小石川の家
(青木 玉 小石川の家、上り坂下り坂) 


 
文京区は坂のまち。「善光寺坂」もその一つ、伝通院から善光寺までの上り下りである。
この途中に、「小石川の家」がある。

飯田橋や後楽園方面から安藤坂を登って、伝通院前を曲がっても
地下鉄春日駅方面から千川通り、えんま通り、すずらん通りを経て、善光寺の前を来ても
大きな椋
(むく)の木がある独特の雰囲気に出会う。

学校帰りの子供達が明日を約束し、近所のシルバーが語い合い、小鳥ちたちが巣を営む椋の木
第二次世界大戦の空襲に、辺りが焼け野原になっても、息づいてきた。

その椋の木の正面にクリーム色の塀の家がある。

『・・・二階の祖父の書斎に座れば、まるで木の枝の上に居るような感じで
廊下のガラス戸を開ければ枝先がさわれそうだ。・・・』

この書斎のあるのが、幸田露伴・幸田文の旧宅
青木 玉の「小石川の家」である。

『目の前に青々とした枝が拡がって、家の庭にも実生の何本かが伸び
どの枝が親木の枝で、どれが庭の内側から塀越しに枝を伸ばしている若木か見極めがつかない。』

この家で、幸田露伴とその娘・幸田文、その娘・青木 玉、その娘 奈緒
三代〜四代が生活をし、作品を書き、現在も著作が続けられている。
平成2年(1990)11月、幸田文の告別式はこの家で行われ、心をこめて見送られた。

向島に住んでいた幸田露伴は大正3年に小石川に移り、昭和2年、椋の木の前の家に移った。
樋口一葉の妹「邦子」の紹介という。
当時、邦子は少し離れた春日通りに面する「礫川堂文具」(れきせんどう)の主であった。
(中央オレンジ色の建物辺り=富坂警察署の道隔てて前方)

 『・・・、大きな礫川堂という本屋さんは、樋口一葉さんの妹さんの樋口邦子さんご夫妻が持っていらっしゃったおみせである。祖父や母が、震災後、向島から小石川へ移る時、借家がなかなか見付からず、樋口さんのお世話になったと聞いている。

 邦子さんは、祖父の話によれば、色白く、唇紅く、鼻筋の通った美しい方で、錐の如き才の持ち主でありながら、御自身は筆を執らず、一葉さんの作品を世に出すことに尽くされたという。礫川堂に本の取り寄せを頼んで、それを受け取りにお使いに行くことがあった。もう、その頃は邦子さんはおいでではなく、美しい方をお見かけできなかったことは惜しいことであった。』(青木 玉 上り坂下り坂 小石川ひと昔)

☆☆☆☆☆

お正月

 お正月、手習い(習字)の大嫌いな玉は、書き初めのため、露伴から大ぶりの立派な硯をもらった。「満州月」(まんしゅうげつ)と銘が朱で彫り込まれている。丸型で縁は緑、中心は紫で朧月夜の満月を思わせる。

 『「玉子にこれを使わせなさい」
 「それをですか」
 と明らかにえらいことになったと思ったようだが、もっといい加減なのでいいなどと言えば祖父は怒るに決まっている。

 「おじいちゃまにお礼、申し上げなさい」
 「有難うございます」
 と口を添え母娘そろって平伏した。』

 ということから、母 文と習字が始まる。

 『「そこは、そう跳ねるのじゃなくて一度止って力をためて左ヘパッと、筆の先はどこ向いてんの、
 なに? 下向いてる? 違うでしょ、左へ跳ねるのなら左へ行ってなきゃ、何度同じこと言わせるの」
 びしゃっと平手打ちがきて目から火が出た。

 二日の日の朝、私の書いた字を見て祖父は何も言わず、
 「書きぞめや、墨猪(ぼくちょ)のこのこ歩き出し」

 と笑って終り、手習をしろとは言わなかった。墨猪(ぼくちょ)、猪はいのししと読むが豚のことをいうので、字に締りがなく墨がぼとぼとと固まっていてとても先きゆきまともな字は書けない奴だと見極めがついたわけだが、母はそうはゆかなかった。何時、また祖父に字のことでひどく叱られないうちに、少しでもましにさせなければと、母親的教育を行い、糠に釘打つ思いをし、私はますます、手習は叱られることと見定めて励む気はなかった。

 小学校の六年の時、恒例の書き初めにどうしたわけか、母は改めてお稽古をしなさいと言い出した。書き初めは半紙三枚を縦長にしたくらいの大きさになるから畳に紙を置いて左手を支えにして習う。勢い重心が前へかかり腰が浮く。筆を下そうとした時、いきなり後ろから蹴とばされた。体が飛んでおでこが畳にこすれ、そこいらじゅう墨だらけになった。

 うつむいて坐り直した私に、

 「わかった」
 と母は切り込んで来た。何か言わねばならない、あの、あの、とあとがつづかない。
 「ごめんなさい、わかりません」
 「腰が決らないで字は書けないと、あれ程いったのに、後ろから蹴とばしたくなるような恰好で習字が出来るわけ  がない。物を習う気構えが出来てない、あんたという人は――」

 あとは年末大棚ざらえの小言の山、夜店のたたきバナナである。
 「ひっぱたかれて痛いとあんたは泣くけど、母さんの手も痛いのよ」
 痛いも痛かったがこれは利いた。』

 この後、書き初めが教室で行われ、選に漏れた事を知った文が、保護者会の後、担任の先生に

 『「すこしは稽古をさせて、ましな字を書いたと思いますけどいかがでしょう」
 と聞いたらしい。出来の悪い娘を苦にしていた母にしては、どうしてそんな気の強いことを言ったのか、今もってわからないが、年の若い師範学校出立てで優秀だとの噂の先生は、

 「実はこちらからそれについてお聞きしたったのですが、・・・あまり何時もの字と違うので、何か特別の教育でもされたのかと、どなたか立派なお習字の先生の所へ習いに行かれたのですか」
 「いいえ、私が見たんですけど」
 「お母さんが?」

 「先生がいつもより良くなったと見ていらっしゃるのなら、私の気のせいじゃなかった。ひっぱたいただけのことはありました。」
 「え?ひっぱたいた」』

 と文が笑って、「ひっぱたかれて痛い目を見ると、ちっとは良くなる。それだけでもみつけものだ、よかったね」
 ・・・・・
 このように、小石川の家での、露伴、文、玉の生活は続いた。(青木 玉 小石川の家 正月)

小石川ひと昔

 小石川の家に隣あうように沢藏司稲荷がある。

 『・・・椋の木を通り過ぎると左側に、沢蔵司稲荷がある。昔、伝通院の学僧に、沢蔵司というお坊さんが居た。おそばが好きで、ちょいちょい表通りのおそば屋さんにおそばを食べにくる。食べ終って帰っていった後で、気がつくと確かに受け取ったはずのお金が、木の葉に変っている。主人はおかしいと思ったが、気が付かないふりをして、おそばを作りつづけた。

 或る夜の夢に沢蔵司が現れ、長年の修行が満願に達し、元の姿に還ることを告げ、そばの供養にあずかったことを謝して、商売繁盛を約束したという言伝えがある。それ以来、今もこのそば屋さんは朝一番に作りたてのおそばを供えに、自転車でお稲荷さんにやってくる。二十世紀に生きているなかなかたのしいお伽噺である。

 お稲荷さんから坂はぐんと急に下りてゆく。坂の中ほどに、長野の善光寺さんの別院があるところから、この坂は善光寺坂と呼ばれている。土地の腕白達はこの急な坂を自転車のブレーキを使わずに滑走するのが自慢の種だったが、近頃、気付けば坂の下から漕ぎ登って筋力アップを試みる格好の場所に変ってきた。』


善光寺では4月8日、甘茶まつりが行われる。

 『伝通院は浄土宗の教えによって建立されたが、長野の善光寺も同じ宗派に属する。二寺の間に交流があり、伝通院のそばに善光寺の分院が設けられ、俗世から離れたいと願う女人の救済が行われ、尼僧としての教育も授けられたものと思われる。善光寺にも沢蔵司稲荷にも、白衣に墨染めの腰衣を着けた尼さんが朝夕の勤行に励む姿があった。

 今まで、なぜこの場所に善光寺があるのかと考えたこともなかったが、このあたり一帯は、多くの尼僧の願いを聞き、女性を守ってきた土地であったかと改めて感じた。善光寺坂を下り切った商店街は柳町といった。』 

 と小石川の家の辺りをピシャッと決める。(青木 玉 上り坂下り坂 小石川ひと昔)

講談社 2001年

寄席

 小石川家の人々にとって、家から一番近い賑やかなところは上野であった。文が買い物に行くとき、玉は荷物持ちの約束で連れて行ってもらったり、正月には寄席の「鈴本」をねだっている。

池之端仲町通り



広小路「鈴本」演芸場

寄席を楽しんで、電車に乗って家に帰ると、露伴のもとに客(柳田泉・早稲田の先生)が来ていて

 『・・・母の後について帰った挨拶をしに部屋に入る。
 「お留守に伺って居りまして、今日はどちらへ、お嬢ちゃんお元気ですか」
 祖父が笑いながら、
 「正月の楽しみに鈴本へ行ってね、何が面白かったか」
 母は、
 「お話しなさい」
 と私を見る、そら来た、これだからうっかり笑ってばかりは居られない。

 「千早振る、とか富くじの話、取りは芝浜、お財布拾ったのをお上さんが夢だと言って、おしまいは又夢になるとい  けない」
 「そうか、色ものは春だからどんなものがあったね」
 「皿廻しがあったけど紙切りの方が面白かった。前の方に坐っていた島田のお姉さん切って見せました」

 柳田さんはびっくりなさって目が丸くなった。
 「いや寄席へ、これは驚いた、ああいう所の話はいろんな話が出て来ますから、お母さんは聞かれてお困りになり  ませんか」
 母は笑いながら、
 「そろそろ馴らしておきませんと、解らないことはわからないなりに解る所だけで結構よろこんで居ります」

 柳田さんはお酒はあまり召し上れない。「もへじ」のきんつばを、「これはこれは、久しぶりですな」
 と召し上った。』(青木 玉 小石川の家 寄席)

講談社版 1994年

 総合教育だ、生きる力、考える力、・・・大騒ぎの現在の教育に爪のあかを煎じて置きたい。
 (2002.4.10.記)

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