はほぼその当時のまま使われています。 位置はJR・中央線「阿佐ヶ谷駅」と「高円寺駅」の中程になり、電車の中から尖り屋根の家が見えたそうです。阿佐ヶ谷駅からの方が近いので、白秋自身も、多くの弟子、関係者も阿佐ヶ谷駅から降りて 白秋の家へ向かったようです。
JR・阿佐ヶ谷駅北口に出たらそのまま鉄道高架に沿って右に進みます。
細い路ですが自動車の交通量が多くて、のんびりは歩いていられません。
やがて、分岐に出ます。左に進むと「河北総合病院」に行き、今回は右に進みます。
商店が切れる頃、「杉並大腸肛門クリニック」の角に出ます。
住宅の間を通る静かな道です。
坂の途中で、「とまれ」の標示がある四つ角に出ます。
この角を右に曲がると、画像の左側一帯が「阿佐ヶ谷北5丁目1」です。
『「先生、そこからは石段です」 と書かれていますが、その石段は現在もあります。 「多磨」の編纂、円覚寺の「多磨」全国大会 昭和10年(1935)3月26日、与謝野寛が亡くなり、かって明星と決別した白秋が、葬儀の際、寛・鉄幹におくった弔辞について、北原白秋の弔辞と『多磨』に書きました。そこでは、「私は弔い合戦に立つ気で起つ。」と述べ、その6月、「多磨短歌会」を創り、歌誌「多磨」を創刊しました。 「多摩」ではなくて、「多磨」としたのは、寛・鉄幹の葬られた墓地が、当時の「多磨村」(昭和29年4月1日、府中町 ・ 多磨村 ・ 西府村が合併して府中市となる)にあったからとされます。 北原白秋の当時の状況からすれば、相当の決心であったろうと思われます。
『白秋の体を気遣った知友の中には、「北原君、たかだか三十一字じゃないか、君の活動分野は広いんだ、多磨なんか止したまえ」と忠告した人もあったようだし、厳父からも「多磨なんかやるから眼が悪くなる、すぐに止めてしまえ」と、お叱りをこうむったこともあるそうだ。』(野北和義 「阿佐ヶ谷時代の北原白秋」p107) であったと伝えています。阿佐ヶ谷に転居した時、白秋は病気をおして「多磨」の全国大会を開きました。
『・・・・十三年も十四年も全国大会は開かれなかったが、十五年に居を移して何もかも一新した白秋は、「三日ぐらいの行事には耐えられる」と自分から言い出し、その八月に開かれる運びになった。会場は鎌倉の円覚寺、この由緒深い禅寺がその宿房の一部を開放して一般の女人の宿泊も認めたことは、当時としては希有のことであった。』(同上p223) 小河内貯水池に慟哭 もう一つ、多摩に住む者にとって忘れることが出来ないのが、白秋の小河内(おごうち)貯水池建設に寄せる気持ちです。昭和10年8月 31日、白秋は小河内村に遊びます。その時ダム建設現場に行き、遊び心どころか「凋帳(ちょうちょう)として我に山河哀傷吟の新唱成る。」として 、故郷を追われる村人達に限りない心情を寄せます。それは、「山河哀傷吟」、「山河愛惜吟」、「厳冬一夜吟」の「小河内三部唱」(161首)としてまとめられました。 最初の「山河哀傷吟」の詞書に次のように書いています 『昭和十年八月三十一日、白山春邦画伯夫妻を同行、妻と共に奥多摩小河内村鶴の湯に探勝、鶴屋といふに泊る。恰も二百十日前後に当り、山獄峡谷、朝夕雲霧去来し、初秋の森雨、時に粛々、時にまた微々たり。この鶴の湯、原は懸崖にあり、極めて寒村にして未だにラムプを点じ、殆ど食料の採るべきものなし。
ただ魚に山魚あり、清楚愛すべし。此の小河内の地たる、最近伝ふるに、今や全村をあげて水底四百尺下に入没せむとし、廃郷分散の運命にあり、蓋し東京府の大貯水池として予定せらるといふ。まことに山河の滅びんとする、その生色を奪はれ居処を失ふもの、必ずしも魚貝・禽獣・草木のみにあらず、かの蒼天にして父祖の声咳に背き、産土にして聚落と絶つ。人間離苦、哀別の惨亦曰ふべからず。乃ち凋帳として我に山河哀傷吟の新唱成る。』 『昭和十年十二月十三日払暁三時、多摩水源の山民五千人の代表七百名、折柄の寒風を衝いて、奥多摩の尾根氷川に下る。死を期して陳情せんとするなり。而も警官隊の防圧するところとなり、流血、遂に莚旗を巻き、声をのんで帰る。二陣三陣四陣亦潰ゆ。
次で、同日午後一時、その別動隊二百名は、大迂回して中央線塩山駅より帝都潜入を図って成らず。又小河内の一部百名は青梅街道を裏山伝いに御嶽駅に、他の百名は五日市に出で、何れも警戒陣突破を企てて又 『陳情隊が都心に入りて来るのを警官隊によって阻止されたことに対する同情の歌で、昭和十年十二月二十三日、一夜にして四十五首を成したという。
何ならじ 霜置きわたす 更闌(こうた)けて 小河内の民の 声慟哭くす と紹介しています(p83〜84)。これは阿佐ヶ谷に移る前の出来事ですが、 その白秋が、この家で、病気と闘い、第八から第十集の歌集をまとめ、全八巻にわたる「白秋詩歌集」(河出書房)を刊行しました。歌誌「多磨」の編集は医者に止められても止めなかったとされます。 そして、昭和17年(1942)11月2日、午前7時50分、永眠し、「阿佐ヶ谷五の一」が終焉の地となりました。 関連年譜
昭和15年(1940) 55歳
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