石川啄木・故郷の青春
(明治32,35年上京前後)

石川啄木の東京での生活の跡を訪ねるページですが
故郷の啄木と東京を結びつけた糸をたぐっておきたいと思います。

啄木を上京させた背景には、故郷での濃密な友情と文学の苗床がありました。

盛岡尋常中学校(現・岩手県立盛岡第一高等学校)

そこには、「文学熱が流行して」、後に深い関わりを持つ友や先輩が創作の活動をしていました。
指導者や顧問は、正岡子規や与謝野寛・鉄幹などと結びつきを持っていました。

そこへ、明治31年、啄木が入学します。一挙に熱が焚きつけられたようです。
回覧雑誌をつくっては書いています。

やがて、 先輩、友は相次いで学びのために上京します。残された啄木の心の揺れが偲ばれます。

明治32年夏、盛岡尋常中学校2年生の夏休み、初めて上京(第一回目)。
啄木の姉トラの夫・山本千三郎が上野駅助役に栄転したのを契機に、その家に滞在し
東京を見物して帰ったとされます。

それから3年後、明治35年、啄木は冒険とも云える上京を(第二回目)果たします。
止むに止まれぬ憧れ、駆り立があったようです。

何が啄木をそうさせたのかを追ってみました。

盛岡尋常中学校

 明治18年(1885)10月27日と明治19(1886)年 2月20日の二つの誕生日を持つ啄木は岩手県南岩手郡日戸村(ひのとむら)に生まれています。 小学校からの同級生である伊藤圭一郎は「人間啄木」で

 『小学校二年の時だったが、啄木は私に「これから二人は何もかも打ち明けようじゃないか、自分も腹蔵なく何もかも話すが君もやはり打ち明けて欲しい」という。そして二人はそのことを誓ったのだった。』(p4)

 そのような関係のもとに、『啄木が私に「自分は明治十八年生れで、君と同じ年だが、役場に届け出るのが遅れたので、明治十九年になっている」・・・・』(p5)として、明治18年説を紹介しています。

 明治24年(1891)渋民尋常小学校入学。明治28年(1895)同校卒業。盛岡市立高等小学校へ入学。
 明治31年3月、4年に進級。4月11日盛岡尋常中学校入学試験受験、18日合格。 

明治31(1898)年

明治31(1898)年 13才
 4月25日 盛岡尋常中学校に入学。志望者は3〜4倍で、啄木は128名中10番の成績と伝えられます。 遊座昭吾「石川啄木の世界」によれば、級友の船越金五郎の日記を引用し

 『「一・宮永佐吉 二・小野又蔵 三・阿部修一郎 四・島泰五郎 五・平野勇助 六・菊池宗之 七・岩動康治 
  八・松本一政 九・堀六郎 一〇・石川一 一一・伊東圭一郎 一二・吉田昌作 一三・近藤轟 
  一四・村井宗一郎(略) 二二・狐崎嘉助(略) 三〇・船越金五郎(略) 三三・小沢恒一」(p29)

であった。』としています。2年生には、文才に満ちた野村長一(胡堂)、細越夏村(ほそごしかそん)、3年生には文学好きの医者の息子・及川古志郎(おいかわこしろう)、早くから短歌に親しんでいる金田一京助、田子一民(たごかずたみ) 、岩動露子(いするぎろし)など、後に深く関係を持つ錚々たるメンバーが揃っています。
 
 啄木は、渋民小学校卒業と同時に盛岡に移り、高等小学校時代は母方の盛岡市の親戚に寄寓していましたが、盛岡尋常中学校入学の時、母方の伯母・海沼(かいぬま)家が盛岡市新築地2番地に移転したので、 一緒に移ってきました。

明治32(1899)年 14才

 3月、2年生に進級しました。後に「岩手日報」の「百回通信」に、

 『二年に進みて丁級に入る。また先生(富田小一郎)の受持たり、時に十四歳。漸く悪戯の味を知りて、友を侮り、師を恐れず、時に教室の窓より又は其背後の扉より脱れ出でて、独り古城跡の草に眠る。欠席の多き事と、師の下口を取る事、級中随一たり。先生に拉せられて叱責を享くる事、殆んど連日に及ぶ。』

 と書いています。「一握の砂」の

  教室の窓より遁げて
  ただ一人
  かの城祉に寝に行きしかな

  よく叱る師ありき
  髭の似たるより山羊と名づけて
  口真似もしき

 などはこの時のことでしょう。 また、同級生によって「丁二会」を結成(最初は旅行の会ともいう)、12月には、丁二会の会誌を発行、翌33年には、回覧雑誌「丁二雑誌」を自ら編纂して書きまくったとされます。

 5月、啄木は夏服をつくります。「一握の砂」の

  花散れば
  先づ人さきに白の服着て家出(いえい)づる
  我にてありしか

 の白い服です。伊藤圭一郎は「人間啄木」(p13)で、船越金五郎の日記を引用し

 『「石川(啄木)と中の橋豊川洋服店に行きて夏服をたのみたり、十五日までに出来るという代金は一円三十銭なりという。石川より借りし「十五少年」をかえせしに、山本(篤)君に又貸したり、石川君は佐藤先生(亀吉)より歩兵操典を借りて来れり。」

 とある。啄木がこの時新調した一円三十銭の夏服は問題の洋服であった。上着は短かくズボンはラッパズボンで太く長かった。啄木は小さなからだにこの夏服を着て肩をちょっといからし、二年上級の及川さん(古志郎大将)のかっこうを真似て歩いた姿は、人目をひいたものである。』

 と紹介しています。また、春の運動会の様子を伝えながら当時の啄木の性格を

 『この日、私は啄木に勧められて彼と二人三脚をやった。二人両足をしばって走ったが、まことに好調子でずんずん前の組を抜いてまさに第二着でゴールに入ろうとした時、二人は見事に横倒しにころんで、みんなからやんやといわれた。私はその時も思ったのだが、これは啄木の予定の行動で、わざところんだのだった。五月から夏服を着た彼は、とかく人目をひくようなことが好きだった。』 (p14)

 と伝えています。後に、新詩社の歌会で啄木のとるポーズが二重写しになります。

初めての上京

 明治32年7月14日より8月15日まで夏休。この間に啄木は初めて上京しています。啄木の姉トラの夫・山本千三郎が上野駅助役に栄転した事によるものでした。 詳細は不明ですが、山本家に滞在して、品川まで足を伸ばしたともされます。 人目をひくようなことが好きな啄木に当時の東京はどのように映ったのでしょうか。

 詳細が不明ですが、ページを構成しておきます。最初の上京

堀合節子を知る

 明治32年、後の啄木と結婚する堀合節子が盛岡女学校に入学、盛岡市新山小路3番戸に住みました。同じように盛岡女学校に新井珠子が入学し、新山小路に寮を構えて居住します。珠子の父は大地主で政治家でした。この寮や節子の家が若者の集う場所になりました。

明治33(1900)年 15才

 3月、啄木は、海沼家から盛岡市新山小路田村叶(啄木の姉サダの夫)方に移りました。 すぐ近くに堀合節子の家があります。サダの娘イネは次のように回想しています。

 『その頃、楽しいことというと、お祭りとか、お正月というよりも、皆で集ってワイワイ騒いで遊ぶことでした。カルタとりですよ。これはほんとに面白かった。節子さん、妹のふき子さん、大光寺さん、金矢さん、板垣さん、この人たちが一緒になってしゃべっていましたね。それに男性軍です。その中心は叔父の啄木でした。それでカルタとりです。私もだんだんにカルタが読めるようになって、仲間に入れてもらったりしました。母もカルタが好きで、いつも加わっていました。

 なにせ中学生、女学生、それに大人のお母さんも入ってのカルタとりですからねえ。ほんとうに面白かった。終るのは夜の十時頃でした。カルタ会は土曜日とか休みの時にやりました。もう夏でも冬でもやるんです。今思うと、その時啄木と節子さんはどっちも本気で恋愛をしていたわけですね。私はただ二人はとても仲がよかったとしか思わなかったんですが・・・。』(遊座昭吾「石川啄木の世界」p44)

4月、盛岡尋常中学校3年に進級しました。

 『・・・盛岡は当時人口三万の、静かな城下町であった。社陵の別名を持つ学問の都として、県下の辺鄙(へんぴ)な地方に住む裕福で教育熱心な家庭では、幼い子弟をこの地へ送り込むことを一種の誇りとしていたのだ。

 新山小路の新井家の寮へ集まった連中の殆んどが、そうした風習にならって親許を離れた少年少女達であり、新井家とは道一つ距てて仁王小路にも、寮を持つ金杉兄妹がいたし、帷子小路の姉の嫁ぎ先に寄寓する同じ渋民村の宝徳寺の一人息子で、詩人を夢見る文学少年の石川一や、画家志望の上田宏、その従妹の三宮藤乃。

 いずれも新山小路をはさんでの多彩な顔ぶれで、やがてこの一団は、学校仲間から新山グループとよばれるようになった。』

 と、渡辺喜恵子は「啄木の妻」で、この時からの啄木と節子の交流を描いています。 詩集「あこがれ」に載る「人に捧ぐ」「黄金向日葵」などはよくその心情を描いていると口ずさみます。(筑摩書房 啄木全集 第二巻p50)

 「黄金向日葵」

   我が恋は黄金向日葵(こがねひぐるま)
   曙いだす鐘にさめ、
   夕の風に眠るまで、
   日を趁(お)ひ光あこがれ、まろらかに
   眩(まば)ゆくめぐる豊熱(ほうねつ)
   彩(あや)どり饒(おお)きこがねの花なれや。

   これ夢ならば、とこしへの
   さめたる夢よ、こがねひぐるま。
   これ影ならば、あたたかき   
   瑞雲(みずくも)まとふ照日(てるひ)の生(い)ける影。

   円(まろ)らかなれば、天蓋(てんがい)
   遮(さへぎ)りもなき光の宮の如。
   まばゆければぞ、王者(おうじゃ)にすなる如、
   百花(ももはな)、見よや芝生(しばふ)にぬかづくよ。

   今はた、似たり、かなたの日輪(にちりん)も、
   わが恋の日にあこがれて
   ひねもすめぐるみ空の向日葵(ひぐるま)に。
 

金田一京助、野村長一(おさかず)と交流

 さらにこの家に転居した啄木にとって幸せだたことは、金田一京助が西隣の隣人であったことでした。金田一京助が「新編 石川啄木」で書いていますが

 『・・・・次の思い出は、石川君を私の家の西隣りの隣人として見出したことだった。私は其の時にはもう中学生だった。もう学校がちがってしまっていたので、それに私は内に引込んで、坐りだこを出して、坐り込んで本を読んでいた頃で、あまり、外で近所の子と遊ばずにしまった関係上、折角隣人となったけれど、石川君と遊んだのは、私よりもむしろ弟の方だった。』(p24)

 とするように、最初はあまり交流はなかったようですが、後の親身になっての交際はこの時生まれたものでした。 この年、金田一は早々と明星の同人になっています。

 『明治三十三年の春は、私共が四年から五年へ、石川君は二年から三年へ進級した年である。そしてこの四月に東京新詩社から『明星』が出たのである。その一号は、私は却って、岩動君から借覧したものだったが、その内に社友になった。そこで、根岸派の短歌と、新詩社のロマンチックな歌風とが、同窓の間に論争の旋風を起した。が私自身は、もともと万葉集から入った短歌だったものだから、この人々とも一緒に短歌の運座や互選をやって平気で居れた。』(同p29)

 この明星を啄木が借りに来るのは翌年の春で、この時、啄木は金田一家を最初に訪ねたようです。明治33年、啄木は及川古志郎(おいかわこしろう)の紹介で、野村長一(おさかず=野村胡堂) と近づきになります。野村胡堂はその時のことを思い出して

 『それはもう四十年も昔のことだが、及川古志郎中将が海軍兵学校に入学して、いよいよ江田島へ行かうといふ時、盛岡中学の旧館と新築運動場を繋ぐ廊下で私を呼止めて、「これが石川君だ。よろしく頼むよ」さう言って、小柄な下級生を紹介したことを記憶している。その頃の啄木は、不敵な負けじ魂など持ってゐさうもない、――誰とでも直ぐ友達になりさうな快活な美少年であった。』(面会謝絶)

 としています。 野村長一・胡堂は文筆の立つ青年であったらしく、遊座昭吾は「石川啄木の世界」で

 『生得の文学者と呼んでよく、すでに美文をものし、時には原稿用紙六百枚にも及ぶ小説を書き、まわりの注目を集めていた。彼の小説を綴った回覧雑誌はあまりに厚く、とても一日では読み切れず、その号だけは一人三日間の特約で回覧したという。髪はぼうぼうとして伸び放題、誰からともなく山男とか“あらえびす”という潭名がつけられ、それでも床屋に行く金で本を買う生徒であった。後年のペンネーム胡堂の「胡」は、渾名の「あらえびす」からとったものであると、友の金田一京助は語っている。』

 と紹介しています。

啄木、文学へのめり込み

 明治33年代、啄木の周辺には金田一京助や野村長一などを中心にして文学をめぐる熱気が溢れていました。作文を大得意とした啄木がこの機を見逃すはずがありません。 5月18日、「丁二雑誌」1号、6月23日、第2号を発行しています。5年生の及川古志郎、吉田初五郎、田子一民(紫琴)などから文学的な指導を受けたとされます。当時の空気を金田一京助は

 『当時、田子一民君は、多感の青年で、まだ四年生の時代であったが、馬骨生のペンネームを以て独力でこんにゃく版の新聞を出して、校風の揚らないことを痛憤し、校友の団結のないことを浩嘆し、盛んに言論を以て同窓を叱咤(しった)し、また反省さした。

 その内に、回覧雑誌『反古袋』を創始して情熱的な論文と共に、美しい感傷的な、美文や短歌を綴って、その行くとして可ならざるなき多方面な文才を示した。その時に、同氏に共鳴して同人になったのが、同級同室の及川君をはじめ、物故した吉田初五郎氏や、現に内務省の社会局に居られる中原隆三君、それから別組ではあったが、同級で、高等小学校時代からの旧誼があった私なども、田子君に勧誘されて入らされた。その中で、吉田君は、柳涯と号して柳浪張りの小説を書き、及川君は新派の和歌や、晩翠調の長詩を以て活躍したものだっ
た。』(新編石川啄木 p28)

 と書いています。これらの雰囲気に囲まれた啄木は、いよいよ、文学へののめり込み を始めたようです。その動機を小田嶽夫 は「石川啄木」で次のように描きます。

 『・・・啄木は盛岡の高等小学校へ上がってから、「作文」にずばぬけた才能を示しはしたが、文学への志はまだ開けていず、盛岡中学へ進んでからは、同中学の生徒間にひろがっていた軍人熱に刺激されて、彼も陸軍軍人になることを志していた。そんなわけで、ともかく父親の跡をついで僧侶になる気持ちだけは、早くから捨てていたのであった。

 その啄木が文学好きになったのは、中学で二年上級であった金田一京助の影響によってであった。一年上級に及川古志郎(のちの海軍大将)がい、この及川が彼の同級の野村長一(のちに作家となる。号胡堂)や、一年上級の金田一京助(のちの国文学者)に啄木を紹介した。この金田一京助が、短歌のほうで当時もうある程度の文名を得ていたのであった。
 
 「文庫」という雑誌があって、投稿した歌が與謝野鉄幹の選で八首(「松くらき畷(なわて)の夜みち妹と我がかざす袂(たもと)に雪こぼれきぬ」など)が発表され、しかも鉄幹に「詞巧を求めずして余情あり、声調遒勁(せいちょうしゅうけい)、万葉詩人の風あり」と褒められ、鉄幹の主宰する「明星」第二号にも転載された。これがもとで金田一は鉄幹の新詩社の社友となり、「明星」第八号には短歌十首(「うすれゆく一むら雲を見送りて秋ぞら遠く人懐ふかな」などを)載せた。

 啄木は金田一を識る前にすでに短歌をやっていたのではあるが、そしてそれを知った及川が「歌をやるのなら金田一の指導を受けるがよい」と言って金田一を紹介したのだが、金田一の家ではじめて「明星」を見、しかも田舎の一中学生にすぎない金田一の歌が、それに載っているのを見て、啄木の文学熱は急に昂まったのであった。

 「明星」は与謝野鉄幹・晶子夫妻が中心の、若々しい情熱と浪漫的な気分にあふれた雑誌で、殊に晶子は閨秀天才歌人として紫式部にも比せられていた。・・・』(小田嶽夫 「石川啄木」 すばる書房 p54)

 明治33年8月、大阪では、与謝野寛・鉄幹と後の「晶子・鳳しょう」、「山川登美子」が運命的な出会いをして、明星の発展期に入ろうとしていました。北の盛岡では、啄木も含め、多くの文学志望者が熱気に溢れ て、やがて上京して、学びの門に入る準備をしていました。

東海岸への修学旅行

 明治33年7月18日から、担任の富田小一郎教諭に引率されて、東海岸=南三陸沿岸方面へ旅行に出かけました。メンバーは、富田先生、阿部修一郎、石川一、小野弘吉、船越金五郎、川越千代司、佐藤二郎の7名で、宮崎道郎、伊東圭一郎が一 ノ関まで同行したとされます。

 水沢から中尊寺、一ノ関に出て、20日には、北上山脈の峠越えをして気仙沼海岸に出ています。21日には高田湾を見、22日には氷上山(ひかみさん)に登りました。その夕刻松原海岸で遊びました。船越金五郎の日記には

 『・・・・貝拾いおもしろし 蟹も多くむらがりをりて 人の足音に驚き逃げるさまおもしろかりきと記憶す。
  石川琢木の歌

 東海の小島の磯の白砂に
 われ泣きぬれて
 蟹とたはむる

 はこの時の感想ならんと後世の人の推測するも理ありと、余(船越金五郎さん)も同感なり。』

 とあるそうです。なお、伊藤圭一郎は

 『〔この日記の啄木の歌の部分は船越さんが後年書きたしたもの、この「東海」の歌は、明治四十一年六月
与謝野鉄幹の東京千駄ケ谷の宅で「蟹」という題で詠んだものだという説と、やはり同じ六月ごろ、本郷菊坂町の下宿赤心館で、一夜に百四十余首作ったときの一首であるという説とがある。歌のヒントになった場所は共に北海道の函館海岸というのが定説である。〕』(人間啄木p29)

 と付記しています。また、島崎藤村の影響があるとの指摘、与謝野寛・鉄幹の長男「光」氏が東京千駄ケ谷の宅で行われた「一夜百首会」の席で詠われたと の話しなど、この背景はとても面白そうです。

明治34(1901)年 16才

授業ボイコットによるストライキ事件

 2月、盛岡中学ストライキ事件が起こりました。年表や解説本ではなかなか真相がわかりませんが、伊藤圭一郎「人間啄木」が良くその状況を伝えます。

 『このストライキの起因は、教員室の内輪もめ――いいかえれば先生達の仲間喧嘩であった。地元出身の先生達が、東京や他県から来た優秀な先生をいびり出し始終受持の先生が変るので生徒は不満だった。温厚な多田校長(綱宏、盛岡出身、理学士)は両派の融和に苦心したらしく、事件突発の四カ月前(明治三十三年十月十三日)の校友会大会には、武芸部長に郷土出身の高田小一郎先生を、文芸部長には他県から来た岡島献太郎先生を推したのだった。

 しかし生徒間に人望のあった瀬戸虎記(元第一高等学校長)先生や斯波貞吉(元万朝報主筆、元代議士)先生などが居たたまらず辞めたというので、生徒側が我慢できなくなったのだった。』(p40)

 『このストライキには卒業間際の五年生(郷古潔、田子一民、金田一京助氏など)や、二年生(瀬川深、小林茂雄氏など)一年生(田沼甚八郎、上野広一、金子利八郎、金子定一氏など)は加わらなかったようだ。ストライキをやったのは四年生の甲組、乙組、三年生の甲組、乙組、丙組、丁組であった。そしてまたその四年生と三年生のストライキは全く別であった。

 四年生側のストライキの主謀者は「銭形平次」で有名な野村胡堂さんで、野村さんと懇意な後藤清造さん(元岩手日報杜長)や宮川慶吉さんなどが活躍した。また三年生側の方は及川八楼君が指導者であった。各組にはそれぞれリーダーがあって組の内部をまとめた。私どもの丁組でのリーダーは阿部修一郎、佐藤二郎、石川啄木などで、啄木は主に他の組との連絡に当っていた。』(p39〜40)

 ということで、啄木は阿部修一郎らと意見書を起草して署名捺印 の上、校長に提出していますが首謀者ではなかったとされます。結果は知事裁決により教員の大移動を行い、終結しました。 啄木はこの時のことを「百回通信」に次のように書いています。

 『四月(三十四年)職員の大更迭あり、先生(富田小一郎)もまた八戸にゆかる。嵐去りて小生の心さびし。たまたまはじめて文学書を手にし、爾来それにふけりて教場に出づることますます稀なるに至る而して遂に今日に至る。』

 「嵐去りて小生の心さびし」に啄木の心情が読み取れます。

 4月1日 中学校令の改正により盛岡尋常中学校が岩手県立盛岡中学校と改称、啄木は3年終了、4年生に進級しました。 啄木は金田一京助の家を訪ね、明星の歌人の議論をします。

明星の歌人論議

 金田一京助はその日のことを次のように書きます。

 『その翌春(明治34年)である。石川君が始めて玄関から私の名を云って訪問して来たのは。
 私は、殆んど何の用で私をわざわざ訪ねられるのか見当がつかなかった。小さい人、可愛い人、ぐらいにしか思っていなかったその人の口から、明星を貸してくれまいか、という言葉を聞いた時に、以前の記憶が、子供のようにのみこの人を思わせるものだったから、私は、『わかるのか知ら、この人に?』と驚いた程だった。

 が、半日色々な話をした。今思うと、汗が出ることである。何でも私は、白百合(山川登美子)女史の歌を特に褒めた。石川君は白萩(鳳晶子)女史のを褒める。それは通評だから、わけもなく私も言葉を合せた、そして、それから二人で晶子女史の詠み口の大胆さを感歎し合ったが、大胆な例の一つに、私が、何やらの前に立つ子我より笑み美しきというのを挙げた時に、石川君が、あやふやな答をした。

 私の心持では、『柔肌のあつき血潮にふれも見でさびしからずや道を説く君』だの、『乳房おさへ神秘のとばりそと蹴りぬ ここなる花の紅ぞ濃き』などは定評があるから、云うまでもないが、若い女というものは、他の若い女を見ると、競争意識が先に立って、相手の欠点を見つけて、自分より美しくない様に自分で安心をしたいのではあるまいか。

 その嫉妬心を超えて、向が私よりも美しいと思い得ること、そう歌ってしまわれること、そこに女性心理の凡庸を超えて跳躍した、つまりは、大胆な詠み口だ、という積りだったが、石川君が、附いて来なかったので、心に、若いから、まだ解らないな、と思ったりしたのであった。

 兎に角、その頃は、まだ私の方が、話をぐんぐん引張っていたようだった。それが僅か数年の後には、すっか
りあべこべになってしまう。・・・・』(新編石川啄木 p30〜31)

 この頃、金田一京助は恋も知らないのに対して、啄木は節子と恋仲になっています。晶子の歌論議に啄木があやふやな答えをしているのに、金田一の生真面目さがおかしな位対比されて、思わず笑みが出ます。啄木はこの年5月9日、2年生の時つくった「丁二会」を解散しています。

ユニオン会

 5月、英語の教科書ユニオンリーダーを勉強する会としてユニオン会が発足しました。 メンバーは阿部修一郎、小野弘吉、小沢恒一、伊東圭一郎、啄木・石川一の5人でした。会の雰囲気について伊東圭一郎は次のように書いています。

 『会員である石川、阿部、小沢、小野、伊東の五名は毎週土曜日の晩、順番にめいめいの宅に集まった。はじめは雑談に終始したが後に英語の勉強をやることになり、ユニオンの第四リーダーを選定した。それでユニオン会と命名したのである。やり方は当番を決めて一章ずつ訳読をやり、フ(腑)に落ちないことを聞きただすことにしたが、これがざっと一時間かかった。

 このあとは楽しかった。というのは最近読んだ新聞雑誌や単行本の感想をひろうした。明治三十三年ころには総合雑誌は博文館発行の「太陽」ぐらいのもので毎号連載される高山樗牛の評論は評判だった。

 阿部さんはいつもそれを紹介されたが、啄木も樗牛博士には傾倒していた。小沢さんは文学談で啄木とよくうまが合った。また恋愛問題はこの両君の受持ちであった。小野さんは口数の少い人であったがよく聴き手で同人間に推重されていた。』(人間啄木p25)

 ユニオン会のメンバーは啄木の上京や節子との結婚を廻り親身の世話をし、一時は決裂しますが終生の仲間となるのでした。

「爾伎多麻」(にぎたま)発行

  明治33年同級生古木厳と出していた回覧雑誌「三日月」と友人瀬川深が出していた「五月雨」を合体して、明治34年9月21日、啄木は回覧雑誌「爾伎多麻」(にぎたま)を発行しました。自らは「翠江(すいこう)」の名で美文「あきの愁い」と「秋草」と題して短歌30首を発表しています。

 人けふを なやみそのまま 闇に入りぬ 運命のみ手の 呪はしの神
 ささがにの それより細き夢の糸 たどるもよしな 詫びしれし今
 日はおちぬ 雲はちぎれぬ 月はいまだ 夕のそらの さながら吾は
 紅ふくむみ 袖やおもき らふたげの たけのくろ髪 おばしまの君
 あきの夜の そぞろの夢よ おばしまに うすむらさきの もすその女神

 いくつか抜き出してみましたが、相当、与謝野晶子への思いがあるようです。爾伎多麻は2号まで発行されました。

杜陵吟社(とりょうぎんしゃ)

 盛岡中学校には、明治32年秋に「杜陵吟社」が結成されていました。 岩動露子、原抱琴(はらほうきん)が中心となり、短歌の革新を目指すものでした。

 『その会員は七、八名で大人の佐藤雲軒、阿部三柊を除いては、みな若い 中学生たちだった。
  佐藤雲軒(友吉―久保庄書店) 阿部三柊(秀三―九十銀行員) 岩動露子(孝久―中学四年生)
 野村董舟(長一―同三年生) 岩動炎天(康治ー同二年生) 猪川箕人(浩一同二年生)
 猪狩五山(見竜ー同二年生)
  顧問の原抱琴は東京一中の五年生だった。』(伊藤圭一郎「人間啄木」(p36)

 とされます。遊座昭吾は

 『・・・・中央俳壇のホトトギス派の運動に刺激されて杜陵吟杜を結成し、そこを母体として活動していた。また、その発表機関として「六〇五」と呼ぶ文芸物の回覧雑誌をもっていた。その結社には、阿部三柊や佐藤雲軒等の大人も混じっていて、その派の層の厚さを示していた。そして、一時は三、四〇人の会員を擁す勢力となり、時にはその勢い余って、遠く秋田県下へ俳譜行脚と酒落れ、一か月くらいの吟行の旅に出るほどであった。

 杜陵吟杜は正岡子規の俳壇革新時代に呼応して、明治三十二年に主として盛岡中学生によって組織された結杜である。最初の会員は岩動露子、野村董舟(胡堂)、猪川箕人、猪狩五山、岩動炎天等であった。そしてそれに続いたのが、小野素茗、内田秋咬、星山月洲、岡本騨山、大森両渓等であった。しかし、事実上の創始者は原抱琴である。』(石川啄木の世界p36)

 としています。原抱琴は盛岡中学3年生の時、東京一中・日比谷中学校に転校して、17才で正岡子規の門下に入り、子規に重要視されるほど資質に恵まれた人と云われます。休暇の度に盛岡に帰っては面倒を見たようです。明治34年になって、啄木が この杜陵吟社に関わりを持つようになりました。その経緯を 遊座昭吾は

 『・・・・ようやく杜陵吟社と交わりをもったのは、明治三十四年の三月である。露子や金田一京助が中学を卒業するということで、その送別歌会を炎天、董舟等が開催した、それへの返礼として、金田一が盛岡の北方にある厨川の清風館で「留別短歌会」を開いた。その時、金田一は露子の承諾を得て、その会に石川一を招待したのである。

 金田一の証言によると、この機会が石川一をして、盛岡中学の先輩に交わらせて、作歌をさせた初めではないかと言う。時として優れた作歌はあったとしても、石川一はこの杜陵吟社の一団に対するかぎり、まだまだ幼かった。』 (同p39)

 としています。明治33年(1900)4月1日、明星一号が発刊され、翌34年に、啄木は金田一京助から「明星」を借り、愛読者と云うより魔力に引き込まれます。 同心円上に条件が揃ってきた感じがします。

「白羊会(はくようかい)」 

 杜陵吟社に啄木が紹介された半年後、啄木は自ら新しい短歌の会を結成します。明治34年12月3日、岩手日報に「白羊会(はくようかい)詠草(一)夕の歌」 が石川翠江(すいこう)の雅号で発表 されました。この白羊会は啄木が中心となって結成した短歌会でした。メンバーは、野村長一(胡堂)、細越夏村、同級の岡山儀七、一級下の瀬川深、小林茂雄、更に下級生の細越毅夫、金子定一などでした。すでに卒業した金田一京助も顧問になっています。

 白羊会の会員の作品を発表する場となったのが「岩手日報」でした。啄木は、迸るように、12月3日 から1月1日まで断続して計7回「白羊会詠草」を掲載しています。いくつかを拾うと

   迷ひくる 春の香淡き くれの欄に 手の紅は 説きますな人
   かりそめの 人のすさびの 鑿(のみ)の香を 春したひよる 夕の窓かな
   海棠に 春の雨濃き おばしまや 染めむの歌の 絹なき夕
   白桃に 眉は濃かりき 春の野に 牧笛追ひて 西に去りし人
   まひをへて 乱れし髪を そとつくる 京の子はしき わた殿の月

 と詠っています。この白羊会に、明治35年4月、大井一郎(蒼梧)が迎えられました。盛岡中学に理科の教師として赴任してきたのでした。大井一郎(蒼梧)は 明治30年麹町の一番町教会で植村正久から洗礼を受け、国木田独歩などと一緒に活動をしていました。早くから新詩社のメンバーで、鉄幹や高村光太郎などと親しく、中央歌壇と直結していました。こうして、啄木の周辺には、正岡子規、与謝野鉄幹 など当時を代表する歌人と結びつく舞台がしつらえてきました。

明治35(1902)年 17才

足尾鉱毒問題

  この年は天候不順で、雪が多く、寒気が強くて、農民の間にも作物の収穫に不安が生じ、何となく世間が暗い感じに覆われていました。前年の12月末には足尾鉱毒問題で田中正造が天皇に直訴する程で、天候異変と鉱毒が重なり渡良瀬川流域では収穫皆無という状況でした。

 一方で、1月29日、岩手県郷士兵の八甲田山雪中踏破演習の遭難事件が起こりました。雪中行軍中に猛烈な吹雪の中で200名余が凍死をする事件です。 この事件に重なって、啄木達は足尾鉱毒問題への義捐金の寄付に立ち上がります。その行為を巡って啄木の思想的な背景が語られますが、幼い頃からの同級生である伊藤圭一郎は次のように書いています。

 『この晩も小野さん、阿部さん、啄木、私その他二、三人集まって、時の話題だった鉱毒問題 を語り合い、「われわれも、なにかひとつやろうじゃないか」といっていたところへ、誰だっ たか馳け込んできて「岩手日報杜で、今号外を出すところだ」と知らしてくれた。それが八甲 田山遭難事件の号外だった。

 そのころ、小野さんは日報社の新聞配達をしていたので直ぐ話がつき、一同号外を抱えて町へ飛び出した。「号外、号外、号外は一銭」と呼ぶのに、きまりが悪くて、声がのどにつかえ、なかなか、出てこないので暗いところへ行って「号外、号外」とやってみたものだった。それでも中学生の号外売りということが知れると、一銭の号外に五銭玉をはずんでくれた人もあった。凍死者はほとんど岩手県出身者で、その氏名が次々に続いて発表されるので、二晩か三晩、号外を売ったような気がする。

 ところが二、三の「啄木伝」には、この号外を売って義援金を送ったのは、足尾鉱毒事件でなく、八甲田山事件の間違いだろうと書いているのもある。・・・しかし、事実はやはり足尾鉱毒事件の方だった。啄木の「年譜」には巨額の金を寄付したとあるが、私は二十円たらずの金を、内丸のキリスト教会へ寄託したように記憶している。

 また、啄木の歌に

  夕川に葦は枯れたり血にまどふ
  民の叫びのなど悲しきや

 というのがあるので、啄木はその当時すでに、社会運動に関心を持っていたように書いている本もあるけども、そのころの啄木は、両親に可愛がられ、まだ貧乏の味も知らない恵まれた文学青年で、軍人熱はさめていたが、まだ、鉱毒問題に熱を上げるほどではなかった。この時の主唱者は小野さんと私であったように思う。

 彼はこの時から六年後(明治四十一年一月四日)の二十三歳の時、小樽の寿亭で、はじめて西川光二郎の社会主義演説を聞いて、社会主義思想に共鳴したといわれている。』(人間啄木p60〜62)

 啄木像を描くのに、後の姿で恵まれた10代を律するのは間違いの元だとつくづく感じさせられました。

退学と上京

 明治35年の正月をこのように過ごした啄 木は、文学に燃え、学業はおろそかになり、また、急速に生活態度が変わり、遂に譴責処分を受け退学します。長くなりすぎるので、概略の年表にしておきます。
 
 3月学期末試験で、啄木「試験中不都合の所為ありたる」ことによって、4月17日、譴責処分を受ける。
 3月、節子 盛岡女学校卒業
 7月、学期末試験、数学で不正行為発覚、9月2日、譴責処分を受ける。
    この年、欠席多く、400時間中、欠席207時間。
 10月1日 「明星」第3巻、第5号に短歌1首載る。題は「詩燈」で白蘋(はくひん)の署名であった。

 「血に染めし歌をわが世のなごりにて さすらひここに野に叫ぶ秋」

 この歌の掲載と節子との恋が啄木に退学、上京を決意をさせたようです。親しい友人たちの「あと半年で卒業なんだから、・・・」との制止も聞き入れず、啄木は中学校をやめています。

 10月27日、「家事上の都合」を理由にして盛岡中学退学。
 10月30日、日記
秋らく笛語(しゅうらくてきご)=(白蘋日録)」を書き始める。
         (らくという字は音+出)

 こうして、あこがれの文学界への雄飛を目指して、与謝野鉄幹・晶子を視野に、冒険とも云える上京をします。その門出の意気込みは並大抵ではありません。 そのことは第2回上京憧れと失意 憧れと失意 に書きます。 (2005.03.10.記)

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